SF/FT雑記




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月に住む男 鈍重の巻


 通称『えっさかほいさの歌』は、マザー・グーズの詩の中でもしばしば代表作として、そしてナンセンス詩の数多くの中でも抜群に意味不明な詩として、文庫本の栞に書かれていたり、マザーグーズ詩集の冒頭に置かれていたりもする。元の詩は16世紀ごろの文献にすでに見られるが、細部はその後もかなり変遷を経ており、発祥が厳密にいつごろかは分かっていないらしい。

 知っての通り、『指輪物語』FotR内には、フロドがこれをもとにした詩を歌う場面がある。正体を隠してブリー郷を旅しているところ、躍る仔馬亭でピピンが口を滑らせそうになったため(何か対策した方がよい、と勧めたのはアラゴルンである)演説を始め、歌を請われたので突然歌いだしたのがこの詞である。ふざけすぎて指輪を使って怪しまれることになったため、余計事態が悪くなったと結局アラゴルンには咎められる。2001年の映画FotRでは歌う場面はなく、騒ぎで偶然指輪がはまったような描写に縮められている。

 作中ではこの詩はビルボの作ったものであり、後代(赤表紙本が編纂された第四紀以降か、メタ的な現代かは不明)には、「一部」が覚えられているにすぎないという。このマザーグーズより大幅に長くなったFotRの詩は、『トールキン小品集』に収録された際には”The Man in the Moon Stayed Up Too Late” 『月に住む男 鈍重の巻』と題されている。
 アルダ史として読解した場合、月に住む男とは、アルダ世界の月のマイアのティリオンかもしれないが、むしろ、テルペリオンの花が空に上げられる時にティリオンと共に上がったエルフの伝承についての構想(HoME1での名はウオレ・クヴィオン、『仔犬のローヴァーの冒険』等の月の男)に関連する、という説がある。一方で末尾の「日娘」はそのまま太陽のマイア、アリアンであるとされる。ビルボが作ったとすれば、これらの上のエルフの伝承を念頭に置いたものといえる。なおこれ自体の(月と日の船と半神のアルダ伝承の)地球の神話上の原型は、古いゲルマンの月神マーニと日女神ソールなどに遡れるが、日の男(ギリシアのパエトンなど)ほどありふれてはいないが、月の男の単独(直接はむしろ旧約聖書などに由来すると思われる)でもしばしば欧州伝には現れる。

 それはともかく、2012年の映画Hob.1作目では、なぜかボフールがこの歌(の冒頭部分とマザーグーズとの共通部分を含む1、2、9連)を歌う場面がある(公開版ではなく、ソフト版の追加場面)。裂け谷にて、エルフらの上品な音楽(と空気)に我慢できないドワーフらに対して、ボフールが台(映画FotRのエルロンドの会議で指輪が置いてあった台と同形であり、というかそのもの、つまりギムリが斧を叩きつけたあの台という説がある)に飛び乗り歌い始める。歌詞は上記FotR準拠だが、曲はボフール役のジェームズ・ネズビットがあの場で即興で作ったものらしい。
 飛び乗って即興で陽気な歌という状況がやや似ているので、この歌詞が選ばれたのだと思われるが、なぜボフールが知っていたのか、原作に沿うようなこじつけは中々難しい。

 バーリンと並んで、映画版ではボフールはビルボとは最も仲が良いため、ビルボが作ったこの詩をボフールがここの時点までに教わっていた、という可能性もないでもないが、時系列上はあまり有力ではないだろう。ビルボが「詩人」となったのはHob.の事件を一通り経験した後で、五軍の戦い後はともかくHob.1作目の時点では難しく、また上記エルフ伝承に通暁するようになったのはさらに後年のため、Hob.のこの時点ではビルボはこの詩を作っていない(詩自体が存在していない)というのがあくまで原作準拠では自然ということになるからである。
 なんとか考えられるのは、ビルボが作るよりもさらに原型となった歌がエリアドール(青の山脈の東)では以前から知られていた、という見方である。原作FotRの前記フロドの場面では、他の客らが調子を合わせることができたのは元から「みんなのよく知っている節回し」だったため、というくだりもある。細部はともかく、語調や一部の詞も共通した歌が存在していた可能性はある。邦訳の「(ビルボが)かれが自分で歌詞をこしらえたからでした。」は、原語では"he had made up the words himself."であり、このmade upを「作り上げた」でなく「仕上げた」のように読むこともできないでもない。
 『トールキン小品集』で鈍重の巻(書内の詩の通し番号で5番)の次に置かれている『月に住む男 軽薄の巻』(6番)は、末尾の『最後の船』(16番)と共に、「ゴンドール由来の伝承である」旨の説明がある。こちらの『鈍重の巻』の方は、FotRではビルボ作とはなっているのだが、同様にゴンドール由来であるか、歌詞内容の伝承に原型がある可能性がある。実際のところ、上記説明が訳の都合で曖昧になっているかは不明だが、上記Wikipedia(en)を含め海外サイトでは、ビルボ作詞であるはずの5番の『鈍重の巻』の方も「ゴンドールの歌」と説明している場合がある。月の男の伝承としてこれと同様に考えると、元々ヌメノールから伝わった上のエルフ伝承が原型である、という考え方もできる。
 こちらであれば、青の山脈で玩具職人・販売を生業としていたボフールが元から知っていた、あるいは、ビルボが酒場の歌として1、2、9連部分だけ独自にアレンジして歌っていたものを、ここまでにボフールがビルボから聞かされていた、くらいであれば有り得る可能性はある。




火吹山に混沌が蘇るとき(その1)


 21年7月に出るFFコレクションのうち、特に新規翻訳されるFF#50 Return to Firetop Mountainの情報を求めている人は多いと思われるが、残念ながら筆者が語れることは少ない。FFゲームブックの英本国のかなり複雑な刊行・著者事情にも明るいとはいえないし、また、日本のゲームブックでは(商業展開が止まったぶん)同人展開が思ったより活発であるようなのだが、その事情にも詳しくはない。
 火吹山や未訳FFの国内外での展開や設定については、グレイルクエストでおなじみの日向禅氏(かつて邦訳もされていたd20版の火吹山の監修も行っていた)や、当時のその掲示板で非常に興味深い話を多数聞いたのであるが、当時のPCのHDが故障したため、掲示板ログやメモした内容などがほとんど喪失してしまい、そこから吟味できるような情報もない。
 なので、以下は誰でも調べればわかるような事項のまとめでしかなく、もっと詳しい人には訂正補足事項も多いかもしれないが、覚書を兼ねて触れておく。

 日本ですら少なからぬ知名度を持つFF#1(火吹山の魔法使い)の続編のひとつ、FF#50 Return to Firetop Mountainには、同人誌などとして展開された私家訳が幾つか存在する。
 例えば、未訳FFを数多く訳しているスーパーゲームズワークショップによる『火吹山ふたたび』と、社会夢想社の『火吹山の魔法使い2』がある。
 また、2000年台半ばにいわゆるガラケー用のアプリとして、かつての創元や教養文庫では未訳だったものを含むゲームブックをアプリ化したものが多数配信された(当然和訳やアレンジも行われたと思われる)が、その中にFF#50, 54が入っているものがある。(ガラケーや携帯用アプリでは多数のゲームブックやソロシナリオのコンバートが存在しており、このシリーズ以外含めて何が出たかの詳細は、確実な調べはつかない。)
 冒頭のFFコレクションで、これらの先訳があるにもかかわらず、FF#50が「本邦初訳」とされているのは、同人版はいわゆるノーカン扱いなのと、アプリ版は「本」ではないのでこれもカウントされていないのかもしれない。また後述するが、アプリ版はアレンジされていて、原書通りではないということかもしれない。

 FF#50が同人版だけでも少なくとも2通り存在するというのは、名作FF#1の続編に対する日本のゲームブックファンの期待が相当に大きいものだったことがわかる。
 しかも、英本国では、『ウォーハンマー』等の優れたテーブルゲームや、90年台CRPGの躍進に押されて下火になっていたゲームブックにおいて、FF#50が「最後の作品」になる予定だったが、予想外に好調であったため、FFゲームブックがこの時点から#59までは続いた、という逸話もある。
 これらの逸話のためもあって、FF#50の内容には期待している日本のゲームブックファンはかなり多いと思われる。特に、名実ともに名作であるFF#1-2のみ等をプレイしているゲーマーであれば、ゲームとしても同等以上の出来を期待すると思われる。しかし、実際のところは、FF#50が内容的にも、またゲーム部分としてもこれらの期待に沿うものとは限らないと思われる。
 イアン・リビングストンのゲームブックは、後の作品になると難易度がインフレし、唐突な展開、苛烈なゲームバランスが目立ってくる。デストラップ選択肢、ランダム要素のみによるトラップの他、システム(数値)上の要素でも厳しいものが多い。敵のパラメータの厳しさ(技術点10-12の敵が容赦なく登場する等)、頻繁な運試しなどがしばしば見られる。そもそも早くも#6の『死のワナの地下迷宮』の時点で、極度にこれらの傾向に振られている。実は、英本国でFFシリーズ中でも飛びぬけて人気が高いのが#6であり、英本国で#50が好調だった、といっても、多分にそうした傾向を求める本国FFファンの間でのことである点は考慮すべきだろう。
 FF#50もおそらく例にもれず、(#1-2や『ソーサリー』なども決して易しくはなかったのに加えて)上記のような厳しさがある。おそらく、というのは、筆者も原書そのものはプレイしてはいないからである。前述の日向氏らによると、原書の方は明らかに未調整な部分や不備も多いため、邦訳版は多少なりとも調整されているが、原書が少なくともこれらの邦訳版より楽ということはないらしい。上記ガラケーに移植された際は(#1などもそうだが)オリジナルに近いバージョンと、難易度を中心に全面的にアレンジしたバージョンが併録されている。今回の上記コレクションのものは、(アプリ等とは異なる)初訳というからには、原書にできるだけ近いものを謳うのであろうが、全く調整なしになるのかはわからない。
 システム以外にも、ストーリーの非常におどろおどろしい空気も、FF#1とは相当に異なる。ネタバレ以外でも、日本語サイトでも少し調べれば、魔法使ザゴールは死体をかき集めて新しい肉体を作って復活しようとしている、といった闇の深いバックストーリーは知ることができると思われる。FFゲームブックでも後期では、同社の『ウォーハンマー』とも相互に関連する「混沌」の影響のような記述が多く(ただし「旧世界」といった共通する語の使われ方も、混沌の概念自体も、FFとWHでは全く同じではない)AFFの方のタイタン世界関連の書物を読んでいるTRPGの方のゲーマーであれば、後期ゲームブックのそれらの記述から感じ取れる点かもしれない。
 #50は#1よりかなり後年の設定で、基本的に主人公も別人である。一部見覚えのある火吹山のダンジョン光景なども登場するが、その部分もダンジョンのさわり程度でしかなく、火吹山内もほとんどは別物である。全面的に、#1と連続性のある「続編」を期待する向きには(そのようなアレンジが加えられないとすればだが)恐らく応えられないであろう。ただし、上記事情を全てひっくるめた背景を考慮して、かえってゲーマーとして興味深いものを感じる向きも多いと思われ、正規商品として翻訳される価値は大きいだろう。





BD&D「2版」(赤〜黒箱が2版ではない話)


 D&Dの新和版(赤〜黒箱)を「1版」「初版」等という誤解はいまだに非常によく見かけると思われるが、うってかわって、新和版をD&D「2版」と掲げている個人サイトやツイートもたまにある。
 それらは、「HJの3.Xeの前の版だから2版」なのだとよく考えずに普通に思ってしまった、といったものに過ぎない場合もあるが、中にはOD&D(1974)やAD&Dの存在を前提にした上で日本語版ウィキペディアの一部記述のように、OD&Dに次ぐ第二バージョンのBD&D(1977)と第三以降CD&Dをひとまとめに「D&D第2版」と説明している、すなわち、AD&Dと分離したBD&D第二から続く流れにあるため、「CD&DはすべてD&D2版のシリーズである」「新和版は『2版』である」という、非常に手の込んだ勘違いをしている場合もある。これらの主張は、(例えば新和版の第四とメディアワークス版の第五が小改編なのと同様)新和版を含むCD&Dが、BD&D第二から以後ほぼ同一システム又は小改編である、という前提のものである。

 しかし結論から言うと、BD&Dの第二バージョン(1977)は、CD&Dの第三(1981)以降とは完全に別物のシステムなので、第四(1983)の訳である新和版を「BD&D第二に近い・連続しているから2版」といった主張はまったく成り立たない。
 BD&D第二の時点では、比喩的な意味ではなく出版側の位置づけからも「AD&Dの入門」にすぎないことは、これまでにも当サイトでも言及しているほか、wikipedia(en)を含む多くのPnP史解説、他の然るべきサイトでも触れられているが、具体的に第二バージョンこと、ベーシックD&DのHolmes版(1977)の特徴について挙げていく。

 Holmes版のルール部は50ページたらずで、プレイヤーとDMの冊子が一緒になっている(なお、ボックスにはなぜかダンジョンの敵や財宝の生成表だけが別冊子になっている)。キャラクターレベル3lvまでしか対応していない。エキスパートルール、コンパニオンルールは第三バージョン以降、マスタールール、イモータルルールは第四バージョン以降にしか存在しない。(なので、青〜黒箱の要素を紹介しながら「D&D初版・2版ではこうなっていた」というよくある紹介は、実は全く成立していない。)
 第二バージョンでエキスパートルールがないなら4lv以後のキャラクターlvはどうなっていたかというと、先ほどAD&D入門用と言ったように、「ここから後はAD&Dをやれ」と繰り返し明記されている。CD&Dが第三になって以降も、海外プレイヤーら多くの間では、導入部の後は皆AD&Dに移る(恐らくAD&Dで最初からやりなおす)、事実上は単なる入門用として機能していたが、第二は建前ではなく、本当にAD&Dの入門兼低lv部ルールという位置づけだったのである。
 以下、「BD&D第二」の特徴を冒頭から順次列記していく。BD&Dといった場合はこのHolmes版の第二、CD&Dといった場合は第三以降である。


種族とクラスは分離されている。ただし、ドワーフとハーフリングはFighting Man、エルフはFighting Man/Magic Userのマルチクラスにしか就くことはできない。結果的に各種族でできることは新和版と同じと思うかもしれないが、正確には、種族とクラスの分離を明記されていることを含めて「OD&Dと同じ」である。ドワーフやエルフに独自の経験テーブルなどは存在せず、要するに独立した「クラス」としては存在しない。例えばAD&D同様、エルフの経験値はFighting ManとMUに分割されて入る。
アライメントは「秩序-混沌」だけでなく「善-悪」軸の計9種類が存在する。モンスターリストのアライメントの欄も全て9種類で書かれている。AD&Dの低lv部の意図であるから当然ともいえるが、第二の時点ではBD&D、AD&Dで共通であった。
 ともあれ、長きにわたって定番であった「元祖である新和D&Dの頃は、種族とクラス、善悪と秩序混沌はまだ分離されていなかった」という主張と、「新和版は2版」という上記の主張をあわせて行うと、ものの見事に自己矛盾を起こすことになるだろう。
・能力値テーブルはCD&Dのように一律「13以上で+1ボーナス」とはなっていない。Conが「15以上で+1」など能力値によって異なる。
・マジックユーザーはAD&D同様、Int値によって、呪文を習得できる確率、習得可能数に制限がある。CD&Dどころか3e以降にもない要素である。CRPGバルダーズゲートなどで、AD&D特有の顕著な特徴(厳しさ)として覚えている人が多いと思われる。
日本語版ウィキペディア(冒頭の誤解とは別の記事)にもBD&D第二の(第三以降のCD&Dと異なる)特徴として言及されている点として、呪文にはAD&D同様、「触媒(物質構成要素)」が必要である。ただし、AD&Dのように呪文リストのひとつひとつに物質構成要素が記載されているわけではない。呪文説明の概要冒頭部分に「例えばスリープの呪文には一握りの砂のような材料が必要であろう」といった例示があるのみである。つまり、(AD&Dでも以後の版でも)音声・動作が必要であっても、具体的にどんな言葉や動きをするかは何もルール的な特定はないのと同様、「何かの材料」というだけで、具体的な特定はほとんどないのである。無論、物質構成要素が必要と明記されている以上は、取り出せなかったり装備を奪われていたりして明らかに使用できない状況では、呪文を発動することはできないという意味と思われる。
・もうひとつ日本語版ウィキペディアにBD&D第二の特徴として、複数回攻撃ができる、という記載があるが、これはAD&D同様に武器によってはラウンドあたりの攻撃回数が異なっているものであり、いわゆる高レベルのマルチアタック(3.Xeのものや、CD&D第四の緑箱のコンバットオプションのもの)とは異なる。こんな煩雑なルールがある一方で、武器ダメージは一律1d6であり、武器ごとのダメージテーブルはAD&Dに全て丸投げされている。
・呪文リストは3lvキャラまでが使える範囲でもCD&Dよりも遥かに多く、ダンシングライト、レイオブエンフィーブルメントのようなAD&Dの方にしかない呪文が多い。3lvまでのキャラが使用できない高呪文レベルのリストもなぜかあり、これもAD&D同様の呪文が並ぶ。
・パリイのようなコンバットオプションはAD&D同様、どのようなキャラでも使用できる。(CD&Dでは騎士に準じた訓練を行ったキャラしか使用できない。)
・ドラゴンはクロマティックに混ざってなぜか「ブラス」ドラゴンが載っている。(CD&Dでは金属のドラゴンはゴールドしかない。)例によって「残りのデータはAD&Dを読め」としか書いていない。
・モンスターリストはかなり数が少ないが、個々のデスクリプション(例えば持っている可能性のある武器の内訳など)はAD&D同様でかなり詳しいものがある(これらはCD&Dでは全く記載がない)。CD&Dでは黒箱まで来訪者類は基本的に居ない(イモータル関連)が、BD&D第二では"Demon"などがアライメントの説明等に普通に出てくる。
・その他、「(表が突然途中でぶっちぎれて)この表のここから先はAD&Dに載っている」「このリストの続きはAD&Dを参照」「(項目名だけ挙げて)内容の説明はAD&Dを参照」「さらなる追加事項はAD&Dを参照」「神や悪魔のデータはAD&Dのこれこれの本を参照」「続きはコマーシャルの後にAD&Dで(本当に最後にTSR出版物の宣伝が延々並んでいる)」などと、下手をすると1ページに数回に至るほど書いてある。OD&DがChainmailのサブルール扱いで、しじゅう参照していたのにもよく似ている。


 BD&D第二の記述の多くは「AD&Dの入門である」ことが繰り返されており、建前上はそういう位置づけであるらしい。しかし、データ上は「AD&Dの入門部分を抜粋した」というよりは、「OD&Dを基本として拡張し、AD&Dとの中間的にした」ものに近い。例えば、上記のように、FighterはOD&Dから引き続きFighting Man(ヒットダイスは1d8)となっており、数値バランスも共通している。(ただし、ところどころAD&Dの抜粋部分などにFighterと書いてある。細かいことだがBD&D第二ではFighting Manの3lvの称号はCD&DのSword Masterではなく、AD&DのSwordsmanである。)
 なので、かなり困ったことに、このBD&Dで繰り返されている推奨通りに、実際に4lv以降キャラをAD&Dに移そうとしても、そのまま使えないところが多い。例えば、AD&Dの有名なエクセプショナル・ストレングス(戦士系のStrで18が出たらd%して1-100をうしろに追加し、さらなるボーナスを付加)はこのBD&D第二には無い。このBD&Dには、AD&Dや3.Xe以降のように高能力値で開始したり、CD&Dの「長所以外の能力値を2下げて長所を1上げて18まで持っていく」といった選択は載っておらず、本当に3d6の直振りなので、18は自然ダイスでは滅多に出現することはなく、したがってエクセプショナルを振る可能性は低いとして省かれたのかもしれない。(というかAD&Dに移った時点で、つまり4lvになったときにエクセプショナル修正を後からくっつけた方がバランス上は良いような気がする。)かといって、もちろんBD&DとCD&D(OD&Dを逆に「縮小」する方向で、かつ根本部分から完全に再編したものである)の方には整合性などそれ以上にない。


 結局のところHolmes版のBD&D第二とは何なのかというと、OD&Dをいちから整理かつ拡張してAD&Dが作られた一方、高度なウォーゲームとしても運用されるAD&Dに対して、入門部分を準備しようとして作られたが、はたしてかつてのOD&Dに近いものを使うのか、なおかつAD&Dとの整合性をどのように取るのか、煮え切らない状態のまま出版されたように見える。
 結局、半端に両方と整合性を保とうとした中間のようなBD&D第二は、やがて捨て去られ、OD&DともAD&DともBD&D第二とも整合性のない、再度完全に一新された縮小版のCD&D第三が作られた、という結果になったわけである。

 BD&D第二とCD&D第三はバージョン番号こそ続いているが、こういった位置づけにある第二なので、「CD&D第四の新和版が(OD&DやAD&D以上に)BD&D第二に近いので『2版』だ」という主張は(つまり、3.Xeより前の版番号だったり、1977年で古いから新和版は元祖に近い、といった目論見等は)不可能である。



ビオ略とはつまりどういう意味なのか


 一体何なのかというのもFAQであるが、当初のサイト名の『ビオラインの謡』とは、日本ファルコム(旧)のドラゴンスレイヤー(DS)シリーズのサイトとして立ちあげたためのタイトルである。ビオラインとは、無論のことドラゴンスレイヤー1のボスキャラのドラゴンである(コンシューマ版や以後の設定には明記されていることがあるが、当時は設定は存在せず、使用されているのはDS2のザナドゥの関連設定書や同時期のDS1ゲームブックである。それらの資料の英語綴りとは異なる)。が、DSの話題は最初の半年で飽きてしまい、以後DSコンテンツは放置していた。

 この話はこれでおしまい、と言いたいところなのだが、ところが、なぜかその当時の記事の箇所にリンクを張って、「DS8の頃に公式で、DS1〜8を強固に結合する設定が作られていた」等と言及している(当の記事に違うと明記してあったにも関わらず)他所サイトがあり、以後、2021年現在に至るまで、いまだに月に数件くらいずつ、その他所サイトからのアクセスが流入してくる。流入してきたその箇所に説明を貼っておこうかと思うくらいなのだが、もっと説明しろなどと言われるともっと面倒だし、そんな義理も意欲もないためそのままである。







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