SF/FT雑記




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小説版ガンダム(アニオタwiki)


 機動戦士ガンダム(小説版) - アニオタwiki


 小説版ガンダムはその名と存在は知られていたが、その内容についてのネットの把握の実体は長年、実に酷いものだったと言っていい。上述リンクの記事にまた後述の如く存分に述べられているように、アニメとは共通点の方が少ないというほど異なっているが、アニメとどこが違うかと自称ガノタ(非富野信者)が質問されていた際「ラストでアムロが死ぬ」以外にその自称ガノタが何か知っていることはまず皆無であった。
 そればかりか、より”積極的な酷さ”の一例として、「小説版ではジムがG−3ガンダムよりも高性能」などというとんでもないガセネタが数十年間定着しきっていた。かつての旧シャア板では、小説の実際の記述はその正反対であると説明した者に対して「ソースを出せ」(まさしく「小説に書いてある」と言っているにもかかわらず)などと言われる始末であった。日本語版wikipediaやガンダム関連のサイトやゲームwiki類にも書かれ続け、訂正する者が一人としていなかった。明らかに正反対の文言・言及・台詞が作内に複数存在するにも関わらず、それを挙げる者が一人もおらず、要は、現物を読みもせずに周りの言うことを鵜呑みにする者しかいなかったのである。それは富野小説の知名度に対する読者のあまりの少なさに、明らかに直接の原因がある。
 なお、富野小説一般に関するこの状況が改善したかというと、実のところ、ある意味では現在でもそれほど変わっていない。例えば、『リーンの翼』の小説についてwikipediaやpixiv百科の記事は完全版の言及があるにもかかわらず「小説版は白兵戦だけで機関砲くらいしか出ない」、「小説版にオーラバトラーは一切存在しない」などと書いてあるのは、大昔の戦記物の部分のみだった『野生時代版』を指しており、OVAのノベライズでありオーラバトラーらも登場する『完全版』について、現物を確認した者がwikipediaにもpixiv百科にも一人もいないことを示している。
 富野小説が非常に難解で読みにくいことは、こうした状況が定着する「理由」としては十二分に納得できて余りあるほどのものであるが、だからといって、wikipediaやpixiv百科ほど人口の多い解説サイトにガセネタを流し続ける側の言い訳としては全く成立しない。

 ともあれ、小説版ガンダムI-IIIについては、トミノスキー粒子恒常摂取者らの間では完全に基本教養として扱われていたにも関わらず、それを恒常摂取者以外に対してまともに解説したり、上述のとんでもない齟齬を正そうとするような動きはネット上には皆無だった。
 そこに持ってきて、アニオタwikiのこのページは少し前からやけに記述が強化され、かなりの分量が設けられていたが、現在、さらに半端ないほどに冗長化している。とぅるっぱげ監督がアニオタwikiのブレンパワードの記事の詳しさに言及していたので、執筆者が気合を入れたという可能性もないでもない。
 ストーリーを全部書き起こすような姿勢には疑念も出ようが、富野小説は全般、トミノスキー粒子常用摂取者以外にとっては、文章の難解さからとても読めたものではなく、実際に読むのを人に勧めるのは現実的ではないため、こうしたサイトで概要を掴めるのも有用かもしれない。が、ただし、鵜呑みにすると読み違えに由来する前述のジムに関する凶悪なガセネタのようなものを掴まされないとも限らないので、使い方次第である。

 例えば、この記事では、この小説版とTV・劇場版との差異は徹頭徹尾「不可解なもの」として記述してある。執筆者はTV・劇場版について、1990年代(ガンダム0083〜08小隊, MG1.0ガンプラなどの際に徹底的に設定の見直しが行われたもの)以降の後付け設定を大前提知識にしていることが強く推測できる。
 実際には、小説版の1stアニメ版との差異には、「TV以前の没になった初期設定が小説に反映されているもの」と、逆に「TV後期に設定変更された方に小説が反映された結果TV前期とは合わなくなっているもの」が混在している。没設定が小説に出ているもの(いわゆるトミノメモとも異なる点が多い)は数多いが、例えば小説版Iでアムロらが軍属でサイド7で操縦訓練しているのは、決定前の曖昧な設定の流れをくんでいる節もあり、1st当時の玩具や絵本にガンダーX78等の他「じゅうぶんな くんれん を つんだ アムロが のる。」「アムロはガンキャノンのパイロット候補」などと書いてあったのも、当時のタイアップメーカーには決定前資料が渡されていたためと考えられている。一方、この小説版でシャアがガルマを本気で親友だと思っているのは、前半退場する予定だったシャアが後半路線変更で再登場し(TV前半ガルマを明らかに見下していた「復讐者」から、後半のキシリアとの会話のような「NT思想者」に)変更された方が反映されているためである。全III巻中のI巻だけに、サイド7脱出からNT覚醒、エルメス戦までがソードマスターヤマト級にぶっこんであるのは、I巻が売れなかったら続きが出ない予定だったので、I巻に詰め込んであるだけの話にすぎない。
 「ブライトらの乗艦がペガサスで、ネームシップの設定のホワイトベースが出てこない」「『ミスターボール』がボールの正式名称になっている」等の記述について、元の設定ではWBはあくまで「艦級」でなく「艦艇構造・思想(タイプ)」の名称であり(つまり、小説版でも艦級もネームシップもペガサスである)、『ボールさん(Mr. Ball)』はこの作中ではVX-76型の正式名称ではなく”愛称”であるだけの話である。例えばRMS-108型の正式名称は「マラサイ」、”愛称”は「ハチカブリ」だが、Mr. Ballとはこのハチカブリの方である。マラサイがハチカブリなんて聞いたこともないって? Zの方の小説も読めよや





新世界の独裁者


 やはり富野語であるが、とぅるっぱげ監督の「みんなが面白いと思うマンガって概ね絵がヘタクソ」という言葉には、誰もが幾つか思い当たる節があるはずである。その一方で、相反する例も多数、特にその一として、デスノートの小畑健の空前の画力を挙げる人も多いだろう。
 しかし、デスノートにおいては絵の上手さすらも漫画の面白さの「ネタの一つ」である。ネットあまねく膾炙するほどのデスノのあの顔芸の数々は小畑健の線の端正の極みあってこそである。つまり、小畑健の画力もマンガを面白くしているネタ要素のひとつであって、土台であるとかマンガであること自体を単独で成立させている大前提ではない。

 実はここまで前置きであって、今回はとぅるっぱげ監督の話でもマンガの話でもデスノの話でもない。
 『新しい太陽の書』は、旧版の表紙は全盛期まっさかりのアマノッチであって、それはSF/FTとして全く何も言うことがない。一方で、新装版(現版)の表紙が小畑健であることは、SFファンからはネタ扱いされることは少なくない。当時、この大著に時のジャンプ売れっ子漫画家のミーハー線がつくことを本気で嫌がっていた人もいたし、なんだか笑いがこみあげるという意見もいまだに聞く。
 しかし、見かけは冷静淡々とした記述者であるかのように見せかけて中身は空前のスカポンタンであるセヴェリアンには、空前の端正と顔芸を兼ね備えた小畑健の線こそは相応であると思えてならない。





ウィッチャー(原作小説)はなぜギャルゲ臭がするのか


 ウィッチャーの原作小説については、東欧の各用語からスラヴの闇伝承のクリーチャーらの跋扈などのような幻想的な世界が展開されるのだろうと予想していたら妙にごくごく普通に冒険RPG風FT小説的、というかD&D的、というかむしろ初期FF(ファイナルの方のファンタジー)的部分すら感じる空気にえらく拍子抜けしたといった話題の整理はおそらく(ゲーム版がNWN1と関りが深いので、そちらの方で)後日行う。それら以上に最優先でこの作品について特記すべき事項というのは、おそらく半端ない「ギャルゲ臭」であろう。

 もちろんおっかないお姉さんが山ほどでてきて手あたり次第に惚れてきてよりどりみどり、加えて「話の根幹なので攻略不能」なロリの存在も含めると自称伝奇ギャルゲまんまというのはわざわざ説明するまでもないことである。

 が、これらの下地に対してギャルゲを確定させているトリガー的な決定打は、間違いなく吟遊詩人ダンディリオンの存在である。主人公よりも(または主人公とは別タイプの)イケメンでとんでもないヘタレで、話の根幹に対してはまったく役に立っていない男キャラの友人というのは、ギャルゲ自体のはるか草分けの早乙女好雄まで遡ることができるが、地位が固まったのは1990年代半ばというあたりで、ウィッチャーの本国執筆時期(80年代後半〜90年代全体)とちょうど重複する。当たり前だが直接の関係はない。



無闇に富野節ではない富野語録の例4



「それは世間が悪いからだ」と努力しないまま責任逃れをする人もいますが、それはまさに「犯罪者の常套句」であって、他人の考えをコピペしただけですから通用しません。


 自分が成功できないのは周りの社会環境が悪いせいだという逃避的な考えに対して、よくある回答は、だらけてるのが悪いとか社会に反する考えが悪い、とかいうものである。が、そんな面ではなく、「考えが他人のコピペなのが悪い」などという面で断じる。
 この語録は20年近く前の雑誌が初出のものだが、異環境(異世界)に行きさえすれば都合のよいようにいくだとかいう他人の作品を、さらに自分の頭にコピペすることで逃避する(その作品もまた確立した類型のコピペという際限のない入れ子構造)モノの本質にまですでに貫通している、と読んだりもできないでもないような気もしないでもないのだが、先も述べたように富野語録の価値は電波を浴びることであって何かの帰結を読み取ったり何かに応用することではないので特に読みとらずに流す。





マルチャウ


 細いおっちゃんはどうしても生理的に受け付けないという人は多い。栄養失調ガリおっちゃんことHGUC#191をはじめ、横浜F00やビヨグロ注意やGBNベースガンダムの腹を見るたびに初代サムスピのタムタムの細すぎるウェストを思い出して毎夜うなされるというガノタの声はまこと絶えることがない。
 筆者はといえば、もっこしプリンス(可動戦士)を理想と捉えつつも#191をはじめ上記のほか異形といえるほどアレンジされたG40でも、一方でロボというかメカ性を意識しすぎたゴロっとした塊であるMG1.X(および同系統の玩具)やメカ性の現代的スタンダードともいえるG30th(およびMG3.0やRGなど同系統)にも違和感は感じない。しかし、どういうわけか、以前も述べたようにカトキオリジンのみは生理的に後頭部の毛が逆立つような拒否感を感じる。言うまでもなく昔の馬鹿頑(GFFカトキガンダム)には全く違和感は感じないし、カトキオリジンでもザクでは感じない。カトキオリジンガンダムにのみ感じるのは、おそらく(もっこしプリンスに代表される)初代ガンダムの独特の擬人性と加ト吉アレンジの人工デザイン性の融合の微妙な加減に対して、半端な安彦オリジン画稿の脳内記憶が衝突を起こしているに違いない。

 前置きが長くなったが、今回はおっちゃんの話ではない。筆者には「細いおっちゃん」は平気な一方で、「細いピカチュウ」はというと、どれを取ってもどうにも違和感が拭えない。頭部と胴体が擬人的に区別された体型となったピカチュウでも、特に記号化されて頭部が横長楕円となったポケセン版や同形態玩具は全くの別キャラに見える。
 ピカチュウの形態として意識にあるのは赤緑版のゲーム中グラだが、さらに理想的には、アニメ最初期、それに準拠のピカチュウ版(黄版)のゲームグラである。
 このアニメ最初期やピカチュウ版の形態を忠実に再現した立体物がないかと思い探すと、それこそアニメ放映初期に出ていた立体物ならそれなりに存在するのではと思うのであるが、実際には当時の立体物は、赤緑版のゲームグラの方を参照したとおぼしきものが多く(例1)(例2)(例3)しかも赤緑版としてもそれほど再現度は高くはなく、何か初期玩具フェイスといった独特の一連の造形をしている。
 一方、ピカチュウのキョダイマックス形態が、初期の頃の造形に近いと評判なのだが、幾つか立体化されたものは、初期アニメやゲームというよりも、むしろ初期の立体物に近い。どうも故意に旧玩具に寄せているらしいものもある。では次回はアローラライチュウの神秘的な美について語るとしようか……





COCORO


 これは潜水艦や艦隊もので有名なかわぐちかいじによるレオナルド・ダ・ヴィンチの半生伝記漫画である。少年時代から始まり、壮年期に入ってミケランジェロ少年と出会ったところまでで第一部完となって終わっている。
 序盤は義母ら常人に囲まれる(レオナルドの義母は複数おり、漫画のフランチェスカは実際はもう少し後らしい)姿も描かれるが、芸術家修行を始めるともうひたすら変人しか出て来ない漫画になる。言うまでもないが、レオナルドの同門や同時代にはルネサンスの天才らがひしめいており、ボッティチェリや、やや現代知名度の低いヴェロッキオ親方(天使画に彩色したレオナルドの才能に打ちのめされて絵画を止めたという悪評が現代人には流布されているが、ヴェロッキオは当時すでに絵画は手がけておらず、レオナルドの独立時に売り込むためにボッティチェリらが流した噂が芸術家列伝に転載されたと推測されることもある。漫画中この天使画についても多少触れられている)、ペルジーノ兄貴、アルベルティ老などが次々と濃厚キャラムーブを行う。ボッティチェリらはレオナルドの天才(=変人)に感銘を受ける役回りなのだが本人も劣らぬ天才で充分すぎるほど変人である。
 変人たちのさっぱり意味のわからないムーブや言動は引き込まれるものがあるが、一方で「芸術家の精神で政治を行う」豪華王ロレンツォ・デ・メディチの采配に分量と描写が費やされ、おそらくレオナルドの対立主人公として据えられているのであろうが正直どうも過激政治家の描写としてはありふれた域で精彩を欠く。

 今調べてもこの漫画の話題は全く出て来ず、連載当時の事情もわからず、(同作者の他の中断作と同様)打ち切りを食らったという推測がファンスレッドの類で出てくるのみである。最終巻で急に飛行機械や、(早すぎる)モナリザの啓示や、ミケランジェロが次々と出てくるのは終息を意識して描きたい題材を放出したとも考えられるが、話の上で主軸のはずのロレンツォが出てきたとたん色褪せる前巻までの傾向を見るに、続いていたとしてもはたして他の有力な構想があったのかというのは考えさせられる。





無闇に富野節ではない富野語録の例3



(部屋でエロゲばかりしている青年を優しく諭して復学させたいという質問に対して)

 この大学生のやっているエロゲがどんなものかは知りませんが今の電子ゲームのレベルから考えてかなり上質な画像なのでしょう。昔であれば高額のビニ本を買うために艱難辛苦に耐え3週間一生懸命働いたりしたわけです。でも今は、それよりももっと上質な画像が、安く簡単に手に入ってしまう。そう考えると、だらしない若者ばかりになってしまうのは当たり前の話です。だから、大人はハードルを設定してあげなくちゃならないんです。優しくしてあげる必要は一切ありません。



 若者に共感しようとして状況を想像してみる
  ↓
 うらやましくなってくる
  ↓
 若者に辛く当たる


 であるかのような文章の流れ(実際にそうなのかどうかは言葉を額面通りに取らないでいただきたい本人談)はつるっぱげ監督の基本中の基本マニューバ



CRPG


 Pathfinder: Kingmakerシリーズなどのレビューで

 「『CRPG』とは何か? (最初からコンピュータ上で作られた通常の『RPG』とは異なり)TRPGの数値判定などをそのままコンピュータに移したゲームのことを『CRPG』と言います」

 と紹介している例を見かけた。
 日本人が作ったCRPGの歴史解説などで、本来コンピュータRPGの発生過程の説明である「TRPGをコンピュータに移植したのがCRPG」を、完全にそこの部分の文章だけ切り取って読めば、確かにそう読めてしまう可能性が生ずる。
 海外ではRPGはPnP(卓上)RPGなのが当たり前なので(少なくとも2000年頃までは)わざわざTRPGなど呼ぶ必要がなくTRPGという言葉自体が存在しなかったのに対し、どうも現在の日本では、RPGはコンピュータRPGなのが当たり前なので、CRPGなどという言葉自体が存在しなかった、かのように、PfのようなTRPGのゲーム化の話題以外では見かけたことがない、だからCRPGはTRPG物のゲームだけを指すものだと思ったというゲーマーも、いないでもない、ということらしい。
 ゲーム用語は、Roguelike/liteやハクスラのように、何の説明もなく俺定義で使われ続けるものがあるが、一向にゲーム史の正しい認識が普及しそうもない現状を鑑みるに、中にはこんな突拍子もない俺定義がどこかでは定着する可能性もなくはない。





School of Witchcraft and Wizardry


 玻璃ポタのホグワーツの原語、Hogwarts School of Witchcraft and Wizardryについて、witchcraftとwizardryという同じような語が並んでいるのが(よく知られているように、薄い英和辞典にはwitchとwizardは男女の違いのみで同義であるかのように書かれているため)何の意味があるのか、という疑問が日本読者からはある。作中(原語)のwitchとwizardも男女に関して用いられているため、同様にこのwitchcraftとwizardryの方についても「男女の両方の生徒を含む学校」の意である、と主張する読者もいる。一方、和訳では「魔法魔術学校」となっているが、無論のこと日本でも魔法と魔術に厳密な訳対応や定義はない(各作品でされていても作内定義の域を出ない)ため原語解釈に役立つわけではない。
 これに対して、当サイトの用語集を引用されたことがあったらしい。用語集で述べたように(口語的でない意味では)いずれも男女問わず、Witchは呪術師でWizardは賢者(魔法の技術より、使い方の良し悪しを理解した賢明な者)であり、あるいは上記学校名は魔術の「技術の教育」と「賢者としての倫理などの教育」をするという意味もあるのかもしれないが、若干補足する。

 Wizard〜には魔法、魔術という他に、というよりもむしろそれらよりも現代語では遥かに強い意味合いとして「高度・的確な技術、問題解決手段」という語意、用法がある。例えば、UNIXハッカージャーゴンでのWizardryの用法がそれである(詳細は整理されていないが試行錯誤でなんとか動作するように作られたBlack MagicやVoodooに対して、仕組みを高度に理解して組まれたHeavy Wizardryなど)。日本の(現代の)優秀な人物に対する俗語としての「魔術」「魔術師」の、「驚異的」な解決のニュアンスとはかなり違う。
 なのでWitchcraft and Wizardryは「土着呪術(日常的まじない)から高度魔術(産業応用可能など)まで」といった意味がこめられている可能性もある。

 が、一方で、まったく根拠はないが、筆者の感触から言わせてもらえば、単に「似たような単語を並べているだけの学校や学科の名前によくある雰囲気」を出しているという面も大きいのではないか、という気もしてくる。
 上記した通り、WitchとWizardは、一般には性別だけの差であるかのように説明されたり、作中含めそのように用いられていることをはじめとして、日常語では「意味の上での区別はよくわからないもの」とされることが多い。つまり、作品世界中の一般市民にも、ひいては非常にメタ的には、玻璃ポタの小説や映画を見た者のうち(魔術やFT/RPGのマニア以外の)大半には、英語圏であっても単に「似たような単語が並んでいるだけ」のように見えると思われる。
 これがどう見えるかというと、日本の大学にもよくある「生物学科生命科学科生体科学専攻生態学講座」だとかいう、どれがそれぞれ厳密にどういう意味でどう違うのかわからない単語が並んでおり、部外者には全く理解できない、というか、大学当局の都合でつけられたので、部内者にとってもそれぞれの語がどんな意味でついているのか教授から講座希望した学生までだれ一人としてわからない、という例のあれである。





無闇に富野節ではない富野語録の例2



 (読書に興味が持てないという16歳の少年の質問に対して)

 なぜ本を読まなければならないか、という理由をまずお話ししましょう。本を読む──すなわち文章という<言葉>を追いかけて読んでいくことは物を考えるという筋道を勉強していくことになるからです。恋愛を例にすると「僕はA子ちゃんが好き→どうして好きか?→〇〇なところが好きだから」という筋道ができると明快なわけですが「僕はA子ちゃんが好き→なぜか?→なんとなく……」となるとあなたはA子ちゃんとセ〇ックスはできても一緒に暮らせるようになれるかはわかりません。



 本を読まないと一体なにが損になるかのこの例えは果たして16歳に飲み込めるのか。ひいては、「セック〇スはできる」がその先に筋道ができない残念さ、というものがこの少年に直感的に飲み込めるのだろうか。


 (中略)
 読書のキッカケなんて、どこにでもあるはずですよ。あなたの高校の図書館には、間違いなく平凡社の百科事典があるはずです。興味のあること──言ってみれば「女性器」という項目でもいいんです。まずは全部読んでみてください!(中略)ちなみに小生は中学生の頃に百科事典で「生殖器」という項目を読んだ時の「うわっ、漢字が読めない!」という、その屈辱感が勉強につながったのです。



 これだこれ。これこそが顧客が本当に必要だったもの、つるっぱげ監督の発言に対してオタの誰もが今か今かと飛び出す瞬間を期待している歌舞伎俳優の見得のようなフレーズである。さっきとは逆に、どう見ても16歳よりは3〜4歳くらい低い年齢層が対象になっているように見える話題だがそんな些細なことはこの様式美の前にはどうでもよい話である。





テキストキャラ


 Roguelikeの定義(繰り返すが、このサイトでは議論する予定はない)についてかつて筆頭に挙がっていた「キャラがテキスト文字で表現されている」については、挙げる人もめっきり少なくなった。テキスト文字なら『北斗の男』もそうなのかなどとわかった上でまぜかえす人もいたらしい。って北斗の男! 北斗の男じゃないか!!
 テキストでいいなら同じOh!MZ誌で古籏氏がMZ-700で作ったシューティングから映像作品にウィンドウシステムまで全部Roguelikeになってしまう気がするが、割と本気でそう認定してしまう人もいそうな気もする。



化かしあい


 まんが日本昔ばなしデータベース 〜 タヌキと彦市


 これは「まんじゅうこわい」の話の類型のうちひとつである。このタヌキが何かに似ているとずっともやもやとひっかかっていたが、25年あまり経ったある日突然つながった。
 アフリカのウィッチドクター(若いイケメン現代的服装)に勝負を仕掛けにいったのに、いつのまにか炎天下で相手側の家畜群に薬を飲ませていた漆原教授である。





フレデリック・ブラウンのザクがC型でなくF型なのはなぜか


 検索すると、肩だけ黄色に塗られた『MS戦記』のブラウンのザクのガンプラ作例はいまだに多数出てくる。それも、必ずしも作中のコンドーディティールに凝ったモデラーらの作品ではなく、素組の色だけ変えたカラバリという意味で選択しているものが多いことから、逆に、いまだにモデラー以外にも「ザクのカラバリの一例」として認識されるほど、なにげに根強く広い層に知られているようである。

 この肩が黄色い状態で出撃したのは厳密には一週間戦争時のみだが、ブラウンのザクはMS戦記では(例えば入手しやすいMW再販単行本の解説欄などにも)「F型」であると記載されている。
 そこで曰く、ルウム戦役以前のC型を、同戦役後(南極条約後)対核装備を排除したのがF型のはずなので、C型でないのはおかしい、という意見が出回っており、巷説は「こんなジャリ漫画家がそんな詳しい設定を知ってるわけがない」などというところに落ち着いているらしい。
 この作者の世間でのジャリ漫画家扱いは特に反論するもんではないが、MS戦記については原作はストリームベースの高橋昌也ァだぞ。ストリームベースはそもそもMSVの設定を『作った』側である。

 実を言うと、この漫画(1984)当時は「ルウム戦役以前はC型で、同戦役後に対核装備を外したのがF型」なんぞという設定など有りはしなかったのである。というか、思いっきりそれに反する設定が当時は存在していた。
 C型/F型を含む大半のザクバリエーション型番の初出の『ガンダムセンチュリー』(1981)では、C型は単に「初期生産型」、F型は「コクピットや武装搭載システムの改良型」としてしか書かれておらず、ルウム戦役以前以後やF型の対核装備除去云々の記載は全くない。(おまけにセンチュリーでは年表そのものが異なり、戦史は現在のものより遥かに長かった。)ひいては、グフ(07)の箇所の07シリーズの装甲厚の理由として、対核装備が不要になったためと書かれており、逆に言えば、07シリーズ以前は(06F含めて)対核装備は施されていたと読むことができる。07の装甲厚の側面は、1st劇中でも明言・描写されたにも拘わらず、後付設定では全くといっていいほど注目されないが、まさしくMS戦記では特に強調される場面や作者の言葉がある。

 F型がルウム以後に南極条約を受けて対核装備を排除したもの、という設定については、普及したのはガンプラMG1.0やゲームのギレンの野望といった1stの中興・設定再編時代(1990年代半ばから後半)ではないかと思われるが、1989年のEB(エンターティメントバイブル)の一年戦争編にはすでに見えるので、このあたりで既に設定(例えば1990年の0083での大幅な設定整理時の反映など)はされている。
 何にせよ、現在はF型はルウム以後なので、あえてそれとブラウンのザクの辻褄をあわせるとすると、やはり初期はC型で、「ブラウンのザクはF型」という記述は、ブラウンの最終的な(ザクの)搭乗機のみを指す、というのが妥当に思われる。
 すなわち、ブラウンのザクはルウム戦役で一度サラミスの主砲を食らって首がもげ、このとき本人も3日寝込む重症を負っているので、単なる小破ではなくダメージが大きいように見える。その後の地球降下後までに、中破したこの機体をF型仕様に改修されたか(いわゆる06F1/C型)、隊が再編される(部下ができる)際に新たにF型が支給され、このF型を最終的にアムロのG−02にぶった斬られるまで使用していた、といった辻褄合わせは不可能ではない。





ガンダムフェイスとは目が2つあって角が2本あるものという確定


 初代からエアリアルまで、と言いたいところだが、正確には初代でなくZがその確定に重要である。Zがそうならなかった可能性というのが当時は非常に高く、そして、Zがならなければ「2代目の主役機がならなかった」ため確定しなかった可能性が高いからである。そして、それだけが原因というわけではないが、その確定に決定的な役割を果たしているのが、近藤和久である可能性は高い。

 以下は漫画『Z』の最初のBクラブ版単行本をはじめとして、当時のデザイナーらの証言にも幾らか出てくる経緯だが、Zガンダム当時、デザイン時には関係するありとあらゆるデザイナーやモデラーらが呼ばれ、枚数が少ない者でも数十枚のデザイン画を描いて提供していたという。前に触れたように、デザインの完成直前まで角のないデザインで行く話で当然のように進んでいた。変形時にV字の角がどうにも邪魔になるからである。そこに、縦一直線に畳んでおいて頭が飛び出した直後にシャキーンと左右にV字に開くギミック(あの後期OPの構図)にしたらどうかと提案したのは呼ばれていた一人、近藤和久だった。

 つまり、この案が出なければガンダムシリーズの2番目の主役機には角がないままだった。当時のMSVや作例には、ツインアイもアンテナも無いのにガンダムという名がついているものは現在よりも遥かに多い。以後、主役をつとめるガンダムフェイスの多くも角のないシンプルな丸刈りになっていた可能性は高く、少なくとも、以後は角が必須要件にはなっていなかったことはほぼ確実である。Zのこのアイディアの有無が、ガンダムコンテンツ(特に商品)の根幹に影響を及ぼしている。
 言うまでもなく、後のユニコーンの角割れなどもこのアイディアなくしてはあり得ず(なお『MS戦記』の初代ガンダムのバックパックで左右に追加バーニアが展開するアレンジが、ユニコーンのデストロイモード時のバックパックに模倣された、という説もあるが、偶然のような気もする)しかし、近藤氏は自分がかつてガンダムの根幹部分にまで関与していた(正規デザインに呼ばれてそのままアレンジ版がバリエ機体として映像化された例としてはズゴックEやジムIIなどがある)事実を主張するような気配はまるでないまま、ダムエーの片隅に自分と一部ファンしか得しないメカ物を描き続けているジャリ漫画家にしか見えない立ち位置を続けている。



無闇に富野節ではない富野語録の例


 (引きこもりの対策の質問について)

 (今の社会では)絶えず「前向きでなく向上心のない者は社会人ではない」と思われる傾向つまり価値の単一化という現象があります。しかし小生は「向上しない奴、外向的でない人間はだらしがない」という簡単な価値観はひどく偏った考え方だと思っています。



 いやあんた他のありとあらゆるページで向上(こんな質問をしに来る前にあなたの年齢ならとっくに人生の目標を持って努力しているはずですとか)とか外向(アニメだのネットだのじゃなく外に出て他人と交流して吸収しなさいとか)について叱責してるじゃないか。だからこそ、この質問者も引きこもりの対策について助言を頼りにして来たんじゃないのか。
 が、筆者は富野語録を読むのは単に電波を浴びたいためであって、理論整然としたものを読んだりそこから啓示を受け取りたいとかいう目的ではないので読む立場としてはそこに引っかかる点はない。





Forgotten Realms Heroes and Companions(Skyrim Mod)


 (日本語)Skyrim Modデータベース


 日本語データベースの紹介では、

>Forgotten Realms の英雄たちをフォロワーとして追加します。
>ドラゴンランスの登場人物たちが多いですが、一部シリックなどの神様や、ドリッズトもいます。

 となっているが、DL世界のキャラはアップデートで何人か追加されているだけで、4分の3近くはFR世界のキャラである。なお、DLのキャラは最初のシリーズの「戦記」からのチョイスで、これは日本でのガンダムのごとく普及しているDLにおいて、日本ではガンダムの話題になると何かとファーストガンダムの話題に偏重しているのと同様の事情である。

 またFRのキャラは小説版の独自キャラにかなり偏重している。上の紹介では「シリックなどの神様」というが、各能力やミッドナイト等が入っていることからも、「シアリック、ケレンヴォー、ミストラ」という「神」として入っているのではなく、これらは「シリック、ケレンヴァー、ミッドナイト」という前身の「人間の冒険者」として入っているのである。要は、これらの人間時代を描いた小説版(Avatar Trilogy/『シャドウデイル・サーガ』など)由来ということだが、AD&DではHall of Heroesなどにかれらの人間データが普通に「人間の英雄」として載っているなど、人間時代を扱われるのは、日本環境以上に特に珍しいものではない。

 Skyrimでの再現度は話のタネとして扱うのがお約束である。ドリッズトの太すぎる二の腕とかさ。レイストリンはひょっとするといるかもしれないつばさ文庫版とか日本の淑女同人とかが脳内画像の人にはオエー!(鳥のAA略)とかなるところかもしれないが本国原作絵の再現度としてはそれほど低くない。





逆呪文


 またしてもメレブの話だが、このメレブの呪文は、劇中しばしば呪文の綴りの一部をひっくり返して唱えることで効果を逆転させ、解除している。シリーズ3作目終盤で全ての呪文を覚えたムラサキでも、メレブの呪文を解除できない描写があり(呪文でなく特技のいてつくはどうや、T-DQのデロハーのような全ディスペルの呪文はこの時のムラサキには無いようである)珍しい正呪文を知っている者でなくては逆呪文で解除することもできないらしい。
 呪文の言葉をそのままひっくりかえすと効果が逆転するという、それ自体は普通にありふれた発想で、例は数多い。例えばラヴクラフトにも、死者を動かす呪文と滅ぼす呪文が言葉が逆転しているものが出てくる。
 しかし、呪文の言葉をひっくりかえすと効果逆転するものがPnP-RPGのゲームのルールと密接に規定されているものに、AD&DやCD&Dの逆呪文がある。例えばCD&Dでは、幾つかの呪文については「言葉をさかさま(backward)から唱える」ことで効果も逆転するよう呪文を発動、または記憶(後述)することができる。(なお、新和和訳ではこのbackwardの訳が「反対に唱える」となっており、呪句自体の綴りを本当にひっくり返すという意味が非常にわかりにくく、理解されていない例が多かった。)古いD&Dでは呪文準備だけでなく修得も厳しい制限があることが多いが(版によっては、Int値によって修得可能呪文数すら限られていることがある)正呪文を修得すると、逆呪文も同時に修得(ひいては発動可能)となる仕掛けになっている。AD&D1stやCD&Dでは、ライトとダークネス、キュアとコーズ(インフリクト)はそれぞれ逆呪文である。
 無論、ヨシヒコシリーズのそれの元ネタがD&Dシリーズの逆呪文であったり、又は後述のそのさらに元ネタが共通している可能性は(ヨシヒコの作風上)ほとんど考えられず、前記のようにありふれた発想の一致であると思われる。(ヨシヒコでは綴りの全部をひっくりかえすのではなく、アナグラムのようなものになっている。)

 D&Dシリーズに限っては、逆呪文の直接の原型は何かというと、(前記ラヴクラフトも影響を与えてはいるが)例によってガイギャックスが愛読したジャック・ヴァンスと考えられる。例えば、切れ者キューゲルの『天界の眼』シリーズの最終話『イウカウヌの館』では、「強力呪句を逆に唱えたために呪文の性質が逆転した」なるまったくそのままの描写が出てくる。しかも、キューゲルは魔術の心得こそあり記憶もできるものの、専門ではない(T&Tの盗賊同様「生まれつきの素質が欠けている」)のでしばしば発動を失敗し、発動時になって誤って逆転する場合もある。作中でキューゲルは、座布団を動かす呪文で座っていた自分の方が玄関に向かって発射されたり、人間を地面に埋める呪文を逆転したため地面から人間が大量に発射されてきたりする。
 ヴァンスのこれらDying Earthシリーズの(通称ヴァンシアンシステムの)呪文は、知っての通り呪文を使用するには「頭の中に詰め込んで」毎回記憶するものだが、この描写ではどちらかというと、逆転した状態で詰め込んでいる等ではなく、その詰め込んだ呪文を発動(詠唱)時点で逆転するように見えるが、はっきりしているわけではない。

 ここからどのように実装されていったかだが、最初のOD&Dでは、逆呪文の逆転効果は記載されているが、発動に関するルールは後年ほど詳細ではなく、敵の「anti-cleric」が唱えた際に効果が逆転するもの、となっている。つまり、悪の聖職者がダークネスやコーズ系を用いる、といった原型はできているが、必ずしもAD&D1stのように一術者が発動/記憶の仕方を使い分けられるといった、いかにもヴァンスを意識したシステムは基本ルール時点では確定していない。BD&Dの第二バージョン(Holmes版)でも同様で、evil clericが使用した場合に逆転するという説明になっている。
 AD&D1stや2ndでは、逆呪文のルールは細かく定義され、呪文数そのもの豊富さのためもあるが逆呪文として発動可能なものは極めて多い。逆呪文(や、複数の発動の仕方が可能な呪文)は魔法使系でも聖職者系でも、「記憶する時点で、発動する形で覚えなくてはならない」となっている。逆呪文を発動するには、最初から逆呪文として準備しなければならない。これは上記ヴァンスの描写とは、逆呪文のアイディアはともかくも発動描写は必ずしも合ってはいない。
 CD&Dも版が進むとAD&D同様に逆呪文が定義されたが、こちらの方は、はるかに後の第四(赤箱シリーズ)、第五(サイクロペディア)に至るまで、クレリックの方は準備時点でなく、発動するその時点で決められることになっている。


 一方、3.Xe以降では、これらの単一の呪文の逆呪文や他効果だったものはほとんど全く別の独立した呪文になっている。3.Xe以降はキュアとコーズ(インフリクト)、レイズデッドとスレイリビング、ストーントゥフレッシュとフレッシュトゥストーン、さらにはディスペルイービル/グッド/ケイオス/ローも全て独立した別々の呪文になっている。
 なぜ逆呪文の類ではなくなったかといえば、単にシステムの整理、AD&Dやその流れのD&D主流ではクレリックであろうともどのみち別々に準備しなくてはならないので別の呪文にした方が煩雑さが少ない、といった理由もあると思われる。同時に、分離した方がキャラ表現の細分上都合がよいからといった理由も考えられる。例えば、1stでは、生命の神に仕える聖職者系がキュア呪文のボーナス回数を追加されると、コーズ呪文も追加される結果になる。これを、かつて1stやCD&Dでは、キュア側しか使えない特殊ルールだとか、「悪(混沌)のクレリックでないと逆呪文は推奨されない」などと縛っていたわけであるが、どうせならばコーズとキュアを別々の呪文にして、生命の神ならキュア、死の神ならコーズを与えるようにした方が(神やクレリックの属性にかかわらず)手っ取り早い。CD&Dではキュアとコーズが互いに逆呪文になっていたため「生命の神のクレリックにも関わらず、コーズの方も自由に発動でき、ルール的にはわざわざ可能にしておきながら戒律でうんぬんかんぬん」とかなっていたのだが、3.Xeの「善のクレリックはキュアは自由に任意発動できるが、インフリクトの発動には事前準備が必要」の方が遥かにすっきりしている。
 4、5版でも(そもそも5版ではその場の任意発動なのでルール上の意味はさらになくなっているのだが)カウンター効果の呪文そのものは残っていても、ルール的な逆呪文(同一呪文の逆転)のシステムはまったく消滅している。


 他のFT/RPGの例で言うと、単なる「効果が逆のカウンター呪文」であれば、およそほとんどのPnP-RPG/TRPG、ひいては他のFTの魔法ギミック、ハリーポッターにすら出てくる。しかし一方で、単なるカウンター効果の呪文が存在するだけではなく、D&D系の逆呪文のように同一呪文を使用時に逆転できるというシステムは、そもそも呪文の習得・準備・使用に他のRPGに比して非常に制限が多く熟考を強要される、後述するヴァンシアン記憶システムのD&D系でこそ意味があるもので、当然、他のPnP-RPG/TRPGでは一般的ではない。
 そのD&D系であっても近代的システムの3.Xe以降は時代の遺物といったところだが、これも遺物化していると思われるキャントリップ同様にヨシヒコシリーズに(偶然に類似物が)顔を出すところ、「RPG世界全般の発想」としては普遍的なものといえる。





魔法学校以前


 魔法使いが「学校」で正規の魔法とあわせてその正しい使い方を学ぶ、という定番のアイディアの元が、『ゲド戦記』のアースシー世界のローク島の魔法学院であることは有名である。PnP-RPGでは、コースト市のスラムグリオン魔法学校、ティカンドのシーゲート島の神秘科学アカデミー、ウェイレスの森の<上位魔法の塔>、アランシアのヨーレの大魔法学校など、その系統ということである。
 (なお、日本のFT/RPG談義では、『魔術師ギルド』ひいては『冒険者ギルド』の類の発祥と、混乱して、または意図的に混同させて語る者がかなりおびただしいが、以下はゲド以降というのはあくまで魔法”学校”に関する。)

 実はゲドの学院修行時代を描いたゲド戦記1巻は1968年なので、よく考えると(FT創作史から考えれば)相当に「最近」である。つまりそれ以前、コナンの1930年代から以後の模倣乱発時代、LotRの1930-50年台、さらにエルリックの1960年代前半までは無かったということだ。
 一体それらの前の作品の魔法使らは、どのように魔法の教育を受けるのが一般的だったのか。無論、なんたらの血のおかげで生まれつき使える、だとか投げ出されている場合が以前はさらに多かったわけだが、東西オカルトの時点ですでに魔術の習得が学問や教育によるものという類型がある以上、全てがそうだったわけでもない。ゲド以降ほど一般的・一貫した説明などなかった、とこれまた投げ出すのが手っ取り早いのだが、以下、無論のこと網羅的ではなく思いつくままだが、いくつか典型的な例を挙げる。

 ひとつはディズニーのファンタジア、じゃなかった、ゲーテ作詞デュカス作曲の『魔法使いの弟子』のように、一子相伝である。というか上記RPG風FT小説以外の説話、フェアリーテールなどでも基本的にそれかもしれない。すぐれた魔法使いが弟子をとるが、弟子は複数であっても小規模な集団程度といったものである。
 一子相伝以上に「なんたらの血のおかげで生まれつき使える」と完全に分離できるわけではないが、先祖代々、家に書物が伝わっていて、結果的に一族が魔術師となっているという例もよくある。E.R.エディスンの『ウロボロス』のゴライス王家、エルリックのようなメルニボネの貴人らや、ランクマーシリーズのクォーモールの王族などがそうである。
 史上の信仰等、前述の東西のオカルトや呪術周りの組織やその昇進の仕組み、学閥に似た描写になっている例もある。しかし、魔法”学校”といえるほどではなく、いわゆる典型的ヒロイックFTやRPGと直接の繋がりはそれほど強くないように見える。ドルイド(ウィッカ)は上記一子相伝に近いのだが、まずは吟遊詩人として伝承を学んでから、秘儀を学ぶというのもある(逆になっていることもある)。ただドルイドを描いた作品で、少なくともRPG風FTに強い影響を与えた作品というのは残念ながら少ない。
 他には、あまり説明になっていない例として、ごく普通に通常の学問と不可分なものとなっている場合もある。例えばゲーテでは、ファウスト博士は大学のあらゆる学問(医学や法学といった本当に普通の学問である)を極め魔術(多分に占星や化学の延長)にも手を伸ばしたとされるが、弟子のヴァーグナーも、当たり前のように錬金術や魔術を習得しており、そこには何の説明もされていない。

 これら以上にRPG風FTに目立つ類型のひとつに「邪教団」がある。コナンや近い時期、その影響作のようなエキゾチックな怪奇のヒロイックFTには、頭をそり上げた上に上半身筋肉むき出しで頭や上半身にペイント等を施したティクヴィコリーナ先生のような悪の呪文使いがしばしば出てくるが、かれらは同時に邪神(セトやアーリマンやイグなど)の高僧だったり、教団員がそのまま魔術師団だったりする。これらの作品では、邪神の力による魔法と、ほかの(例えば学問としての)魔術は区別がないことも多い。この邪僧・邪教団は、ことにヒロイックFTの悪役・悪役集団として都合がよいために頻出するようになったと思われるが、邪教団が学問としての魔術の伝承や訓練を担っていたり、つまるところ、事実上の後の魔法学校と同様のものとして機能していたというのはありそうなことである。これらは、前述のオカルトの組織描写とも関連するように見えるが、こちらは遥かに古代神などの信仰などであるためもあって、どうも直接の繋がりは薄く、別途構築された創作類型のようにも思える。
 これらの教団は後のRPGでそのまま僧侶系魔法の担い手である暗黒司祭のたぐいの集団として出てくるほかに、悪役の魔術団の造形一般として影響を受けていることがある。例えばD&Dのレルム世界のレッドウィザードは、邪教団ではなく魔術学院だが、まんまコリーナ先生の軍団である。「魔術の教育機関・集団」がすんなりとRPGで一般化した背景には、ゲド等以外に、あるいはこれらのヒロイックFTでの悪役魔術団の存在があるのかもしれない。







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