SF/FT雑記




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アンサイクロペディア - オーガ


 なんだよこの記事。要するにボードゲーム『オーガ』のリニューアル新版が箱があまりにもでかすぎたため、写真のスティーブ・ジャクソン(米)がまるで縮小したかのように見えたという噂が立ったことからの一発ネタ記事である。米ジャクソンが新版の豪華さを示すために初版オーガを持っているが、1980年代のボックスTRPGや2000年代以降のボードゲームの箱に対して、1970年代の卓上ゲームの供給形態が今のゲーマーから見て信じられないほどしょぼすぎると思われるので、おそらく今のゲーマーはこれを見ても比較が感覚的に掴めず、まったく比較の意味をなしていない。
 何よりも、ボードウォーゲームの金字塔的名作『オーガ』について日本で調べようとしてもwiki類には記事なんてありゃしないし、きちんとした解説サイトも簡単には出てこないにもかかわらず、調べようとするとこんなアンサイの記事がドンと出てくるあまりのシュールさである。相変わらずアンサイ(ja)は微妙なマニアさやズレ具合が、Roguelikerのシンパシーを掻き立ててくれる。

 本サイトではスティーブ・ジャクソン(英)の方は(ケン・セント・アンドレなどと並んで)よく言及するが、米ジャクソンの方は全くといっていいほど話題にしていないことに気づいた。おそらくガープスの話題がたまたま漏れていたからであろう。
 このゲーム『オーガ』は米ジャクソンの出世作で、ほぼ破壊不能な無人巨大戦車を、カトンボだのアメンボだので群がって足止めしようと熾烈な戦いを挑むゲームである。1980年代に8bitPCにゲーム化されていたことがある。数年前にSteamで再PC化されたが、あまり評判は芳しくないらしい。卓上ゲームとしては基本教養的な名作として、何とか今のゲーマーに注目される方法はないものか。ガンダム物に翻案して、ホバーで地上走行する巨大モビルアーマーをブラウン大尉率いるギラドーガ隊で迎え撃ちヤツめなんて装甲だよし接近してやつの武装を潰すぞPOWうわああ大尉!BAGOOMこのぉぉ!とかも考えたが、そもそも「絶望的な戦いを試行錯誤しながらパズル解法的な勝ち筋を探る」とかが、今どき流行らないのかもしれない。



AFF(FF)とD&D系のコンバート手引


 TitannicaのリンクよりDL


 基本は(古めの)D&Dシナリオを元に、FF/AFF用シナリオにに変換するための手引き。AFFは特に和訳されているシナリオは非常に少ないため、膨大なD&D系のモジュールを応用できれば重宝すると思われる(無論、コンバートの常で細かい調整は行う必要がある)。コンバート元としてはいわゆるCD&DとAD&D1st、2ndが挙げられている。
 例えば、D&D系の「ヒットダイス」(モンスターレベル)をFF/AFFの「技術点」に変換する手引きが挙げられている。ヒットダイス1だと技術点5(ゴブリン等)に相当し、以後およそヒットダイス+2ごとに技術点を+1し、ヒットダイス10〜11(CD&Dの小型のドラゴンなど)が、技術点11(火吹山のドラゴン、グリサニクスなど)に相当する。「体力点」は、基本は技術点相当で、ヒットダイスにプラス値がついていればその分を加算する。つまりD&Dでレベルよりも耐久力が高いモンスターはFFで体力点が高めになる、というアイディアである。それでも体力点が低めと思われる場合(ドラゴンや恐竜など)、「巨大サイズは10-16以上」などと調整する。
 D&Dのキャラクターレベル数lv-10lv前後用のモジュール(CD&Dであればエキスパートlv用)で適切に機能するように見える。手引きではCD&Dの4-8lv用、AD&Dではもう少し低いものが適切と書かれている。

 また、アバウトなCD&Dや1st、2ndに限った話ではあるが、このレベル帯であれば逆に、FFのシナリオやゲームブックをD&Dにコンバートするのにも使えるかもしれない。
 一方、現に注釈されているが、D&Dの3〜5版では相互とも明らかに機能しない。ヒットダイス以外の数値も関連してくるというのもあるが、良きも悪きも3.Xe以降はそれ以前ほどバランスがアバウトではないためである。
 一方で版によらず「FFの金貨はD&Dの20gp分」「D&Dの方がハイマジックなので注意」といった役に立つ手引きも多い。





The Ancient Art of War (1984)


 ナポレオン、怖い
 シーザー、強い
 ジェロニモ、苦手
 イワンの、バカ。

(The Ancient Art of War 雑誌広告、ブローダーバンド・ジャパン社)


 このゲームはいわゆる8bit時代(実際はApple][用の他、IBM-PC用, Mac用, Amiga用などもあった)にくくられるPCゲームで、「シミュレーションウォーゲーム」の「リアルタイム」性のものの草分けといわれる。刀槍時代の部隊戦のウォーゲームである。開発はeverywhere社で、発売は例の安心の洋モノブランド、ブローダーバンド社である。海外では相当な人気を博したらしく、次版の2や海戦版、空戦版などもある。日本でもブローダーバンド・ジャパンからPC-x8用など(現在、ネットではPC-88しか書かれていないことが多い)にローカライズされて発売された。
 wikipedia(en)にも僅かにしか書かれていないが、当時ブローダーバンド・ジャパンの広告では上記キャッチフレーズをはじめとして最大の特徴のように挙げられていたのが、敵の思考ルーチンが、古今東西の名将たち(当時のドット絵のアイコンイラストあり)のキャラから選択できたことである。「アテナ」「アレキサンダー」「カエサル」「チンギスハーン」「ナポレオン」「ジェロニモ」「気狂いイワン」「孫子」の8人で、敵指揮官のキャラごとに特性に癖があり、例えばジェロニモは不整地戦に長け、タイトルの由来になった孫子(The Art of Warは通常、『孫子(の兵法)』の英訳名である)ありとあらゆる地形や状況の利点を駆使してくる。
 このうち気狂いイワンことCrazy Ivanは、名将に混ざってはいるが海外サイトでも「元ネタは特にない」とされていることが多いようである。ソビエト軍を何も考えずに物量を投入してくるステレオタイプ化しているのではないかと分析されていることもある。日本語版の上記広告本文では「行動が予測しにくい強敵」などと書かれていたのであるが、実体は思考も何もない単なるでたらめであり当時の雑誌の攻略記事では「兵員の命と引き換えにギャグを飛ばしているとしか思えない」などと書かれていた。イワンのバカというとトルストイが有名だが、明らかに全く関係はなく、髭面の船長さんのような姿をしている。
 実際のところ”愚かなイワン”(Ivan-durak, 英訳のIvan the Fool/NinnyはこのゲームのCrazy Ivanと語は異なる)とはトルストイだけでなくスラヴ民話に数多く現れる類型で、アファナーシエフ編の民話には、3男坊のイワンだけがバカというより何か狂気を感じる愚行を繰り返すが最後には丸く収まるという、寓話や風刺ではなく、ただの笑い話や悪趣味話である側面が強いものが多く収められている。(魔法話や英雄話の3男坊のイワン王子はこれがある程度合流しているのか、民話の3男の類型の利口者どころか異常に愚かだったりヘタレだったりすることも多い。)トルストイはこれらの民話を広く取材したものと推測できるが、トルストイでは前記民話とは全く性質の異なる愚直であることの美徳を謡うもので、ちょうど『天才バカボン』の原作が狂気的であるのに対してアニメ版で優しき愚者であるのにも似ている。
 このゲームの、少なくとも元の海外版では、おそらくこの原作バカボンギャグのような戦い方のイワンが初心者用最弱キャラだという位置づけだったと思われるが、当時、実際にはもっと弱いのはアテナのような気がしていた。突進しかしてこない。近い時代の城戸沙織お嬢様のあまりの突っ込みどころを思い出していた人は多いと思われる。





Sword, Mercurial


 マーキュリアル武器はD&D3.Xeでは3.0eのSword and Fist(以下SnF)を出典とする武器であり、例えばNWN1でも共通hakであるCEPの追加ベースアイテムの中に含まれており、d20全体でもかなりメジャーな存在である。刀身の中が空洞になっており、そこに水銀が封入され、打ち込んだ際に水銀が先側に移動することで先側の重さを増し威力が増大する、という仕組みの剣で、D&Dでは扱いに特異な技術を要する特殊武器(エキゾチック・ウェポン)である。データ上はショートソードからグレートソードまで各種の長さがある。
 SnFは、NWN記事でもよく述べているが、3.0e初期に特に目立つ、バランスが非常にいいかげんな書物で、このSword(s), Mercurialも、出版後にエラッタで大きく弱体化されている。あるD&Dサイトで、グレートソード版の威力がかなり大仰に喧伝され、かつエラッタされたことがさらに大仰に愚痴られており、おそらくは日本ではこの武器について知った切欠が、そのサイトの記事の情報経由という人も少なからず居る可能性が高い。それらのTRPG関連のブログ等や掲示板では「"メルクリ""アン""グレート"ソード」と丸ごとそのサイトのままの表記で言及され、グレートソード以外も記載されたSnF(や、再録のArms and Equipment Guide, 邦訳『武器装備ガイド』)をあたったのではなく、上記サイトの孫引きであることが判ずるからである。

 本国のD&Dデザイン側で、この武器データのアイディアが何をモチーフやアイディア元にしたかは、実のところ海外ゲーマーの間でも諸説がある。が、”直接の影響元”といえるのは、ジーン・ウルフの『新しい太陽の書』シリーズの主人公セヴェリアンの剣、『テルミヌス・エスト』であろうと考えられているようである。
 テルミヌス・エストは上記の水銀(作中では古語である"hydragyrum"の表記である)の仕組みと、(セヴェリアンの几帳面な手入れのためもあって)髭を剃れるほどの鋭利さを持ち、複数の登場人物らも名剣と認めるが、(おそらく)いわゆるFTの「魔法の武器」の類ではない。このような構造の武器(ベースアイテム)が、NWNのCEPのごとくウールス(この作品の世界)に他にも存在するかは定かではない。
 セヴェリアンは通称「拷問者組合」(ヒーローらしからぬ肩書だが、要は鞭打の類の「処罰」全般を担当し、むしろ「死刑執行人」が最も主な役割と見られている)の徒弟や職人として育ったものの、諸事情から左遷されることになるが、その旅立ちの際に組合の師匠から贈られたのがこの剣である。譲られる時点で「名剣」のようだが、それ以前の来歴ははっきりしていない。セヴェリアンは本来の処刑(旅で立ち寄った土地で執行人の役割を果たすため)の他、襲ってくる半人や半獣の怪物などにもこの剣をふるうことになる。惑星ウールスは(ネタバレなので詳しくは触れないが)少なくとも地球の流れをくむ高度文明が衰退したとおぼしき世界で、前文明などに由来する謎の怪物も徘徊している。セヴェリアンは生い立ち上武器(道具)の扱いや人体について知識があるため(屈強な衛兵の秘孔を突いて気絶させることもできる)なかなか強いが、ヒロイックFT英雄のように無双できるほどではない。
 Terminus Estとはラテン語で(つまり、作中でも地球の文明の名残を残す名前ということなのだが、作中の語は作者ジーン・ウルフが「訳した」言葉、つまりトールキンの西方共通語の人名のように単語レベルで置き換えた言葉とのことなので、セヴェリアンらが本当にこの発音をしているかはわからない)受け取った時のセヴェリアンによると「古代語」で「これが分割線(this is the line of division)」、後の別の登場人物によると「これが分かれの場所(this is the place of parting)」と作中でも訳される。
 しかし、terminusという語は、「分岐点」(ターミナルとか)の他に、現在では「終点」(ターミネーターとか)といったニュアンスで用いられることも多く、「この剣こそが終わり(死)そのもの」という意にも読み取れる。「分割」や「分かれ(別れ)」に、故意にその意味を併せて読み取らせようとしたとも考えられる。なお、何の話というわけではないが、ラテン語のterminus estのestは英語でいうbe動詞にあたる部分なので、この剣の名を「エスト」とだけ略すると、「わしが男塾塾長江田島平八である」と名乗った人物に対し、面と向かって以後「である」の部分だけあだ名にする、というような状態になる。一方で名前の肝心の部分が欠落するというのも何かウールス流の解釈を考えてみると面白そうではある。
 旧版1巻の全盛期のアマノッチの表紙(見やすい画像が見つからない)にも描かれているように、テルミヌス・エストはさほど長大な剣ではなく、本文中でも刃渡り1エル(40インチ=101.6センチ)前後ともある。ただし、本文中には、登場人物らがかなり重そうな見かけと感じたり、見かけほどは重くない(中空部分が多いため)と述べたりする場面がしばしばあり、この表紙絵よりはもっと重そうなのかもしれない。本文及びこの表紙のように、いわゆる処刑剣のように先端には刃がなく平たくなっている。先端の平たい剣は”十字架”の意もあるともいわれるが、この『新しい太陽の書』シリーズという作品は、知っての通り、その設定や隠喩・暗示に関してはSFファンの間では非常に深淵な考察が多く、ここで挙げていくときりがないので省く。

 さてd20データの話に戻るが、Sword, Mercurialのデータは、ダメージダイスは同じタイプのswordと同様だが、クリティカルレンジが狭く20となり(swordは19-20)かわりにクリティカル倍率がx4(swordはx2)となっている。おそらく、サイズ(大鎌)の特性(ダメージ2d4, レンジ20, 倍率x4)と合わせたものであり、処刑剣テルミヌス・エストを元にしているという推測の根拠のひとつと思われる。
 なおSnFのデータではslashingのみだが、なぜかNWN1のCEPではpiercing+slashingになっている。セヴェリアンが切っ先がないので突けないという描写があったのとは合わない。サイズ(大鎌)もpiercing+slashing武器であるため、CEPはそれに合わせてあると思われる。
 例えばNWN1では、サイズ(大鎌)は「特殊武器」となっており(PnPの3.0eルールでは軍用武器)ダメージ2d4, レンジ20, 倍率x4だが、CEPのGreat Sword, Mercurialはダメージ2d6, レンジ20, 倍率x4で、ダメージ期待値だけが2点大きい武器を同じ習熟特技数(しかも、NWN1では特技1つで全ての特殊武器を使用できるようになる)で使えるのでバランス上問題があるような気がするが、ベースアイテム自体の登場率を絞ってマジックアイテム同様に調整すればということでDM次第なのかもしれない。

 上述したエラッタ前のSnFの初出の時点では、同じ大きさの剣よりもダメージのダイスタイプは1つ大きいもの、例えば、通常のグレートソードが2d6であるのに対して、Greatsword, Mercurialでは「2d8」となっていた。それがエラッタや再録でグレートソードと同じ2d6にベースダメージが減少したわけだが、原理的には疑問が生じないでもない。すなわち、このデータ上は、これらのMercurial武器は(大鎌同様に)クリティカルしたときに強力なダメージを与えるのが特徴の剣、となっているのだが、3.Xeでのクリティカルとは、生物的な弱点への攻撃を指す(そのため、アンデッドやコンストラクトや粘体にはクリティカルしない)ものとなっている。しかし、「水銀により打突の威力が増す」のであれば、威力そのものが増大する方が自然であり、「クリティカルしない相手に対しては同サイズの通常のswordと全く変わらないダメージ」という様相には疑問が残るからである。かえってダメージは大きいまま据え置きで、クリティカル域や倍率を通常のswordに近いものに下げた方が自然だったのではないか。
 とはいえ「処刑剣」の方向性で既存の武器であるサイズの性質に合わせるならそれも答えであろうし、そもそもSnFのぶっ壊れたデータの細部をこだわってもしょうがないと言ってしまえばそれまでである。





アンギアリの戦いとT&T


 全員の攻撃力を算出して合計、勢力ごとにその戦力を出して差分を算出、全員に分配し防具を適用し(さらに、7版以降は「悪意ダメージ」が防具をかいくぐって泣きっ面への拳骨のようにばらばらと分散)というT&Tの旧版から完全版に至るまでの戦闘システムは、非常に単純であるにも関わらず、この計算や行う操作そのものが、敵味方おかまいなしに入り乱れくんずほずれつの乱戦の雰囲気を醸し出している、と言える。
 ギャグマンガの乱闘シーンの巨大な土煙の中から手足が飛び出している姿を例示するゲーマーもいるが、中でもこのT&Tの乱戦激突の迫力の絵面として思い浮かぶひとつに、レオナルド・ダ・ヴィンチの『アンギアリの戦い』壁画がある。

 このルーベンスによる模写が特にそうともいえるのだが、戦士たちの形相がいかにもT&TやAFFなどの死に物狂い表情を思い出させるという以前に、ぐちゃぐちゃで何がどうなっているのか、一見すると何人いるのかさえわからず、特に馬同士が近すぎる。きわめつけに、左下にうずくまる人物がその体格と髪型含めて「幸運度(速度)セービングロールを試みて乱戦を離脱し誰ぞの急所に一撃必殺を狙う直前のホビット(セービングロールに失敗したら床一面にホビットのピューレをぶちまけ必至)」感が激しい。
 展示イベントで、この図を立体物化するとどうなるか再現した像が作られたことがあり、なるほどこれもすごい迫力だが、なるほどこれでもさっぱりわからん。

 このダ・ヴィンチの絵についてよく知られていることだが、なぜよく引き合いに出されるのが上記ルーベンスその他の模写かというと、ダ・ヴィンチのオリジナルの方は、制作途中で放棄され、行方不明(喪失・現存説ともにあり)となっているからである。なぜダ・ヴィンチがこの壁画の制作を放棄したかだが、この絵の中の「戦場の熱気」があまりにも強く、そしてダ・ヴィンチがあまりにもその熱気を絵の中に再現してしまったため、絵具が熱気で溶け続けていつまで経っても乾くことがなく、ダ・ヴィンチが加筆を断念したため、という雪舟だか左甚五郎めいた伝説があるとかないとかである。歴史的な実情としては、絵具と壁面の相性が悪くて溶け出し、途中で色が混ざって修復不能となってしまったためと説明されていることが多いが、現物がないため詳細は不明と思われる。

 なお、例によって、この『アンギアリの戦い』について幼少の筆者に教えてくれた教育関係者の親戚は、毎回『アンギラスの戦い』と言い間違えており、筆者も最初の十数年間アンギラスだと間違えて覚えていた。





AD&Dゲームブック『魔法の王国』3部作シリーズの世界設定


 以前にも取り上げたことがあるが、AD&Dゲームブックシリーズ『魔法の王国』3部作とは、Super Endless Questシリーズのゲームブックが富士見ドラゴンブックで和訳されていたもののひとつである。今回は内容(ゲームブックとしての出来など)ではなく、設定の話に絞る。

 このゲームブックはD&D・AD&Dのうちでも世界設定が何かというのは、これを知っていて、なおかつ後出のHJの日本語D&Dを知っているわずかな日本のゲーマーの間からは疑問が出ることがある。しかし、その範囲では、既存の世界には見つからず不明、という以外に、なんらかの結論に辿り着いている例は見当たらない。
 このゲームブック内の記述には、グレイホークやレルム世界設定に共通するエルフ女神(エアドリー、ロルス)の名、悪魔(パズズ、アリオク、ディスパテル)の名と設定、ギス人ら(SRDでは本家D&D以外ではd20でも使用禁止)のような特殊種族、”転輪”の次元界設定(現在では次元界設定の「転輪」=「グレイホーク」と認識されているが、元々はAD&Dのコアルールで、基本的にあらゆるワールドに共通していたものである)はある。(ついでに1st-MMIIのオピナカス(オピニクス)のようなウルトラレアモンスターも登場し、これは2ndなどの設定ではエアドリーに仕える生物となっており一見合致するが、このゲームブック中の個体は水元素界のマリードの一体に仕えており、関係あるのか否かは不明である。)
 しかし、登場する「ティカンド大陸」「シーゲート島」「ウィールウッドの森」「大都市セイヴン」「古代人の末裔の蛮族カンド人」「古代エルフ帝国ブーコッド」等は、グレイホークやレルムの地図や設定にはない。さらに、人間の奉じる「神聖なるデャン」「ブリジット」といった神々の名は、グレイホークにもレルムにもない。エルフ女神にしても、エアドリーとロルスが対で姉妹神、といったこのゲームブックの設定も、グレイホークやレルムを含めて他の世界設定には全くないものである。また、神々の名は別として、惑星オアースやトーリルの「地名」についても、このゲームブック作中には登場しない。

 グレイホークが特に古い世界なので、グレイホークの空白になっている箇所(現在に至っても、惑星オアースには地図にも設定にも空白は少なくない)ではないか、という説も見かける。この場合、エアドリーとロルスが対の姉妹といったグレイホークとの明らかな矛盾点は、早い話グレイホークにもさらに空白が多かった頃の古い作品であるため生じたと説明づけることは可能ではある。
 なお、ミスタラやレルムに関しては、魔法の王国の1巻『魔力の杖』が1986年なので一応はこれらのワールドセッティングの刊行より後だが、執筆時期を考えると充分に参照可能であった可能性は低い(ミスタラ(青箱以降のガゼッタワールド)がD&Dの最初の世界だとか昔は海外で主流だったとか信じているのは、一部日本の"TRPG"自称古参のみなので注意)。じゃあこのSuper Endless Questの1冊目が1985年なのにドラゴンランス(『パックス砦の囚人』)なのはどうなのよ、と思うかもしれないが(最初の世界設定Dragonlance Adventureは1987年)これは、より以前のDL1モジュールの一部の内容をそのまま用いている。現に、この『パックス砦の囚人』は後出の小説版の内容や他のDLの世界設定・資料とは大幅に矛盾する点が目立つ(ドラゴン卿ヴェルミナァルドの机の引き出しを開けたら破壊神アンスラサクスが出てきただとか)。

 ともあれこの『魔法の王国』ゲームブックシリーズの知名度の低さゆえに、日本では考察する人数自体がわずかだが、一方で、海外の多数のD&Dゲーマーの間ではどうなのか。
 ざっと調べた限りでは、海外ではこのゲームブックシリーズの世界設定に関する考察は少なからずあるようだが、日本同様に、既存の特定世界とする根拠は見つかっておらず、また上記独自の設定や用語に対して、他に典拠となるD&D資料も見つかっていないようである。
 結局のところ、D&D要素としてはいわゆるgenericな設定のみを使用している世界、と考えられているようである。実のところ、Wikipedia(en)などを見ても世界設定は"Kingdom of Sorcery Trilogy"としか書かれていないが、しかし、実はこのwikipedia(en)の過去の版では、他の本の項目に多い"Generic DnD"に分類されていた。
 つまり、コアルールのgenericな基本設定のみを使用し、世界設定自体は特に無いか、作者ごとのオリジナルということである。「TRPGは世界設定が必須」というのが現在の日本の"TRPG"ゲーマーの認識で、例えば3.Xeでは何も書いていなければグレイホークと考えるのが当たり前になっているが、ダンジョンクロールが重視されていた初期やAD&D1st時代には、こうした「コアルール以外に設定がない」ものはごく当たり前であった(ただし、これらのかつてはgenericとされていた設定の中には、転輪の他に人名やアイテム名など相当膨大な分量が、後の版で「グレイホークの設定」である、と定義しなおされているものが多い)。
 AD&D1stでは、ゲームブックのこれらの設定のうち、上記の転輪などの次元界設定はPHB、神々の名はDeities and DemigodsやUnearthd Arcana、ユニーク悪魔は(名前だけならば)世界設定を限らないモンスターや次元界マニュアルに載っており、特定世界によらない=genericの範疇である。
 (なお、ある意味、NetHackなどもこうした「AD&Dのgeneric」世界設定を背景に持つAD&Dゲーム、と称することもできる。)


 結論としては、「AD&DのPHB/DMG/DDG/UAなどのgenericな設定を利用しているが、それ以外はゲームブック作者オリジナル要素で、他に商業などで展開されているD&D世界設定ではない」と考えられる。このいわゆるAD&D時代のgeneric設定に、後の版ではグレイホークやレルムの世界固有設定に変更・再編されているものがあるため、3.Xe以降のゲーマーの目からは、中途半端に他の世界と関係あるように見えている、と考えられる。


 が、このゲームブック世界のオリジナル要素が、完全に手がかりも掴みどころもない創作であるかというと、それらのgeneric設定の典拠であるAD&D1st時点のDeities and Demigods, Legends and LoreやUnearthed Arcanaを参照すると、いくらか推測できる点もある。
 作中の蛮族カンド人は、首魁として「大ドルイド僧」を置き、娘である吟遊詩人(AD&D1stのバードは2nd以後とは全く異なり、ドルイド/盗賊/戦士のいわゆるプレステージクラスである)がゲームブック中では主人公に同行する。その文化として、地球の神話を記述したDeities and DemigodsやLegends and Loreからドルイド(ケルト神話)や、さらには一部デミヒューマン神が記載されているUnearthed Arcanaから、それに合致する自然神の名を一律でピックアップしたのではないかと思われる節がある。
 例えば、このゲームブックシリーズにはドルイドや吟遊詩人の女神の名として、前記1stの地球神話の神としてデータが載っている、地球のケルト神話の女神「ブリジット」の名が頻繁に出てくる。さらに、パラディンらが信奉する名として「神聖なるデャン」という非常に耳慣れない名が出てくる。ここで、NetHackの記事で述べたように、AD&D1stのほとんどのケルト神はドルイドクラスでの使用が想定されているのか「真なる中立」か、あるいはいずれかの中立を含む属性であるのに対して、ディアン・ケヒトは「秩序にして善」である。つまり、神聖なるデャンとは、実はディアン・ケヒトを指しているか、それを元にした神性であり、パラディンの信仰に合う神を、上記地球神話のD&D書物のドルイドやケルトの文化の範疇から選択した可能性が考えられないでもない。(なお、前述したように現在D&Dで有力なレルム世界にはDeities and Demigodsから地球の神々がそのまま多く流用されているが、ブリジットやディアン・ケヒトは特に無い。)
 また、Unearthed Arcanaに載っているエルフ神の中から、自然神であるエアドリー(エアドリー・フェンヤ)を選び、しかもあたかもエルフの主神、ロルスの対といった設定にしたのも、ドルイド風・自然信仰の文化が古代のエルフの時点から、この世界全体で一貫しているという構想とも考えられる。
 つまり、ゲームブック作者は、D&Dの地球神話やエルフ神話の書物をもとに「ドルイド・自然神話風の世界設定」に合致するものを選択していたと思われ、地球の神(ただし既存のD&Dデータの神)をもとに、ケルト風の世界に再構成したものを設定していたという可能性も考えられる。
 ただし、これら信仰以外については、ゲームブック内には主人公らの文化などに特にケルト文化を強くしのばせる記述などはない。エルフの記述も豊富だが、ケルトの妖精説話らしいところも特に目立たない。ドルイドを奉じる大陸の蛮族カンド人なども、それ自体の描写がほとんどなく、民族や文化の実態が掴みにくい。海外FT小説では、「ドルイド」という名の使われ方は地球の史上のものとは遊離したかなり一般的な(RPGでの「魔法使」「聖職者」といったものが地球のそれとは遊離した名詞であるのと同様)であることも多く、ドルイドの神名や信仰に統一されているからといって、世界設定もそれで一貫しているとは限らない。
 とはいえ、ゲームブック作者は、単に"generic DnD"では片付かないオリジナルの世界を、自然信仰やケルト風世界を元にある程度形成していた可能性もある。例えば、この作品のビジュアルは、原書・日本語版ともに、イラストなどではいかにもD&D標準宇宙観的になっているが、作者の想定としては、風景や服装などはもっとドルイド風の世界だったのかもしれない。





苦行迷路


 ゲームブックの苦行迷路というだけで、あるいは「ネバーランドのリンゴ迷路」というだけで、ゲームブックファンは「ああアレね」とすっかり合点することだろう。「ここは十字路です。東→ 西→ 南→ 北→」といった、イベントも何もない双方向移動パラグラフが大量に連続して迷宮を形成しており、基本的にマッピングするしかない。さらに、マッピングしやすい(距離などが一定の)仕組みで作られているとさえ限らない。

 これはゲームブック発祥期からのもので、いわゆるRPGのソロシナリオ的なゲームブックの体をなした作品としては初のものである、T&Tの『バッファロ・キャッスル』でも、城の東半分のかなり広大な範囲がイベントのない単純パラグラフ双方向移動の迷路で埋まっていた。
 さらに、直後の後続のヒット作かつゲームブックジャンル全体の代表作『火吹山の魔法使い』でも、後半まるごとが「ザゴールの迷宮」と呼ばれるパラグラフ迷路になっていることが有名である。しかし、ザゴールの迷宮は巧みにマッピングを難しくする仕掛けやイベントなどが配置され、辛くはあるが飽きさせない工夫がしてある。
 こうした苦行迷路も、適度なメリハリとして、例えば『ドルアーガの塔』ゲームブック版では60階中に何も壁がないだだっ広い階も多数あれば、かなり細かい区切りの大半がイベントのないパラグラフに分割された苦行迷路になっている階もある。また、火吹山やネバーランドのリンゴもそうだが、前半よりも突入した敵の本拠地などの後半に配置されていることで、終局が近い密度や閉塞感、抜けた時の達成感などを狙っていることもある。

 ここまでは、バッファロ城、ザゴール迷路、ドルアーガとゲームブック手法の進化と共に、なんとか上手く作ってある場合の話だが(それでも苦手だというファンも多い。特にネバーランドのリンゴ)本当に酷いものだと、「迷路」の体すら成しておらず、全パラグラフが全方向に行ける十字路で「格子通路の全部の交差点にパラグラフ番号を配した方眼紙」になっている場合も少なくない。それでも突破する(この迷宮の入り口と出口を見つけ出すだけでも)にはマッピングするほかないことが多いが、「紙上の平面図を、ゲームブック作者がパラグラフの繋がりというわかりにくい形状にエンコードし、読者はそれをふたたび紙にデコードする」という、まったく人間の知的活動の労力を費やす価値も成果もない作業を強いられることになる。
 特に、JICC出版のゲームブックで、当時の8bitPC-CRPGをゲームブック化したものは、「アドベンチャーノベルズ」と銘打たれ、ゲーム性より読ませる文章やストーリーが主眼である、などという体になっているのだが、この苦行迷路がだいたい1冊に一か所程度無造作に、酷いものでは1冊に複数個所存在するものがある。例えば『ウルティマ1』ゲームブック(無論ゲームブックはJICCで日本製)では、序盤の押さえる必要のあるイベントも何もないただの城下町が、全部十字路でこの単純苦行迷路になっていた。JICCゲームブックの、200台そこらのパラグラフ数の下手をすると複数個所が、こういう大量パラグラフを費やした十字路で埋まっていることがあった。

 漠然と考えられるのは、海外ゲームブックのような「即死トラップ」(命が安すぎるのは海外最初期PnP-RPGに由来するが、海外ゲームブックでも後出の作品になっても減るわけではない。というか、以前述べたようにFFゲームブックなどではむしろ酷くなっていく)などを納得できない、CRPG経由の日本のプレイヤーに対して、こういう手段でパラグラフやプレイ時間の水増しをしていた、というのが想像できる。
 これに対して、即死でも無駄作業でもなく楽しませる様々な仕掛けをこらしてゆき、やがて前述のドルアーガやさらに『パンタクル』のようなゲーム性の高い作品にまで至ることになるが、それもゲームブックブームのわずかな期間のあだ花である。





子育て幽霊と太郎一族


 日本各地には、埋葬された母から墓場で生まれた子が育つ説話があり、特に落語や怪談では子育て幽霊・飴買い幽霊として語られる。子育て幽霊となると、怪談というよりは人情話の趣がかなり強いが、どうもこれが仏教説話に由来するためであるらしい。インドや中国各地にも似た話があり、大陸由来で伝わった推測もできる。墓場での出生後に、一見恐るべき生い立ちのこの子供がどうなったかは、長じて各地の「高僧」になった、と伝わっていることが多い。元が仏教話であることと、生死の世界の狭間に生まれたことからと思われるが、他にも陰陽師や武士(分家となって独自の変わった姓の由来に説明されるなど)などの話がある。
 しかし、この説話の子供の後身のうち、これらの古い巷間説話をさしおいて、日本の老若男女に最も有名となってしまっているのは、おそらく「墓場の鬼太郎」であろう。

 戦後まもなくの紙芝居に、子育て幽霊を猟奇的に翻案した「墓場奇太郎」があり、水木しげるが紙芝居、ついで貸本漫画としてさらに翻案したこと、出版社とのいざこざで他の作者によっても描かれたこと(貸本版やガロ版『鬼太郎夜話』に登場する「にせ鬼太郎」はその風刺という説が述べられることもある)、また人間の子としてのかなり猟奇的な原型を翻案し(紙芝居版ではそれぞれ背景が異なるが)貸本版では「幽霊一族」(いわゆるアンデッドではなく、人間の幽霊怪談の原型となった古い妖怪一族)の病死した親の墓から生まれた最後の末裔、といった、いわゆる「鬼太郎のルーツ」については非常によく知られており、詳細は述べる必要はないと思われる。(ただし、貸本時代には妖怪という語はあまり使われておらず、一方で別冊マガジン版の講談社単行本などでは、貸本での「幽霊一族」が「妖怪一族」に変更されていたりもする。)なお「墓場鬼太郎」は貸本版、「墓場"の"鬼太郎」はマガジン版初期を指すものと、それぞれの題名から水木ファンの間では厳密な使用が要求されていることもあるが、いずれの版でも、キャラクターを指す場合の「本人の呼び名」としては両方が使われている。
 これも周知だが、初期の鬼太郎は醜悪奇怪で人に災いを呼ぶ妖怪であり、「高僧」すなわち聖者となった子育て幽霊の説話に対し、生まれそのままに猟奇的存在であった奇太郎の直接原型の姿の方をとどめている面がある。ところが、これが後年さらに一周し、少年誌のヒーロー妖怪「ゲゲゲの鬼太郎」となるのは意味深である。そう考えると、子育て幽霊の子、さらに奇太郎を経由して、水木しげるがどのように、もといどのような意図をもって「鬼太郎」を造形していったかというのは興味深い問題である。

 ここで、なぜ字を「奇」から「鬼」に変更したのか。研究家らが、一度ならず「キタロウ」「オニタロウ」という妖怪又はそれに近い存在を民俗に捜索したが見つからなかった、という報告がある。かなり単純に、「奇怪な存在」から、もっと「直接に畏怖すべきクリーチャー(オニ)」に翻案したと考えることは可能で、蛇怪(しばしばオニは水神の子である)から生まれたという背景になっている最初の紙芝居や初期はそうであったと思われる。
 が、「鬼(キ)」とは、中国語、つまり漢字本来の意味では、いわゆる日本の巨人型のオニ(Daemon; Ogre Magi)ではなく、死者が動いて出現するもの(Undead)を指す。つまり、「鬼太郎」とはそのまま、幽霊(子育て幽霊)の子、ひいては「幽霊の氏族の嫡男(世継)」という意味の字になり、創作的ルーツにも、貸本版以降の生い立ちにも直接に符合している。「鬼太郎」という名は、貸本版ではすでに、出生直後の鬼太郎に対して目玉おやじが呼んでいるが、これはその名で命名したというよりは、子の生い立ち・立場をそのまま呼んでいると読み取ることもできる。
 もっとも、日本の信仰においてはオニには荒ぶる神や死霊も含まれ、その神(kami)にも死者の霊も含まれるなど、漢字本来の鬼(キ)と日本のオニの意味が完全に分断できるわけではない。
 さらに、貸本版の墓場鬼太郎の姿は、いわゆる「鬼子」の造形である、という考察もある。墓から這い出た時から長髪であり、また貸本版を通じて出っ歯が非常に目立つ。(別冊マガジン版の『鬼太郎の誕生』でも、貸本版のコマが流用されており、上記単行本内で最初のその話だけ、きわめて奇怪な姿をしている。)生まれた時から「髪」と「歯」(特に「上顎の歯」)が生えているというのは、武蔵坊弁慶(鬼若)の生誕話にあるように鬼子の特徴として広く知られている。あるいはこの作中において、「幽霊」を死霊ではなく妖怪の種族としたのも、鬼(キ)の字の語義が日本で変化した背景を反映しているのかもしれない。
 もっとも水木しげるの膨大な民俗知識から考えると、上記とはまるで別の意図があるかもしれないのだが、念頭に全く置いたことがなかったとも考えにくい。





レゴラス(LotR)とバルド(Hob.)はどちらの方が凄腕の弓の達人なのか


 Hob.映画2作目ではエスガロスのバルドは初登場場面、すなわち樽から降りたドワーフとはじめて対峙する場面から、いきなり物凄い弓の腕前を見せる。この直前の樽の場面のレゴラス(言うまでもないが、原作Hob.の時点では登場しないどころか樽の場面に戦闘など無い)の活躍も霞むほどである。
 そこで出るのが表題のような疑問らしいのだが、そんな疑問が出る時点で、そういう感じの答えしか期待してないだろうし、ここはゲームのサイトだからね。

 ICEのLords of Middle Earth 3によるとエスガロスのバルドは戦士(野伏ではない)で24レベルである。よく見ると、映画で活躍する美少年バインのデータもあり(18レベル)、さらにその息子、指輪戦争時代の谷間の領主ブランドのデータもある(21レベル)。
 バインは成人して谷間の国の領主となり、まだ不安な当時の荒地の国を駆けまわってから後のデータであろう。さらにバインよりもブランドの方がレベルが高いのは、指輪戦争中であったためかもしれない。
 バルドの24レベルというのは、例えばd20に換算するとMERPのレベルを2/3にするため、16lvである。10lv台半ば〜後半は、だいたい神話伝承の類の人間の英雄(いわゆる龍退治を含む)と同規模である。きっちり16lvというとアーサー王自身、ガウェイン卿、イアソンやドリッズト(2nd)などがいる。
 レゴラスはすでに皆ご存知の通り、戦士8レベルである。が、この有名なデータは、実は第三紀中期のデータで、指輪戦争時には28レベルである。その中間であるHob.当時は定かではない。



シンプルなZヘッド


 Zガンダムの前半OP冒頭に登場する謎のMSのシルエットは、Zのデザインのまだ未決定のものを使用しているが、元となったデザイン画自体を見ても、何となく百式の頭に近い。ナカツ護の残していった百式に近い没Z案の一部を流用しているためと思われる。

 メタ的に言えばこのOPのMSは胴体部分は見えないので、百式ヘッドのプロトZガンダムX1かもしれないが、もっと近いものとしては、ホビージャパン設定のプロトZ後・Z前の試作機こと「Vガンダム」(ヴィクトリーとかバリアントではなく、「ヴァリアブルガンダム」である)かもしれない。
 『ヘルメス夢幻』に登場したこのVガンダムは、胴体はかなりZで、ネモに近いゴーグルヘッドだったが、プロトZが百式(MSZ-006X1)、ディアス(X2)、ネモ(X3)のカメラを使用したバリエーションがあったことから、同様にVガンダムでもネモだけでなく百式ヘッドでも試験が行われていても不思議ではなく、となると前記の没Z案にはかなり近くなる。

 ちなみにこのネモヘッドのVガンダムや、どれもガンダムヘッドでないプロトZの3機のように、ガンダムヘッドではないバリエーション機に、胴体部分や設定優先で「ガンダム」という名を平然とつけてしまうのはMSVの試作型なんとか量産型なんとかにもよくある、この当時の独特の特徴である。つまり(長谷川漫画で言及されたり、マリーダさんの暴走モードの際のような)ガンダムという名=「目が二つで角が生えたガンダムヘッドのこと」という現在では通念的になっている意識が、この当時は極めて低かったことを表している。そもそも未決定のZが一時は「角のない案」だったことからしてそうで、仮にZの時点でそのまま決定していたら、以後のガンダムの認識自体が根本的に違っていた可能性がある。平成三部作、というか頭さえあっていれば全部ガンダムなGガンダム前後あたりから、こうしたネーミングは少なくなってくる(EZ8など無いでもない)。

 しかし、OP冒頭に戻ると、今アンテナのない瓜のような目だけ光っている真正面顔シルエットを見ると、残念ながらブチャラティのシンプルな丸刈りにしか見えない。





クロちゃんの鷹の探索


 尼損(表紙すら出ない)


 富士見ドラゴンブックは初期ドラゴンランスやレルム、TRPG(最初期SW)、TRPG解説書の文庫で知られているが、当初はAD&Dゲームブック(Super Endless Questシリーズの和訳)や、日本製のゲームブックもあるレーベルであった。この『鷹の探索』はその初期で、黒田幸弘による、D&Dや他のTRPGとは直接の関係はない、完全オリジナルゲームシステムのゲームブックである。本文イラストが幡池裕行(当時はBLACK POINT(伊東岳彦)とは別人、という建前になっており、こちらはFT関連の挿画に多めだった)で、『D&Dがよくわかる本』(の後半に載っているリプレイ、ダースヴェイダーとかレゴラスとかがPCのやつ)と同じ組み合わせ、とよく評されているが、こちらの方が若干早い。
 当時のゲームブックとしても知名度はかなり低いが、クロちゃん製ゲーム・書籍愛好家などからわずかに見られる評では、一方向物、ストーリー指向で、仕掛けはあっさりしている、ゲームブックとしては割と低難易度の初心者向け、と捉えられている。ただし、これから述べるが、私見ではそうも言い切れない点が散見される。

 ストーリー指向について、冒頭の世界設定をはじめ作中明らかにされる背景設定はブリテン島史などの名詞を巧みにつぎはぎして作ってあり凝っている。しかし、一方でゲームブックの本文自体は、ストーリー物として見た場合、全体的にかなり淡白である。
 ゲームブックはジャンル自体の代表作FF(ファイティングファンタジーの方ね)シリーズでのモンスターらの生活感や悪役の精彩、ドルアーガ3部作の(文は粗いながらも)表現を尽くされた描写やサブキャラの力の入り方、言うまでもなくグレイルクエストの全体を覆う独特の空気など、評価の高いものは、いずれも地の文の描写に力が入ったものが多い。当時の筆者の周囲でも(後代の評価とは別に)FTや冒険の雰囲気を感じさせてくれることをゲームブックに求めていた面が大きい。それは、FTの小説や漫画も当時の日本では身近ではなく、表現力の及ばないFC等の時代のゲームにも不足していたものだった、という背景もある。
 一方で本作は、歴史背景などが設定されている反面、様々な環境の土地や都市を横切り多数の人物・仲間なども登場するが、状況や人物の描写などは相当にあっさりしている。
 あのクロちゃんのRPG見聞録千夜一夜シリーズの例の、ガラの悪すぎる男冒険者や、あまりにもオカマ丸出しすぎる口調の女冒険者などが見たかった、とまではいわないが、この薄口の描写を補助する幡池イラストにだいぶイメージ補完を助けられている、ともいえる。

 難易度やゲーム性については、一方向ゲームブックなのだが、FFや上記AD&Dスーパーエンドレスクエストにすらかなりある、あるルートやアイテムを通っていないとクリア不能(またはほぼ不能)という仕掛けや、理不尽さなどはほとんどない。かといって、歯ごたえがないというわけでもなく、ルート分岐やフラグ選択肢などが多く、ある程度の繰り返しプレイに耐える。
 むしろ難易度の問題はゲームシステムの方にある。多数のパラメータを設定する独自のシステムだが(なお、なぜか主人公をキャラメイクしろ、という直接の指示がない。キャラメイクルールは巻末にまとめられているが、最初から読んでいくとわからなくなった、という報告がある)TRPGやFF等のゲームブックよりも、CRPGに近い。回避などがなく、レーティング表にしたがって耐久度を交互に削りあっていくのだが、後半になるとかなり苛烈になる(DQ1の大量削りあいの辛さを思い出すとそれっぽいだろう)。
 当時のゲームブックには、JICCの8bitPC-CRPG原作の一部のように(TRPGを簡略化して成立した海外ゲームブック史とは逆に)CRPGを無理矢理表現しようとして、異常に多数のパラメータと異常に煩雑な戦闘システム(しかもそれだけ苦労しても、たいして話に影響しない)となっているものも多い。それに対して、本作は戦闘解決自体は非常に簡便で、しかも、フォーメーションを組んで多対多の戦闘をゲームブックで簡易に解決できるようになっているのはさすがはクロちゃんだと言いたいところである。が、フォーメーションの先頭に立つキャラが、高校野球の先発投手のごとく負担が大きすぎ、まさしくドカベン序盤の里中のようにヘバる。クリア困難というほどではなく、またパラメータや入手アイテム・仲間などで変わるリプレイ性が上がっている一因でもあるのだが、決して「低難易度」とはいえない。

 総じて、背景設定などからストーリータイプと思われがちだが、実際はゲームシステムの方に凝らせており、特に回避せずに多めのヒットポイントを違いに削りあう戦闘はコンシューマCRPGを強く意識しているのではないかという推測が可能である(ただし初期D&Dの中盤レベルでもその傾向はあるので、D&Dパイオニアのひとりであるクロちゃんの経歴上断言はできない)。そう思うと、初期PnP-RPGや高難度ゲームブックの流れをくむ選択肢による理不尽や突然死が抑えられている点も、日本のCRPG風(FC当時は以後のJRPGほどではなかったとはいえ)を意識しているようにも見えてくる。そういった意味では、FFやTRPGなどのヘビーユーザー以外にアピール可能であったかもしれず、これで凝った背景を生かした文章描写と、なにより難易度バランスがもう少し練られていれば、当時のコンシューマゲームのゲームブック化に埋もれずにもう少し記憶されていたかもしれない。





無印ファイティングファンタジー


 みつりん


 無印ファイティングファンタジーは、スティーブ・ジャクソン(英)が、かつて、AD&D1stなどのPnP-RPGの簡易版として火吹山にはじまるFFゲームブックを作ったが、そのFFゲームブックから、PnP-RPGに『逆戻り』させるために作ったゲームシステムである。というか、能力わずか3種のあのゲームブックのシステムそのままでPnP-RPGをやらせよう、などという代物であった。日本では火吹山などの教養文庫ではなく、ソーサリー等と同様の創元の方から出ていた。
 PnP/TRPGを知っている知人の間での評価は、一部例外を除いて全員、「こんな単純すぎるシステムでは『TRPG』として成立させるのは不可能だ」というもので、実のところ、筆者も同意見である。魔法も特殊技能(技術点がひとつしかない)も成長もなく、キャラの個性も出しようがなく、伸びしろも何一つない。というか、AFF(TRPGルールとして大きく拡張されたアドバンスド・ファイティングファンタジー)が出てからのコメントによると、AFF和訳者(SNEの面々)や、ひいては英ジャクソン本人も、無印FFのPnPはどうやら失敗作だと思っていたようである。
 ただし筆者の知人のうちでは、一人だけは例外で、何度か述べたが周囲に2人いたゲームブックの超重マニアのうちひとりがそれである。彼はAFFすらも拒否し、無印FFの「わずか3種の能力」「指定なしのいつでも食事で4点回復」等に異様にこだわり続けていた。要するにあまりにもFFゲームブックそのものが好きすぎたのだ。

 その低評価にもさもありなんというか、上記のamazonの中古価格なども、高騰する中古ゲームブック類の中ではかなり低価格ぎみである。それではこの無印FFルールブックには価値はないのかというと、実はそうではない。収録されている2本のダンジョンシナリオ、「願いの井戸」と「シャグラッドの危険な迷路」は、RPG好きなら必ず一見の価値はある。
 たいていダンジョンというものは、だいたい一部屋置きくらいになんらかの動的なイベントがある、というものだが(CD&Dでは部屋の総数の半分は空にしておくよう指定がある)この無印FFルールブックの2つのダンジョンはいずれも、一部屋一部屋に全部凝りまくった仕掛けがある。空の部屋はほとんどなく、モンスターの部屋でも単純に襲ってくるような状況もまずない。英ジャクソンのあの手腕から繰り出される特殊イベントが目白押しである。
 同時に、この2つのダンジョンは、旧版無印FFというゲームシステムの本質をつぶさに捉えている。すなわち、単純すぎ、キャラ表現の幅がほぼ皆無の無印FFのシステムでは、シナリオ内容自体に、これほどまでの質と量でアイディアをぶちこみまくらない限り、ほとんど「TRPGとして成立しない」のだろう、ということである。そして毎セッション全てのダンジョンの全部屋、これほどのアイディアをぶちこむことは、英ジャクソン本人はいざ知らず、おそらく大半のゲーマーにとってはほぼ不可能である。


 なお、「願いの井戸」はAFF(2版)の導入シナリオとしてもルールブックに再録されているが、マップこそ同じであるものの、内容は全く異なっている。というか、無印FFとはまさしく真逆であり、ごく一部の店舗などのイベント部屋をのぞいて、単純にモンスターが配置されて襲ってくるだけという、D&Dシリーズのランダムダンジョンよりも無造作なものと化している。
 これは、ある意味では無印FFからAFF2ndに移行すれば妥当な措置の部分もある。前記の無印FFの2ダンジョンは、単純すぎるFFならばともかく、ある程度複雑なシステムを有する他のTRPGで運用しようとすると、あまりにも特殊イベントが多すぎて煩雑だろうという想像もつく。
 しかしそれにしてもこのAFF2ndの願いの井戸の単純連戦の無造作さは、いまどきのTRPGとして異様ですらある。というか、願いの井戸はまだモンスター部屋が半分以下でいいほうだが、このAFF2nd中のもう1本のダンジョン(アクバルの隠れ家)は全部屋敵でぎゅうづめでひたすら連戦のみとなっている。AFF2ndのランダムダンジョン生成やシナリオ作成手引きには「空き部屋を一定量作れ」という指示がまったくないので、AFFとはこういうダンジョンを想定しているのかもしれないが、にしても単調である。

 なお、願いの井戸のもうひとつ興味深いところとしては、迷宮地図が双方向的であり、火吹山や混沌の要塞のように「1方向に向かって通過するゲームブック」のような流れにならず、そうしたソロアドベンチャー化することも不可能となっていることである(T&Tのバッファロキャッスルのように、フラグ管理等もせずに「一度倒したモンスターや財宝は現れない」等と無造作にPnP用ダンジョンをソロ用に変換することもできないでもないが)。これはPnPゲームであればそうしたダンジョン構造がむしろ当たり前のことといえないでもないが、深読みすれば、ゲームマスターのいるPnPでないとできない構造にして自由探索のPnPならではの面白さを入門者に感じさせようとして選択したと考えることもできる。一方でジャクソンらは以後もゲームブックでは一方通行がメインで、他の多くのゲームブック作者や日本の作者が、ゲームブックの範囲内でPnPやCRPGを再現するシステムを模索したのとは対照的である。


 旧版の願いの井戸と、AFF2nd版の世界設定上の関連は定かではないのだが、ただし旧版の「シャグラッドの危険な迷路」の方にいたドワーフのプーキー兄弟の食べ物屋屋台がこちらに「移住」してきた部屋があるので、どうやら時系列上は後らしい。しかし、クモの王やナンドラスなどの旧版の住人たちを偲ばせるものは何も無い。クモの王のかわりに、旧版では無限回廊だった先に部屋があり、そこのネクロマンサーがボスになっている。
 一方、クモの王のエンブレム(旧FFで、願いの井戸のダンジョンの入り口などに掲げてあったものである)のイラストは、AFF2ndのルールブックにもあちこちに配置されている。牙の生えた髑髏から8本の足が生えている非常に不気味な紋章で、たぶんAFFから入れば(クモの王などという生き物を知らなければ)その意味不明な不気味さにおののく読者も多いと思われる。願いの井戸の入口に掲げてあったのは、クモの王の一族の骨格とかではなく(足と頭の位置関係が違う)『超モンスター事典』にも記載のFF#43のスカル・ビーストという怪物がかなり造形が似ているが、同じ事典のクモの王の記載からは、おそらく無関係(アイディア元ではあるかもしれない)と思われる。このエンブレムは、たぶん間抜けな冒険者の頭蓋骨と、ナンドラスがカニ道楽で買ってきて食った後にそのへんに殻を捨てたカニ足か何かを、クモ王の部下が拾ってきてくっつけて迷宮入口などに設置したものと思われる。

 無印旧版FFルールブックには、ワールドに関する記載が一切ない。これは今の"TRPG"では考えられないこと、とのことだが、旧FFの当時、いかにもOD&D等の旧世代のPnP-RPGには、さほど珍しい話ではないだろう。すなわち、件の2か所のダンジョンと、FFのタイタン世界設定とのかかわりも記されていない。
 ただし、少なくとも「シャグラッドの危険な迷路」は、『火吹山』などのアランシアではなく『ソーサリー』などの旧世界、特にカクハバード南部ではないか、と推測するファンがいた。根拠としては、前記したプーキー兄弟の店で出てくる食べ物のメニューが、ソーサリーに登場する食品そのままになっていること、特にこのうち「ヴィトル」がワールドガイド『タイタン』では「アナランド」の携帯食になっているためである。おそらく当時は(ワールドの記述がないことも含めて)英ジャクソンは適当に前にゲームブックで出したことのある食物を出しただけで、『タイタン』を書いたマーク・ガスコインがヴィトルに関して深く考えていたとも思えないのだが、考察としては有りである。

 しかし一方、上記AFF2ndに載っている(中身は全く違う)「願いの井戸」は、「サラモニスとチャリスの間」、すなわちアランシア大陸となっている。中身がまったく違うので、マップが似ているだけの別の位置にある(旧世界のものとは別々の)井戸なのではないか、と考えることもできるのだが、これも前述のようにプーキー兄弟が移住してきていることを考えると、旧版の井戸やシャグラッドの迷路と無関係とも考えられない。
 一方、この「願いの井戸」にはAFF2ndにコンバートしたものが存在する。この文中では、「シャグラッドの危険な迷路」に登場するレプラコーンのマルドゥーンがかつて住みついており、元々「願い」はこのマルドゥーンが魔法で叶えていたもの、となっている。やはり相互に複雑な関連があり、単純に旧世界だったということで整合はできそうにない。





バルサスの要塞(の要塞ではない箇所)の謎


 『バルサスの要塞』は、ファイティング・ファンタジー(FF)のゲームブックにおいて火吹山に次ぐ2作目であることもあり、英ジャクソンによるシステム世界設定共に数々のアイディアが盛り込まれている。が、それらは後出のFF作品や、世界設定『タイタン』やAFFから見ると、浮いている点も多い。日本のCRPG界では「長シリーズの2作目現象」ともいい、DQ2やFF2(こっちはファイナルファンタジーの方)のように、1を超えようと力んだ上に新機軸を盛り込もうとした結果、失敗とまではいえないにせよ、3作目以降は採用されなかった特異な点が数多く、シリーズの他作品からはどこか浮いた要素が目立つ、といったアレである。
 『バルサスの要塞』のその浮いた要素についてひとつずつ見ていくと、まずしょっぱなから表紙が謎である。日本の最初の創元版表紙も英語の最初の出版社のものも同じだが、誰しもがひと目で尋常でないもふもふだと見抜いたよというところであるがそれ以外は一体何者か、何一つ見抜ける点はない。おそらく作中にこのもふもふに相当する妖怪はいない。また「妖怪」という訳語も、この作で突然使われ、以後使われなくなっている(ただし以後のFFゲームブックでも冒頭のシステム解説の流用部分にたまに残っていることがある)。これらはいずれもゲームブック界でも長く囁かれている謎だが、今回はこれらの謎についてはさておく。


 次に、浮きまくっているのは主人公の能力である。ライバルのバルサス・ダイアも、妖術も剣技も超一流(ゲームブックのライバル一般にありがちな、辿り着いてみたら異常に弱かったりはしない。弱点もあるが、即座に突けるわけではなく、パラグラフ移動と数値の双方で相当な激戦の分岐がある)でタイタン史上でも筆頭に上がる屈強な筋肉達磨だが、主人公も能力はバルサスと同じくらい高く、能力背景の特殊性はバルサスの頭のてっぺんの毛くらい奇妙である。
 この主人公は、「太古の大魔法使いの一番弟子」であり、初期FFでは風来坊を推測させる描写が多い主人公らの中では珍しく確固たる出身を持ち、またバルサスの軍を阻止するという勇壮な任務も明記されている(他の初期FFでは結局は報酬目当てという記述が多い)。
 しかしそれ以上に、上記設定から「純然たる魔法使い」のはずなのだが、他のFFの戦士系キャラと完全に同等の肉体能力(技術点:1d6+6)を持つ。後出の『ソーサリー』やAFFの魔法使キャラが魔法以外の能力では専業戦士よりも大きく劣るのとは対照的である(無論、まだ2作目なのでシステムの模索のためであると思われる)。なおかつ魔法能力(使用できる呪文数や効果)もAFFの下手な魔術師キャラより高い。魔法以外の点では戦士キャラと同じかというと、魔法で能力を回復する手段があるため、薬も食料も持たずに冒険に突入するという、これも異例の前提がある。

 また、魔法のシステムがのちのAFFとも異なり、初期D&D同様のいわゆる「ヴァンシアン」であり、MP制などではなく、最初に種類を選択し、後で変更はできない。ただし、「ヴァンシアン」「古いD&Dシリーズのように呪文をあらかじめ記憶しておいて使用する」という言い方をすると、特に日本のCRPG肌からは非常に独特のように聞こえはするが、例えば「使用できる魔法リストが最初から与えられて、一冒険ではそれぞれ一回ずつしか使えない(使い捨てアイテム同様)」といったシステムは、FF以外のゲームブックをはじめ、ゲーム全般のアイディアとしては当時はごく一般的である。
 なお英ジャクソンはかつて来日時、AFFのデザインにあたって「ソーサリーのような消費制とバルサスのようなヴァンシアンのどちらにするか日本のファンに質問し、前者の人気が高かったので前者にした」ことがよく知られている。
 これについて日本のゲームデザイナーの中からは、「後出のソーサリーの方が当然洗練されており、ヴァンシアンに人気がないのは当たり前なので、あえてバルサスを選択肢に挙げたのは、逆に英ジャクソンはバルサスのようなシステムの方が気に入っていたためではないか」という推測がある。しかし、英ジャクソンが消費性が当然であると確信していたとは限らない。日本以外では、PnP-RPGにおいてAD&Dのようなヴァンシアンは日本より遥かに一般的なので、「ヴァンシアンが人気がないのは当たり前」という認識自体が無かった可能性も高いからである。
 ちなみにさらにのちのAFF2ndでは、かなり当たり前のMPシステムである「魔術」、名前の通りのソーサリーの3文字魔法である「妖術」をはじめ、神術、まじない、仮面魔術や死霊術などの多数の魔法体系が追加されているが、『バルサスの要塞』のヴァンシアンに対応する魔法はない。呪文内容の効果からすると、AFF2ndにおいては「魔術」で再現されていると思われるが、「魔術」は他の体系以上に、肉体能力と両立することは困難で、バルサス・ダイアやFF2主人公の再現には合わない。

 ともあれ、『バルサスの要塞』の主人公については、魔法システムが後続のシリーズやAFFとあまりにも異なっているため、上記確固たる設定にも関わらず、ゲーマーらから「魔法使いであることさえ認識されていない」場合すらある。
 例えば、「火吹山をクリアした主人公(専業戦士)が、太古の大魔法使いから呪文石・巻物の類を貰って挑戦している」という、原作と異なる「脳内補完設定」でプレイしている、というプレイレポートのたぐいが、ネット上ではやけに大量に出てくる。
 そればかりか、ゲームブック本編もあたかも最初からそういう設定(戦士キャラ)だったと脳内混線を起こしている(『バルサス』のプレイレポートも同じサイトに置いているにも関わらず、「主人公が自力で魔法を使えるのは『ソーサリー』の方」と紹介されている記事など)ゲーマーもおり、または、未プレイで前述のプレイレポート記事の類を原作設定だと勘違いしている記事もたまに見かけたりもする。


 『バルサスの要塞』の主人公のさらにもうひとつの謎は、その背景である。和文「太古の大魔法使い」という名もその弟子も、いかにもタイタン世界の重要人物めいているが、以後のアランシアに関する和訳書物には見当たらない。特にこの「太古」というのは一体何だろう。例えば「古代」の大魔法使いなら、コナンやランクマーによく出てくる数千年前の古代史時代から呪術で蘇ったリッチ魔術師、といった感を抱かせるが、「太古」ではまるで原始時代、羊歯植物が生えている中で腰ミノと石器で火の回りを踊りまわって大魔法を行うか何かのようではないか。
 実のところ、タイタン設定に詳しい識者からはしばしば指摘されていることだが、この「太古の大魔法使い」の原語は"Grand Wizard of Yore"である。ワールドガイド『タイタン』における「ヨーレの森の大魔法使い」であり、アランシアの魔法学校の代表を指す。ところが、yoreは英語では(かなり珍しい用法だが)「昔」の文語の意味がある。つまり、この固有名詞の「ヨーレ」が、『バルサスの要塞』の時点の和訳では一般名詞として、ひいては、おそらくは、単なる過去や古代よりもさらに仰々しい訳語を選択するために「太古」と訳されてしまったようである。
 あるいは、元のタイタンの設定のYoreもその語義も意識した命名だったのかもしれず、例えば、ワールドガイド『タイタン』によるとヴァーミスラックスによる現魔法学校の設立(150年前)とは別に5世紀ほど前にも、ヨーレの森には魔法学校が設立され、当時のアランシアで魔術師の地位が向上している。250年ほど前の大魔法大戦の時代にも、当時の「ヨーレの大魔法使い」らが参戦している。『トロール牙峠戦争』によるとヨーレ族はそこに住むハーフエルフの部族名でもあるが、どちらの名が先かは定かでない。
 なんにせよ、FFのわずか2巻の時点では、原語でも日本語でも情報があまりにも少なすぎて、こうでも訳すしかなかったわけである。文中の「太古の森」なる摩訶不思議な地名も(エントなどが住んでいる原初の森とかではなく)おなじみヨーレの森である。さらに、書物によってはYoreは「ヨア」となっていることもあり、さらに繋がりがわかりにくい。

 ヨーレの森の大魔法使といえば、「アランシアの善の3魔法使」の師匠でもあるヴァーミスラックスということになる。つまり、「太古の大魔法使いの一番弟子」である『バルサスの要塞』の主人公とは、ヴァーミスラックスの弟子にあたり、3魔法使の弟弟子で、おそらく3魔法使がヨーレを去った(謎の出奔をとげて数奇な運命をたどる)後の筆頭弟子、ということらしい。なんだか崑崙十二大仙人が独立した後では道士弟子としては元始天尊の筆頭弟子になっている太公望のような立場である。
 ただし、『タイタン』では、直接の明記はないが、3魔法使がヴァーミスラックスの最後の弟子であるかのような記述となっており、だとすれば『バルサスの要塞』の主人公がかれらの弟弟子、及び「育てている数人の若い魔法使い」等の記述とは合わない。
 無理に記述のどれも生かすように考えると、主人公は3魔法使より前の弟子だとか、さらには、3魔法使どれかの若い頃(つまり、どちらであってもFF2巻はかなり昔の物語)と考えられなくもなく、例えばヤズトロモならば、一人称が「おれさま」(『運命の森』より)のことだし、若い頃には剣も達人でアリスソフトのランスみたいな見かけのガッハッハーという豪快な冒険者で『バルサスの要塞』の主人公を務めた、とか仮定できないでもないが、やはり時代背景とかその後のヤズトロモの設定上(なお、ヤズトロモの変人設定の半分くらいは和訳のせいである)は難しい。例えば、『トロール牙峠戦争』は元々ゲームブック群とは厳密に合致しない点が多いが(ワールドガイド『タイタン』はそのあたりはどちらとも断言しないように曖昧に書かれている箇所も多い)既にヤズトロモが老齢で塔に籠っている頃に、バルサスはまだ健在であるので合わない。
 なお、この太古の(ヨーレの森の)大魔法使いは、『バルサスの要塞』の時点では冒険ができないほど高齢とのことだが、リビングストン作の後年(2007年)の"Eye of the Dragon"(ゴールデンドラゴンシリーズ、つまり炎の神殿などと続き物の『ドラゴンの目』では無い)等の時点では、Grand Wizard of Yoreの称号はヴァーミスラックスにかわり、ヤズトロモが保持しているという。





ジョイリーのジレル


 CLムーアのジレルは海外では「ヒロイックファンタジー」の代表人物のひとりに数えられる貴重な「女戦士」でもあるが、日本では例によって『不死鳥の剣』に一編だけ収録され、後はすっかり忘れ去られている感もある。
 海外絵はというと、海外の女戦士というとゴリマッチョとか濃ゆい系とか完全なアメコミヒロインとかかと予想する向きもあるかもしれないが、別にそうでもない。一方、日本では、単独単行本では松本0士御大の摩訶不思議なイメージ画像が挿画だったので一種独特の彩りである。
 女戦士といっても、例えば挿画をリニューアルしてオタ人気とかを集める将来像というのはどうも想像できない。



コッロールの鬼面


 ♪コッコロール ♪コッコロール ♪コッロールは きょ・う・ふ♪ (明治チョコレートのテーマで)





 『コッロールの恐怖』はT&Tのシナリオのうち、近年の完全版(9版)用に、めでたく多数和訳されているうちのひとつで、T&T公式でも指折りの高レベル用・高危険度のシナリオである。見どころの多いシナリオだが、今回は残念ながらその内容についての話題ではない。
 数多くのデスマスク(本来の現実世界での意味の末期の面だけでなく、アンデッド愛用の仮面、といった意味あいが強いと思われる)が入手できる場面があるのだが、そのうちひとつ、ダンジョン主の吸血鬼ヴァクシュミが特に気に入っている仮面に、「オニの仮面」というものがある。そこに追記されている、「オニ」という語についての解説(原註)がかなりふるっている。


 GMへの解説:*オニ(鬼)は日本の民話に出てくる妖怪の一種です。広い意味でのデーモン、デヴィル、オーガーやトロールに含まれます。彼らは日本の美術、文学、映画ではお馴染みのキャラクターです。...
 ...このイメージは、「鉄のカナボーを装備したオニ」(鬼に金棒)という慣用句として表現されます。無敵もしくは打倒不能という意味です。これはまた、「強いものがさらに強くなる」といった意味、あるいは生来の素質が何らかの道具によって強化されたり補完されたりといった意味でも使われます。加えて言えば、手のつけられない強さ、無駄に強力といった意味もあります。


 なんという日本人でもすぐには出てこないほどの慣用句の把握と解説であろうか。オニ(オーガメイジ)はD&Dの方にも40年ほどの間出続けているのであるが、はたして日本文化におけるニュアンスをこれほど間近に提供できているであろうか。D&Dのオーガ・メイジ/オニもカナボーは持っておらず(1st, 2ndのMM1では主にナギナタ、3.Xeではグレートソード、4版では加えて一部個体がモーニングスター、5版ではミンスクの漫画でもおなじみグレイブ)D&Dでは得られないファンタジー文化を提供しているといえるが、仮面しか出ていないのに一体GMにカナボーの情報を提供する意味があるのだろうか。
 この「オニの仮面」が能の般若の面のたぐいか、あるいは節分でピーナツが売っているときに袋に一緒に入っているボール紙製のお面なのかは不明だが、このアンディ・R・ホルムズというデザイナーは中々要注意である。





スヴィン族とハシャク半神


 スヴィン族とはファイティングファンタジーのタイタン世界、『ソーサリー』シリーズに登場するカクハバードの民族で、全4巻長編シリーズの冒頭1巻の大詰めが、そのスヴィン族のトレパーニの村である。
 スヴィンは文中には「好戦的な人(マン)オーク」の一種とあるが、後出のマーク・ガスコイン著の『モンスター事典』によると、「人オーク」とはいわゆるハーフオークだが、直接の混血そのものなのか、(LotRのサルマンの半オークのウルクのように)混血によって新種族(世代)を形成しているかは定かではないものの、「隔絶された地域に集まって暮らしている」という記載からは両方いるように思われる。モンスター事典の記載では、マンオークは人間とオークの両方から常に苛烈な迫害・虐待を受けており、トレパーニもそれらから逃れるための集落という。
 ソーサリー1のクライマックスは、その村を襲った危機(表紙のものすごく嫌そうな顔をした化け物)と、ついでにその洞窟中の理不尽デストラップ連発(ヒントが貰えるルートはある)との対決であるが、作中でも主人公はそんな村の危機を「勇者」として進んで救うなどでは断じてなく、トレパーニの人々がとった行動も、それによる主人公の行動の動機や巻き込まれるまでの経緯も、かなり冴えないものである。単に村を通り抜けようとした主人公を、ふんじばって監禁したり腹を減らせた後に食いものを与える飴鞭扱いや、籠に閉じ込めて洞窟に放り込むなどで無理矢理に協力させようとする。しかも、自分から協力する選択肢を選ぼうとすると、地の文(作者、英ジャクソン)が「手に入るかもしれない富のことしか頭にないのか」なんぞと罵ってくるありさまである。
 (なお、後年のAFF2nd版のソーサリーシナリオでは、PCらが相当ひねくれた行動をとらない限りは、ゲームブックよりかなりまともな展開になる。)

 この挿画はその大詰のラスト、スヴィン族の村を襲った災厄から救った際に歓待される場面である。見よ、この醜悪きわまりない面々、その歓喜の笑顔を。『ソーサリー』の作中、ジョン・ブランシュ描くおぞましい化け物どもの笑みは、ほとんどが嘲笑や挑発だったり、奸計のための作り笑顔だったり、なお悪いものは洒落にならない凶刃のような悪ふざけに伴うものばかりである。対してこの、姿も見えない背後の小者が帽子を放り上げる姿から見て取れるのは、上記の化け物らの笑みに浮かぶ腹蔵などはない歓喜である。これほどまっすぐ歓喜と感謝が主人公に向けられる挿画は本作にはおよそ見当たらない。
 この笑顔のためだったのだ。この醜く矮小な虐げられた者たちの笑顔のために、英雄たちは猛悪なタイタンの荒涼とした大地を日々駆け回り、日々ページをめくるのだ。

 が、今回は実はその話ではない。上記の挿画でひときわ目立つのが、中央に描かれている一人のベルトのバックルにある「しかめ面」のような謎の意匠のシンボルである。状況から考えて、この人物は「トレパーニ村の酋長プロセウス」であると思われ、また上記画像のTitannica Wikiの説明でもそう書いてある。が、文中の「五色の衣をまとった白髪の老人」(創土社版)という説明とは、何ひとつとして一致していない。
 プロセウスのことはともかく、このバックルのシンボルは、各巻冒頭のカクハバードの地図のコンパスや、ページの余白に描かれている、いわゆる「暗黒の太陽」の意匠によく似ている(ゲームブックやソロアドには、挿絵以外にもパラグラフの余白に意味もなくおどろおどろしい図案が描かれていることがよくある。ソーサリーには他には禍々しい暗黒の月、毒蛇、怪鳥や刃こぼれした剣などがある)。暗黒の太陽は、真ん中に鬼の怪物じみたしかめ面があり、その八方に黒い放射状が伸びている、という何か不穏な図案であるが、このバックルは(全く同じではないが)その中央の怪物に何となく似ている。
 ここで、スヴィン族が「人オーク」であることから、あるいは酋長が身に着けているホーリーシンボルは、オークの神「ハシャク」の像であるかもしれない、と推測できる。ハシャクは様々な姿で描かれるが、『タイタン』によると主なものに「寸詰まりのヒルジャイアントのような姿」があることから、酋長のベルトや暗黒の太陽の図案に合致する。
 『タイタン』によるとオークやトロールの創造主であるハシャクは、大地の女神スロッフに仕える『半神』であるが、オークらには「創造者(The Creator)ハシャク」と呼ばれ、最上位の神、ひいては造物主であるかのように崇められている。
 タイタンの神々は、存在としては同じものが、土地や民族によってまったく違う姿や名前、性質で崇められている。ここから、あるいはスヴィン族やオークだけでなく、オークやトロールらがはびこる荒々しいカクハバードの地においては、ハシャクは「造物主」としてより広い信仰を集めており、さらには、各所に頻出し地図にまで用いられている「暗黒の太陽」のシンボルとは、カクハバードの地における強力な造物主としてのハシャクを示しているものではないかとも考えられる。

 ただし、(前記モンスター事典もそうだが)マーク・ガスコインのワールドガイド『タイタン』はかなり後出であり、スティーブ・ジャクソン(英)の『ソーサリー1』の内容がワールドガイドの方の設定を意識して書かれた可能性は低く、というか、おそらく挿画のジョン・ブランシュはこのスヴィン族の挿絵にせよ暗黒の太陽(よく似た"Sun Face"の図案は、ブランシュの他の画にも表れるようである)にせよ適当に描いただけで、設定などは特に関係ない可能性が非常に高い。なお、AFF2ndシナリオにも特にスヴィン族やプロセウス酋長らに関する追加の情報はない。
 また全般的に、タイタン世界の情報や作者らの意図の情報は(他のPnP-RPGに比べると)かなり拡散しており、FF/AFFなどの設定書物はもちろん、上記Titannicaなどにも集積されていない情報がかなりある。そのため、上記とはまるで別の情報がどこかに書かれているかもしれない。
 なので、これらはPnPゲーマーやガノタなどにありがちな、既にある設定や描写や像画や数値から背景をこじつけるという「お遊び」に過ぎず、本編設定に対する「解釈」などではないことは断っておく。





月に住む男 鈍重の巻


 通称『えっさかほいさの歌』は、マザー・グーズの詩の中でもしばしば代表作として、そしてナンセンス詩の数多くの中でも抜群に意味不明な詩として、文庫本の栞に書かれていたり、マザーグーズ詩集の冒頭に置かれていたりもする。元の詩は16世紀ごろの文献にすでに見られるが、細部はその後もかなり変遷を経ており、発祥が厳密にいつごろかは分かっていないらしい。

 知っての通り、『指輪物語』FotR内には、フロドがこれをもとにした詩を歌う場面がある。正体を隠してブリー郷を旅しているところ、躍る仔馬亭でピピンが口を滑らせそうになったため(何か対策した方がよい、と勧めたのはアラゴルンである)演説を始め、歌を請われたので突然歌いだしたのがこの詞である。ふざけすぎて指輪を使って怪しまれることになったため、余計事態が悪くなったと結局アラゴルンには咎められる。2001年の映画FotRでは歌う場面はなく、騒ぎで偶然指輪がはまったような描写に縮められている。

 作中ではこの詩はビルボの作ったものであり、後代(赤表紙本が編纂された第四紀以降か、メタ的な現代かは不明)には、「一部」が覚えられているにすぎないという。このマザーグーズより大幅に長くなったFotRの詩は、『トールキン小品集』に収録された際には”The Man in the Moon Stayed Up Too Late” 『月に住む男 鈍重の巻』と題されている。
 アルダ史として読解した場合、月に住む男とは、アルダ世界の月のマイアのティリオンかもしれないが、むしろ、テルペリオンの花が空に上げられる時にティリオンと共に上がったエルフの伝承についての構想(HoME1での名はウオレ・クヴィオン、『仔犬のローヴァーの冒険』等の月の男)に関連する、という説がある。一方で末尾の「日娘」はそのまま太陽のマイア、アリアンであるとされる。ビルボが作ったとすれば、これらの上のエルフの伝承を念頭に置いたものといえる。なおこれ自体の(月と日の船と半神のアルダ伝承の)地球の神話上の原型は、古いゲルマンの月神マーニと日女神ソールなどに遡れるが、日の男(ギリシアのパエトンなど)ほどありふれてはいないが、月の男の単独(直接はむしろ旧約聖書などに由来すると思われる)でもしばしば欧州伝には現れる。

 それはともかく、2012年の映画Hob.1作目では、なぜかボフールがこの歌(の冒頭部分とマザーグーズとの共通部分を含む1、2、9連)を歌う場面がある(公開版ではなく、ソフト版の追加場面)。裂け谷にて、エルフらの上品な音楽(と空気)に我慢できないドワーフらに対して、ボフールが台(映画FotRのエルロンドの会議で指輪が置いてあった台と同形であり、というかそのもの、つまりギムリが斧を叩きつけたあの台という説がある)に飛び乗り歌い始める。歌詞は上記FotR準拠だが、曲はボフール役のジェームズ・ネズビットがあの場で即興で作ったものらしい。
 飛び乗って即興で陽気な歌という状況がやや似ているので、この歌詞が選ばれたのだと思われるが、なぜボフールが知っていたのか、原作に沿うようなこじつけは中々難しい。

 バーリンと並んで、映画版ではボフールはビルボとは最も仲が良いため、ビルボが作ったこの詩をボフールがここの時点までに教わっていた、という可能性もないでもないが、時系列上はあまり有力ではないだろう。ビルボが「詩人」となったのはHob.の事件を一通り経験した後で、五軍の戦い後はともかくHob.1作目の時点では難しく、また上記エルフ伝承に通暁するようになったのはさらに後年のため、Hob.のこの時点ではビルボはこの詩を作っていない(詩自体が存在していない)というのがあくまで原作準拠では自然ということになるからである。
 なんとか考えられるのは、ビルボが作るよりもさらに原型となった歌がエリアドール(青の山脈の東)では以前から知られていた、という見方である。原作FotRの前記フロドの場面では、他の客らが調子を合わせることができたのは元から「みんなのよく知っている節回し」だったため、というくだりもある。細部はともかく、語調や一部の詞も共通した歌が存在していた可能性はある。邦訳の「(ビルボが)かれが自分で歌詞をこしらえたからでした。」は、原語では"he had made up the words himself."であり、このmade upを「作り上げた」でなく「仕上げた」のように読むこともできないでもない。
 『トールキン小品集』で鈍重の巻(書内の詩の通し番号で5番)の次に置かれている『月に住む男 軽薄の巻』(6番)は、末尾の『最後の船』(16番)と共に、「ゴンドール由来の伝承である」旨の説明がある。こちらの『鈍重の巻』の方は、FotRではビルボ作とはなっているのだが、同様にゴンドール由来であるか、歌詞内容の伝承に原型がある可能性がある。実際のところ、上記説明が訳の都合で曖昧になっているかは不明だが、上記Wikipedia(en)を含め海外サイトでは、ビルボ作詞であるはずの5番の『鈍重の巻』の方も「ゴンドールの歌」と説明している場合がある。月の男の伝承としてこれと同様に考えると、元々ヌメノールから伝わった上のエルフ伝承が原型である、という考え方もできる。
 こちらであれば、青の山脈で玩具職人・販売を生業としていたボフールが元から知っていた、あるいは、ビルボが酒場の歌として1、2、9連部分だけ独自にアレンジして歌っていたものを、ここまでにボフールがビルボから聞かされていた、くらいであれば有り得る可能性はある。




火吹山に混沌が蘇るとき(その1)


 21年7月に出るFFコレクションのうち、特に新規翻訳されるFF#50 Return to Firetop Mountainの情報を求めている人は多いと思われるが、残念ながら筆者が語れることは少ない。FFゲームブックの英本国のかなり複雑な刊行・著者事情にも明るいとはいえないし、また、日本のゲームブックでは(商業展開が止まったぶん)同人展開が思ったより活発であるようなのだが、その事情にも詳しくはない。
 火吹山や未訳FFの国内外での展開や設定については、グレイルクエストでおなじみの日向禅氏(かつて邦訳もされていたd20版の火吹山の監修も行っていた)や、当時のその掲示板で非常に興味深い話を多数聞いたのであるが、当時のPCのHDが故障したため、掲示板ログやメモした内容などがほとんど喪失してしまい、そこから吟味できるような情報もない。
 なので、以下は誰でも調べればわかるような事項のまとめでしかなく、もっと詳しい人には訂正補足事項も多いかもしれないが、覚書を兼ねて触れておく。

 日本ですら少なからぬ知名度を持つFF#1(火吹山の魔法使い)の続編のひとつ、FF#50 Return to Firetop Mountainには、同人誌などとして展開された私家訳が幾つか存在する。
 例えば、未訳FFを数多く訳しているスーパーゲームズワークショップによる『火吹山ふたたび』と、社会夢想社の『火吹山の魔法使い2』がある。
 また、2000年台半ばにいわゆるガラケー用のアプリとして、かつての創元や教養文庫では未訳だったものを含むゲームブックをアプリ化したものが多数配信された(当然和訳やアレンジも行われたと思われる)が、その中にFF#50, 54が入っているものがある。(ガラケーや携帯用アプリでは多数のゲームブックやソロシナリオのコンバートが存在しており、このシリーズ以外含めて何が出たかの詳細は、確実な調べはつかない。)
 冒頭のFFコレクションで、これらの先訳があるにもかかわらず、FF#50が「本邦初訳」とされているのは、同人版はいわゆるノーカン扱いなのと、アプリ版は「本」ではないのでこれもカウントされていないのかもしれない。また後述するが、アプリ版はアレンジされていて、原書通りではないということかもしれない。

 FF#50が同人版だけでも少なくとも2通り存在するというのは、名作FF#1の続編に対する日本のゲームブックファンの期待が相当に大きいものだったことがわかる。
 しかも、英本国では、『ウォーハンマー』等の優れたテーブルゲームや、90年台CRPGの躍進に押されて下火になっていたゲームブックにおいて、FF#50が「最後の作品」になる予定だったが、予想外に好調であったため、FFゲームブックがこの時点から#59までは続いた、という逸話もある。
 これらの逸話のためもあって、FF#50の内容には期待している日本のゲームブックファンはかなり多いと思われる。特に、名実ともに名作であるFF#1-2のみ等をプレイしているゲーマーであれば、ゲームとしても同等以上の出来を期待すると思われる。しかし、実際のところは、FF#50が内容的にも、またゲーム部分としてもこれらの期待に沿うものとは限らないと思われる。
 イアン・リビングストンのゲームブックは、後の作品になると難易度がインフレし、唐突な展開、苛烈なゲームバランスが目立ってくる。デストラップ選択肢、ランダム要素のみによるトラップの他、システム(数値)上の要素でも厳しいものが多い。敵のパラメータの厳しさ(技術点10-12の敵が容赦なく登場する等)、頻繁な運試しなどがしばしば見られる。そもそも早くも#6の『死のワナの地下迷宮』の時点で、極度にこれらの傾向に振られている。実は、英本国でFFシリーズ中でも飛びぬけて人気が高いのが#6であり、英本国で#50が好調だった、といっても、多分にそうした傾向を求める本国FFファンの間でのことである点は考慮すべきだろう。
 FF#50もおそらく例にもれず、(#1-2や『ソーサリー』なども決して易しくはなかったのに加えて)上記のような厳しさがある。おそらく、というのは、筆者も原書そのものはプレイしてはいないからである。前述の日向氏らによると、原書の方は明らかに未調整な部分や不備も多いため、邦訳版は多少なりとも調整されているが、原書が少なくともこれらの邦訳版より楽ということはないらしい。上記ガラケーに移植された際は(#1などもそうだが)オリジナルに近いバージョンと、難易度を中心に全面的にアレンジしたバージョンが併録されている。今回の上記コレクションのものは、(アプリ等とは異なる)初訳というからには、原書にできるだけ近いものを謳うのであろうが、全く調整なしになるのかはわからない。
 システム以外にも、ストーリーの非常におどろおどろしい空気も、FF#1とは相当に異なる。ネタバレ以外でも、日本語サイトでも少し調べれば、魔法使ザゴールは死体をかき集めて新しい肉体を作って復活しようとしている、といった闇の深いバックストーリーは知ることができると思われる。FFゲームブックでも後期では、同社の『ウォーハンマー』とも相互に関連する「混沌」の影響のような記述が多く(ただし「旧世界」といった共通する語の使われ方も、混沌の概念自体も、FFとWHでは全く同じではない)AFFの方のタイタン世界関連の書物を読んでいるTRPGの方のゲーマーであれば、後期ゲームブックのそれらの記述から感じ取れる点かもしれない。
 #50は#1よりかなり後年の設定で、基本的に主人公も別人である。一部見覚えのある火吹山のダンジョン光景なども登場するが、その部分もダンジョンのさわり程度でしかなく、火吹山内もほとんどは別物である。全面的に、#1と連続性のある「続編」を期待する向きには(そのようなアレンジが加えられないとすればだが)恐らく応えられないであろう。ただし、上記事情を全てひっくるめた背景を考慮して、かえってゲーマーとして興味深いものを感じる向きも多いと思われ、正規商品として翻訳される価値は大きいだろう。





BD&D「2版」(赤〜黒箱が2版ではない話)


 D&Dの新和版(赤〜黒箱)を「1版」「初版」等という誤解はいまだに非常によく見かけると思われるが、うってかわって、新和版をD&D「2版」と掲げている個人サイトやツイートもたまにある。
 それらは、「HJの3.Xeの前の版だから2版」なのだとよく考えずに普通に思ってしまった、といったものに過ぎない場合もあるが、中にはOD&D(1974)やAD&Dの存在を前提にした上で日本語版ウィキペディアの一部記述のように、OD&Dに次ぐ第二バージョンのBD&D(1977)と第三以降CD&Dをひとまとめに「D&D第2版」と説明している、すなわち、AD&Dと分離したBD&D第二から続く流れにあるため、「CD&DはすべてD&D2版のシリーズである」「新和版は『2版』である」という、非常に手の込んだ勘違いをしている場合もある。これらの主張は、(例えば新和版の第四とメディアワークス版の第五が小改編なのと同様)新和版を含むCD&Dが、BD&D第二から以後ほぼ同一システム又は小改編である、という前提のものである。

 しかし結論から言うと、BD&Dの第二バージョン(1977)は、CD&Dの第三(1981)以降とは完全に別物のシステムなので、第四(1983)の訳である新和版を「BD&D第二に近い・連続しているから2版」といった主張はまったく成り立たない。
 BD&D第二の時点では、比喩的な意味ではなく出版側の位置づけからも「AD&Dの入門」にすぎないことは、これまでにも当サイトでも言及しているほか、wikipedia(en)を含む多くのPnP史解説、他の然るべきサイトでも触れられているが、具体的に第二バージョンこと、ベーシックD&DのHolmes版(1977)の特徴について挙げていく。

 Holmes版のルール部は50ページたらずで、プレイヤーとDMの冊子が一緒になっている(なお、ボックスにはなぜかダンジョンの敵や財宝の生成表だけが別冊子になっている)。キャラクターレベル3lvまでしか対応していない。エキスパートルール、コンパニオンルールは第三バージョン以降、マスタールール、イモータルルールは第四バージョン以降にしか存在しない。(なので、青〜黒箱の要素を紹介しながら「D&D初版・2版ではこうなっていた」というよくある紹介は、実は全く成立していない。)
 第二バージョンでエキスパートルールがないなら4lv以後のキャラクターlvはどうなっていたかというと、先ほどAD&D入門用と言ったように、「ここから後はAD&Dをやれ」と繰り返し明記されている。CD&Dが第三になって以降も、海外プレイヤーら多くの間では、導入部の後は皆AD&Dに移る(恐らくAD&Dで最初からやりなおす)、事実上は単なる入門用として機能していたが、第二は建前ではなく、本当にAD&Dの入門兼低lv部ルールという位置づけだったのである。
 以下、「BD&D第二」の特徴を冒頭から順次列記していく。BD&Dといった場合はこのHolmes版の第二、CD&Dといった場合は第三以降である。


種族とクラスは分離されている。ただし、ドワーフとハーフリングはFighting Man、エルフはFighting Man/Magic Userのマルチクラスにしか就くことはできない。結果的に各種族でできることは新和版と同じと思うかもしれないが、正確には、種族とクラスの分離を明記されていることを含めて「OD&Dと同じ」である。ドワーフやエルフに独自の経験テーブルなどは存在せず、要するに独立した「クラス」としては存在しない。例えばAD&D同様、エルフの経験値はFighting ManとMUに分割されて入る。
アライメントは「秩序-混沌」だけでなく「善-悪」軸の計9種類が存在する。モンスターリストのアライメントの欄も全て9種類で書かれている。AD&Dの低lv部の意図であるから当然ともいえるが、第二の時点ではBD&D、AD&Dで共通であった。
 ともあれ、長きにわたって定番であった「元祖である新和D&Dの頃は、種族とクラス、善悪と秩序混沌はまだ分離されていなかった」という主張と、「新和版は2版」という上記の主張をあわせて行うと、ものの見事に自己矛盾を起こすことになるだろう。
・能力値テーブルはCD&Dのように一律「13以上で+1ボーナス」とはなっていない。Conが「15以上で+1」など能力値によって異なる。
・マジックユーザーはAD&D同様、Int値によって、呪文を習得できる確率、習得可能数に制限がある。CD&Dどころか3e以降にもない要素である。CRPGバルダーズゲートなどで、AD&D特有の顕著な特徴(厳しさ)として覚えている人が多いと思われる。
日本語版ウィキペディア(冒頭の誤解とは別の記事)にもBD&D第二の(第三以降のCD&Dと異なる)特徴として言及されている点として、呪文にはAD&D同様、「触媒(物質構成要素)」が必要である。ただし、AD&Dのように呪文リストのひとつひとつに物質構成要素が記載されているわけではない。呪文説明の概要冒頭部分に「例えばスリープの呪文には一握りの砂のような材料が必要であろう」といった例示があるのみである。つまり、(AD&Dでも以後の版でも)音声・動作が必要であっても、具体的にどんな言葉や動きをするかは何もルール的な特定はないのと同様、「何かの材料」というだけで、具体的な特定はほとんどないのである。無論、物質構成要素が必要と明記されている以上は、取り出せなかったり装備を奪われていたりして明らかに使用できない状況では、呪文を発動することはできないという意味と思われる。
・もうひとつ日本語版ウィキペディアにBD&D第二の特徴として、複数回攻撃ができる、という記載があるが、これはAD&D同様に武器によってはラウンドあたりの攻撃回数が異なっているものであり、いわゆる高レベルのマルチアタック(3.Xeのものや、CD&D第四の緑箱のコンバットオプションのもの)とは異なる。こんな煩雑なルールがある一方で、武器ダメージは一律1d6であり、武器ごとのダメージテーブルはAD&Dに全て丸投げされている。
・呪文リストは3lvキャラまでが使える範囲でもCD&Dよりも遥かに多く、ダンシングライト、レイオブエンフィーブルメントのようなAD&Dの方にしかない呪文が多い。3lvまでのキャラが使用できない高呪文レベルのリストもなぜかあり、これもAD&D同様の呪文が並ぶ。
・パリイのようなコンバットオプションはAD&D同様、どのようなキャラでも使用できる。(CD&Dでは騎士に準じた訓練を行ったキャラしか使用できない。)
・ドラゴンはクロマティックに混ざってなぜか「ブラス」ドラゴンが載っている。(CD&Dでは金属のドラゴンはゴールドしかない。)例によって「残りのデータはAD&Dを読め」としか書いていない。
・モンスターリストはかなり数が少ないが、個々のデスクリプション(例えば持っている可能性のある武器の内訳など)はAD&D同様でかなり詳しいものがある(これらはCD&Dでは全く記載がない)。CD&Dでは黒箱まで天使悪魔神性類は基本的に居ない(イモータル関連になっている)が、BD&D第二では"Demon"などがアライメントの説明等に普通に出てくる。
・その他、「(表が突然途中でぶっちぎれて)この表のここから先はAD&Dに載っている」「このリストの続きはAD&Dを参照」「(項目名だけ挙げて)内容の説明はAD&Dを参照」「さらなる追加事項はAD&Dを参照」「神や悪魔のデータはAD&Dのこれこれの本を参照」「続きはコマーシャルの後にAD&Dで(本当に最後にTSR出版物の宣伝が延々並んでいる)」などと、下手をすると1ページに数回に至るほど書いてある。OD&DがChainmailのサブルール扱いで、しじゅう参照していたのにもよく似ている。


 BD&D第二の記述の多くは「AD&Dの入門である」ことが繰り返されており、建前上はそういう位置づけであるらしい。しかし、データ上は「AD&Dの入門部分を抜粋した」というよりは、「OD&Dを基本として拡張し、AD&Dとの中間的にした」ものに近い。例えば、上記のように、FighterはOD&Dから引き続きFighting Man(ヒットダイスは1d8で、AD&Dや3.Xe以降のFighterの1d10ではない)となっており、数値バランスも共通している。(ただし、ところどころAD&Dの抜粋部分などにFighterと書いてある。細かいことだがBD&D第二ではFighting Manの3lvの称号はCD&DのSword Masterではなく、AD&DのSwordsmanである。)
 なので、かなり困ったことに、このBD&Dで繰り返されている推奨通りに、実際に4lv以降キャラをAD&Dに移そうとしても、そのまま使えないところが多い。例えば、AD&Dの有名なエクセプショナル・ストレングス(戦士系のStrで18が出たらd%して1-100をうしろに追加し、さらなるボーナスを付加)はこのBD&D第二には無い。このBD&Dには、AD&Dや3.Xe以降のように高能力値で開始したり、CD&Dの「長所以外の能力値を2下げて長所を1上げて18まで持っていく」といった選択は載っておらず、本当に3d6の直振りなので、18は自然ダイスでは滅多に出現することはなく、したがってエクセプショナルを振る可能性は低いとして省かれたのかもしれない。(というかAD&Dに移った時点で、つまり4lvになったときにエクセプショナル修正を後からくっつけた方がバランス上は良いような気がする。)かといって、もちろんBD&DとCD&D(OD&Dを逆に「縮小」する方向で、かつ根本部分から完全に再編したものである)の方には整合性などそれ以上にない。


 結局のところHolmes版のBD&D第二とは何なのかというと、OD&Dをいちから整理かつ拡張してAD&Dが作られた一方、高度なウォーゲームとしても運用されるAD&Dに対して、入門部分を準備しようとして作られたが、はたしてかつてのOD&Dに近いものを使うのか、なおかつAD&Dとの整合性をどのように取るのか、煮え切らない状態のまま出版されたように見える。
 結局、半端に両方と整合性を保とうとした中間のようなBD&D第二は、やがて捨て去られ、OD&DともAD&DともBD&D第二とも整合性のない、再度完全に一新された縮小版のCD&D第三が作られた、という結果になったわけである。

 BD&D第二とCD&D第三はバージョン番号こそ続いているが、こういった位置づけにある第二なので、第三以降(新和版含む)との連続性はOD&DやAD&Dと新和版以上に無い。
 そのため、「CD&D第四の新和版は(OD&DやAD&D以上に)BD&D第二に近いので『2版』だ」という主張、つまり、「3.Xeより前の版番号だったり、1977年で古いから、2版である新和版は元祖に近い」といった目論見等は不可能である。



ビオ略とはつまりどういう意味なのか


 一体何なのかというのもFAQであるが、当初のサイト名の『ビオラインの謡』とは、日本ファルコム(旧)のドラゴンスレイヤー(DS)シリーズのサイトとして立ちあげたためのタイトルである。ビオラインとは、無論のことドラゴンスレイヤー1のボスキャラのドラゴンである(コンシューマ版や以後の設定には明記されていることがあるが、当時は設定は存在せず、使用されているのはDS2のザナドゥの関連設定書や同時期のDS1ゲームブックである。それらの資料の英語綴りとは異なる)。が、DSの話題は最初の半年で飽きてしまい、以後DSコンテンツは放置していた。

 この話はこれでおしまい、と言いたいところなのだが、ところが、なぜかその当時の記事の箇所にリンクを張って、「DS8の頃に公式で、DS1〜8を強固に結合する設定が作られていた」等と言及している(当の記事に違うと明記してあったにも関わらず)他所サイトがあり、以後、2021年現在に至るまで、いまだに月に数件くらいずつ、その他所サイトからのアクセスが流入してくる。流入してきたその箇所に説明を貼っておこうかと思うくらいなのだが、もっと説明しろなどと言われるともっと面倒だし、そんな義理も意欲もないためそのままである。







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