SF/FT雑記




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ガチムチラズリム


 非常に重大なことにも関わらず、一度も言及していなかったことに気付いた。
 以前も述べたが、指輪物語(LotR)やホビット(Hob.)映画でトールキンが知られるにつれ、映画エルフにも影響しているシルマリルリオン(Sil.)の「ガチムチで好戦的(凶暴)なエルダール」の描写を根拠に、『この最強種族が弱体化されてRPGのエルフになった』とかいう説が、巷には妙に急速に広まっている。
 ひいては、赤箱D&D(CD&D)のエルフがSil.描写に忠実な最強チート種族兼職業だったとか、それらの最強エルフに比べた弱体化エルフは「日本のロードス島戦記TRPGが発祥」だの「Wizardryが初であることは間違いない」だとかいう、FT/RPGの理解を妨げるという意味では非常に悪質なデマまでもが広まっていたりする。


 いわゆるRPGエルフ、他種族と一長一短で差別化され魔法職に適正があるといった位置づけは、最初のTRPGであるOD&D白箱から見られる。(OD&Dの時点で職業と分離された種族であり、エルフが「種族兼職業の魔法戦士」に統合されているCD&D(赤箱等)は遥かに後出である。)この種族としてのエルフの特性は、直後のT&Tでも同様に踏襲されている。
 そして、OD&D(1974年)はもちろん、T&T(75年)の時点でも、シルマリルリオン(77年)は刊行されていない。つまり、RPGのエルフはSil.のエルフを原型としたものではなく、時系列上、RPGエルフの発祥には、巷で噂のガチムチ最強エルフの描写は元から一切関与していない。


 OD&Dのエルフの直接の原型はLotR(こちらは、74年の時点で既にFTの不文律と化している)のものであり、おそらくは、ロスロリアンのガラズリムである。一行の旅の過程で詳細に記述されている、重要かつ人間とは異質なエルフの文化であり、木の上に家を建てたり、弓矢や森の中に溶け込む衣装を使ったりする。
 無論、ガラズリムでさえも注意して読めば人間より全てにおいて優れた種族であることはたやすく読み取れるが、牧歌的で優雅なその姿は、Sil.のあからさまにガチムチで凶暴なイメージとはほど遠い。ガラズリムからならば、OD&DやAD&D1stの種族エルフへの連続性を想像することはかなり容易である。ただし、このエルフにも、ガラズリムでなくレゴラス(シンダール)や、(おそらくはD&D側の調査不足のために)中途半端にギルドール(ノルドール)が入っている節もあるので一概には言えない。
 なお、そのレゴラスも、LotR原作での戦闘能力はギムリと大差はない(むしろ、撃墜スコアはギムリの方が激戦に追い込まれたためとはいえ高いことや、束教授がレゴラスの戦果が最も少なかったと言っていることからギムリの方が強力な可能性もある)。個人と種族生来のどちらに依るにせよ、エルフがドワーフに肉体的に劣らないとはいえ大きく引き離すという描写もない。映画LotRの強力無比なレゴラスは、原作よりもSil.の上のエルフの側面を誇張したものにすぎない。

 OD&Dエルフは戦士(fightingman)4レベル・魔法使(Magic-User)8レベルまで、さらにマルチクラスになれる。ただし、このマルチクラスは、冒険(1探索)ごとにどちらのクラスとして冒険するか切り替え可というもので、後のAD&D/3eのマルチクラスやCD&Dの魔法戦士とは全く異なる(強いて言えば後のAD&Dのデュアルクラスの成長途上に近い)ものである。Ftr4/MU8というとかなりレベルが低いように見えるかもしれないが、ドワーフでFtr6、ホビットでFtr4であり、人間も各クラス10レベルまでしか記載されていない(一応それ以後も上げることはできるのだが、あまり高レベルは現実的なものとして想定されていないと思われる)ので、MU8は低い値ではない(ドワーフやホビットは魔法使自体になれない)。実質上デフォルト(ThiefやPaladinが追加される)のサプリメントGreyhawk(76年)で、さらに高レベルまで上昇でき、クラスの選択肢も増える。

 OD&Dエルフの時点で睡眠などの各種の魔法耐性のルールはすでにあるが、種族による能力値差(のちのAD&D1stのCon-1, Dex+1のようなもの)は無い。つまり、クラスレベルや特殊能力はともかく能力値上は、肉体能力で劣るといった形はまだできていない。この面でも、ガラズリムとの乖離は以後ほどは大きくない。上記のGreyhawkの時点で、high elves、wood elves、meadow elves/fairiesといったサブ種族の名前は登場する。(上記のサブ種族の能力差などもさらにサポートされていくのはAD&Dである。)
 Sil.とほぼ同時期のAD&D1stでは、上記の耐久力に劣る能力値、さらなる魔法適正、弓矢への適性などが追加される。他のTRPGや、海外のCRPG全般のベースになっているのはこの状態である。このAD&Dや他のTRPGが、日本製のRPGに輸入されたものが、ようやく「弱体化された日本のエルフ」のベースである。
 Sil.やHoMEと比べて虚弱なエルフは、段階的に海外TRPGのエルフから存在しているもので、日本に輸入されていきなり弱体化したわけではない。

 一方、遥かにのちのD&D4版では、Sil.のそれほど強大ではないにせよトールキンのエルダールの神々しさを引き継ぐ種族は「エラドリン」として取り入れられており(これはAD&D2nd〜D&D3eでは半神的というかセレスチャルの一種であった)、レゴラスのような強力な戦闘マシーン(AD&Dではwood elves)が普通の「エルフ」となっている。その中間の、かつてのガラズリム的なRPGエルフとは現在はどちらも異なるものとなっている。
 このような種族(特に人気のあるエルフやエラドリン等)のキャラクター像は刻々と変化していくものである(ただし、3eや4版については、かつてすべての規範となっていたAD&D1stや2ndと比べて、安易に映画やゲームの流行りに影響される傾向があると批判する人もいる)。しかし、少なくとも、発祥した時点の「海外のTRPGのエルフ」はSil.やHoMEの影響を受けていない(時系列的に受けることができない)、屈強さとは全く縁のない存在だった。





影のエルフ


 「肌の黒いダークエルフはD&D起源ですか」という質問に対して、いきなり「D&Dにはそんなものいません」と、CD&Dのミスタラ世界設定なんぞの話を始める。しかも自分の言いたいことだけ言ったあとは、完全に投げやりに「日本のものはたぶん『ロードス島戦記』」などと指輪読者とは信じられないほどの投げっぱなしの結論。


 いまどき単に「D&D」と言われた時に、現在普及している3eや4版でなく、大昔の絶版のCD&D(赤箱〜黒箱)、おまけにミスタラ世界設定限定を指すとかありえない話だとか、「最初のTRPG」と「CRPGの典拠」の位置にはそのCD&DではなくそれぞれOD&DとAD&D1stがある、とか何とかいう話をするよりも以前に、どうやら、「日本以外ではCD&D(赤箱〜黒箱、ミスタラ)もwizardryも相当後出かつ『非常にマイナーな存在』でしかなく、FTやRPG史にはほとんど何の影響も与えていない」という事実がまず徹底的に浸透しないことには日本のFT全体どうしようもないという気がしてきた。



オカマ言葉


 某つるっぱげアニメ監督の台詞回しには、怒ると女言葉になる男が多いことで知られている。「〜なのよ!?」「〜でしょ!!」「〜じゃないの!」「〜なの!」等である。個人的には、これらの文面を見てどうも思い浮かぶのは故・鈴置氏(ブライト)や矢尾氏(ジュドー等)のことに男らしいあの声色であるが、御禿本人の語録にも多い。

 が、これらは、怒っている時だけでなく、落ち着いて反駁する際の台詞にもよく現れる。セイラさんに愚痴のようにブツブツと反駁するアムロなどの台詞などがその例である。
 ここから考えられるのは、もしかすると、興奮して我を失ったり地(何の地かは不明だが)が出ているといった表現というよりも、これらはむしろ、逆ではないかと思われるのである。
 すなわち、これらのキャラの台詞が、登場人物に対して、あるいは御禿自身が言葉をかけている相手に対して、御禿が思い切り辛辣な罵倒や反駁を行いたい衝動にかられるところ、あまりにも「乱暴」になりすぎないよう、わざと柔らかくするために女言葉のような語尾をくっつけているのではないか、とも思える節がある。視聴者や作内キャラに対していわゆる重度のツンデレキャラと言われるつるっぱげ監督の性情をかんがみると、どうもそう思えてならない。





勇者とタンス


 DQ等で勇者がタンスを漁ったりできるのは、単に初期DQが低年齢にも目を向けたRPGそのものへの入門編でもあるので、子供のイタズラくらいは看過する遊び心、と片づけてしまってもいい。しかし、もう少し何かを強いて説明しろ、と言われれば、それはDQ1の直接間接のベースでもある初期『ウルティマ』の影響である。

 その根源にあるのは、それらの「自由度の高さ」である。Ul1,2では、窃盗どころか、王様を焼殺することも、一般人を抹殺することもできる。DQ1や2をプレイした海外ゲーマーは、民家や城から窃盗ができることを咎めるどころか、王様や村人を殺せない、その中途半端さに心底呆れかえったそうである。Ul1,2等ではそういった行動でも特にペナルティーがないどころか、手段を選ばない方がクリアはしやすい。

 海外FTでは、物語のヒーローが「勇者」であるとは限らない、というより、むしろそういうのは少ない。アラゴルンのような高潔な野伏兼聖騎士もいる一方で、RPGのじかの原型であるヒロイックFTからしてREハワード、ヴァンスやライバーのような悪漢であり、以後はムアコックのようなダークヒーローの方が優勢であるほどである。ヒロイックFT自体が元から、ピカレスクの影響が強い。結果的には巨悪を倒したり人々を救う役割を務める者だとしても、実に様々なタイプの主人公がいる。
 すなわち、初期Ulをはじめとする多くの海外RPGがこれほどに自由度が高いのは、善行でも悪事でも行動の自由を与えることで、上記のうち「どんなタイプの主人公になるか」が、プレイヤーに「委ねられて」いるのである(※1)。

 もっと噛み砕くと、これらのゲームでタンスや城の宝箱がプレイヤーに解放されているのは、それがそのゲーム世界内では「(勇者なら)漁っていいものとして当然に許されている」わけではない。それは「窃盗」であり、誰が行おうが「悪事」であるという、社会のモラルは確かにそのゲーム世界内にも存在していると考えるしかない。なぜならば、解放されたタンスや宝箱は、(Ul同様だと考えれば)それを奪うか奪わないかの選択を通じて、モラルを守るか守らないかの選択、すなわち、どんなタイプの主人公になるかの自由度を、プレイヤーに与えるために存在しているからである。
 DQに戻ると、主人公が窃盗という悪事を行うようなピカレスクなのか、もとい、勇者がタンスを覗くような悪戯少年なのか、それとも利発(その歳で既に社会モラルを把握しているほど)で堅物な少年なのか、その選択が、プレイヤーにゆだねられているのである。
 プレイヤーが「試されている」と言ってもいい。


 少なくとも、解放されたタンスや宝箱に対して、
「世界を救ってもらえるなら家財を勝手に持ち出されたり女を奪われても誰も文句は言わない軟弱なモラルしか存在しない世界」
「魔王と自力で戦おうともしない市民や国家は勝手に財産を奪われて当然」
「勇者様は世界を救うためなら何をやっても許される」
「強いヤツは何をしてもいい」
 といった解釈でしか受け取ることができないプレイヤーは、その試験に挑む前から落伍している。別にDQでタンスを漁るたび考えろとかいうことではなく、あらゆる「ファンタジー世界」というものに対して、こういうプレイヤー中心視点かつ狭窄な捉え方以外が一切できないことは、いわゆる「最強厨」に通じるものだが、最強厨が世でどんな扱いを受けるかを思い出せば落伍者と呼ぶに相応と言うしかない。

 無論、こういったことを考慮しているゲーマーや製作者やJRPGも存在する。しかし、上述のような最強厨を少なからず量産する結果になった、その他に何かやりようはなかったのだろうか。


※1 そして、この初期Ulの自由度そのものが巨大な伏線でもあったかのように、Ul4ではその自由度の中で「相応しい行動」をとらないとゲームの目的である聖者にはなれないばかりか、何が相応しい行動なのかも何もかも自分で見つけ出さなくてはならない。8bitマシンのちっぽけな処理能力の中に繰り広げる世界にしてからに、すでにこの時点で発想のスケールが違いすぎる。





CD&Dエルフと魔法戦士


 昨今のひ弱な魔法戦士(特にDQ2サマル、3以降のFFの赤魔など)に対して、「昔のD&D(赤箱等)のエルフ」が「魔法も使えて前線でも戦える万能系」だった、というのはよく喧伝される。


 しかし、実際のところCD&D(赤箱〜黒箱)のエルフについては、魔法も武器防具も使えるのは確かだが、「前線で戦える」というのは語弊がある。CD&Dのエルフクラスは、最序盤はクレリックと同程度のヒットポイントと武装を有するので、盗賊や魔法使よりは目立って強靭であるが、ヒットダイスが低く、しかも成長が著しく遅れ(※1)数レベル上がると存外に脆弱さが目立ってくるので、前衛(壁)として戦い続けるのは必ずしも得策ではない。さらには、限界レベルが10で止まり、最終的に最大でも魔法使と同程度のヒットポイントにしかならない(これは緑箱に留意点として明記されている)ので、中レベル以降は非常に虚弱である(※2)。
 また、ダメージ等により集中を乱し、詠唱中の呪文をロストするという要素はCD&Dにも存在する(※3)ので、よく魔法戦士(むしろ魔法剣士)としてイメージされるように、壁を務めつつ剣と魔法を自在に使い分けながら戦うというのはほぼ不可能である。
 『クロちゃんのD&Dがよくわかる本』にも、エルフはできるだけ弓を持つよう書いてあるが、魔法を使わないラウンドもあくまで後列から攻撃(なお、レベルは上がらないが、技能等の戦闘能力はかなり強力に上がり続ける)というのが合理的である。

 こう言うと「D&Dエルフはプレートメイルとか完全武装だった(※4)」という昔の話題(現在のエルフやディードリット像からかけ離れている最初のロードスリプレイの山本ピロシディードなど)ために屈強であったというキャライメージが引き合いに出されるのだが、後列だろうがなんだろうが完全武装ができるならするというのは、CD&Dではアタリマエであり、キャライメージとかは特に関係ない。生存率を高めるためなら何でもしなくてはならない。そうしないと確実に(しても頻繁に)死ぬ。


 こうしたわけで、CD&Dのエルフが剣と魔法を両立していた、というのは必ずしも正しい表現ではない。
 が、近年、トールキンのエルダールの屈強さがよく知られるようになったことで逆に、「最初のTRPGであるD&D(※5)の時点では、トールキンに準じた強力な種族兼クラスだった」「強すぎて誰もがエルフしか作らないようになったので弱体化された」「エルフの種族とクラスを分離して、魔法系の種族に弱体化したのはWizardryである」ひいては「エルフの弱体化は日本に輸入されてから作られたものである(参照:pixiv百科)」などという説すらも流れているらしい。
 どの時点で何が形成されたかの順番や事情を取り違えるのは、実情(というより、手っ取り早く言えば、大抵のものがとっくに形成されているOD&DとAD&D1stの存在とその内容)を知らなければ当然のことで、この手の混乱は日本でのファンタジー俗説では毎度のことであり、特に疑問にはあたらない。
 しかし、CD&Dのエルフがトールキンのエルダール級に屈強だったとかバランスブレイカーだったとかいう点に関してだけは、CD&Dを知っているならば余計に、何故どこから出てきたのかというのは大きく疑問が残る点である。上述のCD&Dの事情を知っていれば、他はともかくエルダール級などとはとても表現できないことは明白である。

 これに関しては、CD&Dについては実際はその内容を知らずに、ネット等に流れている断片的な情報を鵜呑みにしたか拡大解釈してしまっているのか、あるいは、実際のプレイ経験者の言葉にしても、赤箱等の最初期レベルのプレイ経験(またはルールの参照経験)しかなく、エルフの「恩恵」の部分だけが目立って見える極低レベル域だけしか経験のないプレイ感が流布されているのでは、等と推測するくらいしかない。
 例えば、赤箱の1−3レベルで互いに低レベル呪文だけ使っているうちは魔法使と同等、武装は戦士と同等、耐久力は聖職者と同等、等である。さらには、赤箱だけではデミヒューマンの限界レベルがあること自体が書いていないので、赤箱レベルしかプレイ経験のないプレイヤーは、限界レベルがわずか10であることを知らず、剣も魔法も専門職と遜色なくこのまま成長し続けると誤解し続けている可能性もある。また、カプコンD&Dのうち、第一作のタワーオブドゥームは主に10レベル前後(概ねデミヒューマンの限界レベル前後)の中レベルの冒険なので、このゲームのみの知識からデミヒューマンの限界レベルの不利を認識していない可能性なども充分考えられることである。おそらく、一定世代以下では、D&DについてカプコンD&Dでのみ知っている、というプレイヤーが相当数に上ることも考えられるからである……。



※1 これに対して、CD&Dエルフによく似ていると言われるAD&D2ndのwarlock(3.5eや4版のウォーロックとは完全に別物なので、間違っても「D&Dの」warlockだとか言わないこと)や3.5eのダスクブレードは、ヒットダイスこそ低いが成長自体は極度に遅れるわけではないので、専業には劣るとはいえさほど極端には脆弱ではない。また、AD&Dのfighter/MU(wizard)マルチクラスは、経験値テーブルが極端にシングルクラスから遅れないようにうまく作られているため、大きく成長が取り残されることはない。つまり、CD&DエルフがAD&D系の魔法戦士よりさらに劣る点も多々ある。

※2 無論、魔法の能力も10レベルで止まる。サイクロペディア(CD&Dの第五バージョン)やミスタラ世界設定用の特殊ルールには、もっとレベルを上げるルールや戦士か魔法使のどちらかに転職するルール等もあるが、赤箱等(第四バージョン)の箱内の範疇ではない。

※3 これはAD&Dの方ではかなり重要であり、デュアルクラスであれマルチクラスであれ、AD&Dの魔法戦士を非現実的にしている要因である。
 しかし、CD&Dの方では、複雑で理解しにくいルールであるにも関わらず、あまり説明が費やされておらず(実例も挙げられず)書いてある場所が分かりにくいためなのか、CD&Dではこのルール自体を完全に失念して運営されていた卓も多かったらしい。あるいは、これがCD&Dのエルフがお構いなしに前線で戦う魔法戦士として使われ、その強さに関する風説の流布に影響しているのかもしれない。なお、※1で述べたAD&Dの魔法戦士クラス、warlockやbladesingerは、こうした前線での精神集中に関する(これらクラスが恐れられる要因である)特殊能力がある。

※4 上述のAD&D/3e系魔法戦士系やマルチクラスは、いずれも装備、特に防具に若干〜著しく制限があるのに対して、CD&Dエルフが「防具制限が全くなかった」というのは、CD&Dエルフの語り草のひとつである。しかし、AD&D1stではマルチクラスのエルフにも基本的に防具制限は無く(人間のデュアルクラスにはある)、AD&D2ndでもエルブンチェイン(エルフが着用するに限り呪文詠唱を阻害しないチェインメイル)を着用できるため、これを入手できる中レベル以降は、プレートメイルで完全武装できることとは大騒ぎするほどの差があるわけではない。

※5 毎回のことなので本当にくどいようだが、ここで話題になっている「D&D(赤箱等)」が「最初のTRPG」だというのも、この型の種族兼クラスのエルフが「TRPGにおける最初のエルフの形」というのも、いずれも誤りである。手っ取り早く言えば、本当の「最初のTRPG」であるOD&D(白箱)での「種族」エルフは、職業とは分離されており、魔法適正があり、結局のところAD&Dの方に近い形である。といってもかなり細部に差があるのだが、どのみち虚弱だったことには違いない。





なぜエロゲの類でオークが凌辱してエルフが凌辱される役なのか


 FT種族からその役割を持ってくるとき、両者のビジュアルを見ればごく当然というか自然の発想であって、特に明確な理由などは必要ないように思われる。骨が動いていたら誰も原理(Negative Material Planeからのチャネルとか)を説明できないのに「スケルトンとはそういうものだ」と納得してそれ以上誰一人突っ込まないのと同様に、エルフとオークとエロゲがあったら特に理由を説明する必要はないのではないか。
 しかし、日本エルフの方はほとんど出始め(80年代)からそんなような位置だったのに対して、オークの方がそんな位置になったのは、漫画バスタードの人間を襲うオークなどの描写あたりが出所ではないか、という説が出ることがある。

 ただし、漫画バスタード(少なくとも該当の描写があるJC10巻代前半まで)の基本世界設定はAD&Dであり(しかも、ドルイド呪文を使う吟遊詩人などAD&D1st特定である)この漫画のうんちく欄にも実際に書いてあることではあるが、AD&Dのオークはあらゆる種族と交配可能であるが、エルフだけは不可能である。


 As orcs will breed with anything, there are any number of unsavory mongrels with orcish blood, particularly orc-goblins, orc-hobgoblins, and orc-humans. Orcs cannot cross-breed with elves.
(Gary Gygax, Advanced Dungeons & Dragons (1st Edition) MONSTER MANUAL, 1977)


 また、オークは他の種族を捕えると、すべて奴隷にし、「拷問等を含めた娯楽」に用いることも記載されているが、エルフだけは決してそうせずに必ず即座に殺す、とあり、凌辱に用いることは一切考えられないことが読み取れる。
 そういったわけで、RPG全般の直接的原型(引用元)であるAD&Dにおいて、オークはエルフ以外は人間でもマインドフレアでもビホノレダーでも襲おうとするかもしれないが、「エルフだけは」明確に決して凌辱することはなく、それどころかオークの側から関係を忌避するという、いわゆるエロゲとは真逆の結論となる。

 AD&Dのこの設定が何故なのか、背景的な推察は*band用語集の方にもいくつか述べたが、デザイナーの発想上のことを言うと、要はLotRの描写から考えてオーク側から見てもエルフは忌避の対象である。トールキンのエルダールは半神的であり、オークはしばしばエルダールの言葉や創造物だけからもダメージを受ける。いわば、オークにとってはエルフは「猛毒の塊」のように見え、接触やまして交配を望むことはおそらく想定できない。無論、AD&D1stのエルフはそこまでの力などはまるで持っていないが(エルダールに近い4版のエラドリンや、(ウッド)エルフよりも遥かに貧弱である)安易にLotRと似たような世界設定の描写そのものを持ってこられるようにという、ただそれだけではないかと思われる。
 世界設定上でいえば、エルフだけが他のヒューマノイド、ひいては他の主物質界のクリーチャーとも根本的に「異質な生命」を持つ(AD&Dではhpを削られただけで絶対死、すなわち死を通り越して灰やロストの段階に及ぶ)ことに関係しているともいえる。
 なお、D&D3eのMonster Manualにはオークとエルフは仇敵である(見かけると攻撃する)とは書いてあるが、上述の交配については特に書かれていない。4版のMMにはそれらの記載もない。

 ただし、海外RPGでもAD&D同様の図式だけしか存在しないというわけでもない。例えば、T&Tの最重要NPCである女帝レロトラーはエルフとオークの混血である。といっても、設定上混血が可能というだけで、混血が強力な女帝になるという預言を成就するためにオークの魔術師がやむなく謀ったという背景であり、やはりオークが好き好んでエルフを襲うわけではない。
 海外RPGのこういった設定については、日本で意識されるのとは大幅に異なる欧米の人種・混血問題が背景にありそうだが、それについては今回は特に言及しない。
 要するに、いかにも複雑な背景のありそうな交配・交配しないAD&Dの設定を、バスタードを含めた古い世界設定が参照し、それをさらに後出作が中途半端に参照した結果、唯一オークがピンポイントで襲わないはずの設定であったエルフだけがピンポイントで襲われる、という図式が出来上がったという言い方もできる。が、最初に述べたように、別に(エルダールではない方の)エルフからは、そうなっても特に驚くようなことでもない。


 ちなみに、「オークが他種族を好き好んで襲うならオーク同士の交配が減って絶滅する」という反論があるらしいのだが、たまたま人間の目の前に現れたgkbrを潰しただけでgkbrが絶滅するわけがないのと同様、オークがエルフ(または、オークとなんでもそれ以外の種族)を襲う例を1組見かけたらオーク同士は30組はいると思っておくべきであろう。





リリパット小人


 google検索来訪者

  -  "小人の国や巨人の国、そして言葉を話す馬の国などを巡ったおとぎ話の人物は?"



 ちょっと待て、そのクイズの答えは「質問をまるごと検索」しないとわからないようなことなのか?

 とはいえ、その話の「原作」ではなく、「おとぎ話」としての場合、小人国(リリパット)しか内容に含まれていないこともかなり多く(経済学の格言としての使用法もそうである)、小人国に行った人物、とだけ質問されれば誰でもわかるところ、下手に巨人国(ブロブディンナグ)や馬人国(フウィヌム)まで入っている質問なので、かえって答えがわかりにくくなっている、というのも、大いにあり得る話である。「知識のムラ」というのはいかにも不思議である。

 ちなみにリリパット以外の国は、原作では内容の上でもおとぎ話として適切とは言い難いのだが、ラピュタやバルニバービは筆舌に尽くしがたいほどもっと酷いので、リリパットのほか、ぎりぎりブロブディンナグとフウィヌムだけはおとぎ話らしく書き換えた上で入っている絵本、というのは結構存在している。







 引っ越す時に置いてきてしまったつるっぱげ監督の小説を買いなおそうと思うのだが、大きなガンダムコーナーが設けてある書店はあっても、「Vガンダムの小説版」を新品で置いてある本屋というのはどこにもない。Vガンダムの小説版がそんなに重要なのかと思うかもしれないが、ゴトラタンの機体色がカテ公のとある部位の色だとか有名なネットスラング化したフレーズを含みガノタには充分に重要な存在のはずである。だがどこにも置いていない。古いアニメージュ文庫のガンダム物すら置いてある本屋にも関わらずである。いったい、御禿小説が『エルピー計画』よりも読まれないとでもいうのだろうか。
 まあ読まれないかもしれんね。





ラトビア語版ホビット


 ビルボの髪型が非常にとんでもないことになっている。

 ドワーフはどう見てもガーデンノームである。エルフには羽根が生えている。

 しかし実にいい。ワーグライダーとかスランドゥイルとか。



黒き剣の呪い


 影の隠密集団 〜 闇討ち

 ↓ 井辻訳

 影の隠密集団 〜 闇ウホ


 影で隠密に集団で一体何をやっているのだという対象の変更まで起こってしまうあたりがまさしくかの女の同人女マジック





ガンダーラ


 槙村ただしという人の名前は知らなくとも、このサイトの訪問者なら、その関与した作品には実際は何度か触れたことはあると思われる。ダイナミックプロ出身の漫画家(つまり、永井豪系の絵柄)なのだが、80年代レトロPCソフトの、エニックス等のキャラデザに非常に古くからかかわっていた。マリちゃん危機一髪とかエルドラド伝奇(お色気ゲーム、といっても今の基準ではピンとこないようなレベルであろう)とかではプログラム自体も手掛けている。
 80年代も後半に入った頃、この氏が小学館のポプコム誌で、エニックスで発売予定だったARPG『ガンダーラ』の攻略漫画(コミカライズ等ではなく、ゲーム進行とマニュアルを一緒にやるといった説明漫画で、当時はFCソフトなどでも雑誌などによく載っていた)を連載しており、槇村氏本人、エニックスの営業スタッフ、ポプコム編集部員、ひいてはゲームミュージックの巨匠・すぎやまこういち(すでにこの頃にも、ゲーム以外の歌謡等全般で巨匠である)までもが登場して縦横に活躍した。これのおかげで筆者には毎度、あの偉大なすぎやま氏の名を聞いても仏陀の戦士スギコールが頭をよぎらずにはいられない。
 ポプコム誌はこの『ガンダーラ』を、3大RPGシリーズ(wiz/Ul/MnMやのちのDQFF等では無論ない。ここでは、当時の国産PCの、ハイドライド、ドラゴンスレイヤー、夢幻の心臓の3シリーズである)に拮抗するほどのスケールの大作、などと紹介していたこともあった。このポプコム誌のあまりの大言壮語がすぎる賞賛も、あながちタイアップの宣伝というばかりでもなかったのかもしれない。『ガンダーラ』のオリエンタルRPGのシナリオや、すぎやまこういちのオーディオ、ビジュアル(それらしく仏教美術的)などは、すでに一般受けするAVG/RPGをお家芸として確立していた当時のエニックスの、いかにもな力の入れようであった。
 しかし、完成してみると、このゲームそのものは非常に厳しいものであった。処理速度がきわめて遅かったのである。これはARPGとしては、単純なただひとつの理由だがそれ以外はどうでもいいのだというくらいに致命的である。例えば、アクションゲームは動きが遅いことがしばしば独特にプレイ感となり、また当時の非アクション・非リアルタイムRPGでは、速度・操作性の劣悪さは必ずしも致命的ではない(というか、そもそもGUI以前の当時、PC用非AのRPGでは、操作性がまともな代物自体が稀であった)。しかし、ARPGというジャンル自体が直接的・直観的操作が可能なことを売りとして勃興し、RPGにつきものの作業を作業と感じさせない(あるいは作業が癖になってしまうような)爽快さが売りである以上は、動作が鈍重であることはそれだけでも致命的だったのである。





Roguelike今昔物語 〜 新ジャンル『トルネコ(声:池田秀一)』


トルネコ「不思議のダンジョンとは、常に二手三手先を読んで行うものだ」

トルネコ「チャンスは最大限に生かす。それが私の主義だ」

トルネコ「ダンジョンは非情さ。それくらいのことは考えてある」

トルネコ「ちぃっ! 気に入らんな!」

トルネコ「私もよくよく運のない男だな」

トルネコ「アイテムのツモの違いが戦力の決定的差でないことを教えてやる!」

トルネコ「一撃で……一撃でHP1か!? あの爆弾岩はマーニャ並の火力を持っているのか!?」

トルネコ「まだだ! まだ終わらんよ!」

トルネコ「*勝利*の栄光を、君に!」

トルネコ「死にたくなければ、自分(プレイヤー)のミスをなくせ」

トルネコ「これで勝てねば貴様(プレイヤー)は無能だ」

*「(力尽きても所持金を持って帰れる)鉄の金庫を持ってはいただけませんか?」
トルネコ「私はダンジョンに潜っても必ず帰ってくる主義だ。死にたくない一心でな。だから鉄の金庫などは持たないのだよ」

トルネコ「ポポロは賢いな」

トルネコ「私はネネの商才を愛しているだけだ」

トルネコ「私はシレンと違って風来人だけやっているわけにはいかん」

トルネコ「月影村でのラブロマンスか。お坊ちゃんらしいよ、シレン」

トルネコ「シレン、君は(厨設定とは無縁の)いい風来人であったが、君の叔父上がいけないのだよ……」

トルネコ「皮下脂肪がなければ即死だった」



Roguelike今昔物語 〜 一巡した世界II

 以前、オヤジ戦車とかで爆死したスララが、魔蝕虫らと違って旅をやりなおすと平然と復活しているのは、単に視界からぶっとばされただけだとか、王大人が死亡確認しただけで、実際は死体も確認されていないし別に死んでいなかっただけ、という見解を述べた。トルネコもシレン(かれらはレベルこそ1に戻るが)もイヅナも、何度力尽きてもダンジョンからぶっとばされるだけで、本当に死ぬわけではない(ディアボロは本当に何度でも死ぬが)。
 しかし、よくよく考えてみたら、スララにぴーたんの肉をぶつけて死体も残さず食っちまった後でも次の旅では平然と復活してくるよね……なんだろうねこの幼女……ディアボロか……





「ドレインなんて信じられない」の話


 最初に断っておくが、今回の話の流れは即死攻撃のときの話と完全に同じである。なので、どんな話か予想できる人は読み飛ばしてもべつに構わない。
 RPGの特殊攻撃の中でも最も苛烈といわれるのがレベル又は蓄積能力の低下攻撃である。これはWizardryのレベルドレインが有名で、その前後やいわゆる初期PCのRPGには同様の攻撃を持つものが珍しくない(※1)。しかし、後代の、DQやFFやその流れをくむJRPGの大半では、苛烈すぎるためか、実装されていないことが大半である。同様のアンデッド等の攻撃を、BRP以降のTRPGの一部に見られるように「MPを(一時的に)吸い取る」「その他の能力値を一時的に低下させる」といったそれらしい攻撃に差し替えている場合もある。
 当然、レベル低下攻撃の存在するゲームのプレイ経験のないJRPGプレイヤー、ひいてはレベル蓄積そのものを究極的目的化するに至ったMMO廃人などは、wizのドレイン攻撃の話を最初に聞いた際にはしばしば「信じがたい要素」「正気の沙汰ではない」という感想を発する。
 これに対して、wizフリークを中心とするオールドゲーマーからは例によって、


 「ドレインの連発はRPGの原点であるWizardryから続く由緒正しいものであり、この程度が我慢できないのはヌルゲーマー」


 という話が出る。
 しかし無論のこと、wizはRPGの原点どころか、そのシステムの大半はAD&D1st(毎度くどいようだが間違ってもただの「D&D」とか言わないこと)の丸写しである。*band用語集の方でも述べたことがあると思うが、AD&Dのエナジードレイン(「レベルドレイン」はwizのdrained XX levelの表示から一人歩きした俗称であり、正式なシステムの名称ではない)は負物質界(ネガティブ・マテリアル・プレイン)の負の生命エネルギーで活動する一定規模以上のアンデッド等が、通常の生命エネルギーと干渉して起こる現象であるが、AD&Dには負物質界のようなアザープレインの干渉を遮断する防御呪文の類が揃っており、そもそもエナジードレインを行うような生物自体からの防御を行い、または事前に探知する呪文、技能類やアイテムの類が莫大に存在する。
 さらに、AD&DだけでなくCD&D(緑箱)にすらも、エナジードレインされた分の経験を回復する呪文が存在し、NPC等により、または高レベルになれば自力でエナジードレインは治すことができる。D&D3e以降は、負物質界の干渉によるレベル低下は「負のレベル」(レベルへのダメージのようなもの)として定義され、回復はさらに容易となっている。
 これらの対策もなしに高レベルキャンペーンとかいうのは、生命力保持も地獄耐性もなしに鉄獄の40階より下に潜るとか、というよりも、もはや通常打撃で死の大鎌を振り回しながらサーペントに突進するとかいうようなものである。


 もうわかったと思うが、AD&Dの時点で存在した探知・対抗・治癒呪文等の対策がwizでは無造作に削られている時点で、初期wizのドレイン攻撃のバランス(ドレイン攻撃が出始めた頃ならともかくその後数十レベルになっても延々と何の対策もないのが当然という状況)は完全に破綻したものである。なぜ削られたかといえば、AD&Dから呪文やシステム等を全部再現しようと思ったらApple][どころかいくらメモリや処理能力があっても足りな(以下略)
 さらに、ドレインによるダメージは低レベルにおいては比較的軽微であり、AD&DはおろかCD&Dですらも、そこから高レベルになればなるほどその回復は容易となっていく。しかし、これに対してwizでは防御手段(手裏剣、テレポート呪文のバグを利用する等)が非常に限られ、回復手段が存在しない上に、高レベルになればなるほど大量の経験を恒久的に喪失し、しかも3レベル4レベルと莫大な経験を奪う敵が出現することで、進めば進むほど一方的に被害は甚大なものとなっていく(※2)。
 これを「独自のバランス」と主張しても別にかまわないが、少なくともwizが依拠・選択しているAD&D1stのレベル上昇構造や攻防のシステムバランスから見れば、疑いようもなく破綻したものである。


 つまり、「元祖であるwizでこうだったのだから絶対に正しいバランス」などではなく、それは「元祖であるAD&Dから、wizが破綻させ、以後そのままになっているバランス」であり、由緒正しくもなんともない。
 こんなものを元祖として主張されたり他のゲームにまで押し付けられたらたまったものではないだろう。



※1 実はレベル低下型のエナジードレインと、それがwiz同様に恒久的であるというシステムをかなり後代のゲームでも採用しているひとつが、他でもないRogueとその直系のRoguelikeである。おそらくは*band用語集の方で詳しく述べることになるが、初代Rogueでは(元祖UNIX版とローグ・クローンともに)レベルを恒久的に低下させる敵が登場するが、初代Rogueを非常に愚直に丸写ししている初代『トルネコの大冒険』でも同様である(キャラモチーフ上の原作であるDQ本編のどろにんぎょうは「ふしぎなおどりでMPを下げる」のだが、このゲームではトルネコが原作ともどもMPを有さないためか、レベルを下げるという大変にえんがちょな攻撃となっている)。そればかりか、トルネコ以後の日本のRLのスタンダードであるSFC版初代『風来シレン』ですらも同様(くねくね系列の敵やアイテム)である。
 これはおそらく、初代RogueやシレンのようなRLが「レベルの価値が他のRPGに比べて非常に低い」(死亡であれ生還であれ、原則的にレベル1に戻り、1回の冒険内での価値しかない)ことに関連しているのだろう。

※2 これに関しては、一部の評者は、10階に到達した時点では、ゲーム「進行」よりもロストやドレインによる「後退」のスピードが早くなることもあるwizの13レベル以上について、バランスが悪い、と断った上で、このレベルでゲームを終了させるための意図的な苛烈さではないか、と考察する。初代Rogueの深層のように、ある程度進んでしまったら、そのままクリアするか、過剰攻撃力にやられて程なく死亡するかのどちらかを意図的に狙っている、というのである(Rogue及びRLのこの深層のバランスについては別の機会に述べる)。これに関しては、筆者としては意図的ではなく単なる偶然ではないかと思うが、せいぜい13レベル前後までのプレイが想定内であることは確かに思われる。





Roguelike今昔物語 〜 DND -> Telengard


 wikipedia(en) - Telengard


 オールドゲーマーならば『テレンガード』という名を目にしたことがある者は少なくないのではないか。日本にも「アヴァロンヒルシリーズ」といって、AH社(現存せず、もっぱら卓上ゲームブランドとして有名だと思われる)のApple][用ゲームを日本のFM-7等に移植していたPCゲームのシリーズがあった。(なお、この日本語移植版のタイトルはテレンガードだが、あるいはTelengardはシンダリン読みでテレンガルドとでも読むべきなのかもしれない。)
 ちなみに、日本の移植版のテレンガードについて今のネットの評価を調べると、「絵が(当時としてさえも)あまりにもしょぼい・キャラが小さい上に出来が悪くて見づらい」「遅すぎる・操作性が悪い」「難易度が理不尽すぎる」「やりこんでみると実はかなり面白い」「徹底してバランス調整して操作性を改善すればRoguelikeの傑作やDiablo並の可能性を秘めている」等と、まさしく洋ゲーの毎度お約束フルコースな評価が出てくる。「この当時のRPGは、メモリの乏しさから小難しくしたり遅くしてプレイ時間を稼いでいた」などという(現代のレトロゲーム批評家がよく主張するような)事情などは別にありもせず、当時の特に洋ゲーは、こんなんが当たり前だったのである。ちょうどいい難易度のバランス調整などいくら頑張っても(時間もプレイヤーもノウハウも少なすぎて)誰もできなかったし、操作性を良くするなどそれ以上に頑張っても誰にもできなかった。


 このTelengardは、もともと1978年にコモドールのPET2001用にBASICで書かれていたものを、1982年にAH社が権利を買い取りApple][, コモドール64やIBM-PC等の他機種に移植していたものだが、さらに遡ると、1975-77年頃に研究所等のPLATOやPDP-10のような汎用機で多数開発されていた最初期CRPGのひとつ、DNDというゲームをPETに移植したものである。DNDはあからさまなその名から想像できるように、当時のD&D、すなわちOD&D白箱(1974年)を元にした最初期のCRPGであり、現に上述のTelengardの画面からわかるように、旧形式の能力値(Str/Int/Wis/Dex/Con/Chaという並び方を指す。Str/Dex/Con/Int/Wis/ChaのAD&D2nd以降とは区別できる)で3d6(3-18)のパラメータと、まさにD&D系そのものの各レベルの呪文リストが確認できる。
 何にせよ、DNDの時点ですでにCRPGにおけるOD&Dの探索・戦闘・呪文・アイテム等のフィーチャーについては網羅されている。同時期に汎用機で開発されていた最初期のOD&DベースのCRPGに、dnd(小文字だが、DNDよりやや先行するゲームである)やDungeon(75年)があり、後者はパーティープレイも導入している。これまでも頻繁に述べてきたが、「CRPGの元祖はwiz#1(81年)やUltima (Akalabeth)(79年)」などという主張は、「ランダムダンジョン物(RL)の元祖はトルネコ」とかいうのと全く同じレベルであり、まるで話にならない。なおdnd, DNDやDungeonは以後のあらゆるCRPG、オリジナルUNIX-Rogueやその系列作、avatar (EverQuestに連なるマルチユーザーRPG、すなわちネットRPGの原型)等の汎用機開発の最初期CRPGに影響を与えたものであり(DND, Telengardのはるかな直系がDiabloという言い方もされる)「wizは最初のRPGではないが、以後のCRPGに影響を与えたような存在としては最初」といった言い方すらも、結局のところまったくの不当である。
 しかし、おそらく、日本でテレンガードという名を耳にしたことがある少なからぬオールドゲーマー、さらには、実際にプレイしていたゲーマーのその大半すらも、Ul1やwiz#1よりもよほど由緒正しい「CRPGの元祖」の直系のゲームだとは夢にも知らずにプレイしていたのではないか。Telengardを改善すれば傑作RLやDiablo並に化ける、という評価があることを上に述べたが、まさにこのTelengard (DND)が超進化をとげたその結果こそが、RL系やDiablo系そのものなのである……。


 やや話はそれるが、RoguelikeとレトロCRPG界には、いわゆる「Rogue75年説」というものが存在する。実際には明らかに1980年以降であるオリジナルUNIX-Rogueが、1975年作であった、という、各種の文献に見られ今もネット上に流れている風説である。これは、何か別のゲームとRogueの混同と言われており、最初期の「アドベンチャー」ゲームである(Colossal Cave) Adventure (75-77年)との混同ではないか、という説がよく主張されている。しかし、Adventureよりは、「1975年の汎用機開発の初のCRPG」、しかもRogueの原型という点から、実はdndか、同年のDungeonとの混同である可能性はかなり高いように思われる。





Roguelike今昔物語 〜 メタボ立志編


 トルネコがやたら「リア充」とか「勝ち組」とか呼ばれている昨今の風潮だが、てか、普通に幸福なおっさんってだけだぜ。そりゃネネさんの才色兼備は尋常ではないしポポロも並はずれた俊英であるが、「天女が降ってきて勇者を産んだ」なるおとぎ話がリアルに存在している世界においては、とても常軌を逸しているかのように大騒ぎするような話ではない。
 無論、その「並の幸福・幸運」を掴むというのがどれほど大変なことかというのは年配になるとわかるものだが、それがわかるようになった年配はどうせ若者にはぴんとこないこともわかりきっている以上(せいぜい同年輩に愚痴るくらいで)それを叫んだりはしないものだった。今、それがこれだけ声高に叫ばれるという世相は、やはり将来にそれだけ興味、悪く言えば「普通の幸福」を得られるかに対する不安がそこまで大きいのかもしれない。若者は(見下せというわけではないが)おっさんのささやかな幸福になど、目もくれないくらいでちょうどいいのではないのか……。





MAN OF BREAD


 「アンパンマンは愛と勇気しか友達がいないさびしい奴」を笑いのネタにしようとするのは中学生でもやらない低レベル行為として古くからテンプレ化しているひとつで、実際、これで笑いをとろうなどという愚行をやらかしたとある大手テキストサイトが、大炎上して荒らされまくった、というのは、ネット黎明期の伝説のひとつと化している。
 実際、『アンパンマンのマーチ』の、アニメの内容とどう見ても合致しない不可解なこの歌詞が、何の意味なのかは諸説がある。「愛」があるのに周りが「友達」ではないとは何なのか。所詮は戦いであり友は連れて行かないだとか、誰にでも平等なので特定の誰かを友とはしない(実際に、カレーパンやしょくぱんやばいきんと異なり、アンパンマンにはアニメでは2000種ものキャラとの誰とも浮ついた話が無い)の意であるとかの説がある。が、結局のところ、真意はともあれ経緯の上では、この歌詞は「初代アンパンマンを指している」というのが自然なところであろう。
 ムーミンの時にも似たようなことを書いた覚えがあるが、それは『初代アンパンマン』という響きから、さらには、上の低レベルネタや、シリアスアンパンマンパロのうち安易な類などで想像されているものよりも、はるかに寂しく荒涼とした説話であった。
 『初代アンパンマン』とは何なのかは、断片的な情報がまとめサイト等に貼られているので、ネットではもはやかなり有名になっているかもしれない。原作者の連載童話『十二の真珠』に収録されている物語で、アンパンではなく人型、こげ茶のマントに頭巾の太った超人(DC的ヒーロー)で、アンパンを作り、配る。戦時下の国に飛び、飢えた子供を救おうとするが、敵機と間違えられ撃たれ、堕ちる。わずかに400字詰原稿用紙4枚の物語である。
 友達がいるどころの話ではなく、飽食した子供にも理解されず、同業者(他のヒーロー)には後ろ指すらさされる。原作者自身による『十二の真珠』の挿絵のひとつには、どこかで見たような同業者らから糾弾されている図がある。宇宙貴族エル家の家紋を思わせる紋章を胸につけたケープの男は、遠くを飛ぶ彼を指差して批難しているが、コウモリのようなマスクの男は渋い表情の首から上しか映っていない。こっちの男はあるいは初代アンパンマンの立場をある程度は想像しているかもしれない。決して共感も協力もしないかもしれないが。
 飢えと戦にあふれる世界は非情であり、何かを決して踏みつけずに、光をもたらそうと思えば、何かから何の利益を得ることもなしに、何かをプラスにしようとすれば、削るものは自分自身それしかない。おそらく誰にも理解されないことも含めて、自分が傷つくのを恐れずに行うしかない。それは頭を食いちぎられるにも等しい痛みを伴わずにはいられない行為だった。


>そうだ
>おそれないで
>みんなのために


 おそれないとは勇気であり、みんなのためとは愛である。自分の中にあるそれだけに依って、行くしかない、というのだ。
 冒頭に述べたサイト炎上事件は、今は単に「アンパンだからといって舐めたら甘くなかった」という伝説として片づけられている。しかし、この歌を嗤おうとしたテキストサイトがそれほどまでに炎上したのにはそれなりの理由がある。この歌が、「戦時に特攻(回天部隊)で戦死した弟氏を原作者が悼んで作った歌」という風説が、この当時にはすでにかなり広まっており、その歌を嘲弄しようとする態度が、(当時は今よりも)沸点の低い少なからぬネット民草の怒髪天をついた、というのが真相であるらしい。
 実際、この歌の由来についてのその推測は各所で述べられているが、原作者本人を含め関係者から明言されたことはないといい、都市伝説の域を出ない。ただし、たとえ都市伝説は事実無根であっても、それが広まるには、しばしばなんらかの原因がある。研究者によると、この文中の初代アンパンマンの風貌の形容の数々が、その弟氏の出撃前の最後の写真の姿によく似ている、というのだ。


>顔はまるくて、目は小さく、はなはだんごばなで、
>ふくれたほっぺたはぴかぴか光っていました。
(『十二の真珠』)


 初代の風貌・外見について、この「ほっぺたが光っていた」ただひとつが肯定的な言葉である。
 『十二の真珠』の挿絵の初代は、後代の絵本やアニメのアンパンマンとはまったく違う姿である。しかし、この文章描写そのものを見ると、後出のアンパンマンの姿にそのままあてはめることができる。
 初代アンパンマンが撃墜された後には、一条の流れ星が落ち、彼は死んでしまったのか、今でもどこかでパンを配っているのかもしれない、と締めくくられる。しかし、アニメ版のアンパンマンは「煙突に流れ星が落ちてきて」誕生したのではなかったか。不毛であった妖精の国は、命の星が降ってきたことによって生命と喜びにあふれる世界になった(『いのちの星のドーリィ』より)のではなかったか。
 現在のアンパンマンは、初代やこの歌とはもはやほとんど関係がなくなっているだろうと筆者は正直思うが、それでも原作者が重い歌詞への反対にも関わらずあえてこの歌をアニメに冠したのは、原作者の中では現在のアンパンマンのどこかにもこの初代が生きてパンを配り続けていたのだろうか。





誰でも思っていそうだがほとんど聞いたことがなかったこと

 GB版Sagaの例のシルクハットの男の正面ドット絵って、1部スピードワゴンっぽくね? ゴージャスアイリンの1話ラスボスの最期がSagaラスボスの最期(の画面エフェクト含め)に酷似しているとか、荒木漫画の下っ端の口汚さがSagaの登場人物の荒っぽさ(主人公含め)を思わせるとか、「かみのガイドライン」で「鼻のかみ方ガイドライン」が出るとか、気になる点は多い。




グリムトゥースの金言


 ダメージを均等に分ける必要はありませんし、
 誰に命中したかいちいちサイコロで決めたりはしません。
 ルールに乗っ取って、できるだけ有利になるようにしましょう――

 それでもじゅうぶん、このゲームでは生き残るのが難しいのですから。


(トンネルズ&トロールズ、第七版ルールブック)





モンローとガンダム


 ガンダムSEEDや00の無意味なお色気描写を糾弾する声は多い。例えば00の全裸空間のアニューの生尻などを糾弾するコピペ文書が一時出回っていた。しかし生尻などは初代TVシリーズの半舷休息のセイラさんとかいくらでもあるわけで、ここで問題にされているのはつるっぱげ監督が生活風景の中でなんとかお色気を出そうとする(ときには非常に無理矢理に、例えば異界や異星系の妖精とか、∀の水浴びとか儀式とか)のに対して全裸空間や残存思念などの言い訳で出そうとすることの一致と相違にあるのであろうが、今回はその比較が目的ではなく、このTV版でのセイラさんの描写に関してである。
 この半舷休息の際のセイラさんは、バスタオルを巻きつけるにも関わらず、かえってその際の動きのせいで、わざわざタオルがめくれて体の線が無駄に見える描写になっている。(これに対して、後のフォウやセシリーは、単にバスタブから上がるだけだがうまい具合に真横からの腰の線のわずかしか見えない。)セイラさんのこの場面について筆者は、マリリン・モンローの、"Something's Got To Give"のために撮影された有名なフィルム(死の直前のもので、映画の方はモンロー主演では完成しなかった)の、プールから上がる場面の影響があるのではないかと昔からよく主張するのだが、しかし、周囲のガノタからは、いまいち賛同が得られていない。モンローのそれはプールの場面を全裸で撮影しているのだが、それまでいい感じで見えそうで見えなかったのに、なぜか最後に上がってローブを巻こうとしたその時だけ(故意か否か)うっかりめくれて全身見える構図である(なお、所詮モンロー晩年の熟女ボデーであり、純粋にお色気目当てだったらもっと適切なもの(有名なゴールデンドリームカレンダーとか、アール・モラン画のピンナップとか)がいくらでもあるので、若者は無理して調べる必要はない)。さらには、つるっぱげ監督の小説で、ギギ・アンダルシアがタオルを巻きつける時に一瞬だけプロポーションが見える、なる場面も、このモンローのイメージないし影響で書かれたものではないか、とも思うのだが、こちらは憶測の域を出ない。
 つるっぱげ監督はマリリン・モンローについては、小説中のセリフで、キャラとしては頭の弱い女性を演じていたのでそのようなイメージを持たれているが、実は大変な才能を持った俳優だった、とその魅力をかなり評価していることが、モンローがつるっぱげの多々のイメージソースのうちひとつではないか、と推測する一応の根拠である。
 とはいえ、のちに「女性のつくられた理想偶像のシンボル」のように使われた「ローラ・ローラ」という名前は、モンローでなくマレーネ・ディートリッヒ(OP歌手の西条秀樹にもひっかけてあるとしても)の方ではある。





「けんじゃ」の立ち位置


 DQ3で、何故「あそびにん」が「さとりのしょ」無しに「けんじゃ」に転職できる(優遇されている)のかは、現在(13年9月)日本語サイトを検索してみると、迷走した論ばかりが長々と表示され続け、おそらく、この疑問を持った者を納得させる情報にはそうそう簡単には辿りつけない。
 「『賢者と愚者』が表裏一体である」旨は、海外古典ではわざわざ説明されるまでもないほど不可欠の認識だが(宮廷道化、トリックスター造形、タロー解釈等々)、この国ではこれほどまでに知られていないのだろうか。
 あそびにんにはキャラクタ表示が「道化」であること、転職時の「かつをいれて」目覚めさせるという描写など、その示唆は多い。かつをいれる云々やその場所が「ダーマ」であることから、あえて煩悩を知ってから捨てるという仏教的説も有力である。なお、海外RPGでは「遊び人でもあり同時に賢者でもある」という典型的な存在にも、本来のケルト的なバード(フォクルーカンライアリスト)等がある。(なお、これらの遊び人と賢者の関係は、DQ6以後には必ずしもあてはまらない。)


 今回はそういった賢者ではなく、英雄伝の賢者・魔法使の話である。魔法使いが貧弱で剣を使えないのはRPG以後(OD&D以後)だ、という話はゲーマーであれば誰しも聞いたことはあると思うが、RPG以前の伝承、というよりRPG外の説話では、「魔法使い(Wizard等)」の語は、魔法の使い手(Magic-User)という意味よりもむしろ、「超常的な能力や生い立ちを有する超人」として(これらの能力や生い立ちの影響をほとんど、あるいは若干しか持たないことも多い「英雄」とともに)物語の主役となっていることもある。
 英雄の方が主役の騎士物語等では助言者の位置にある賢者や、RPGの魔法使い(Magic-User)とは異なり、かれら「超人としての魔法使」は英雄同様、どんな活躍でもする。
 ガンダルフ等のイスタリは、多分に騎士物語の助言者であると共に、そうした「超人」としての意味での魔法使い(Wizard)でもある。東洋では例えば「仙人」が、「杖をついた老知識人」という以外に、そんな位置づけでも使われる(宝貝をふるって秘術肉弾戦を繰り広げる等)こともある語である。


 さて、ふたたびDQ3「けんじゃ」だが、作中のルイーダの酒場での台詞でも「えらばれしもの(FC版)」、ひいては、「勇者が天に選ばれしものなら、賢者は神に選ばれしもの(SFC版)」とされている。公式派生等の創作内でしばしば「勇者とは別種だが、同列の存在」とされ、派生創作では実際それを意識した描写もある。その呪文能力からの知識人や秀才としてではなく、また、英雄説話での助言者としての賢者でもなく、「勇者と同列」という点に焦点をあてる描写は、注目に値する。Wizardryフリークが主張するようなwizのビショップの丸写し(wizのビショップこそが、AD&D1stのSageの丸写し未満でありこそすれ、何ら加えている要素がない)で片付くような存在ではない。





豪快進行


 pixiv大辞典 T&T


>ゲーム中の障害やモンスターを“力業”で強引になぎ倒して行く行為を基本的には奨励
>(実際はルールブック中のシナリオ等においては推奨していない節も見られるのだが)
>している事も、近年のコンピューターRPG世代には受け容れやすい概念となっている。


 強引だろうが策略をめぐらせようが、どっちにせよたいして違いはない。なにせ、強引になぎ倒されるのも、ソロアドでケンとかの策略にひっかかるのも、障害やモンスターではなく、プレイヤーキャラの方だからだ。その上で、CRPG世代にとっつきやすいとか言えるのか、どうか。
 とかいう毎度のベタなお約束は置いておいて、本国のシナリオ作者らが本当に力業を推奨していなかったかは別として、少なくともいえるのは、みゆきちゃんについては、ルール紹介や簡易ルールの解説でそういう工夫や策略の推奨をひたすら繰り返していたことである。『T&Tがよくわかる本』のパワーゲーマーに対する言及からもそれが伺え、また、なんとか力押しではないドラマチックな展開を目指して、HT&Tを作っていたらしいことも確かである。(7版の訳書ではみゆきちゃんは訳者にはクレジットされておらず、前書きにスタッフとして名が出ている程度だが、7版では削除されているショック効果とバーサーカー戦闘が、監修者・訳者からの「重要な注意点」なる主観的見出しと共に強引に訳書にはねじ込まれている点も、同様の姿勢と思われる。)


 システムに拘溺するみゆきちゃんが、何ゆえによりにもよって豪快アバウトなT&Tというルールに対してそんな印象や拘りを持ち続けたのかについては、きわめて興味深い点であるが、判断材料が十分でないため筆者には明確なことは言えない。ただし、平易にして簡素極まりないT&Tのシステムは、雑然として醜悪極まりないD&D系(今に至っても)などよりも遥かにシステムとしては美しいという言い方もできるので、だからこそ弄りたくもなるのはこちら、というロジックならば想像できないでもない。


 そういえば角川版の方のHT&Tを中古で入手したとき、古本の出品者は「このルールは何をどうやっても運用できなかった。売れてせいせいした」みたいな返信を直接くれた。そこまで言わせるものは何なのか、いつかゆっくり吟味しようと思っていたのだが、角川版の方は引っ越した時に置いてきてしまい、以後入手できる見込みも、そこまでして入手して吟味するほどの動機もない。



>また、「職業から独立した『種族』の概念」を最初に導入したゲームでもある。


 Wizardryの次はT&Tかよオイ。何度も言うが最初のTRPGであるOD&D(白箱、1974)で元から種族と職業が独立しており、統合されているCD&D(赤箱シリーズ)は後出の簡略版ルールにすぎない。wizやFF以外は本心ではどうでもいいというwiz/FF信者ならばともかく、TRPG側のゲーマーのレイヤーがこういうのを流布するのってどうなのよ。
 なお、白箱ではホビットやドワーフはどのみち戦士以外は選択できなかったとか色々問題を抱えており、種族が職業から完全には「独立」していたとはいえない、とかいう主張もあるかもしれないが、それを言うんだったらT&Tでもレプラコーンは魔術師にしかなれないとかあるので、どのみちこちらも完全に独立とはいえないわけである。





DQアニメ(勇者アベル伝説)


 アベル伝説なんて呼ばれていること自体最近知ったよ。数年前はもっぱら「ガングロヤムチャ(勇者のデザインとアムロ古谷氏の声から)のシリーズ」などと呼ばれていた気がする。どうもゲーマー一般やDQファンには空気のように扱われているようだが、オヤジかつフーテンな魔法使ヤナック(役割の都合上か僧侶魔法も使いこなすので賢者に近く、劇中能力は非常に優秀である)などは、同世代とおぼしき人々からときたま話題に上るのを見ることがある。
 DQ3ベース(「アリアハン」出身の勇者が「オーブ」を集め、「バラモス」とゾーマ打倒に旅立つ)ともいえるが、他のDQタイトルの要素も多く、固有名詞を借りた別物と捉えた方がいい。DQ4開発〜発売前後の頃、おそらく視聴者一般としてはドラクエというと「DQ3」のイメージが定着している頃のアニメなので、3を中心に4の要素が入っている。さらに、名詞や設定のほか、デザインがさらにDQ5以後にもメインで使用されるものと酷似していることが現在よく話題にされているようである。実の所、いくつかは鳥山明が以前に用いたことのある良デザインの流用といわれているが、その他にも、鳥山明がTVアニメ作品ということで相当力を入れてデザインし、このときに資産としてさらに蓄積したということかもしれない。
 ストーリーについては、現在の評では、まんまRPGのイベントを淡々と並べていくだけのような展開が平坦、と言われていることが多いようである。ただし、「王道」や「普通」というものが中々得られない日本のFT事情にあって、数年後のラノベバブルよりも以前、「普通に冒険を続けていく」ストーリー自体にそれなりの魅力はあった。
 作画は非常に悪い。これは掛け値なしに悪い。俗には、「ヤシガニを頂点とする日本のTVアニメの作画劣化は、エヴァンゲリオンバブルやラノベアニメ化の氾濫により環境・下請け状況が急速に悪化したため」と説明されているが、筆者の感覚ではそれ以前の、「TVアニメの作画というのは悪いというのが当然の認識」のように思われていた時代もよっぽど酷かった。そして、このDQアニメはそんな当時の標準から見てすら、実に酷かった。筆者自身はアニメに対して、作画というのは最優先事項とはしないが、アニメ作品に対しては作画が酷いと最初から見る気になれないという人は多いのではないかと思われ、このDQアニメの話題を躊躇する理由はそこにある。





・「彼ははりきりすぎで死んでしまいました。」


 かつてのT&T5版(社会思想社版)ルールブックの数々の素敵な表現のうちひとつ。通常、重すぎる(本人の体力度が武器の必要体力度に足りない)武器は使うことができないが、無理に使うと足りない分だけ本人の体力度が減る。体力度が足りない場合は、体力度は1で止まり、気絶する。しかし、それでもまだ足りなかった分は耐久度が減る。それでもまだ耐久度が足りない場合は1では止まらない。すなわち「キャラクター用紙を破りすてれ」である。
 つまるところ、T&Tとは「武器を振っただけで死ぬ」こともあるゲームなのだが、バーサークの途中とかだと武器を振るのを自分で止められないことがある。


 一見すると突拍子もない話に見えるかもしれないが、江戸時代に直心影流の道場とかに置いてあった筋力鍛錬用の重たい「振り棒」を、腕力自慢の他流剣士が試そうとしたら「2回振ったら血を吐いて倒れた」とかいう説話を思わせる。振り棒やら訓練しただけで吐血とかシグルイのような世界かと思うかもしれないが、実際のところシグルイの道場のエピソードは実在の剣術道場に関する奇妙な逸話、特に江戸後期〜明治にかけての直心影流(榊原健吉とか)の逸話を思い出させるところがしばしばある(虎眼流の「流れ」が、直心影流の「曲尺」の韜の型にまつわる一説を思い出させる点は今回はさておく)。





・スプロール・シリーズの世界(その38)


○マイクロソフト

 これは今見ると目茶目茶な単語だと思うかもしれない。このシリーズの「マイクロソフト」とは、一辺数インチのシリコンの小片であり、『ニューロマンサー』でモリイがモダンズ(ヤンダーボーイ)との連絡のために話すメモリ小路(レイン)の少年ラリイや、『カウント・ゼロ』の企業サムライ、ターナーが、これを首のうしろだの頭だのにあるスロットに「挿入」する。すると、そこに収められた技術(探知能力)だの記憶(外国語レキシコン)だの、技術屋ミッチェルの日記だのが自分の記憶のかわりに利用できるようになる。つまり、以後のサイバーパンクでは「脳チップ」「記憶チップ」等と言ったものにあたるこのメディアの名が、なぜか「マイクロソフト」なのである。
 00〜10年代の日常から見れば、こんなハードウェアに「マイクロ」だの「ソフト」だの、ひいてはM$社を連想させるようなネーミングはひどい違和感を感じさせている可能性、それどころか、このデバイス自体が上記のようなものを指しているということへの直観的な理解さえ妨げている可能性がある。


 しかし、80年代の当時の技術状況から考えるに、コンピュータのハードウェアには「マイクロコンピュータ」のIC回路や配線メカニズムの影が常に浮き上がって見えていた(特に80年代前半にはPCではなく「マイコン」とも呼ばれていたほどであるが、それは半組立キットの影響が引き続いていた理由もあったりする)。また、ネットワークがない当時、例えば大半のユーザーがソフトウェアをダウンロードや添付で入手する機会がなく、「ソフトウェア」と、「それが入ったユニット」(ROMとか、もっと言うとフロッピーとか)との間の認識的な距離はかなり近かった。要するに、ユニットそのもののことを「ソフト」と呼んでも、あながち不自然ではない。


 ネーミングセンスが2010年代の現在と合致しないことを、単に「違和感」で終わらせるのではなく、逆にその大きすぎるギャップを契機に、これが書かれた当時の技術を認識・推測しながら読むことは、現在の感覚では直観的な理解が困難なスプロールの世界感がどういうものなのかを把握することに、大いに助けになってくれるはずである。





・富野黒歴史(誤用の方の意味で)


 『ガイア・ギア』という作品についてはおそらく今後も何度か触れることになるだろう。現在、その名前だけが「富野が黒歴史化して抹消している作品」としてガノタには知られているが、つるっぱげが過去を抹消したがるのはよくあることで、それ自体にたいして深い意味があるわけではない。Z、ZZあたりと比べても、決して酷い代物ではないが、かといってわざわざ掘り起こす価値があるともいえない、という程度の出来である。強いて言えば、ほぼ同時代に書かれた閃ハサと雰囲気に共通点があり、あれを激しく水っぽくした感じに似ている。
 シャアのクローン人間(今は某ライバルキャラが有名だが、このアイディア自体、閃ハサなどに垣間見え、ナナイ→ミューラ→ウッソの没設定にもさらに関連する)が100年後に復活、反連邦組織を率いて戦う、というものだが、件のライバルキャラとは異なり、シャアの駄目なところまで完璧にコピーに成功していたので(女が次々と寄ってくるがうまいことあしらいきれず、しまいにはそのうち一人が敵のいい男にホイホイついていってしまう所まで完全に一致)結局はZあたりの出がらしのような展開と結末を迎えざるを得ない。つまり、つるっぱげの作品の中ではZ〜CCAが引き延ばされた終端に存在するにすぎず、F91〜Vのような旧作を引きずりつつも曲がりなりにも舞台一新をやりとげたものの域には達していないし、∀のような完全に一線を画した域については片鱗すらもまだ見えない。
 なお、小説版(絶版)はそう簡単には見つからないかもしれないが、オーディオドラマ版は動画サイトなどにたまに落ちていたりする。どんな世界なのか知りたければ実の所オーディオドラマ版で触れた方が良い。その詳細については次回以降に続く。





・「即死系攻撃があるとつまらない」の話


 なんか即死とか逆呪文の話ばかりしているような気がする。CRPGの即死攻撃は、FF1などはもちろんのこと、DQのザキ系を折り悪いところに食らってもやる気をゴソっと削いでくれるという話は多い。敵の方が登場数が(特にCRPGでは)圧倒的に多いので、味方はよっぽど運がよくないと効かないが、敵は数うちゃ当たるで、こんなシステムを導入すれば当然敵からばかりやたら食らうという状況は目に見えている。それでいてストレスフルでないバランスというのは中々並大抵にはとれない。
 これに対して、wizフリークを中心とするオールドゲーマーからは例によって、


 「即死効果の連発はWizardryのBADIや首切の影響で由緒正しいものであり、この程度が我慢できないのはヌルゲーマー」


 という話が出る。確かに即死事故といってCRPGゲーマーが筆頭に挙げるだけの知名度があるのがwizであろう。


 しかし無論のこと、wizのシステムの大半はAD&D1st(毎度くどいようだが間違ってもただの「D&D」とか言わないこと)の丸写しである。即死呪文も首切もAD&Dの踏襲にすぎないが、そればかりでなく、AD&Dでは毒の効果を食らったらそこでいきなり即死とか、眼からビームに当たって即死とか、ムーミンと目と眼が合ったら即死とか、脳を食われて即死とか、土下座破壊光線を食らって灰とか、シュバルツシルト解の事象の地平面がこっちに寄ってきて即死とか、幽体離脱していたら銀線を切られて即死とか、システムショックで即死とか(具体例は並べるのすら面倒)、女の歌を聴いたら即死とか、全裸美女を見たら即死とか、wizなど生半可なヌル世界にしか見えないほどに即死に満ち溢れている(これらのうち、FF1やNetHackにはwiz以上に再現している要素が多い)。本当にくどいかもしれないが、今挙げた以外にも普通なら即死する状況になったら無論のこと即死する(主人公補正とか無)。前にも述べたが、AD&Dでは即死系の特殊攻撃を食らうとしばしば削り死にと違っていきなり絶対死(蘇生できない死。灰とロストの中間みたいなもの)し、種族エルフなどは削り死にだけでもいきなり絶対死する。
 つまり、各種の対策がなければとてもやってられたものではない。AD&Dにはこれらの対策として、各種の探知呪文や、セービングスロー(運勢値)を良化させる汎用的な防御呪文、各種特殊攻撃にそれぞれ対応する膨大な対抗呪文がある。wizの忍者の首切の元となったAD&Dのアサシン(CD&Dではサグ)の即死攻撃は完全に不意を打つ等の条件が必要だがこれらは様々な探知手段がある。
 これらの対策もなしに高レベルキャンペーンとかいうのは、江田島平八でもないのに生身で宇宙空間に飛びだして大気圏再突入しようとするとか、毒・破片・地獄耐性なしに鉄獄の深層に潜るとかいうようなものである。


 もうわかったと思うが、AD&Dの時点で存在した探知・対抗呪文等の対策がwizでは無造作に削られている時点で、初期wizの即死攻撃のバランス(即死攻撃が出始めた頃ならともかくその後数十レベルになっても延々と何の対策もないのが当然という状況)は完全に破綻したものである。なぜ削られたかといえば、AD&Dから探知・対抗呪文を丸写しし始めると膨大なデータとシステム量になってしまうからで、にも関わらずなぜ即死攻撃の方は残っているかというと、最初期のCRPGにはAD&Dから容量やマシン性能が許さないなら削って許すなら丸写しする以外の発想など最初から(中略)それは置いておいて、wiz#1-3はどちらかというとlv13未満の低レベル冒険を重視したシステムになっているため、あえて簡略化された大味ゲームとして作られたwizは、低レベルのAD&D1stやCD&Dで対策が充分でない状況でイニシアティブ(行動順)次第で趨勢が大幅に変わったりするような様相を再現できればいいと考えたのかもしれない。


 つまり、「元祖であるwizでこうだったのだから絶対に正しいバランス」などではなく、それは「元祖であるAD&Dから、wizが破綻させ、以後そのままになっているバランス」であり、由緒正しくもなんともない。
 無論、実はwizではなくAD&Dの直接の子孫であるFF1も、wizの直接踏襲ではないにも関わらず同じような選択をしてしまっている(戦闘中の防御呪文は割と少なくないが、戦闘前からできる対策は装備耐性等に頼らざるを得ない)。「wizやFF1を踏襲しているから正しい」とかいう主張は何の言い訳にもならないので、それをストレスフルにならないよう調整できるかどうかはあくまで以後のゲーム個々のデザインの責というしかない。





・スウェーデン語版ホビット


 スウェーデン語版は、ムーミンでおなじみのヤンソン女史の挿画のもの(1962年版)が有名で、もう平成ムーミンの(冒険日誌じゃない方の)スタッフでこれを来季からでもアニメ化しろというクオリティである。

 しかし、スウェーデン語版には実はもう1種類(1947年版)があり、原書房のD.アンダーソン注釈研究書版(Y本訳ハードカバー)に多く引用されているのはこちらである。
 ほとんどの国の挿画(日本語版など一部の国以外)には難色を示していた束教授だが、言及していたのはこのスウェーデン47年版で、ことに「おどろおどろしい」と言葉を割いている。束教授に与えた否定的印象については、カートゥーン嫌いの教授に対して表紙や最初のビルボがまんまディズニーだから、という理由によるところが非常に大きいことを強く推測させる。だが、以降の絵はそれほどカートゥーンぽくはない。てか例によって怖い。たとえば、このゴクリはwiz#5のマスタードスライムですね……たまげたなあ



・全人類の神経バンク内に形成された獄吏


Google検索(2013年5月現在)

 ゴラムはドラゴラムをとなえた 0件
 ゴックリさん、ゴックリさん、おいでください。 0件





・バハムート事情


 バハムートとべヒーモス


 wikipediaのバハムートの記事は今でこそゲームでの経緯についても普通に記載されているが、初期のバージョンはそれは酷いもので、「バハムートが竜というのはスクウェアの捏造でべヒモスと同一存在のものが別々に存在しているのはおかしい」といった姿勢のものであった(もっとも00年代、D&D3.0eが和訳された2003年からなお数年が経過してすら、ネット上には同様の主張をする者以外はまず見当たらなかった)。詳細な記事が杜撰な記事の反動による場合もこの手の辞典類にはしばしばあることである。
 「バハムートはD&D由来」という話だが、このwikipedia記事を含め、ネット上で「TRPGの元祖D&D」と言われている際は、
 @CD&DとAD&Dの分岐前の原点である白箱OD&Dを正確に指している場合、
 A和訳されたD&D3.Xe等から外挿してD&Dシリーズの全体像を指している場合(つまり実際はその内容上は3eの大半の継承元であるAD&Dであるが、煩雑を避けるために故意にAを略している場合と、本当にAD&D自体を知らない場合がある)、さらに、
 BCRPGのレトロゲーマーが「TRPGの元祖=和訳されて自分が触れていた赤箱等のCD&D」(実際はCD&Dは後出の傍流ルールであり原型ではなく、海外では遥かにマイナーである)と思いきり勘違いしている場合、
 の3通りがある。しばしばD&Dにはドラゴンルーラーとかいるけどバハムートはいないだろとか言い出す者がいるが、この場合がBである。一般に、本来AD&Dのものを軽率に「D&D」由来などと言うと、Bのような話にもつれこみ、AD&Dについて説明できる者が滅多にいないためそのまま押し切られ、真相が広まるのがいまだに妨げられているという事情がある。
 善竜の首領神自体は、白箱OD&Dの最初のサプリメントであるGreyhawk (1975)に言及される。ただし、この時点ではDragon King、the Platinum Dragonの名はあるが、Bahamutという固有名は存在しない。Bahamutという名はAD&D1stのMonster Manual I (1977)である(なお、対極のthe Chromatic Dragonとその固有名Tiamatについても同様である)。つまりwikipediaの記事はAであり、あくまで「バハムート」はD&DではなくAD&D由来が正しい。

 毎度毎度の余談だが、wizardryフリークからはもっぱら「バハムートは元々竜ではないはずなので、そんなキャラの発想が出るわけがないから、竜の神はwizのL'kbrethがオリジナルでFFのバハムート(ついでにDQ4、5のマスドラ)はwizのパクリ」という主張があるが、L'kbrethは控えめに考えてBahamutではないにせよOD&DのPlatinum Dragonが発想元という説からは逃れられないだろう。なにしろwizには(Apple][版のディスク中の没データの中に)Tiamatすら存在する。


 ベヒモスの方についても「D&Dには無いのでFFのオリジナル」という説は根強いが、これはAD&Dでも基本ルールのMMIではなく、追加データのMonster Manual II (1983)の中に見られる。基本ルールではなく追加データ本などマイナーではないかと思うかもしれないが、『ザナドゥ』『ザナドゥシナリオ2』の元ネタ(アスコモイド、ボアリスク、タスロイ、ランプレイランド(誤記)等)がMMIと同じくらい無闇やたらと詰まっていたり、後でRPG一般に頻出する有名ユニーク悪魔の初出などもあったりと、80年代当時のゲーム製作者らがここまで参照していた可能性は決して低くはない。
 ただし、このMMIIのbehemothは、データといい解説といい本当に単なる巨大なカバ(動物)以外の何でもなく、イラストもどう見ても単に動物園のカバがあくびをしているだけの代物である。だからといって幻想生物としての性質が全くないとは限らないのだが、少なくとも後のTRPG/CRPGで幻獣や精霊類としてもっぱら用いられることの直接の示唆はない。なので、『ファイナルファンタジー2』(1988)以降のべヒモスの由来は、FF1のような直接のAD&Dの丸写しでなく、聖書や伝承(ゴーゴンやカトブレパスを調べていればゆきあたるもの)のべヒモスにあたっている可能性は充分にある。
 (なお、D&Dシリーズでは、特に後の版でのbehemothという言葉は、この単語自体が単一のモンスターを指すというより「巨獣」の形容や修飾語として用いられることが多い。verbeeg (小型の巨人)= human behemothや、3e epicの各種動物の巨大版としてのbehemoth eagle等、4版の石造の獣slaughterstone behemoth等である。)





・カプコンD&DがDL版で再発売という話があるらしいが


 ふと見つけたMUGEN wikiのドレイヴン(カプコンD&Dのキャラ)の項目


>(ただし杖の魔法の威力に関して「使った人のレベル派」
>(14レベルなら杖でファイヤーボールを使ってもサイコロ14個分のダメージ)と
> 「魔法使用可能最低レベル派」
>(何レベルだろうと杖でのファイヤーボールはサイコロ4個分)
>のダンジョンマスターがおり、


 そんな「派」なんてどっちも初めて聞いたぞそんなん。スタッフ(長タイプの杖)のダメージ魔法は一律「ダイス8個」で固定ではないのか?


 『マジカリパワースタッフ』(新和版ルールブック原文ママ)についての青箱の説明には、この杖によるファイヤーボール等の発動は「8−48のダメージを与える」と明記されている。さらに、『ウィザードリースタッフ』の箇所にはマジカルパワースタッフの総ての力を持つと書いてあるので、ダメージ魔法も同様に8d6で決定すると考えるのが順当である。なお、同様に青箱のワンドの説明にはどれもダメージが6−36(6d6)と書いてある。
 さらに、AD&Dの方には、このCD&Dの統一的ルールとして、術者レベルは「ワンド」は6レベル、「スタッフ」は8レベル固定でダメージ、射程、持続時間、ディスペル強度等を計算すると明記されている。ちなみに、その呪文を使える最低レベルに依存するのは「スクロール」から発動した場合(AD&Dではその+1)である。ファイヤーボールが使える最低レベルは5レベル(「4個」=4レベルではない)であり、AD&Dでは+1され6d6である。


 が、ひょっとすると、青箱の『ウィザードリースタッフ』の説明の方には、あくまでダメージが書いていないのだから、こちらは使った人のレベルとやらで変動する、という解釈をしていたDMやその「派」とかも存在していたのかもしれない。
 マジカリパワースタッフの方が8d6固定であることや、AD&Dの例からスタッフの固定術者レベルというルールデザイン思想を推測しても、ウィザードリースタッフだけが違うルールだと考えるのは非常に不自然だが、しかし、何も書いていない以上、決して「誤り」というわけではないし、ありえないことではない。「派」があるということは少なくとも一部プレイヤーの周囲の複数人のDMにとってその認識だったのであろう。

 元々CD&Dのルールなど、どこに何が書いてあるかさっぱりわからないし、複数箇所で余裕で矛盾があったり、解釈次第でいくらでも矛盾が生じたりする。結果、運用が決してルールブック通りでなかったり、ハウスルールだったり、忘れたルールに適当に代替ルールをあてるのは別に珍しいことではなく、旧D&D系のプレイヤーがそれで咎められるようなことも無い。だいたいルールブックの記載を金科玉条のように遵守したところで、守る価値のある御大層なゲームバランスなどはCD&DやAD&Dには何も無いのだ。D&D系はルールを振りかざすパワーゲーマーが多い(3.Xe以降はもちろんそれ以前も)という自他評があるかもしれないが、大半のゲーマーは特に交流もなくローカルに運用していた以上こんなところである。
 このドレイヴンの記事には、そういったかつての旧D&D系のヌルい運用の実態の雰囲気が垣間見えているようにも見える。


 ちなみにこの記事、ファイナルストライクがやたら弱いかのように長々と説明が費やされているが、ファイナルストライクのダメージは、スタッフのチャージの期待値(3d10の16.5)から5、6回ほど使って10チャージが残っていると仮定しても、1チャージごとに8ポイント固定なので、80ポイントのダメージを叩き出す。CD&D世界でのファイヤーボール等の上限である20d6の期待値が70なので、80ダメージ(しかもファイナルストライクは呪文のダメージと異なり、呪文防御や耐性呪文・アイテム等で軽減することができない)というのはたとえ黒箱のキャラでも簡単にはディールできない値であり、まして青箱レベルのキャラクターにとっては激烈きわまりない威力である。上で出ている14レベル(青箱の最大レベル)の、えこひいき級に恵まれた能力値(Con修正+2)のファイターのヒットポイントの期待値が73であり、黒箱キャラのファイヤーボールをまともに(しかも対策なしで)食らっても持ちこたえるのだが、そんなキャラですら上のようなファイナルストライクの80ダメージでは即死を免れないというのがその脅威を物語っている。

 ちなみにCD&D青箱のファイナルストライクに対して、AD&Dのretributive strikeは至近距離でチャージごとに8ポイントだが、10フィート離れるごとに6ポイント、4ポイントと威力が下がる。あるいは弱いという解釈はこの下がった値だけ誤って適用しているか、呪文の標準的威力(チャージごとに1d6)か何かと混同して記憶しているのではないのか……。


>更に毒針には低確率で大ダメージ(クリティカル)を与える効果が備わっている。
>(なおこの毒針は元々のD&Dにはなく、おそらく国産CRPGの影響と思われる)


 カプコンD&Dの「スライシングダガー」のことを「毒針」などと呼ぶのは日本でのアーケード版の通称にすぎない。刃のある武器に「スライシング」のタレント(いわゆるエゴアイテム)効果がつくのはCD&Dの緑箱の記載である。
 かつての赤箱〜黒箱CD&DやカプコンD&Dの世界設定である『ミスタラ』(和訳では『ガゼッタワールド』)は、この当時AD&D2ndの世界設定としても使えるように再編も進んでいたので、カプコンD&DにはCD&Dに存在せずAD&Dから輸入されたファクターが幾つか見受けられる(ホーリーアベンジャーなど)。カプコンD&Dのそういった要素が、世間では「由来不明」「国産CRPG由来」などと誤まって流布されていることはかなり多く、そういうのなら致し方ないのだが、スライシングダガーはれっきとしたCD&Dの要素である……。





・子持ちヒーロー


 長年、ホークムーンとマロリオン物語とDQ5の比較をしようと思っているのだが、あまりに収集がつかなそうで進まない。
 DQ5の吟味は初プレイの昔に比べて、年をとってからだと疲労が激しい。DQ5のキャッチフレーズは人生を体験する感動とかいうが「こんな人生嫌だ」という感しか伝わってこない。無論、嫌な人生はホークムーンもベルガリオンも同じだが、(ホークムーンはムアコッチ時代作品定番の悲惨さはあるとしても)DQ5に独特の、両肩にぐっとくる疲労感は感じない。ゆう帝には色々と言いたいことがあるがまとまらない。



・普及

 実用日本語表現辞典(13.04/06)


>メメタァ
>漫画「ジョジョの奇妙な冒険」において、「蛙を殴る」シーンで用いられた効果音。
>個性的な効果音の例として知られる。


 weblioからも参照されている辞典。従来、この単語が掲載されていたのは漫画関係やいわゆるネット用語辞典に限られていたが、今後は、それ以外にも浸透していく可能性が高い。ちなみに「ズキュゥゥゥン」「ゴゴゴゴゴ」「ドッギャーン」「パパウパウパウ」「アミバ」等も検索してみたがこれらはまだ無い。





・きのこる先生


 ガンダムのパチモンプラモでは最も知名度の高いモビルフォース・ガンガル(と、ついでにウォーカースーツ)を販売していた東京マルイは、今はエアガン、ラジコン等の写実モデルの押しも押されぬ大手である。
 アダルトパズルゲーム『女子大生プライベート』を販売していたファルコムはそのわずか数年後に得たRPGの大ヒットメーカーの地位、日本のアダルトソフトの草分けと称されるストロベリーポルノシリーズ(なお、『ナイトライフ』は「実用ソフト」であり、「エロゲ」ではない)を販売していたコーエーは定番歴史物ゲームメーカーの地位を、現在に至るまで二十数年にわたって不動のものとしている。

 レトロゲーマーが、FFやDQファンに対して、スクウェアやエニックスが過去販売していたギャルゲもどき(アルファだとか東京ナンパストリートだとか)を挙げ、
「こんな軟派エロメーカーどもに比べて、俺達のファルコムやコーエーは昔から硬派一筋だけで通してきた」
 などと主張するのを見かけ、まさしくそのファルコムやコーエーの過去を思い出して吹き出したプーアル茶でキーボードを台無しにした経験が、ここの読者らには少なからずあるはずである。


 メーカーらのこれらの過去に対しても軽率に用いられる言葉に「黒歴史」がある。消し去りたい過去、実質すでに消し去っている過去の意である(無論、語の初出である『∀ガンダム』の本来の語義を大きく離れている)。
 それは、短慮なレッテル張りとは一概には言い切れない。『女子大生プライベート』は、ファルコムの公式サイト掲示板でブロックワードとなっていたばかりか、書き込もうとしただけで公式サイト自体に二度と入れないようアク禁にされた、と報告していた者がいた(真偽のほどは定かではない)。


 しかし、当時吹けば飛ぶようなちっぽけなソフトハウス(ゲームメーカーといった大層な呼び名など存在しない)等が、地面を舐め屈辱にまみれ、蹴転がされ嘲笑されても、手段を選ばずに生き延びるために藁をも掴む思いであがき、前に進んでいったその姿勢(残った結果ではなく)があったからこそ、今のかれらの輝かしい業績と確固たる地位が存在する。
 ガンガルやらナイトライフやらは、どう転んでもお笑いネタ以外の何でもないし、そう扱うのは妥当である。しかし、そうする者は、単に嘲笑するだけで自分に何も残さないのではなく、この企業が”こういう過去を持っている”ことに”一体何の意味があるのか”その意味は忘れないでおく価値がある。コーエーではないが、ネタにするしないに関わらず、それが歴史なのだ。





・魔導I

 今更だけどこの絵(ほんとにこの絵だけ)を一瞬PC-98版魔導1-2-3のアルルの正面顔に空目した



・魔導II

google検索(2013年2月):

"アルル・ナジャニコフ" 27件


 「血の海に沈めてやるぜ熊野郎!」 往年のコンパイルクラブの読者コーナーの片隅に出たきりの小ネタの方が美人怪盗ピンクキャットよりも覚えている読者が多いというこの結果に日本のファンタジーRPGの傾向の激しい歪みを以下略



・魔導III


 シェゾモデル キタワァ.*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*





・スプロール・シリーズの世界(その37)


○レゲーアーマー


 困ったことに「段々剃刀」をいわゆる厨煮センス語のひとつとしてネットスラングで使用しはじめている向きがあるらしい。アシモフ三原則や電脳空間の定義、ひいては「電脳三部作の中心地で主舞台は千葉」「オノ=センダイはホサカの商品名」といった具合に原義とかけ離れて一人歩きしないか不安もあるが、マイナーさから心配無用のようにも思える。


 軌道上のラスタファリアンたちがモリイを呼ぶ「段々剃刀」の原語"Steppin' Razor"とは主に、(現実の)ラスタファリ運動ミュージシャン、ピーター・トッシュ及びそれに因んだ楽曲等から採られている。若年時のトッシュの、「歩く剃刀」のように危ないヤツ、といった自称に因む。
 モリイがこの(スプロール時代のラスタファリアンには伝説的であろう)名の到来とされたわけだが、モリイの場合はsteppingは「歩く」よりは文字通り「(ダンスのステップのような)足取りを踏む」の意を強く感じさせる。


 しかし、このsteppin' を「段々」(stepを「階段」としたのか)とした黒丸訳のセンスは一見すると理解しがたい。モリイの手の指のインプラントのハンドレザー、指を延ばすと長短段々になる刃にひっかけてあるのかもしれないが、それだけしか意味はないと解釈され(ラスタファリ等にはたどり着かないまま理解され)冒頭に示した類の誤解を招く可能性もある。それとも、足取りが断続的な点、すなわちその粗雑(クルード)さのことか。まだ残っている骨折(センス/ネット襲撃で負い、リヴィエラ戦で致命的となる)のことか。





・スプロール・シリーズの世界(その36)


○豆腐屋ジョニイ


 記憶屋ジョニィ
 ここのサイトに下にある、

>肥満屋ジョニィ 御米屋ジョニィ 御水屋ジョニィ 便利屋ジョニィ

 は、それぞれそれっぽいサイトにちゃんと繋がる。いいのかそんなに手を広げて? もっと繊細(テクニカル)にジオデシックドームの『上の方』に隠れないと、そのうち




・「かわいいイラスト(筆者註:恐らく他意は無い)で読むぜったいにはずさない名作シリーズ」


 つばさ文庫
 初代ガンダムの視聴率が非常に低かったことはよく知られているが、初代ヤマトも割と低迷していた点、その大きな原因が、裏番組が高畑・パヤオらによるカルピスまんが劇場の『アルプスの少女ハイジ』であったことに因する点もわりと知られている。そしてロッテンマイヤーさんはクララすらさしおいて人物紹介の上段である。やはり敵役こそ人間賛歌に不可欠でありその人気は不動であった。





・混沌の王子より勇ましい影の騎士


>物語の舞台となるのは、名門私立・聖ログルス学園。


「聖ぬぞぷり女学園」の姉妹校として混沌の校風を有するらしい



・謙遜者

 以前「エルミンスターの全裸画像」だかなんだか関係で桂正和について触れたところ、何点か質問を受けたので説明する。
 桂正和はあれほど尻を下品に描ける漫画家がいるだろうか(反語)との評を集める尻漫画家として有名であるが、実のところ、活動のきわめて初期に既に、『ウィングマン』の巻末読者コーナーでこの点についてツッコミを(しかも女性読者から)受け、「本物を見て研究でもしたんじゃないか」などと指摘されていた。
 これに対して桂正和は、自分はデザイン学校で人体デッサンを訓練したことがあり、本物の人体を見て描く研究は画家や漫画家は誰もが勉強として行わなくてはならないことである(だから自分は変態とかではない)と、職業背景について実に丁寧に、誰しもが納得する説明を行っていた。


 しかし、よく考えてみるとこれは根本的な疑問に対しては、何の答えにもなっていない。「漫画家の誰もが勉強として行うこと」というならば、なぜその同じ勉強をした漫画家全員の中でも、突出して桂正和の描く尻だけがずば抜けて下品なのか、という理由が、そのどこにも見当たらないからである。
 ひとつ考えられることとしては、「これは誰もが訓練すること(たいしたことではない)」なる言い訳は、当時は、まだ若かったこの作家の(女性読者に対する)弁解としか読みとることができなかったのだが、実際にはこの時点で、すでに彼の「謙遜」であった可能性である……





・A&F P.フィッシャー『魔女復活』


 尼損


 コナンシリーズの「魔女誕生」とは関係ない。魔剣伝説の続編。仲間たちの旅の物語に徹していた前作とはうって変わり、かれら個々の運命の流転や、外部との相互の関係がめまぐるしく変化する様が描かれる。二番煎じにとどまらず、世界を拡張する続編の醍醐味である。

 が、相変わらず、主人公の最大の見せ場と思われる場面が、よりによって珍しく別キャラに視点が交代した時にかぶってしまい、さらにその交代したキャラが寝てる間に終わっていたりする。



・聖夜にカンビオン誕生編


 google検索 - サタンがママにキスした 0件





・A&F P.フィッシャー『魔剣伝説』


 尼損


 古本屋で見かけ、ゲームブック等の教養文庫の折込チラシで題名などは目にしていたものを思い出したように購入。しかし考えてみれば現物を見たのははじめてではなかったか。
 少年達の冒険成長物とエピックがらみのメインストーリーの二本軸で進む。ベルガリアード等と同様、友情とユーモア会話おりまぜて進む少年達の姿は暖かく楽しく、メインストーリーの流れは冒険ファンタジーの王道で無理なく進む。

 しかし、メインストーリーのイベント個々がものすごく呆気ない。ポチっとなで終わっていたり、寝ている間に終わっていたりする。



・MAZOKUっ娘メーカー


 診断メーカー

>ビオりんは『肌の色は褐色、瞳はジト目で青色、ツインテールの赤色、
>ニャンデレな、素敵なエルフ耳を持つエルフっ娘』です。

うわーい! やったあ





・本日のひだまりスケッホ


 いつも通りのガンダムWとXの、最初から皆あまりやる気のない叩き合いスレにて


>292:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/19(火)
>ザッとな記憶で

>Xは、能力ある人が戦えばいいの? 違います。大切なのはそれぞれの意志です。
>Wは、強いから勝つの? 勝つからヒーローなの? 違います。強くても負けます。

>負けてなお諦めない人がヒーローです。

>近い時代の作品だなあとは思う



・ふと『グラムドングリ』でぐぐってみると


 ドングリクッキーの作り方がヒットした。

>「薄力粉 120グラム ドングリ粉末 大さじ3杯」

 クラム(たらふく)、ぐりとぐらのクッキー、読んでいるだけで心がFT世界にさまよい込む……





・スプロール・シリーズの世界(その35)


○「オノ=センダイ」は「ホサカ製のデッキの商品名」なのか、「ホサカとは別の会社の名」なのかいまだに人々は迷う


 しょうがないなあ。興味がない人には本当にどうでもいい情報なので、ここだけでなくその3も読んでとか言って済ませたいところなのだが、もうこうなったら引用してしまった方が早そうである。何かのインタビューでギブスンが企業名だと言っていたような気がするのだが、筆者にとっては当たり前のことなので場所をメモったりしていなかった。しょうがないので本文から抜粋する。


>The way I figured it later, they must have amputated part of his left thumb,
>somewhere behind the first joint, replacing it with a prosthetic tip, and cored the stump,
>fiting it with a spool and socket molded from one of the Ono-Sendai diamond analogs.

>あとでぼくが考えてみたところでは、男の左拇指が、第一関節の先のどこかで
>切断手術を受けていた。代わりに人工の指先をつけて、その芯を抜き、
>中にオノ=センダイ人工ダイアモンド製の糸巻きとソケットが仕込んである。
(『記憶屋ジョニイ』 早川文庫版p26、強調筆者、以下同じ)

 このOno-sendaiを「人工ダイヤモンドのメーカー名」らしく解釈を加えているのは黒丸訳としても、少なくともこれが「電脳空間デッキ」の商品名ではないことは、原文からも明らかである。何度も繰り返すが、『記憶屋ジョニイ』の時点では電脳空間自体がシリーズに存在していない。



>Where do you go when the world's wealthiest criminal order is feeling for you
>with calm, distant fingers?
>Where do you hide from the Yakuza, so powerful that it owns comsats and
>at least three shuttles?
The Yakuza is a true multinational, like ITT and Ono-Sendai.

> 世界でいちばん豊かな犯罪結社が、静かに、遠回しの指先でこちらを探ってくるとき、
>どこに行けばいい。”ヤクザ”から隠れるのに、どこに行く。
>敵は通信衛星(コムサット)群や少なくとも三機のシャトルを所有するほど強力なのだ。
”ヤクザ”は本物の多国籍で、ITTやオノ=センダイばりだ。
(『記憶屋ジョニイ』 早川文庫版p29)


 余談だがITTという社名はここ以外には一切出てこない。AT&Tか何かの発展企業を想像させるが、スプロール・シリーズのネーミングセンスから考えると、日本のNTTが母体であるものを想定していると思われる。(ちなみにルーディー・ラッカーのウェアシリーズには三菱とAT&Tが合併した「ISDN」という巨大企業が登場したが、何かそう言われても妙にへちょいスケールに見える上、ISDNなる社名は今では本当にへちょくなってしまった。)ITTはその名前からまったく推測や想像しかできないが、単に社名から世界規模の通信事業と推測しただけでも(さらには、あるいはその寡占企業かもしれないと考えた場合)スプロールの情報時代におけるその重要性と規模を考えると、これと並び称されるというヤクザとオノ=センダイにもつくづく想像を絶するスケールを推測せざるを得ない。デッキメーカーだとかセガ=バンダイだとか言っている場合ではない。


>A genteel business, stealing from Ono-Sendai as a matter of course and
>politely holding their data for ransom, threatening to blunt
the conglomorate's research edge by making the product public.

>おしとやかなご商売。当然のことのようにオノ=センダイから盗んでおいて、
>そのデータをお上品に人質にとる。商品を公表して
複合企業(コングロマリット)の調査の有効性を削ぐぞ、と脅す。
(『記憶屋ジョニイ』 早川文庫版p44)


 これらのオノ=センダイは多分に多国籍複合企業の名、少なくともメーカー名である。「ホサカの商品名であると共に、ブランド名とか子会社名」かもしれない等と食い下がることも可能かもしれないが、上記の箇所とさらに以下に追記するように、「オノ=センダイ」というものが、「ウィレク、テスィエ=アシュプール、ホサカ・ファクトリイ、マース=ネオテク」といったいつもの定番の抗争劇のグループからは遥かに抜きん出た規模の存在(「ヤクザ、ITT、オノ=センダイ」という上位の抗争グループ)を指している以上、ホサカより「下位」の企業やブランド名を指していると考えるのは困難である。
 ちなみに、『記憶屋ジョニイ』には、「ホサカ」という語も一度も登場しない。



>and, in the teak bureau's bottom drawer, a cyberspace deck.
>It was an Ono-Sendai, hardly more than a toy.

>She remembered the deck he'd used, the one he'd taken with him,
>a gray factory-custom Hosaka with unmarked keys.
>It was a cowboy's deck;

Why, she wondered, had he bought the Ono-Sendai?
>And why had he abandoned it?

>あとは、ティーク材の箪笥のいちばん下の抽斗に、電脳空間デッキ一台。
オノ=センダイ製で、玩具同然。
 (中略)
> ボビイが使っていたデッキは憶えている。出ていくとき持っていったデッキで、
>灰色のホサカの工場特製(ファクトリイカスタム)であり、
>キイにはなんのしるしもなかった。カウボーイのデッキだ。
 (中略)
なぜオノ=センダイを買ったのかしら。
>そして、なぜそれをほうりだしたのかしら。
(『モナリザ・オーヴァドライブ』 早川文庫版p83)


 ボビイは「ホサカ」の工場特製のデッキを使っていたが、姿を消す時もそれを持って去った。しかし、それとは別に、なぜか「オノ=センダイ」のデッキも買ってアンジイの部屋の抽斗に残していったことを、アンジイは不思議がっている。
 「オノ=センダイ製のデッキ」と、「ホサカ製のデッキ」とは、明らかに別々に存在していることがわかる。(なので一部ネットで見られる、「ホサカはコンピュータ」なので「ホサカのデッキ」は存在しない、という認識も誤りである。オノ=センダイ製デッキも、ホサカ製デッキも、マース=ネオテク製のデッキもそれぞれ登場する。)



>Their combined wealth, initially, would barely have matched
Ono-Sendai's outlay for a single process-module of that multinational's
>orbital semiconductor operation,

>両家(筆者駐:テスィエとアシュプール)を合わせた資産も、当初はせいぜい、
オノ=センダイのような多国籍企業にとってみれば
>軌道半導体生産で処理モジュールひとつのための出費に匹敵する
>程度のものだったけれど、...
(『モナリザ・オーヴァドライブ』 早川文庫版p199)


 これらのオノ=センダイを多少無理やり解釈したとしても「ホサカのデッキの商品名」とすることはかなり困難と思われる。



 さて一方で、原文から「『ホサカ・コンピュータ社』製の『オノ=センダイ』という商品名」と解釈できるくだりの方も探してみる。
 この解釈が、ホサカ・「ファクトリイ(続編におけるホサカ社の社名)」ではなく、ホサカ・「コンピュータ」社という語を「社名」と主張している点をヒントにして探したところ、以下のようなものが挙がる。

>The Ono-Sendai; next year's most expensive Hosaka computer; a Sony monitor;
>a dozen disks of corporate-grade ice; a Braun coffee maker.

 この箇所を、

 「オノ=センダイは、ホサカ・コンピュータ社の次の年の最高級品で、ソニー社のモニタと企業グレードのICEのディスクを1ダースほど持ち……」

 等と解釈したということなのだろうか。だが、この文全体が「オノ=センダイというコンピュータ装置の説明」か何かだと仮定した場合、「ブラウン社のコーヒーメーカー」もセットなのは随分とおかしい(スプロール調の洒落っぽく読めないこともないが。ちなみに、上の一式を「コーヒーメーカー」まで含めてアマゾンで一括注文、というジョークが海外ではたまに見られる)。つまり、セミコロンで区切られたものは、全てオノ=センダイとは独立したものを指していると考えられ、「O=S」と「ホサカ・コンピュータ」がイコールでつながっている、とは採りがたい。
 黒丸訳では以下である。

>オノ=センダイ。来年の最高級ホサカ・コンピュータ。ソニーのモニタ。
>企業クラスの氷(アイス)を収めたディスクが10枚あまり。ブラウンのコーヒーメーカー。
(『ニューロマンサー』 早川文庫版p80)

 これも「オノ=センダイ」が「来年の最高級ホサカ・コンピュータ」のことを指している、とは非常に読み取り難いと筆者は考える。しかし一方で、ギブスンと黒丸訳のわかりにくさから、そう読み取る人が出てきても、特に不思議とも思えない。とはいえ、ギブスンの本来の記述の意図を考えた場合、実際のところは上述したような引用、特に、ホサカ社も電脳空間デッキも存在しない『記憶屋ジョニイ』での描写を考慮するのが自然だろう。





・最低でも12人


 google検索 − "重力下のブルツー" 54件


 ブルツーとは、ガンダムの漫画オリジン版に登場したニュータイプで、TV版のシャリア・ブルをちと若くしたような姿に似ているが、性悪で目つきが悪く別人であることは明らかな、悪質な劣化クローンである。異常に小型のブラウ・ブロを、なぜかコロニー内(遠心重力下)で一人で操りギレンに恨み言を言って爆死する。
 初代TV版の、1話限りのかませ犬ながらもナイスミドル紳士NTとして人気の高い(なお、つるっぱげ著の小説版でもそれ以上の人物描写と活躍がある)シャリア・ブルの儚くも高潔なイメージを、このオリジン版ブルツーが数話かけて完全に台無しにしてくれたことで、
「ブルはブルに殺された……」(声:矢尾一樹)
 という内容に他ならないこのエピソードを『重力下のブルツー』と呼んでいたのは自分だけだとばかり思っていたら検索すると結構あった。
 ちなみにこの18巻、話題をさらったようにシャアのゲルググが異常に強くライバル立場的に汚名挽回(誤用)する一方で、それと反比例するように自らをNTと思い上がるその発言はトニーたけざき版シャアかと思うほどに空回りが激しくなっていく(この後も悪化)など、見所が多い。



・SRC話

 「デュエル・ガンダム乗り」が主人公として大活躍する、という売り文句のSRCシナリオを見つけ、ガンダムSEED物は多いがオカッパが主役とは珍しい、炒飯やヅラとの絡みもあるならどう工夫してくるか、等と期待しながら開始した。
 しかし始めてみると、オカッパも炒飯もヅラも、影も形も登場しない。それは、「遊戯王かぶれ」のオリキャラが、一年戦争のMSと公式キャラを踏み台にしていくという名状しがたいシナリオだった。そう、デュエルとはそっちのデュエルだったのである。





・スプロール・シリーズの世界(その34)


○派生用語

 スプロール・シリーズが電脳空間を疾駆する技術の持ち主を「ハッカー」(この呼称はスプロールには一度たりとも登場しない)と呼ばず、「カウボーイ」「ジョッキイ」等と呼ぶのと同様、スプロールの直後の影響にある古典的サイバーパンクの多くでは、いわゆるハッカーには、「ハッカー」そのままではない別の呼称がつけられている。例えば、RPGなどで用いられているものとしては、ネットランナー(ネットライナー)、デッカー、ニューロ、ネットダイバー、といったものである。
 これらが出た当時は、ハッカーという用語は一般には極めて「珍しい」ものであり、クラッカーと混同される等、その意味もまるで正しく理解されていなかった。この極めて「微妙」な用語を、さらに作品独自の新しい概念に対して用いてしまうと、その作中概念を著しく誤解させるどころか、元のハッカーの語義すら混乱・誤解させる可能性がある。そのため、現実のハッカーとは異なる新しい定義である(とされる)サイバーパンクでの電脳技術者に対して、80年代のunixやPCハッカーらとは「異質」なものであることを強調すると共に、そうした混乱を避けるための配慮であるとも思える。(ちなみに当時、米東岸などではunixハッカーのことをその余の者がサイバーパンクと呼ぶことが流行ったというが、当のハッカーらの間ではそう呼ぶ者や、まして自称する者は、蛇蝎のように嫌われていたともいう。)
 しかし、「ハッカーを別の名前で呼んでみた」というスプロールの格好良さに単に倣った、という側面が最も大きいというのが、実際のところかもしれない。


 一方で、いわゆる90年代のポストサイバーパンクやそれ以後では、何のためらいもなく「ハッカー」という語が使われている(それはギブスン自身の『橋』シリーズや、スプロールの90−00年代的焼き直しである攻殻やマトリックスのシリーズも含む)。これは、ハッカー及びネットワークという存在の一般的な知名度が上がり、語義がだいぶ正しく理解されるようになり、つまり、「あえてハッカーと呼ぶ」ことで、作中の理解を助けることになるという、以前とは真逆の時代背景を反映している。
 (その一方で「電脳空間(サイバースペース)」という用語については何の配慮もなされず、スプロールの定義でなく、まるで現実のインターネット、ひいては非ネット含めコンピュータ内空間をなんでも指すかのように用いられることになったため、こちらの用語は大いに混乱・誤解、ひいては蹂躙されることになった点は、以前に述べている。)


 古典的なサイバーパンクのRPGに話を戻し、これらのゲームではあくまで電脳技術者の一般名称は「デッカー」「ニューロ」等である。しかし、これらの作品のファンやゲーマー間での二次的設定やキャラ設定、独自世界設定では、デッカーやニューロの中でも最高級の腕を持つ者が「カウボーイ」と呼ばれていることがある。これは複数のゲームの派生、複数の作品、複数のファンにおいて、まるで申し合わせたように見られる。
 スプロールシリーズにおいて、電脳技術者を指すカウボーイやジョッキイという語はそれぞれ微妙にニュアンスが異なるが、特に「カウボーイ」が凄腕の者だけを指すといった事実はない。
 にも関わらずこれらの派生作品のファンの間で、申し合わせたようにカウボーイが「ハッカーの中でも凄腕」の意で用いられるのは、誤読している場合もあるかもしれないが、そこまで含めてギブスンやスプロールへの敬意である、という側面が強く感じ取れる。
 (余談であるが、80年代のスプロール模倣時代には、「カウボーイ」という用語の方は、W.J.ウィリアムズ『ハードワイヤード』のように、いわゆるハッカーとは別の語義及び個人呼称という、スプロールへの敬意であってもかなり別の形で現れていた。)





・引用

 このサイトからAD&D等の設定について他所に引用されるとき、ツイートであれ掲示板であれ、ほとんど必ず「D&Dではこうなっているらしい」等と引用されている。
 というよりも、特にTRPG界隈外(CRPG関連など)でD&Dシリーズについて言及される際、どの版かを特定せずに、単に「D&D」とだけ表記されていることが大半である。しかし、D&Dシリーズの内容や定義は版によってまったく異なる。アライメントであれコスモロジーであれ、赤箱とAD&D2ndと4版では共通点などほとんど存在しないというくらい違う。なので、版の部分を略して理解しようとしたり流布するのは非常に危険である。いくら表記や説明が面倒になろうとも、AD&D1stと書いてあるところから「A」を間違っても抜くべきではない。



・派生

 wikipedia - タロットカード

 実に2007年に至るまで、タロットカードの記事はカードの説明はわずかで、あとの残り、つまり各カードのページ全体の8−9割ほどは、「フィクション作品におけるタロットの扱い」なるもので埋め尽くされていた。「星」のカードなどはかなりましな方で、暗示によってはさらにカード自体の説明がほとんどないこともあった。そのフィクションも、ジョジョ3部やN◎VAは避けられないとして、極めつけは「『まほらば』の描き下ろしタロットカード「まほタロ」では○○にこのカードが割り当てられている。 」である。あたしゃよっぽどセンチメンタルグラフティ(正確にはアニメ版ジャーニー)タロットカードでも追記しとけとか思ったよ。
 タロットに限らず、またwikipediaに限らず、本来必要な最低限の情報すら等閑にした上で、真っ先にこういう「フィクション作品における〜」ばかりが充実し、それだけで埋め尽くされる記事というのは少なからずある。結局のところ、それを追記する者(そのフィクションのファン)にとってはその記事においてそれが「最大の重要事項」ということである。その情報が何かの役に立つかは、記事次第というところだが(例えば歴史人物の項目から、その人物が描かれている時代小説を探すときなど)タロットの場合、カードの意味を調べに来たそのフィクションを未読の者にとって、そのカードが「知りもしないフィクション中でどう扱われているか」なる情報の価値はどうにも疑わしい。
 その後、タロットの項目は全て、画像の削除など紆余曲折があるものの、現在では「フィクション作品における〜」の項目は全削除される一方で、カード本来の説明文はかなり分量が多いものとなっている。





・絶対ヒーロー診断計画


 『説明しよう!ビオりんは大切な誰かを守るために、体内から湧き上がるエロパワーで戦う“太陽の子”の異名を持った未来の世界のメタルヒーローである。』

 ゆきぽ姫ぇ〜愛してれぅ〜



・僧侶切り


 面子が揃わないというのはTRPGでは深刻な問題である。古典的なTRPGでは「戦・僧・盗・魔」の「4大役割」を揃えることが推奨されており、多くの局面ではできればこれ以上、5〜9人とかの人員が欲しくなったりもするのだが、4人のプレイヤーすら揃わないことも珍しくはない。そんな場合、「戦・僧・盗・魔」の誰を切るか、誰を兼業させるかというのが、筆者の周囲のプレイヤーらの間でしきりに議論になっていたことがあった。
 しかし、その議論に加わってきたひとり、周りの面々に対してかなり若いプレイヤーが、

「一番要らないのは回復役(僧侶)だ」

 と発言したのである。その理由は、

「TRPGで『プレイヤーキャラが傷を負う』などというのは、『不慮の事故』だから」

 というものだった。
 「僧侶がいない」くらいなら「僧侶しかいない」というパーティーの方がまだよっぽど現実的だ(※1)とかいう認識を揺るがないものにしていた熟年プレイヤーたちは、あまりのことにまさしく絶句した。それはジェネレーションギャップとか、マゾヌルプレイヤー間の決定的断絶とかそんなチャチなものでは断じてなく、もっと恐ろしい、音を立てて切り替わる「時代の変革」の片鱗を味わった、という確信だった。
 その後さらに時代が下り、その当時から比べても、戦・僧・盗・魔のような形でロールを分担するようなシステムはさらに減っている。D&D4版ですら僧侶(回復役)でなくとも回復ができるようになっている。


※1 昔話のような言い方こそしているものの、実はD&Dでは2000年代、3.Xeに至るまで本当にそうだった。というか選択するルールによっては「4大役割」なんぞ揃えるよりも「僧侶4人だけ」の方が遥かに強い場合があった。もっとも、単にこれは明らかに僧侶が強すぎたという3.Xeの歪な点でしかない。





・火星年代記

 『火星年代記』の年表開始時期は当初1999年だったのだが、作者が97年頃に「2030年」へと延ばした。
 2012年現在、すでに延ばした期間の半分の15年が経過してしまっている。しかし、再度この期間を延ばすことができる者はもういない。
 年代がどうやっても追いつかなくなることはどんな古典であっても、というより古典であればあるほど避けられない。そして、古典であればあるほど、その年代云々は(作者がどう思っているかは別にしても)些細な問題である。



・スネ夫+エレガント

>南青山の細道に佇むセレクトショップ、ギャルリートロワトレーズへようこそ。
>いつまでもエレガントで美しくありたいと思う女性へ


「トレーズ」だけならまさしくエレガントだがつい「トロワ」が余計だと思ってしまう筆者は某スレッドの影響を受けすぎた我が身を感じた。





・ローグライク今昔物語 〜 「クロノクル、白いヤツを手向けにしてやる! そしたら……はずれた!? なんで!!」

 Vガンダム最終話のこの場面は、単なるカテジナさんの「最後の最後でドジっ娘炸裂」(アンサイクロペディアより)だと筆者も19年間まったく疑わなかった。Roguelikeでも、最後の最後で失敗率が5%や10%の魔法や打撃に命をあずけると必ず失敗するとか空振りするとか、あるあるネタのリアルさである。

 が、現在のファンの間では、「この時点ですでにカテジナの視力が弱っていたため」という説があるらしい。だとすれば、これはRL的な側面では「コンディション管理不足」を示しており、さらに過酷な教訓を与える事例である。RLは熱くなったらそこで試合終了である。



・木の髭で思い出して調査


google検索 - 2012年6月現在

髭ガンダム 7180件
髯ガンダム 54件
鬚ガンダム 43件

 かなり正確である。木の髭や踊る子馬亭やアラルゴンに比べても正確性は高い。このあたりを以前も言及したガンダムと指輪のネット利用体質の差としてあわせて提唱してみる。
 なお、ガンダムDXもヒゲガンダムだという表現がよくあるが、W0やDXは髯である。





・ムーミンの都市伝説


>ムーミンは核戦争後の世界、ムーミン谷の生物は放射線による突然変異種
>ミィは肉親を失ったショックで幼児退行した老女
>スナフキンは流れ着いた敗残兵で人類最後の一人
>冬眠するのは核の冬で皆が死ぬことの暗示


 そりゃムーミンパパがソリッド・スネークだしスナフキンは2500年演習を続けてきた武門の最後の(略
 ヤンソン女史の原作は、元々が充分すぎるほどに陰鬱な雰囲気を持っており、特にこういう発想を無理に挟みこむ必要を感じさせない類のものである。はっきり言ってこんな設定より普通に行間を想像しながら読んだ方が遥かに怖いのがムーミン原作シリーズである。カフェオレにクリープを入れるようなもので、無意味でもないが効果の程は疑わしい。
 なので、原作未読者によるものか、あるいはアニメ版のみの視聴者を対象に、故意に意外性のみ狙って創作された可能性が高い。

 とはいえ、「本当は怖い和みアニメ」説のアニメが元々原作の方はかなり殺伐としていることもよく知られた上で流布されるのは、ドラえもんなどにもあることなので、これをもってのみ、原作未読者が流布した都市伝説、と断じることはできない。
 が、ミィの肉親についてや、スナフキンを大人・人類のように解釈している点からも、やはり、この説はアニメのみ、それも(原作に忠実な)平成版(90年)ですらなく旧版(69年)・新版アニメ(72年)のみの視聴者から出た説に由来しているのではないかと思われる。
 しかし、だとしてもこのネット時代に旧・新版アニメのみ準拠の都市伝説が何故に広がっているのか、という疑問は残る。というか、ムーミンはいまどきのネット民の間にも充分に有名なのだが、かれら一般の「ムーミンに対する認識」はいったいどの媒体に準拠しているのかときどきわからなくなる。旧・新版のビデオソフトは存在せず、平成版も少し前まで絶版ではなかったか。



・ローグライク今昔物語 〜 おにぎり化ファイエル


 google検索:妖怪にぎり元帥 8件

 これは誤字なのか空目なのか本気で勘違いなのか判断に悩む





・スプロール・シリーズの世界(その33)

○電脳不死

 ルーディー・ラッカー『ソフトウェア』では、人間をすりつぶして全情報をとれば、ソフトウェアでしかない精神・自我を完全にバックアップできる。老人だがこのあたりについて認識の進んでいるロボット工学者のコッブ・アンダスン博士は、自身ロボット体に精神を移入した自分は不老不死になった、と主張する。が、若者だがロクデナシで頭が悪く多分にアナログなスタアン(ステイハイ)・ムウニイには、それが信じられない。コッブがすりつぶされて培養組織の材料にされる場面を見ていた(実際、むちゃくちゃグロい場面である)スタアンにとっては、コッブは確かにあのとき死んでおり、今目の前にいるのは、「無関係なロボットが何かコッブの真似をしているだけだ」としか思えない。
 RL界隈ではおなじみのイーガン『ディアスポラ』では遥かに文明が進んでいるが、やはり肉体を離れる「移入」について、拒む思想のグループというものがいる。

 このあたり、「移入した個人は前の個人と同一性が保たれるのか=移入は不死たりえるのか」はサイバーパンクではメインテーマのひとつだが、スプロール・シリーズではどうか。結論から言うと、世界設定一般としては、それらしい・それに近い技術はあるものの、電脳不死・移入を実現するにはほど遠い技術レベル、というのが原則のようである。

 代表例として、人間(たいていは死んだ人間がそうなっているが、どう作られるのかわからない)の記憶から作られ、その人間を真似ることができるユニット「ROM構造物」が頻出するが、これは勿論、上述の『ソフトウェア』作内から比べても、遥かに精度が低い。
 ROMというのは書き換えできないということだが、つまるところ、「精神のある時点で固定されていること」を意味する。ROM化したディクシー・フラットラインの技術について「ROMのやることは予測しやすい」とも評されているが、思考もある意味硬化しているものと思われる。フラットラインは同じ台詞ばかり言うが、これは老人だから硬化しているのかROMだから硬化しているのかはわからない。
 これに対してAIニューロマンサーが『全面RAMで作られた精神』なのが凄いというのはどういうことかというと、自分を常に書き換え、本物の精神のように進化成長したりゆらいだりすることが可能なシステムなのだと思われる。なぜ同様に人間をRAMに移入した「RAM構造物」を作れないかといえば、RAMに移すこと自体よりもこうしたシステムの構築自体が困難そうである。(ちなみに、スプロールと同じ設定かはわからないが、『冬のマーケット』で電脳プログラム化したリーゼは「芸術創作能力」までも維持しているので、硬直したROM構造物よりはレベルは高そうである。)
 書き換え不能であるということ以外にも、ROM構造物に対して生前に比べれば「こだま」「名残」「ホログラム」といったものでしかない、といった言及が繰り返され、きわめて不完全なものであるらしい。自分が不死を得たと信じた『ソフトウェア』のコッブとは異なり、ディクシー・フラットラインは、こんな状態で存続するくらいならいっそ消してもらいたいと、自覚すらできるほどである。

 これに対して、3ジェインやヨゼフ・ウイレクは、本当に不死になる手段を探していた。これは、従来のROM化のようなものでは、真の不死には到底不十分な手段であることを意味する。そしてもうひとつ、重要なことだが、この作品世界には、どこかには「真の不死」がすでに存在するという、何らかの噂がすでに流れていたことを意味する。
 『ニューロマンサー』や『モナリザ・オーヴァドライブ』のラストに現れるのがそれならば、この作品世界ではロア(電脳神)によってのみ可能であるのかもしれず、やはり詳細はわからない。上述のAIニューロマンサーのシステムのようなものに自らもなれるのか、そのシステム(あるいはその後身、マトリックス)の一部に取り込まれるに過ぎないのか? といった問題に踏み込むとROMに関するこの項目の手には余る。





・スプロール・シリーズの世界(その32)


○「オノ=センダイとホサカはどっちが優秀なコンピュータを作ってるのですか?」

 これって本当はダブルオークアンタとゴッドガンダムはどっちがつよいですか的に、確信犯(誤用)的に故意に「何の意味もない質問」をしてるんだろうなぁ……あとはスプロールにそんな設定はないんだろうとか、あるいは読者は把握してないんだろうとか揶揄られている可能性もあるぞ。
 ちなみに「優秀なコンピュータ」自体を作るかどうかはこの世界ではある程度以上からはほとんど意味はないと思われる。問題は売れているか、普及しているかどうか、普及するものを送り出せるかどうかの総合的な企業力である。オノ=センダイ・サイバースペース7はベース品や普及品で、それ自体が高性能モデルだったわけではないのだ。

 『カウント・ゼロ』ではシリコンの時代を塗り替える「生体素子(バイオチップ)」が登場し、マース=ネオテクがその生体素子の技術を使って作った当代髄一の電脳空間デッキを、カウガールのジェイリーン・スライドが貸与されて使用する。このジェイリーンは、ボビイ・ニューマークがジャマーからこれも貸されたオノ=センダイ回路の超級デッキ(オートマティック・ジャック作)と電脳空間内で対峙し、「博物館モノ」と評する(ただし、この接触で、ジャマーのデッキを操るボビイが素人同然だったにも関わらずアドレス情報を奪われていたのはジェイリーンの方で、ジャマーはジェイリーンを「何もわかっちゃいなかった」と評する)。つまり、一般的には、マース=ネオテクの生体素子はオノ=センダイのシリコンをはるかに上回る新式である。(ちなみに、サイバー機器としては技術力頂点に位置する『AI』も後の時代には、すなわち<撮影連鎖>もコリンも、マース=ネオテクの生体素子をそのハードウェアとしている。)
 ここで、ホサカ・ファクトリイはずっと後の作品までこのマース・ネオテクのライバル企業としての位置を継続しているので、ホサカの製品が技術的にもマース製品に対抗できる品である可能性は高い。したがって、ホサカの製品はこの時点でオノ=センダイ(の市販品)を大きく引き離している。

 なお、『モナリザ・オーヴァドライブ』の時点(『カウント・ゼロ』からは7年後、『ニューロマンサー』からは15年後)では、ボビイ・ニューマークが使用しているのはオノ=センダイではなく、「ホサカ・ファクトリイ・カスタム」である。ただし、これは黒丸訳の通りの「ホサカの工場特製」なのか、それとも「ホサカのファクトリイカスタムという製品」なのかは定かでない。一方、同作のロンドンのカウボーイ、ティックが使用するのは、マース=ネオテクのデッキである。どうやら、この時代になるとホサカとマースが一流のカウボーイ用品のツートップであるらしい。といっても、ボビイやアンジイは別に「玩具同然のオノ=センダイ製のデッキ」も持っているので、別にローエンドや改造ベース品としては、オノ=センダイのデッキが淘汰されたわけではない。





・ローグライク今昔物語:一巡した世界

 古典的RLではプレイヤーキャラが死ぬとそのレベル等は最初に戻る。この死によって戻った後の新しい探索での世界だが、前の探索の世界とはまったくの別世界(あたかも別のセーブデータ)なのか、同じ世界なのか。
 *bandでは最初からスタートになると、博物館や家のアイテムも無い状態になり、ユニークモンスターも生きている状態から始まり、クエストもリセットされる。基本的には、探索のたびに別世界がふたたび始まったと見ていい。クイックスタートならば初期数値や思い出文章だけは残るが、ある程度前の世界との共通点を残す別のアンバーの”影”の世界なのだろう(後述するが例外もある)。
 NetHackは微妙である。前の死者の骨ファイルが残っていることがあるので、*bandよりは前世界とのつながりは強い。
 一方、プレイヤーキャラのレベルやアイテムが戻される以外の要素はほとんど継続するようなRLもある。例えばシレンでは倉庫に入れてあるアイテムはそのままで、ユニーク(魔蝕虫)は復活せず(イェンダーやワードナとは異なり潔い)、NPCと起こしたイベントも継続途中のままである。これらは探索のたびに同世界の出来事で、プレイヤーキャラが「力尽きる」は、プレイヤーキャラだけがその時点で所持しているものを失うことしか意味しない。

 しかしこの「ユニークが復活しない」で気にかかるのがシレンでの迷子少女スララである。オヤジ戦車の砲撃に巻き込まれてスララが爆死し、奇岩谷の両親に合わせる顔がないという思いは誰しもが味わったことがあると思われるが、このスララは(魔蝕虫と異なり)爆死した次回以降の探索でも、平然とまた迷子になって出てくる。これはペケジ他のNPCでも同様なのだが、考えてみればペケジなどは爆死して再登場しても前の探索のイベントで上げたレベルが継続しているではないか(シレンさえ継続できないにもかかわらず)。
 この理由としては、スララやペケジの爆死は死亡したり力つきたのではなく、*bandでの「*破壊*でユニークがその階層から一時だけぶっとばされた」のと同じ効果が発生し、単に再生成待ちになっているといった考察をしておくのが無難である。スララやペケジの死亡確認は王大人が行ってるとかAIR(ryとかいうのはさすがに考えたくはない。ちなみに*bandでも、一部バリアント(例えばMangbandの一部設定)のように、死んだユニークがそのままになっているが、時間が経つと再配置される場合があり、これも同様である。



・『魔導物語』のシェゾやサタンのモデルは、タニス・リーの『闇の公子』だが

 考えてみればこれを知ったのが『闇の公子』を読んだ後でよかった。本当によかった。もし『闇の公子』の方が後だったら初読でのあのアズュラーン公子にシェゾがちらついたりしたところだったかもしれないなどと、想像するだに恐ろしい。





・スプロール・シリーズの世界(その31)

○電脳空間デッキ


 Wikipedia 『ニューロマンサー』(2012年3月17日現在)


>デッキ
>カウボーイが「ジャック・イン」するのに使用する端末。平べったい皮膚電極を額につけて使用する。
>「マトリックス・デッキ」や「シムスティム・デッキ」などがある。

 「デッキ」という語を、カウボーイが没入に使用する端末、とくくるのはかなりの語弊がある。電脳空間デッキはともかくとして(これも後述するようにカウボーイだけが使うわけではない)、擬験デッキの方はむしろ、一般人が娯楽用に使用するのが大半である(『クローム襲撃』でリッキーが使用し、オートマティック・ジャックがそれを修理していた)。『ホログラム薔薇のかけら』の「ASPデッキ」も擬験デッキによく似ている。
 通常の擬験(シムスティム)は、スーパーアイドル(タリイ・アイシャムやアンジイ・ミッチェル)が体験した記録(擬験ソフト)を、一般人が擬験デッキを使って疑似体験する娯楽である。娯楽としての通常の擬験デッキについては、カウボーイらはむしろ嫌悪する描写もある。(肉体を離れて活躍するカウボーイが肉用の玩具や受動的な擬験ソフト体験を見下す等、理由は様々に書かれている。)
 しかし、『ニューロマンサー』では、フィンの説明によると、ケイスの「電脳空間デッキ(オノ=センダイ)」に「擬験ユニット」をとりつけることで(そしてモリイに発信機をつけることで)、ケイスの電脳空間デッキに擬験の機能も持たせ、転換(フリップフロップ)スイッチで自分で機能を切り替えられるようになっており、モリイの体験を(ただし記録ソフトでなく、発信機からのリアルタイムで)ケイスが擬似体験できるようになっていたのである。電脳空間内にディーン商会やフィンの姿(仮想現実的な擬験情報)が現れるのは、このオノ=センダイにとりつけた「擬験ユニット」の機能で、オノ=センダイ自体の機能ではないし、ケイスが擬験デッキを使っていたわけでもない。(ただし、『カウント・ゼロ』『モナリザ・オーヴァドライブ』になると、電脳空間デッキでのマトリックス内にも仮想現実的な表現が増えてくる。)

 これはまったくの余談となるが、電脳空間デッキの方もカウボーイだけが使用する端末というわけではなく、ただのジョッキイ(ワナビ(ホットドガー)含めた没入者)、企業の操作卓オペレータ、一般人、数学を習う小中学生までも頻繁に使う(『クローム襲撃』『ニューロマンサー』『モナリザ・オーヴァドライブ』より)。このシリーズのカウボーイやジョッキイは(後のサイバーパンクのように)特殊な脳手術や電脳化などをしているわけではなく、電極さえ額に貼れば誰でも没入できる技術だからである。


 次に、「マトリックス・デッキ」という言葉だが、これは冒頭の千葉でのアーミテジの昔話には出てくるが、「電脳空間(サイバースペース)デッキ」に比すると、このシリーズ内での一般名としては適当ではない。『クローム襲撃』では、同じオノ=センダイ・サイバースペース7に対して、電脳空間デッキではなく「マトリックス・シミュレータ」という名が使われていた。この作品の時点では後の電脳空間にマトリックスという名がついており、「電脳空間(サイバースペース)」は一般名詞ではなく製品名の一部でしかなかったためである。これらを併せると、後の「電脳空間デッキ」に比べて初期のものを指すのではないかと推測もできる。

 しかしながら、ここくらいしか出てこない「マトリックス・デッキ」という言葉は、読者の間ではやけに普及しており、ネット上や派生創作にもやたらと見られる。これは例によって千葉(チバシティ)の箇所まで読んで放り出した読者の多さが一因ではないかとも邪推できるが今回そのあたりは省略する。


>ケイスに与えられたのは、オノ=センダイ社製の「サイバースペース7」という高性能モデル。

 オノ=センダイ・サイバースペース7(O=S・Cs7)は、『ニューロマンサー』の数年前の『クローム襲撃』の時点(『カウント・ゼロ』では、『ニューロマンサー』が8年前、『クローム襲撃』がこの時点で10代のボビイ・ニューマークの誕生前の出来事とされている)で、すでに「どこの企業にでもあるような」普及品である。要はO=S・Cs7とは規格化・画一化されて他に選択肢がなくなったようなハードウェア、しかも非常に長寿の製品を指す語である。以前は執筆時代背景からApple ][になぞらえたが、「O=S・Cs7」という言葉自体はその長寿と普及度からは「IBM PC」あたりの言葉に近いのかもしれない。
 したがって、いわゆるPCが初代IBM PCのi8088(内部16ビット外部8ビット)機から現在の64ビット機まであるのと同様に、O=S・Cs7という名前だからといって、「高性能モデル」だとは限らない。ケイスやクワインやジャマーのデッキが高性能なのは、フィンやジャックがそんなO=Sをフル改造して使用しているためである。


 wikipediaのこれらの記事から読み取れるのは、スプロールのこれらのガジェットを「1行や2行にまとめる」のがいかに困難か、ということである。いっそ「ヒデオ:細胞からの殺し屋として死の静寂を放つ」とか書いておいた方が問題が少ないというのもわかろうものである。





・フランス語版ホビット


その1

 これはかなり良い。だが、カートゥーン入っているので束教授の受けは良くなさそうである。


その2

 びっくりするほど「兵器の専門家 ファーレン・ホワイデ」に似ている。



・"指輪物語らしい"キャンペーン


指輪物語D&D4版のブログ

 アルダを2ndや3.Xeで再現しようというものはMERPスタッフや個人によるものをこれまでも紹介してきたが、これは第三紀で4版。それはさておき、中でもこれに留意する点は興味深い。

>コラム:"指輪物語らしい"キャンペーン
> 君の中つ国はどんな場所だろうか? トールキンが思い描いたイメージに忠実なところだろうか、
>それとも指輪物語を原作にしたパソコンゲームに近い、派手な魔法や必殺技の飛び交う世界だろうか?

 RLプレイヤーには、*band内で描かれるアルダ要素に対して、「厳密で地味で儚い第三紀」のイメージを求める者はあまりいないのではないかと思う。LotR原作(特に瀬田訳)に比べて、アイヌリンダレやシルマリルリオン、PJ映画版はかなり大味である。*band(特に[変]やToME)とイメージが交差するとなおさらであろう。





・スプロール・シリーズの世界(その30)


○「就職難の中、大学1年から雇用、在学中はアルバイト扱いで卒業と同時に店長 〜 企業が学生を育てる時代が来る」

 ギブスンの初短編『ホログラム薔薇のかけら』では、主人公パーカーは両親と企業との契約で15歳から企業に「年季奉公」していて、20歳になって奉公期限が明けたら正社員になる予定だった(パーカーは19歳で脱走してしまうが)。
 スプロール・シリーズの巨大企業に関しては、明確な記述はないが、おそらく巨大企業の”さらりまん”、企業ニンジャ(ひでお君とかの作られる時点からクローンニンジャはまた別)や、生まれてから企業環境建築物(アーコロジー)から一歩も出たこともない純粋培養技術者等についても、これと同様の人材育成システムが想定されている可能性は高い。
 そういう時代は本当に来つつある。もっとも、作中のこの「丁稚奉公システム」は、ギブスンが執筆当時の日本企業の人事の実情(新卒偏重)とは無関係に、近世の日本の商家の丁稚、あるいはもっと言えばギブスン夫人からキモノ関連経由で聞き込んでいた呉服店の古来のシステムなどを参照して考えた可能性もある。
 このシステムをさらに推し進めていくと、ロジャー・ゼラズニイ『十二月の鍵』で描かれた大企業が子供の誕生時から労働予定の惑星の環境まで計画設定した上でその子供を「ネコミミ亜人」に改造した上さらにその惑星が就労前に爆発して働く場所がなくなった場合のアフターケアまでしっかりというシステムになるが、今回はそこまでの考察は省略する。



・黒き剣の呪い


うちが噂のラムだっちゃ

 ↓ 井辻訳

ウホが噂のラムだっホァ


 <混沌>の領域から降ってくるガチムチのデーモンらしいけど鬼星人やらデビルーク星人やらとたいして変わらないよきっとね





・ローグライク今昔物語:海外版シレンDSパッケージ


 これだこれ。これぞまさにRogue(悪漢)。パン=タンの妖術師の使い魔のようなコッパといい、コナンやランクマーに毎回のように出てくる正ヒロインを鞭で拷問する毒婦のようなお竜さんといい、まさにこうでなくっちゃあ。
 この違いはタイトルの「不思議のダンジョン」と"Mystery Dungeon"のニュアンスの違いにも如実に現れている。他タイトルも一見の価値あり。




・指輪ファンなら足を向けて寝られない名前「アラン・リー」が

 どこかで見た名前だと思っていたらガンダムファイト11回大会のネオチャイナ代表だと思い出すのに15年かかった。






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