Koダイヤモンドは砕けない(エコーズAct2)




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ハクスラはwizから派生したか


>TRPGをPC上で再現することが当時のPCの性能では不可能だったので
>要素を削ぎ落していって偶然戦闘だけが残った
>それが奇跡的に成功して出来たのがWizardry
>そこからDiabloが派生してハクスラゲーが大ヒットした


 ぶっぶー。(声:萩原雪歩)
 Diabloの原型はAngbandである。Angbandはそれ以前にはMoria(PLATOの同名作でなく、UNIXのRogueLike, Angbandの原型の方)に遡り、完全に研究所RPGの流れであって、wizになど遡れない。また、以前にも触れたことがあるが、Diablo作者自身はこの他に影響元としてTelengardを挙げることもあり、こちらも研究所RPGの大文字DND(Roguelike自体の先鞭とされる)のPC直移植であり、wizなど一切関係ない。
 なお、同様の文脈でDiabloの原型としてAngbandでなく、元から原型のMoriaの方が挙がっていることもあるのだが、これらはハクをつけるためにわざとできるだけ原型に遡って言及しているだけで、たいして深い意味はない(これはFF1がスクウェアが移植に関わっていた初期ドラゴンスレイヤーシリーズ、あるいはDQ1が夢幻の心臓シリーズのような明白な「日本の同業者」の影響を白々しく伏せて、それらより大仰に響く「wiz/Ulを参考にした」と遡って言及しているのにも似ている)。ユニークやマジックアイテムのランダムな段階的生成のシステム等からも、Diabloは明らかに、実質的にAngband(しかも、日本に[V]として当初入ってきた2.8系でなく、もっと後のもの)以後の派生である。
 これを日本では「Wizardryにアクション性を加えて完成したのがDiablo」などと平気で流布されている。あたかも、PSPのテニスゲーム(なお、世界初のコンピュータゲームはテニスゲームの一種と俗説される)に対して、競技のテニスも野球も見たことすらない引きこもりゲーマーが「棒を降ったりボールが飛んだりするという共通点があるからFCのベースボールゲームから派生した」などと平気で主張し、日本の自称ゲーム通が全員それを鵜呑みにしている、といった状態であるから、そのばからしさは一目瞭然である。


 こう言うと、日本のゲーマーは「Diabloは3大RPGのうちwizでなくRogueの流れだったのか」だとか短絡的に理解しそうだが、その「3大RPG」なる分類そのものが何ひとつとして意味がない。多くのCRPGが小文字dnd, Avatarや上記の大文字DNDのような70年代の研究所RPGの直接の派生であることからもわかるように、「全てのRPGは3大RPGから派生した」なる事実は一切存在しない。戦闘ゲームとしてのRPGは研究所RPGに元から普遍的なものである。初期のRPGはそのように先出の要素を脈絡なく取り込んで発展している。wizやUlや各種Roguelikeの猥雑さの時点からしてもう既にそうである。
 DiabloがRogueの流れのMoria/Angbandだけの派生でなく、DND/Telengardの流れも汲んでいるのと同様、wizも(「Apple][限定でPCゲームの範疇では」かなりのヒット作であったため)なんらかの影響を与えている可能性もあるが、それこそ全く推量の域を出ず、全てがwizから派生しただのと吹聴できる要素は全くない。

 そもそも「ハクスラ(Diablo)はwizから派生した」というこれまでの主張には、wizが全RPGの原型とか代表作とか世界的大ヒット作とか以後の全ファンタジーに決定的影響を与えているとかいう(これらのいずれも、どれひとつとして正しいものは無い)日本限定の「盲信」以外に、何か根拠があったのだろうか。
 この盲信は「ほんの数年前までは確定事項扱いであったから仕方ないだろう」とか、疑義が唱えられはじめたのがごく近年に過ぎないとか、例えば多くのサイトや商用書物にまで「wizがすべてのCRPGの原型でないことはここ数年(2015年前後)になって次第に明らかになってきた」かのような筆致で書かれている。しかし、少なくともDiabloの起源に関しては、Moriaを原型とすることは上述するようにすでに2000年代半ばまでに開発者が述べており、Moriaをどう遡ったところでWizardryが原型とやらにはたどり着かないことは、このサイトのメインの読者である*bandのRogueLikerらにはとっくに周知であるし、そうでないRPGのゲーマーであっても、少し調べて自分のアタマで考えれば誰にでもわかる話である。
 それ以前の問題として、「wiz#1で13lvを遥かに超えるまでひたすら戦闘・トレハンの反復を行うのは日本人だけで、海外プレイヤーは一周してやめるだけ」なる流言は、日本でも相当に昔から周知されていたはずである(以前述べたように、wizでも「それ以前に存在したCRPGでも」海外においてやりこみは皆無というわけではなく、これも甚だ不正確な表現である)。あえてこの事項に単に照らしただけでも、戦闘・トレハンを反復するDiablo的ゲームが海外において「wizから派生した」という理屈づけは明らかに何かがおかしいことに、アタマで考えるまでもなく誰でも当然に気づくはずである。従来より「wizは元祖と『言っていい』」といった調子で、筋道を通すよりも「誤魔化す」「虚偽で塗り固める」ことに目的を集中させてきたwizフリークは、当然ながら万事がこういった欺瞞に陥り、自分らでも気づくことがない。


 そういえば、Diabloのようなハクスラゲーが隆盛するのに対して、

「wizのシステムはRPGと戦闘ゲームの原点にして頂点で、そこから転落したのはよりによって#4-8のような戦闘ゲームを離れた愚行に走ったのが何かの間違いなのだから、昔のままのwizに『原点回帰』してハクスラゲーのアイテム収集要素を入れればそこらのハクスラ以上の究極の戦闘RPGとして蘇るに違いない」

 などというキテレツガイジンな目論見のもと、数十年前のAD&D再現ゲームとして数十年時代遅れのwizそのままのシステムに、Diabloをパクった(青や黄アイテムの色すら)ランダムアイテムを無造作に導入しただけの『戦闘の監獄』という見事にハズした試みがかつてあった(もっとも、究極の戦闘RPGにはほど遠くても、ぼへーっと遊んでいる分には結構遊べたりするのがwizやDiablo系というか、こんな試みですら、余計なものを入れたさらに後出の日本製wizよりもよっぽど遊べるところが非常にしょうもない。監獄は『五つの試練』という蘇生につながった功績も大いに論ずるべきだが、これは別機会に回す)。


 「ハクスラ(Hack and Slash)」とは、CRPG用語ではなく、PnP-RPGの最初期に、TSRのOD&Dに対抗した他社が世界設定やストーリーが売りの他PnP-RPGを売り出すと共に「OD&Dからシェアを奪うためにOD&Dに貼り付けた無味乾燥な戦闘オンリーゲームのレッテル」として用いる語であったり、逆に、AD&D側がOD&D以来のオールドプレイスタイルを形容するために(半ば自嘲的に、また半ばAD&Dの方は戦闘オンリーではなく他社RPGと遜色ないプレイも可能、と主張するために)非常に古くから用いてきた語である。この語義では、1980年のDragon誌#39が初出か、少なくともPnPゲーマーに広く用いられるようになった原因と言われるが、Dragon誌はあくまで後者(AD&D側)の立場のみ取り上げたものなので真偽のほどは定かではない。
 どのみち、このHack and Slashが、さらにAD&D2ndの最も基本的・根本的なPHB(1987)で「コアルール用語」として用いられ、Diabloよりも遥かに前からPnP-RPG人口(くどいようだが、当時海外ではこの人口はCRPG人口全部より遥かに大きい)に広く膾炙しているものである。

 一方で「CRPG」におけるHack and Slashは、Diabloがその代名詞となって以後、(特に日本の「ハクスラ」では著しく)「Diabloライク」を限定して指したり、ヘビーな周回プレイ、トレハン要素を指すことがあるが、海外ではCRPGに限っても概ね日本での用法よりも広義であり、特にその語の発祥から、D&D要素が強いもの(PoRやBGなどの「D&D版権取得ゲーム」という意味とは無関係なので注意)に用いられることもいまだに多い。なお、Roguelikeのベルリン解釈の1項にもHack'n'Slashがある。逆算すれば、Moria系統以外はそれほどDiablo的戦闘中心には見えない他のRogueLikeに関しても、一般的に既存のRogueLikeはHack and Slashゲームの範疇とみなされていることを示している。オリジナルRogueの戦闘・略奪以外にはまだほとんど何も加わっていない構造をもって分類されているともいえるが、他に、オリジナルRogue(ローグ・クローンではない)やMoria/Hack系がD&D要素が非常に大きいことも関連していると思われる。
 日本のサイトには、ハクスラの定義としてDiabloやWizardryの他に「TRPGではD&Dのような」と書かれていることもある。これは(海外定義や、OD&D〜初期シリーズに限れば)存外に正確な表現だが、日本でこう書いているレビューアー自身が(CD&D赤箱のような後出の縮小版や、日本製「なりきりTRPG」しか普及していない日本において)言葉の意味までわかっているかどうかは甚だ疑わしい。おそらく英語版wikipediaやそれを参照した英語サイトに、ハクスラの例として上記D&D要素が挙げられているのを書き写しているに過ぎないと思われる。
 英語版wikipediaでは、海外のような広義のハクスラの代表例として、商用RPGではDiabloの他に『リネージュ』や『ザナドゥ』が挙げられ、Wizardryは挙げられていない。これは以前から述べているように、海外ではWizradryが、(日本でのような)いまだに戦闘RPGの「代表作」だとか、戦闘システムにおいて突出した特徴のゲームであるとは全く見なされていない表れのひとつである。


 話を最初に戻し、Diablo的な戦闘略奪ハクスラの原型が実際にはwiz由来でなく、MoriaやAngbandや大文字DNDであるとすれば、それらの研究所RPGの「戦闘だけ」の要素は最初は一体どこからきたか、という話だが、それは先のHack and Slash用語の発祥で述べたように、その研究所RPGの原型であるOD&Dや初期のAD&Dそのものが戦闘探索略奪中心のゲームであったに過ぎず、「偶然」だの「削ぎ落した」だの「奇跡的」だのは一切ない。言うまでもないが、CRPGの原型となったOD&D(PnP-RPG、本項目ではあえて「TRPG」とはしない)は、動画サイトなどに上がっている「TRPG」プレイ風景は無論のこと、ソードワールド1以後の、日本で「TRPG」という語が指すものとして理解されている「なりきり会話ごっこ遊びで協力してストーリーを作る」などという代物とは全くの別物である。それ以前のウォーゲームやシミュレーションに存在した「ロールプレイング」要素をデイブ・アーンスンがD&Dの謳い文句にしたことが画期的だったとしても、OD&D当初から現在の日本の「TRPG」のようななりきり遊びだったわけではない。ネットに大量に溢れる、日本の自称TRPG通が「なりきりTRPG」の経験のみを根拠に「CRPGの原型・本来の姿」などと主張しようとする説は、おおよそ何の役にも立たない。
 別の面から言うと、前述したように各種のPnP-RPGに後から出てくる「戦闘以外の要素」を採用したものについても、他方で研究所RPGやApple][の時点から多数作られている。例えば、ストーリーや非数値的仕掛けだけを追うもの、ソロシナリオなどの再現もある(ただし、最初期の研究所RPGにおいてはひとくくりであり、Adventure, RogueやDNDなどPnP-RPGから派生した各種ゲームと共に一律adventure gameとか呼ばれ、区別されていない)。ストーリーや謎解きを追うものは、OD&Dに由来しないインタラクティブストーリーとの合流やZORKのような大作を経て、そのままいわゆるPCでのAVGという巨大ジャンルへと発展する。即ち、PnP-RPGのゲーム化として、別に戦闘部分だけが偶然に残ったわけでも、それだけが奇跡的に成功したわけでもない。
 Wizardryの「奇跡」なる流言は、CRPGとwizの発祥から後の派生ゲーム、続編(#6など)がその奇跡を崩壊させた元凶、なる主張まで、どこを切っても微塵の隙間もないほどに「虚偽」ばかりで塗り固められている。ここ最近、追い詰められたwizフリークは、wizにまつわる発祥説の「全てが嘘というわけではない」と主張するが、折角の貴重な真実の周囲すらもこれほどまでに虚偽ばかりで塗り固められれば、「wizフリークの話を聞いたらまずは全てが嘘だと思う所から始めろ」と言っても過言ではない。





TILTOWAITとはどういう意味なのか


 TILTOWAITは同様の意味で『ザナドゥ』のtilte魔法にも用いられているが、tiltというのがピンボール用語から来ているのはよく知られている。台を(イカサマとしてか、あるいは単なる興奮で)ガコンガコンと叩いたり揺らしたりする行動を指し、狭義では台を傾けるベテランの(イカサマの)テクニックに対して、台が検知して「tilt」と表示してイカサマ認定する機構を指した。なお、むしろ台が古くなっていて通常のプレイの範疇でも突如誤ってtilt表示が出るので、店のおじさんに言ってもう一度プレイさせて貰う、というケースも多かったという。「リセット」的な反則とかちゃぶ台返しに通じるが、ともあれそんな時代のアーケード(非電子)ゲーマーに馴染みの言葉だったのだ。
 これだけだと一見wizのそれとは関連が薄いように見えるが、またtiltはギャンブル用語で、昂ぶって(負けが込んだり、逆に勝ち筋に乗りすぎたりして)正常な判断ができなくなる動揺状態を、もう少し狭義ではポーカー用語で、躍起になって負い目を取り返そうとするため、大勝の可能性に目がくらんで不当に大きく危険な勝負に出ることを指し、素人の大敗の主要な原因として例示されるものである。『ジョジョ』で勝負師達がしばしばこうした動揺を何をおいても避ける描写、エシディシやワムウの行う巧みな精神転換や、対して、『カイジ』の勝負師達が熱くなったためにますます破滅に突き進むのはこれらの典型的描写である。ピンボール用語の我を失って台をガンガン叩く行為にも通じるが、日本でのちょうど近い言葉でちゃぶ台をひっくり返すとかTRPG用語でムギャオーするといったところである。
 これらを踏まえると、tilt-o-waitとはいわば、

「え? ムギャオーかい!!?(ここで放射線マーク)まずいだろムギャオーは!」

 というような響きの語であると読みとれる。
 #1の説明書のTILTOWAITの呪文の説明に、一言"KA-BLAM!"(ちゅど〜ん)だとか書かれているのを併せて考えても、ピンチに陥った際のイカサマじみた大逆転とか大勝負とか、イヤボーンとかいったニュアンスがこめられた語に採れる。


 断っておくが、これらは単なる後付けのこじつけであって、他項目のような由来解説とか考察ではない。wizのネタネーミングをネタとして解釈しているとはいえ、後付けという点では、wizのトゥルーワードは綿密に組み上げられた新言語である、といった与太話とせいぜい同レベルの話である。



アンサイ記事


 ウィザードリィ - アンサイクロペディア


 RPG全体をウィルスとしWizardryのウィルス的感染性を代表とするといういかにもアンサイらしい、短めにも関わらず凝った記事。
 wizは依存性もとい中毒性はかなり高いが、実際のところ、他人への感染性は別に著しく高くはない。それは、wizファンならば、wizが万人受けしない、大半のユーザーから長年敬遠されてきた事実から、身を持って体験しているはずである。にも関わらず、感染性として書いてあるのは、海外では世界中に蔓延したりFT/RPGを流行らせた最大の原因である、とかいうのが、万人受けしないという事実から目をそらしてまで「とにかく世界的に蔓延したのは歴史的事実だから」という認識に則って長年流布されてきたためと思われる。
 しかし、(元から全編冗談であるこのアンサイ記事内容そのものに、誤りがあるわけでもないが)Wizardryから全RPGが派生しただとかウィルスのように全世界に蔓延したとかいう、この記事をネタとして読む上での読者共通の前提が根本的に誤りであるため、いまやネタとしては何の意味も持たなくなってしまっている。勿体ない。

 かように日本のCRPG史は、お笑いネタを理解するための暗黙の了解や暗喩といったかなり深いレベルの前提知識までが、根本的な誤解から構築されており、中には容易には解読や筋道の説明が不可能であるものも多い。wizを話題に挙げるどんな些細な言及にすら、注意が必要である。





ブラッドボウルとウィズボール


 この紹介記事中にも書いてある通り、Blood Bowlは海外ではテーブルゲーム(非電源ボードゲーム)としても非常に息の長い、定番の作品である。RPGの種族やモンスター軍団がひたすらアメフトを繰り広げる(乱闘アリアリ)のゲームである。リンク先のPC版は、森エルフチアリーダーがまんま和エルフだとか、気になる点が多々ある。PC版の有志の日本語化も試みられていたらしい。


 90年頃に、例の関西のゲーム集団がこのブラッドボウルのボードゲーム版を紹介していた。そして、これの紹介と同時に同集団が「自分達もwizで似たようなのを作った」と宣伝していた(ブラッドボウルを紹介したかったのではなく、そっちの宣伝が目的という意図がだだ漏れであった)のが、かのwizパロの非電源野球ゲーム、『ウィズボール』であった。


 その出来に関しては、コアなwizプレイヤーならさんざん思い知らされている通りである。要するにバカゲーなら気軽にやりたいところ、それには煩雑すぎたのだ。
 パッケージの本編をパロった末弥イラストが価値の大半を占めるだとか、はっきりいって末弥イラストに騙された、とかいう話が、ウィズボールの話題ではひっきりなしにループする。前述集団の意欲に反して、その後末永く定番となったブラッドボウルからはえらい落差であった。ただし、そのバカゲー性とシステマチックさの異常な不整合を、また魅力と感じる根強いファンも決して少なくない。ゲーム性質上万人(wizファン中に絞ってすら)向けではないが、決して価値のない製品ではない。


 しかし、ネットゲームの発展した現在では特に、卓上ゲーム、特にルールの複雑なウォーゲームの流れをくむものは積極的に移植され、ネット対戦化、複雑部分が自動化されて、上記ブラッドボウルのように成功しているものも多い。(なお、これに対して、モンスターらが特殊能力を惜しげもなく使い競技する電源ゲームという側面からは、ゲームボーイアドバンスのシレン・モンスターズ・ネットサルなど日本にもそのまんまのものもある。)
 ひょっとするとウィズボールも、CRPG化(例えばwiz本編ゲームのおまけにつけるとか、本編のキャラデータを流用可能にするとか)してこそ、まともに運用できるのではないか。無論、ウィズボールやTRPG版同様に日本に移った、本来のCRPGの方のwizが、疑いようもなく迷走の極みを続けている現在では、そうたやすくは望むべくもないが。





「wiz再現mod」から読み取れる海外におけるwiz#1


 NWN1(Neverwinter Nights)には最初期から、Wizardry#1を再現したモジュール(シナリオ)がある。
 ここでNWN1とは、このサイトでも何度か説明しているが、2002年のD&D3.0eのユーザーコンテンツ(シナリオ等)自作可能CRPGで、海外では2010年の時点で、vault(上記総合サイト)登録分だけでも4000ものユーザーモジュールが作られている。欧米では2015年現在でも、ユーザーモジュールは依然として増え続け、マルチプレイも行われている(なお、日本語版も出たが、メディアは当時流行りのネトゲ/MO/MMORPGとして運用可能な点ばかりを大きく取り上げ、新しいネトゲに人が流れた後は、日本には英語版の上記活動を追う非常に僅かなマニアが残るのみとなっている。)
 上記の膨大なモジュールの中には、OD&D・AD&Dの直系の子孫であるCRPGを先祖返りさせる、という発想もあってか、他の名作CRPGを再現したものが非常に多数ある。旧D&DシリーズのCRPGは無論、Ultimaシリーズ、Bard's Tale、Temple of Apshai、特にDiabloは両手に余るほどの数がある(これはNWN1自体がDiabloのインターフェイスに大きく影響を受けているためでもある)。ひいては、海外でも人気が高いFFやゼルダなどのシリーズすらも多数の再現モジュールがある。上記日本の細々としたコミュニティ内でさえ、ドルアーガ、ブラックオニキス、ハイドライド、カプコンD&D、(ここで挙げているのとは別の)wiz外伝2などの再現モジュールがかつて作られた。


 ここで取り上げる海外製のWizardry#1再現モジュールは、vault開設直後のNWN1でも最初期から作られていたもので、その後もアップデートが続けられていた。
 マップは#1に忠実に再現されている。しかし、そのマップの「内容」は全く再現されていない。潜るたびに配置し直される敵や宝箱が設けられた玄室などは無い。マップの殆どは空で、たまに敵は出てくるが、元の#1で登場する敵とは全く関係ない。(B3のドアから離れた部屋の真ん中でボーンゴーレムとフレッシュゴーレムに襲われるなど。なお、日本でのNWN人口の少なさと廃れ方から考えて、当サイトを見てNWNのモジュールを探したりプレイしようとする人が多いとはとても思えないが、このモジュールはそれ以外にも原作との乖離やモジュールとしての進行に難のある点が多く「NWNでwizができる」等と思った日本人プレイヤーには奨められない。)
 このモジュール内で、レベル1から徐々に成長させていき、次第に冒険者として力をつけてやがてB10に到達できるようになる、といったWizardry#1通りの(というか、通常のCRPGの)流れをプレイすることはできない(付属ドキュメントにもはっきりそう書いてある)。


 #1以来のwizの最大の美点が「絶妙なゲームバランス」「キャラクターの成長」「戦闘・アイテムハント」にあると頑として信じている日本のゲーマーは、#1の再現シナリオをこのように作るという発想自体、到底信じがたいと思われる。単に、それらが何ひとつ再現されていない内容で「Wiz#1を名乗っている」ことだけに対してすら、怒り出す日本のwizフリークまでもいると予想される。
 仮に、このモジュールが日本で発表されるか、あるいは紹介されるだけでも、日本のNWNのわずかなコミュニティ内だけですら、そのような非難が殺到したであろうことは、日本でWiz#1について信じ続けられている背景を鑑みると確実である。


 しかし、ロバートやアンドリューへの敬意や、#1に対する思い入れなどが書かれた付属のドキュメントなどからもわかるが、このモジュール作者としては別に意欲が欠けているわけでも、再現を怠ったわけでもないらしい。#1の再現にあたって、「昔懐かしいマップを再現する」ことに比して、「それらのゲーム性」はほとんど重要ではなかった、ということである。


 Wizardry#1のゲーム性は、当時の他のCRPGや研究所CRPG(日本には全く入って来ていない)と比べて、特に傑出したものではない。すなわち、#1全体として見ると、よく日本で評価されるような「繰り返しのプレイに耐えるきっちりしたゲームルール・職業や数値のバランス」等を有しているのは確かだが、それらはwiz独自の要素ではなく、全てOD&D・AD&Dや、wizの原型である研究所CRPGの時点ですでに完成されている要素である。それに対してwizが独自に有する要素については、実装が劣悪な点やwizの時点で破綻させた点ばかりがむしろ目立つ(「wizはD&Dのパクリ」という批判は実際はそういう意味を持つが、wizフリークはその意味が理解できず「本当に完成させたのはwizだから」等と根本的に取り違えている)。wizの首切ドレインのシステム破綻についてはすでに述べているが、洋ゲーマーの多くがwizと当時のゲームとを比較して述べるような、深層に行くほどバランスが悪化し13lv前後では偶然頼みが多くなる等も挙げられる(危険に見合わない報酬。ただし、このストレス性がかえってリプレイ性を上げているという側面もある)。なお、日本では映像・音楽その他環境なども没入感を助けることがよく主張されるが、それらの要素及び操作性は全てFC版以降のもので、海外版には最初から存在しておらず、登場時点のwizや世界的な評価を論ずる場合は無意味である。


 要するに、wizのゲーム性(特に海外のApple][やPC版)は、AD&Dや他のゲームがすでに普及していた海外においては、劣悪というわけでもないが、絶賛されるような代物でもない。日本で「#1独自・最大の美点」と信じられているものは、wiz以前にも、wiz以外の余所に行ってもいくらでもある。もっとてっとり早く言えば、「ゲームバランス・成長・戦闘・アイテムハント」の部分は、海外ゲーマーが特にWizardry#1に対して求めているものではない。
 また、これらの問題はしばしば「やりこみをするのは日本人だけ」という言い方でも誤解されるが、正確には、システム上のやりこみは海外でも遊ばれるが、やりこむ価値のあるゲームは、wizとは別に(以前や以後に)存在するということである(ハクスラRPGに代表されるが、Diabloは作者によるとMoria/*bandの発展型であり、wizとは全く異なる流れである)。

 これらは同時に、なぜ本国では#3の後に、「#1の戦闘・成長のゲーム性の魅力を突き詰めた」とは到底かけ離れた方向性である#4-6のようなものが作られたか、という理由と、日本のゲーマーがその理由を理解できず、ひいては#6-8が海外で高く評価されているという事実すら認識できずに、「至高の評価を受け絶対不可侵だった#1のゲーム性を愚かにも捨てたことが原因で、海外でも#6は評価されずwizがRPGの頂点の座を失った」などと信じ込んでいる事情にも関連する。


 NWNに話を戻すと、前述したようにNWN1には数千のモジュール、多々の古典名作CRPG再現モジュールが作られているが、wiz本家の再現モジュールは、Wizardry#1-8を通じて上記の1本しか存在しない。
 このモジュールの存在とその内容が、敬意は払われてこそいるが「日本において、海外でもそうだと数十年間信じられ流布され続けている位置づけ」とは到底かけ離れた、海外でのWizardry#1の位置を、非常に端的に示している。





「どうして器用度や敏捷度でなく『力』で命中率が上がるのはなぜなんだぜ」


 まずはAC(アーマークラス)が何なのかについて思い出せよ魔理沙。どこで述べたかよく覚えていないくらい色々なところで述べているだが、D&D系の『アークークラス』(新和版ルールブック原文ママ)とは、防具によるダメージ軽減と、サイズ等や敏捷を含む回避率とを総合した値である。忍者の説明で述べたように、wizではACにAgiが(AD&D1stの実装失敗のせいで)反映されていないが、これはwizのAgiがD&D系のDexと異なり、敏捷性よりも罠に対する技量や反応などに寄った意味を示しているためであるが、忍者のAC低下(AD&D1stのMonkの、回避力上昇による無防具AC低下に由来する)が示すように、ACが回避力も含む、という概念自体はwizにも存在する。全裸忍者がシャーマン戦車級のACになるといっても、回避力のために戦車級に有効打を与えにくいというだけで、戦車級に素肌の皮が厚くなる(それじゃエピックバーバリアンだよ)わけではない。ACとhp(ヒットポイント)は、ともに「経戦能力」に関係し、範囲がだいぶ重なるのだが、とりあえずACだけの話を進める。


 D&D系の攻撃判定は、ACに対して「命中」すれば、それは回避と鎧の両方をかいくぐってダメージを与えた(hpを削るほどに有効な攻撃だった)ことを示す。ダメージを出した後に、別の「防御力」の値で軽減するという概念はない。これはOD&DやAD&Dが大規模ウォーゲームに発するため処理をできるだけ簡単にする(1回の判定で回避と防御をかいくぐったかを示す)目的と思われるものである。ちなみにD&D系以外の現在CRPG/TRPGの「防御力」「軽減」制が元々一般的でなかったかというと別にそんなことはなく、(OD&Dのベースになった以外の)戦闘級などのウォーゲームにも、OD&Dの直後の他社のPnPのRPGにも、「防御力」が存在するものはいくらでもあり、防御力は別にドラクエやRogue(86年のローグ・クローンで防御力制が採用されているため、80年の初代Rogueの時点からそうだったと誤解し「防御力制はRogue起源である」という何重もの誤解に基づく主張)に発するものではない。
 なお、D&D3.0e以降にはDR(ダメージリダクション)があり、特に高レベルでは濫用されてしまうが、これは鎧などの他のRPGでの防御力に相当するものではなく、特定攻撃に対する素材そのものの硬度やもっと超自然の魔法的耐性を示すものである。これは、wizのMagic Resistance(何十%とかの魔法無効化率)が、特にニワカなTRPG肌から敏捷性による回避や精神力による抵抗を指すものと混同されるが(そのため、商用を含めwizライクでは超常能力を持たない人間や動物が平気で魔法無効化率を設定されていることも多い)本来D&D系ではMR(SR)は、高度に魔法的な種族の次元界原理自体への影響軽減を指しているのと同様である。


 これらAC定義を踏まえて、ようやく「なぜ力で命中率が上がるんだぜ」に対する説明だが、ACに対する命中は、まずは回避をかいくぐって命中し、さらに加えて鎧の弱い部分に当たって貫通したり鎧の上から消耗を与えた(hpは非常に広義なので、外傷だけでなく気力や疲労や運が尽きたなどの消耗をすべて示す)ということになるのだが、攻撃者の『力』(Strength)が大きければ、回避して急所をそらしたりかすりで済ませたとしても大ダメージになりやすく、また鎧の厚い部分に当たっても貫通や衝撃を与えやすい。(なお、AD&D1st、2ndにはさらに細かい状況、例えば殴打と斬撃・近接と遠隔の別や何回目に受けた攻撃かで、防具の種類ごとに各々適用が異なる恐ろしく細かいルールがあり、wiz#1や他のCRPGは無論のこと、AD&Dの再現CRPGですらもそれを省いたり中途半端に適用したため非常にちぐはぐなデータになっている部分が多々あるが、それをwizの記事で言っても詮無いので省く。)
 でも力だけじゃなく器用や敏捷で狙っても鎧の弱い部分に当たりやすくなるんじゃないかって? D&D系では弓矢とかはそうなっとるよ。ショートソードやレイピアはどうなんだぜって? あれでも取っとけよ魔理沙、なんだっけふぁいねっせだよ。Finesseの和訳はなんだっけ、そうだ《武器の妙技》だよ。
 しかし『敏捷力』依存で命中させることのできる《武器の妙技》特技があるD&D3.Xe以降はともかく、OD&DやAD&D当時(少なくとも基本ルール)は、ショートソード等も一律『力』でふるって鎧を力づくで貫通する武器だったのである。古典武具戦マニアのガイギャックスらにとって、ショートソードは盗賊が華麗に刺す武器ではなく、上半身裸のガチムチ剣闘士が使うグラディウスとかだったのだろう。なにせOD&Dの最も基本のルールには「盗賊」自体が存在しなかったのだ。


 しかし、wizの武器データの「力(ST)修正」が命中にだけ影響してダメージに影響しないのはなぜなんだぜって? それはおそらく、武器のそのパラメータを「力」などと表記していること自体が単におかしいのだ。もともと命中修正にのみ影響する値なのだが(D&D系では「強化ボーナス」でなく、「攻撃ボーナス」に相当する)内部動作において、命中判定にキャラ能力値の方のStr修正を加える際に同じ式で同様に加える値なので、Str修正といっしょくたに「ST」「力」修正などという記述が行われ、定着してしまったと考えられる。武器データのこの値は命中率に影響するだけで、キャラのStrの能力値自体を増加させるわけでもない。
 しかし、例えばアイテムにさまざまなパラメータをつけることができる『戦闘の監獄』『五つの試練』では、「力」増大アイテムは「力」能力値そのものが増大されるように表示されておきながら、力には全く影響せず、武器攻撃の命中率しか増大しない。例えば、力5のキャラが「力+10」のアイテムを装備した場合、力15になる(この場合、監獄試練では力5→15ならば命中率は装備前も後も+0で変化しない)わけではなく、命中率が無造作に+10される。しかも、このおかしな適用はStr修正だけで、他の能力値増大アイテムは普通に能力値自体が増大する。
 このように、日本で作られたwiz関連・派生作品には、必要以上に慣例に引っ張られたため、徒に混乱を招く表記になっている例が多々存在する。日本のwizフリークは数値データの持つ内部動作の本当の意味を知らず、ただ「wiz#1の記載があらゆるRPGの記載の原点・参照元・聖典」と決めつけたため、wizのゲーム表記や攻略データに用いられる慣例的表記を盲目的に写経し、そうして作られた記述・ひいてはゲーム仕様が、無意味な譫言そのものと化している例は日本のwiz周りには枚挙に暇がない。





RPGの操作性


 『ブラスティー』がksg認定されている。ちなみにブラスティー発表当時から、ここで主な問題とされているマップ表示の欠陥、操作性やゲーム性の評判はあまり芳しくなかったのは確かである。といっても、せいぜい「前評判と御大層な見かけのわりには中身はたいしたことがなかったゲーム」といった評であって、ksg(地雷)認定されるほどではなかった。
 なお、こういった論調は、『ファイナルファンタジー1は潰れかけていたスクウェアの最後の夢をかけて作られた』という美談脚色を真に受け、それを大前提に置いて、その基準に万事辻褄を合わせようとしているため、「スクウェアはFF1以前には全く売れもしないksgばかり作っていた」という図式に意図的に持っていこうとする風潮にも大きく影響されていると思われる。なお、80年代当時のスクウェアが、PCゲームにおいてはオリジナル、移植ともにかなり有力なソフトハウスであったこと自体は、当時のPCレトロゲーマーには周知である。


 以前も書いたことであるが、当時の(非アクション)RPGというものは、操作性、システムの理解しやすさ、スピードや面倒くささにおいては「最悪」なのがごく当たり前、ジャンル自体がそういうもの、という感覚であって、その「最悪よりも下」によっぽど振りきれていない限り、他人がわざわざ止めるほどの地雷扱いされるようなことはなかったのである。


 さて、ここで当時のPC版Wizardryになるのだが、当時のPC版(Apple][含め)Wizardryは、操作性に関するゲーマーの評価が上記のように寛容無比な非アクションRPGの中にあって、当時から既に、操作性や遅さや面倒くささが、その上記した「最悪よりも下」のレベルに遥かに振りきれている、としばしば評されていた一本である。
 当時のゲーマー、特に上記のような非アクションRPG愛好家は、並大抵の労力や理不尽に見舞われても、ゲームを途中で止めるようなことはめったにないものであったが、Wizardryについては、もうこの遅さと操作性の劣悪さ(フロッピーのディスクアクセス)だけはどうにも我慢ならんと、遂に中断するゲーマーも決して少なくはなかったのである。


 結局のところ、こういう当時のゲーマーでさえ投げ出すコマンド式RPGの操作性に辟易して作られたのが、ハイドライドやドラゴンスレイヤー(ザナドゥ)といったARPGであり、これらこそが、日本の8bitPCのRPGのヒット作であり代表作であり、日本に「CRPG」というものを定着させることができた決定的なターニングポイントである。これらが日本で定着することがなければ、DQが勝負に出ることさえできなかったのだ(もっともDQの開発背景として最も重要な要素に、8bitPCからそのままFCへの移行に失敗したこれらARPGへのアンチテーゼがあり、きわめて複雑な事情があるが、それは非常に長くなるので別の機会に回す)。
 当時、ハイドライドやザナドゥはPCユーザーで自称RPGマニアなら誰でもプレイしていたが、Wizardry(訳されていたUltima2-3もだが)などプレイしない者はその限られたマニアの中ですらいくらでもいた。とても当時のRPGの「代表作」などと呼べた代物ではない。wizやUlは、ARPG以外のRPGに対する根強い愛好家のグループは存在し、または内容自体は参照されていたとしても、ARPGからDQに至る大勢には商業的には何の影響も与えていない。「当時の日本のPCでも大半のユーザーに支持され大ヒットした」などと主張している者がいるとすれば、FC版以後の感覚を錯覚した美化であることは疑いない。


 このゲームカタログのWizardryの項目にも、「世界初」とやらのPC版について語るならば、(日本のPC移植は勿論、Apple][やコモドール版も同様に)最大にして最悪の語り草として決して書き落とすことはできないはずの「ディスクアクセス」については、一言たりとも言及されていない。ブラスティーにはksgのレッテルを貼り、wizはApple][版の「世界初の当初から(操作性の問題も含めて)全て完成されていた」かのようにしか読み取れない内容なのだから、依怙贔屓も甚だしい。
 Wizardryのことインターフェイスに関しては、さもApple][版の最初からFC版の操作性やスピードだったかのような前提で語り、「世界初のRPGにしてこの完成度はオーパーツ」などと流布している者が夥しい数にのぼるが、ここまでくると事実との関係では無知や知ったかを通り越して「情報操作・扇動」である。


 このゲームカタログは、おそらく当時のゲームを他にも挙げていけば、当時の重要ゲームでも「現代の感覚では」ksg認定されるものがごまんと出てくるであろうが、こんな編集態度では、おそらく今後もあまり内容が充実することはないのだろう。





上級職に転職するシステムの起源


 wikipedia(en)には、wiz#1は「プレステージクラス」を最初に導入したゲームとみなすことができる、と述べられている。
 プレステージクラスとは、2000年代に海外TRPG(日本のそれの数百倍の市場スケールであり、CRPGが家庭娯楽として一般化したこの時代もなお遜色ない)を席巻したd20の用語であり、RPG一般に通じる用語として用いていると思われる。キャラが成長し特定の条件を満たすと(d20ではレベルや能力値等ではなく前提特技、技能値や特定の呪文習得などのことが多い)就けるようになるクラスを指す。
 おそらく、wikipedia(en)では、wizの俗に言う上級職をはじめとして、d20の原型のD&D3.Xe以前のTRPG/CRPGについても同様に、「なんらかの成長後の条件を満たすことで就けるようになる上級職」を、プレステージクラスと表現していると思われる。
 (なお、D&D系に発する「クラス」は、JRPGの「ジョブ」とは全く別物なので注意を要する。TRPGの「クラス」や「ロール」や「アーキタイプ」が何を指しているかはシステムごとに注意深く読み取らなくてはならない。日本ではTRPGですら、クラスだろうがアーキタイプだろうが何でもかんでも「職業」と訳されて、「ジョブ」といっしょくたにされたり混同されるが、これは「ヒットポイント=体力」と同様か、それ以下の「誤訳」の範疇である。「職種」という語が普及しなかったのは不運という他ない。)


 wizの上級職の内容そのものの原型としては、これまで述べた通り、AD&D1stの「サブクラス」(戦士系ならパラディンやレンジャー、盗賊系ならアサシン等)がある。  しかし、AD&Dの時点でのサブクラスは上記の3.Xeのプレステージクラスに必ずしもあてはまるものではない。AD&D1stの基本ルールでは、これらサブクラスは成長してから就くものではなく、最初から選択する(ただし、「最初の」能力に高いものが要求される)ものだからである。また、AD&Dでの転職のデュアルクラスにしても、特に上級職への転職に利用されるわけではない(というより「最初の」能力値が非常に高くなければならないので、サブクラスへ/サブクラスからの転職は難しい)。


 このため、wizの上級職の内容そのものはD&D系の上記サブクラスだが、その転職する過程、「基本職で成長してから」転職する目標というプレステージクラスのような位置づけに限っては、OD&D等の要素ではなく、wiz#1が最初、という見解でwikipedia(en)には書かれているようである。


 しかし、D&D3.Xeのようなプレステージクラスのシステムが全くwizが発祥かというと非常に疑問が多い。まず、wiz#1に採用されたクラスではないが、AD&D1stの最も基本ルールのPHBには既に、別クラスで成長し、条件を満たして転職を経ないと就くことができないBardが存在する(AD&D2ndや3.Xe以後のバードとは根本的に異なるので、Oldbardとも呼ばれる。Oldbardはwiz#6-8や外伝の吟遊詩人とも全く別物である)。以後、D&Dシリーズでは上記サブクラスやデュアルクラス転職とは異なり、ある程度のレベルに達すると、経験値をそのままに転職できるようになるスプリットクラスが多数ある。特にCD&DではAD&Dと異なり、ナイト、パラディンやドルイド等は高レベルになってからこれによる転職でないと選択できないスプリットクラスである。なお、『ファイナルファンタジー』1作目のクラスチェンジは、wizの転職ではなく、これらのD&D系のスプリットクラスが原型である。
 T&Tの初期版(日本で言う旧版こと、社会思想社の5版でもなく、未訳のそれ以前の版だが、5版にも版上げの説明としてだけ言及されている)では、盗賊は7レベルを越えると戦士か魔術師のどちらかに転職する必要がある(なお、T&Tの職種は原語では「クラス」でも「ロール」でもなく「アーキタイプ」である)。これは、T&Tの盗賊は武具と魔法の両方が中途半端なまま成長してきた職種にすぎないためで、あるレベル以上ではどちらかを選ぶ道に進まなくてはならないためという。ただし、ローカルルールではこの転職先に結局「魔法戦士」も含んで運用されていたことが、5版のルールブック内で言及されている。
 また、ずっと後のD&D3.Xeのプレステージクラスは、無論のこと海外ではTRPGに比べればノイズ程度の売り上げと知名度しかないwiz#1などから(恐らく他のCRPGからも)採られたものではなく、転職システムが特に発展したウォーハンマーFRPなどの他のTRPGをヒントとして考え出された可能性が高い。


 こうしたわけで、wiz#1がプレステージクラスの「最初」、まして直接に「以後のRPG(特にTRPG)の参照元」であるとは到底言い難い。
 しかし、AD&D1stの転職システムであるデュアルクラスは(詳細は別の機会に譲るが)ルールが極めて煩雑であり、非常に扱いにくかった。これに対して、wiz#1の転職やそれによる上級職システムは、到底バランスが良いとは言えないが、デュアルクラスよりは理解だけはしやすい(Apple][の性能制限に起因する簡略化の過程で整理されたためもあるが)ものである。そのため、wizの転職及び上級職のシステムは、以後の、特にJRPGで転職がかなり頻繁に採用されるようになった原因のひとつには挙げられると思われる。DQ3に、wizに似た転職がほぼそのまま採用されるなど(特にDQの賢者はプレステージの特徴を多く満たす)は一例である。
 また、wizの転職システムは#1は勿論、#6までは完全にこなれておらず、まだ問題はかなり残ってはいるのだが、海外では#7,8の(システム部分の)評価が非常に高く、CRPGのシステムの結実・到達点と呼ばれることも少なくない。少なくともCRPGにおけるプレステージクラスの原型にwizシリーズが位置づけられる背景には、この#7,8の高評価が大きく影響していると思われる。





敵→プレイヤーキャラの首切判定


 以下、わかりやすいようにプレイヤーキャラ目線の判定(「成功」=首切を回避)として記述する。敵からプレイヤーキャラへの首切は、次の2回の判定を行い、両方が失敗すると発動する。つまり、どちらか片方でも成功すれば回避できる。


(1)運勢値1判定(=対デス・マジック値セービングスロー)
(2)98-(敵のヒットダイス*2)%


 TRPG処理風に言えば「敵は(2+ヒットダイス*2)%の確率で即死攻撃を放ってくるが、プレイヤーキャラは対デス・マジックstによりこれを回避できる」といったものである。これはAD&Dでは暗殺よりも、スライシングのエゴアイテムの効果や、罠やモンスター特殊能力に数多く設定されている即死攻撃判定に相当するもので、忍者の原型となったAssassinの暗殺判定とは全く異なっている。
 当然ながら、プレイヤー側から敵への首切判定(後日に譲る)とも全く異なっている。実際のところ、プレイヤー側と敵側で「全く別の状況・能力」を表現しているともいえる。プレイヤー側は暗殺判定が元かもしれないが、敵のものはアイテムや罠や特殊能力の効果を思わせる。モンティパイソンの首切兎も、正面から飛びかかっており、気づかれないうちの暗殺ではない。


 余談はともあれ成功率である。(1)の判定について、キャラが低レベルのうちは運勢値1判定の成功率は非常に低い。クラス・種族ボーナス無し、Lucボーナス+1(Luc6-11)として、1レベル時には5%である。この判定はレベルによっても成功率が向上するが、どのクラスでもレベルと同%(正確には、wizのシステムは1d20がベースなので5レベルごとに5%というガタガタな階段状の確率値だが)なので、どのみちレベル一桁程度では成功はほとんど期待できない。
 (2)の判定について、首切を持つ敵のヒットダイス(レベル)は、フラックとハイマスターで15、ハタモトやハイニンジャで10であり、これらの首切に対する首切回避側の成功率は68%と78%となる。レベル1ニンジャのヒットダイスは2であり、首切回避の成功率は94%である。


 つまり、#1や#3(LoL)のクリアレベルの13未満あたりでは、(1)の判定の成功率は低いが、敵も低レベルニンジャ等であれば(2)の成功率は9割以上なので、(1)(2)のどちらか片方は成功する見込みが大きい。しかし敵が強いと(2)も3割以上失敗する。つまり、このあたりのレベル域では、首を切られる危険性は「敵の強さ」に著しく依存する。
 すなわち、wizフリークがwizの超難易度なるものの例としてしばしば挙げる、「たとえ1レベルニンジャ相手でも首を斬られる危険はフラックと同等」という風説は誤りである。


 一方、外伝等でやりこみレベルに上げるとどうなるか。100レベル近く上げると運勢値はレベルと同%良化して振り切れるため、(1)の運勢値判定がほとんど失敗しなくなる(TRPGの原則のファンブル、すなわち若干の失敗率は残る。例えばNES版では、運勢値自体の最良の値が0でなく1ポイント、運勢値判定が(19-運勢値)/20で成功するので、18/20であり成功率は90%である。なぜ1d20の通例の95%でなく90%かといえば、運勢値を最低1ポイントにするなら(20-運勢値)でよかったところファンブル確率を再度設けてしまっているためで、wizには非常によくあるAD&Dの実装ミスである。ただし、シナリオや移植によっては、さらにバグが重なって成功率が100%になったり、逆に妙に高い失敗率が残るものがある、という解析報告もある)。一方、(2)判定は、#1にはフラックやハイマスターより高レベルの首切を行う敵はいないが、外伝等ではもっとヒットダイスの高い敵も登場する。しかし、(1)(2)のどちらか片方が成功すればいいので、首切回避は非常に成功率が高い。
 すなわち、wizフリークがwizの超難易度なるものの例としてしばしば挙げる「何千レベルに上げても首を切られる危険は1レベルキャラと同等」という風説も誤りである。
 「首を切られる確率は(#1では)完全にゼロにすることはできないが、レベルによって大幅に減少する」、ならば正しい。
 首切以外の、運勢値判定を経由する状態異常についても同様である。


 「何千レベルまで上げても首切や状態異常を食らう確率は低下しないもの」という推測が、wizフリークの間に一体なぜ広まったのか。
 それは一言で言えば、AD&Dの当然の知識(運勢値の原型、すなわちレベル依存で致命的異常を避けるセービングスロー等が存在する)が欠如しているため、と言ってしまえばそれまでであり、さらにDQ系列などの状態異常等の固定確率に影響されているとも推測できないでもないが(ディンギル等の装備耐性が、特殊攻撃の確率を変動させる等、一見するとDQ等に似ているのも、これを促進している)そこまでは追及しない。
 もうひとつ考えられるのは、ドレインとの混同である。上述の首切とまったく同列・同時に、「何千レベルに上げてもドレインされる確率は1レベルキャラと同等」と流布されていることがある。実はこちらの方は本当であり、少なくともApple][版やFC版のドレインは命中すれば(攻撃判定がアーマークラスさえかいくぐれば)彼我のレベルや運勢値に関わらず必中である。これはAD&D2nd以前のD&D系でも(3.Xe以降の負のレベルの除去時等にしばしばある防御判定の余地とは異なり)同様である。(なお、ドレインの方は首切と異なり、AD&Dでは呪文等による耐性、wizでは手裏剣等のアイテムなど、完全に防ぐ手段は多い。)
 「wizのどんなキャラも回避できない極悪要素」として、「ドレインと首切」が、いっしょくたに考慮されている可能性は高いと思われる。
 たとえCD&Dであっても知っていれば、ドレインと首切は似ても似つかない処理であり、混同するような発想自体が出ない。しかし、現にwizライクの幾つかには、ドレインに素で回避率を設けていたり、首切と同率で起こることにしているものがあり、wizのみプレイ経験からは混同されている場合が多いと思われる。



シングルユーザー化


 よくよく考えてみると、


 「マルチユーザーの大規模システム、PLATOやUNIXマシンでしかプレイできなかった研究所RPGを個人レベルのPCに移植した」


 という目的でwizが作られた、というロバートとっつぁん本人の説明が、日本のゲーマーには前半部分の事情が全く理解できず、さらに他の俗説と混乱して、


「多人数でしかできなかったRPGを一人でもできるように移植した」
 ↓
「多人数のマニアが必要だったTRPGが一人でもできるCRPGになったため、マイナーだったRPG(FT)そのものがwizのおかげで世界中で爆発的に流行した」



 などと吹聴されている原因のひとつになっている可能性が考えられる。
 が、研究所RPGからの商用化のごたごたの話は(オリジナルRogueとトルネコにもあった話だが)非常にどす黒い人間模様が渦巻いているらしき趣が各種資料から伺えるため、当面はこれ以上は追及しない。





wizの能力値は赤箱D&D由来でもAD&D由来でもない


 以前Luck能力値について述べたが、「wizの能力値(アビリティスコア)は赤箱D&D(CD&D)とはだいぶ異なるので、wizのオリジナルであり、D&D準拠ではない」という主張がある。以前も述べたように、

 CD&D・AD&D1stでは"Str, Int, Wis, Dex, Con, Cha"
 Wizardryでは     "Str, IQ, Pie, Vit, Agi, Luc"

 である(後述するがCD&D等と、現状のD&D3−5版等では異なる)。しかし、wizの最初期マニュアルやApple][発売以前のプロトタイプでは、
 "Strength, Intelligence, Wisdom, Vitality, Speed, Leadership"
 となっており、D&D系にさらに近かった。Vitality, Speed, LeadershipはCon, Dex, Chaの名を変えただけ(そして後期版ではさらにIntとWisも、IQとPIEに変更された)のは見ての通りである。


 さて、ここからが本題なのだが、ここまで考慮しても以下のような主張がある。wiz初期版でも上記の通り、"Str, Int, Wis, Vit, Spe, Lea"となっている。つまり、CD&DやAD&D1stとwizを比べると、Vit (耐久度相当の能力値、Con)と、Agi (器用敏捷相当の能力値、Dex)の順番が入れ替わっている。
 これを根拠に、「丸写ししたならこういう細部が一致しているはずだ」「wizのゲームシステムはD&Dと異なる・模倣ではない」「wizはオリジナルのゲームシステムである」(数値テーブルの使い方まで一致している、という知識は無しに)といった主張がある。


 しかし、実は、最もオリジナルの1974年のOD&D(白箱)の時点では、能力値の配列順は、"Str, Int, Wis, Con, Dex, Cha"となっていた。のちのCD&DやAD&D1stでは、ここからConとDexの順番が入れ替わったのである。すなわち、wizの能力値の順番はCD&D等でなく、このOD&Dのものに準拠している。
 さらに正確に言えば、wizの能力値は、OD&Dの方をベースに作られた最初期の研究所CRPGに準拠したものである(AD&D1stは1977年後半以降なので、1974-77年前半の研究所CRPGは必然的にOD&Dベースとなる。ただし、oublietteに見られるようにOD&Dの末期はAD&Dの要素を多く含んでいた)。一例としては、RogueやDiabloに繋がる研究所CRPG、大文字DNDについて、PC移植であるTelengardのゲーム画面からも、STR INT WIS CON DEX CHRの順番に能力値が並んでいるのが確認できる。
 Wiz#1の時点(1981年)では、すでにOD&DにかわってAD&D1stがFT/RPGの常識といえるほど普及していたにも関わらず、Wiz#1は能力値に関しては、AD&D1stから抽出することさえもせず、すでに研究所CRPGで確立していたOD&D由来のシステムを丸写ししたにすぎない。wizは基本的にはAD&D準拠にも関わらず、中途半端にエクセプショナル・ストレングス(*bandやNetHackユーザーをはじめ、多くの古い海外CRPGプレイヤーには既に見慣れたものだが、18をこえる能力値の後に謎の100分率がつくこと)が無いのもそのためである。
 Wizardryが、
「TRPGを参考にして、要素を選りすぐって取捨選択しCRPGに落とし込むという画期的なアイディアをもとに、傑作ゲームとして結実させた革命的な作品」
 などではなく、
「それ以前に研究所CRPGが確立していたゲーム性やインターフェイスの細部に至るまで寄せ集めただけ」
 という動かぬ事実は、こういった実に些細な点を検証すればするほど如実に浮かび上がってくる。


 さて、それではなぜOD&D、CD&D(AD&D1st)、2nd以降でそんなにしょっちゅう能力値の並び方が変わっているのか。
 そこから先はwizからは離れる余談になるのだが、こうした数値やシステムは、そうなっている「理由」を知っておかなければならない。従来日本で繰り返されていた「D&D(酷い時にはここがwizになる)で数値やシステムがそうなっていたらしいがその理由は誰も知らない(=どうせ理由なんて無いに違いない)」などというのを延々続けていると、「数値しか存在せず詳細は未設定だったRPGのシステムに世界で初めて解釈を与えたのは日本の硬派wiz関連書籍」などというトンデモ説にはまりこむのは必至である。


 初期D&D系では、能力値は各キャラの役割分担に相当するクラス(≠ジョブ)ごとの「プライムリクエスト能力値」が最初から順番に並ぶようになっている。OD&Dの最初のルール(Men and Magic, 1974)には、Fighting Man, Magic-user, Clericの3クラスが存在するので、それぞれのクラスが最も要求される主要能力値であるStr, Int, Wisの3つのプライムリクエスト(余談だが、CD&D赤箱和訳の「長所」はほぼ誤訳である)がまず順番に並ぶ。ついで、ウォーゲームのユニット能力として最も重要と思われるCon(どんなクラスであってもヒットポイントに影響する)と、その次に重要と思われるDex(どんなクラスであっても飛び道具やACに影響する)、最後にChaが来る。
 クラスに直結するプライムリクエストが最初に並ぶ(実はIntやWisはゲーム中で使われる機会はStr/Con/Dexに比べて非常に少ないにも関わらず、である。これはwizのIQ/PIEも同様)のは、D&D系が後のTRPGに比べても、「クラスごとの役割分担」を重視していることを示している。なお、クラスとその役割分担は、OD&Dがウォーゲーム由来であることから「兵科」分類からの発想ではないか、という説があるが、詳細は未確認である。
 重要なのは、OD&Dの作られた時点の最初のルールブック(Men and Magic)の時点では、Thiefというクラスは存在しなかったことである。なので、Dexはプライムリクエスト能力値ではなく、ConがDexよりも先に来ている。これが直後の追加ルール(Greyhawk, 1975)でThiefが追加され、のちに整理されたCD&D及びAD&D1st(PHB, 1978)では、「戦魔僧盗」の以後のRPGの主要クラスと、そのプライムリクエストであるStr, Int, Wis, Dexがまず最初に順番に並ぶようになるが、OD&Dの時点ではあくまでConの方がDexより先である。


 一方、AD&D2nd以降、3e、4版や5版ではStr, Dex, Con, Int, Wis, Chaと「肉体能力−精神能力」の順に配置されており、プライムリクエストの順番ではなくなっている。これは何度かこのサイトの別の所で述べているが、ルールが拡大し、「主要4クラスとその主要能力」という意味合いが薄れ、プライムリクエストの順番で記述するよりも肉体・精神の順で記述する方が理解しやすくなっているためである。とはいえ、例えば「なぜか知性がIntとWisの2能力値がある」「なぜが敏捷度と器用度が分離されておらず、Dexの1能力値で表現されている」のは、結局のところ4主要クラスの分類とプライムリクエストを表現するためであったことの名残に過ぎず、OD&DやAD&D1st当時の出たとこまかせのいいかげんなデザインが5版に至っても完全に整理されているわけではない。


 なお、AD&Dからかなり離れてきたwiz#5でも能力値自体は同じなのはもちろん、新規システムによりAD&Dをもはや完全に離れた#6でも、
 "STR, INT, PIE, VIT, DEX, SPD, PER, KAR"
 の順番であり、OD&D以来、耐久度を器用度・敏捷度の先に置いている。#6で器用と敏捷を分けるような当然の合理的変更を行うことはあっても、遂に#8に至るまで(並びの順番は)変更されなかった。(なお、この#6や他のwizライクに引っ張られているのか、日本のサイトや紹介記事には#1では「IQ」表記の能力を「INT/Intelligence」と誤記しているものが夥しい数にのぼる。例えば日本語版ウィキペディアでも2014年12月に至るまで延々そう表記し続けていた)。順番自体は#1から変化することがなかったのは、単にwizには変更する動機もないためと思われるが、最終作に至っても遥かなOD&D及びその準拠の研究所RPGを継承している、文字通り筋金入りのオールドスタイルがwiz#8にも流れている。





Wizardryはホビットとかいるから指輪物語の世界なのか


 RoguelikeやWizardry, LotRに関する掲示板などに、「wizは指輪物語の『続編』って本当?」という質問が書き込まれることが、現在に至ってすらしばしばある。
 これは、要するに「wizがトールキンのアルダ世界を舞台とし、LotR以後の第四紀やそれ以降の話なのか」等という意味である。
 経緯を辿ってみると、wizには「ホビットがいるから」「モルドールチャージ(#4)が登場するから」「外伝2のディスペラントのテキストがそれっぽいから」等から噂され、あるいはwizに正当硬派ファンタジーのハクをつけるためにもっともらしく主張されはじめた説が、日本のLotR未読者を中心に、都市伝説的に流布されているものであるらしい。


 まっとうなLotR読者やwizファンにとっては言うまでもない話だが、無論そんな事実は全くない。少なくとも、Wiz#1-8にも日本製の外伝等にも、Angband([V])のように明確にアルダが舞台とされている(Angbandは時代ごちゃまぜのカオス化してはいるが)といった設定はない。
 しかし、wizとアルダの設定に(他のFT世界設定以上に)連続性が存在しないかという問題ならば、ある意味、全くないというわけでもない。


 例えば、Wizardryには、D&D系でも最初期以外では使用を避けられた「ホビット」が登場する問題に関して、なぜそうなっているかというと、消極的理由を言えば、例えばwizが丸写ししたoublietteをはじめとした研究所CRPGの多くが、D&D系でも最初期のOD&D白箱を参照して作られたためであり、その最初期OD&Dでは、Halflingではなく、Hobbitになっていたためである。
 (ちなみにAD&D2nd以前のHalflingについては、LotR内でも単にローハン語のHobbitと同じ種族を西方共通語でHalflingというだけで、全く同一の種族が登場しているに過ぎない。ただしD&D系でも3.Xe以降では種族HalflingはアルダのHobbitとは全く異なる。)
 もうひとつ消極的理由として、wizなどはD&D系に比べてもさらに比較にならないほどマイナー(Apple][ユーザーの人口が、D&Dより桁違いに少なく、ましてトールキン読者人口と比べればノイズの範疇である)だったので、トールキン著作管理側がそんなものに目くじらを立てる余地は無かったか、あるいは、管理側はそもそもwizなどという代物は知りもしなかった、という可能性が非常に高い。これは、ビホルダーが少年ジャンプに載っていたバスタードでは問題となり、家庭用ゲーム機のファイナルファンタジーでも問題となったが、一方ではその他のPC用RPG(空前絶後の大ヒットとされるザナドゥでも10万本オーダー)では全く問題とならなかったのと同様である。


 しかし、wizでホビットが使用されていることにはもっと重要な、「積極的理由」がある。
 これはwizに限らず、その他同時期やそれ以前のCRPGにもあてはまることだが、これらにはホビットだけでなく、その他LotRに関係する用語等が、何のお構いもなく登場している。orthanc, Akalabeth, ひいてはMoria(Roguelikeではない研究所CRPGにも複数存在する)といったタイトルもそうであるが、これらの多くはwiz同様アルダ世界とは何の関係もない。(それだけLotRが読まれていた、FTの常識になっていたため、同一世界どころかオマージュなどという認識さえなしにほとんど無意識に、何の理由もなく流用されてもおかしくはないという、これも消極的理由もある。)
 しかし、その事実に則ってさらに重要な点は、手っ取り早く「指輪物語そのものではないが、何となく似たような背景を持つファンタジー世界である」ことを理解させるには、これらの用語を使うのが最も早道だからである。最初期のCRPGは、マシン性能の都合上、ビジュアルは勿論のことテキストすら最小限に押さえなくてはならない。最低限の情報で「指輪物語と似たような世界」であることを表現するには、種族の名称(数少ない「ゲーム中に表示されるテキスト」)や特徴にHobbitを用いることが最も手っ取り早く効果的ということになる。特に、児童書の題名そのままでもあるHobbitを使用することは、Halflingよりもあからさまに効果的である。
 何にせよ、ホビットやモルドールチャージやディスペラントから、この世界は「LotRと似た世界」という意味なのではないか、と漠然と感じたというのであれば、その感覚は決して的外れなものではないのである。


 もっとも、「wizやUl1の頃にそうだった」という説明は適切ではないかもしれない。むしろ、LotR要素は、情報や世界設定の少なかった70年代の最初期研究所CRPGが持っていたもので、wizやUlが持っているそれらは単に以前のCRPGを踏襲している部分に過ぎない。wizのパロディ部分にせよ、Ul1の宇宙に飛び出す要素にせよ、81年の頃には、「お約束のファンタジー」であるという設定がプレイヤーに理解させることはすでに必須ではなく、そこからは外れたものが何のためらいもなく作られているのである。wiz#1やUl1が、FTやRPGの「原型」ないしその踏襲ではなく、そこから脱却したものという意義をすでに持っていることは認識する必要がある。





マバディはバディより高レベル呪文である等、存在意義がないという主張


 以前、マバディがなぜこんな実装になっているかの理由として、マバディの原型となっているAD&D1stのHarmについて述べた。
 その補足説明というか、説明する順番が逆になっているような気がするのだが、そもそもwizプレイヤーが当然に持っている疑問は、


・『即死させる呪文』のバディが5レベル
・『即死させられずにわざわざ数ポイント残す呪文』のマバディがより高レベルの6レベル
 というのは、いったい後者に何の存在意義があるのか


 というものだろう。
 これは自称wizを熟知したwizフリークからは、メイジ呪文に比べてあまりに威力の低いリトカンや、さらにリトカンと同レベルでありながら範囲までも小規模なバディアルマ同様、「設定ミス」と頭から決めつけられていることが殆どである。中には、「このような無意味な呪文は、呪文スロットを水増しする(呪文数、MPが増える)だけの目的で設けられている」と主張する者すらいる。
 が、当然、あのロバートのとっつぁんといえど、そんなことのためにただでさえ限られたApple][のメモリを費やしてわざわざ呪文の効果までも実装するわけがない。真相は、AD&D1stの呪文リストを愚直に(不完全を承知の上でさえ)丸写しすること、それ自体が目的なためであることは既にこのコーナーの記事を読んできた読者には予想がつくと思われる。が、ここでさらにもう少し補足する。


 AD&D1stでは、5レベルのSlay Living(CD&D及び魔法使呪文ではFinger of Death, バディ相当)と6レベルのHarm (マバディ相当)は敵へのかかり方の判定が全く異なり、運用そのものが別物である。そのため、「高レベルにもかかわらず即死させられない」Harmには、Slay Livingとは全く異なる存在意義がある。
 具体的には、Slay Livingは呪文に対する防御判定を要求する(AD&Dでは対デス・マジック・セービングスロー(運勢値1)だが、wizではセービングスローについて呪文ごとに設けられた微妙な差を実装できないため、別の計算式になっている)。しかし、Harmは、術者側が命中判定を行い、成功すれば防御判定の余地なく効果を発揮する。実はCause (Inflict) Wounds系(バディオス系相当)も、AD&DではHarm同様、後者の打撃命中判定のみで成功するものである。
 「呪文の防御判定を行う」と「打撃の命中判定が必要」は一見するとどちらが効きやすいのか把握が難しいかもしれない。特にwizやD&D系の初期レベルでは、プレイヤー目線からは敵の呪文を防御(セービングスロー等)できる可能性は非常に低い一方で、打撃の命中判定もやたらと当たりにくいので、むしろ前者の方が効きやすい呪文に見えるかもしれない。
 が、AD&DにおいてSlay LivingやHarmが使えるようなレベル(ネームレベル、クラスにより異なるが9−11レベル前後)では話が変わってくる。ここで、強力な敵は一律で非常に優れたセービングスローの値を持ち、さらにそんな敵の呪文防御能力を下げるのは非常に困難である。しかし一方で、命中判定を当たりやすくする手段というのは、戦術(呪文その他の魔法的手段、さらにその他の特殊能力)レベルであれ戦略レベルであれ、掃いて捨てるほど存在するのである。AD&Dではレベルが上がれば上がるほど行動の選択肢そのものが爆発的に広がるため、特にネームレベル以降ではそうした手段は非常に多くなっている。
 したがって、Harmは強敵に対抗する手段としてSlay Livingとはまったく別の存在意義を有している。

 (なお、一方でCD&D緑箱のCure Allの箇所には、これを逆転させたAD&DのHarmにあたる呪文は記載されていない。また、CD&D赤箱〜黒箱には、命中率を底上げする手段もAD&Dに比べれば絶無といっていいほど僅かであり、さらにCD&Dでは打撃命中判定を必要とする呪文は接触攻撃値の類ではなく鎧を含めたACの総値に対して命中させなくてはならない。そのため、Cause Wounds系の呪文の利用価値は著しく低く、AD&Dや3e以降よりさらに有用な機会は少ない。自称TRPGベテランのCD&Dプレイヤーが、これらの逆呪文の存在自体を忘れていたり、wizとの関連を指摘できなかったりするのはこのためもある。もっとも、これら自称ベテランは単に本当に「赤」箱しか経験がないので、青箱以降に書いてある逆呪文は存在自体を知らないことの方が遥かに多い。)


 AD&Dではこのような意味があるが、例によってwiz#1-3ではAD&Dを愚直に写すことを試みながらも、種々の制約のせいでそれが中途半端になっている。wizでは、マバディにわざわざ他の呪文と別個のシステムを設けるような余裕がないためか、打撃命中判定を行うなどは当然実装されていない。
 ではどうなっているかというと、例えばFC版#1等では、マバディにせよバディオス系にせよ、命中すら必要とせず、実は「呪文無効化」(Magic Resistance, デーモン等が持つ生来の魔法免疫を指し、先に言うsaving throw等の呪文防御判定が能動的に耐えたり躱したりする行動を指すのとは別枠である)されない限り必中となっているのである。バディが「防御判定と無効化の両方」をかいくぐる必要があるのに対して、マバディは「無効化」さえかいくぐれば良いので、AD&Dよりもさらに遥かに強力な呪文となっている。加えて、wizのバディはカティノ等に比べて成功率上限(レベル差があっても最大成功率74%等)があり効きにくい。このため、wizのマバディはバディよりも遥かに強力であり、6レベル呪文に相応と思われる。特に、(通常は無効化率をつける手段がない#1等のプレイヤーキャラにとって)敵に使われると本当に恐ろしい呪文(伝説的なプレイ記で、1000レベルキャラを文字通り脱命したように)である。

 (ちなみにマバディがバディよりも敵の「呪文無効化率」の方をかいくぐる率が高いと書いてあるユーザーのレビューや書物が数多くあるが、これはモリトがマハリトより呪文無効化貫通率が高い云々同様まったくのデマである。wizでもAD&Dでもそんな事実はない。あるいは呪文の防御(モリトはそっちも無関係だが)と無効化を混同している可能性もある。
 なお、無効化(Magic Resistance)の方も、シナリオや移植によって異なる「抵抗」「回避」「妨害」などとばらばらなメッセージが表示されることもあって、非常にわかりにくい。AD&Dについて何の知識もない者が訳していることが多いためこうなるのである。この記事でここまで、セービングスローにあたる判定について呪文を「防御」と書いてきたのは、実際はAD&Dに照らせば抵抗や回避に近いのだが、一部プレイヤーが上記事情からセービングスローと無効化とを混同するのを避けるためである。)


 ではなぜ冒頭に挙げたようにマバディがwizプレイヤーからの評価が低いのか。
 ひとつには、元がウォーゲームであり緻密な戦術が可能なAD&Dでは、聖職者がHarmを用いた直後に同じ対象を戦士が(複数攻撃のうち)1回だけ攻撃するといったコンビネーションが可能である。1ラウンドを10分割したセグメント単位すらある。しかし一方、wizではコマンド入力が終わったら何が効いてグループ内の誰を殴るかもわからない乱戦であり、それほど緻密な指定は(1ラウンド内未満では)できない。さらに、1ラウンド差が明暗を分けることが多い後半戦になればなるほど「1体を1ラウンド(1回の行動)で倒す」ことが重視され、そうできないマバディのような手段は特に軽視されることが多い。そもそもマバディはその理由で一度も使ったことがないと発言するプレイヤー(なのでバディとも比較できるわけもない)は多い。
 もうひとつの理由としては、マバディを使うようなレベル・敵では「呪文無効化率」を持つ敵が増えてくるため、wizフリークは無効化率を持つ相手に放ってみて「たまに効いたり効かなかったりする呪文」などと、バディと完全にいっしょくたにしている例が見受けられる。実際は防御(呪文成功率)と無効化は表示されるメッセージが違うのだが、前述のように訳のせいで意味不明になっていることも多い上に、何十年経っても罠の「識別失敗」と「解除失敗」の区別がつかず石の中に入ってもどちらのせいだったか思い出せない(つまり、その破滅の理由が盗賊でなく忍者だったからなのか、能力値が足りなかったのか、レベルが足りなかったのか、一体どれなのかを誤って理解している)とかいうwizフリークはいくらでもいるので、それこそいっしょくたでも不思議はない。なにせアーマークラスや耐性バグに数十年間気づかず『FC版は神バランス』などと肩で風を切って他RPGを見下す根拠としていた連中に、「呪文の防御+無効化の貫通」と「無効化のみの貫通」の大幅な確率の違いですら、体感で気付けなどというのは酷というものだ。


 ともあれ、#1等のマバディは内部動作においてバディより遥かに強力と称するに充分ということを加味しても、前記のラウンドと戦術の事情もあり、wizのシステムにおいてはプレイヤー側にとって格別に有効とはいえず(また同レベルのマディの重要さからも)AD&Dのリストを写したという以外の大きな意義はない。
 その一方で、wizでも#5-8は、他のCRPGの発展のためもあるが、AD&Dやその他のTRPGには特に準拠していないものが多くみられる。#5での相当呪文ラバディは、敵のhpを落とすよりも吸収することが主な効果であり(なお、システム上はAD&DのVampiricやEnergy Drain等の呪文とは全く異なる)なんとなく条件や効果が他と似たように見えるような呪文よりは、見た目の効果が異なるものを多く配した方が得策だというのは、TRPGとは異なる「CRPGの経験則」が前よりは積み重なっているためであると思われる。




wizの重厚部分は日本人が考え出したとか言ってる奴らは以後のダンマスとかの重厚部分も日本が起源とか思ってんのかよとか聞かれた


 筆者に聞いてどうするんだという気もするが当然思ってるだろうよ。
 なにせ「細身で美しく温和で弓を使うエルフは海外には存在せず、日本人が考え出した(2014年現在)」などという主張が平気でまかり通っているのだ(海外TRPGの細身エルフの発祥と、トールキンのエルフが屈強・勇猛に描かれたシルマリルの物語の刊行の時系列を思いっきり誤解しているため)。こんなトンデモな代物に比べれば、「末弥絵とハネケン音楽」が、全世界のファンタジーに対して巨大な影響力を持つwizに比べれば些細な存在でしかない他の海外FT, TRPGやCRPG(とか彼らは信じている、現に前回EverQuestやガンダルフに関して主張されている例を挙げた)に影響を与えて硬派の流れを作り出しただとか、別にたいして飛躍した発想でもない。


 繰り返すが、日本のFT/RPGに関する主張は、あたかも徳川家の存在さえ知らずに江戸時代を語ろうとしていたり、実際の野球の存在さえ知らずにファミコンベースボールゲームで米国大リーグ史を語ろうとするようなものが大手を振ってまかり通っているため、そんなものが背景に横たわっていては誰がどんな突拍子もない帰結に至っても一向に不思議ではない。





wizはパロディ世界で硬派な解釈は日本人が作ったという主張


 昨今、wizは硬派ファンタジー世界などではなく、「パロディにあふれたギャグ世界」であるだとか、ひいては「ゲーム自体がジョーク」「バカゲー」であるなどという主張も少なくない。首を刎ねられたり石の中に入るのも「バカゲーのシュール表現」という理由で設定されたなどと本気で説明されていることもある。
 しかし、「硬派しか存在しない世界」という認識同様、「露骨なパロやギャグにだけ支配された世界」という認識も全く正しくはない。


 シャーマン戦車のくだりで触れたが、wizのマニュアルにふざけた記述やイラストがあふれているのは、AD&Dの基本システム(例えばACやhpとは何を定義した数値なのか)や前提(コスモロジーや基本設定)などは、少なくとも当時の海外ゲーマーにならば誰にでも知れ渡っているので、マニュアルにそんなことの説明をくどくどと書いても何の意味もなく、お笑いくらいしか書くことがないためである。
 別の言い方をすれば、wizのマニュアルやメッセージやアイテムのジョークの足元には、wizに直接書かれてはいなくとも、AD&Dの凄まじいまでに膨大なシステムとデータに裏打ちされた基盤がすでに存在する。AD&Dの流れをくむ洋ゲーが多少なりとも共通して持っており、その残滓が日本初期のザナドゥやFF1等にも微かに残っている(そして、JRPGは無論、TRPGでもソードワールド1以後の日本製では大概根こそぎ欠如している)、「重み」「独特の雰囲気」がそれである。
 wizが(FT/RPGの普遍常識として、おそらく拘りでなく単に無意識に)採用しているAD&Dのシステムには、これまでこのコーナーで無数に例を挙げてきたように、数値や仕掛けのどれひとつとってもそうなっている理由・背景・膨大な基本設定が存在する。たとえ無意識であろうがそのシステムを採用すれば、そうなっている理由と無縁ではいられない。首を刎ねられるのは(忍者の原型であるAssassinに不意を打たれると)残hpの定義である致命傷を避けるあらゆる能力を使用する余地なく致命傷を被るためである。(モンティパイソンのお笑いの首斬り兎だからギャグだと主張されることもあるが、別に首斬りのシステムは兎を再現するためにわざわざ作られたわけではない。)テレポートで石の中に入るのは、アストラル中継界から主物質界に戻るのが(AD&D1stでは3e以降と異なり)それほどまでに困難なためであり、戦略をたやすく覆すテレポートの必然的リスクである。
 wizはギャグやパロディが大量にあるといっても、決してドラゴンハーフのように根本的におちゃらけた世界でも、ディスクワールドのように根底から徹底的にジョークで形成された世界でもない。おそらくwiz#1のトレボー王やカント寺院の面々も、まんまモンティパイソンに登場する王や司祭達のような姿だと考えざるを得ないとしても、(特に米国の)映画や小説でひっきりなしに軽口や下品な冗談を飛ばす荒くれた下級兵士が、凄惨な流血と死と常に背中合わせであるかのごとく、パロディやギャグの部分はwizardryの世界全体のうち僅かな部分でしかなく、それ以外の大半・ゲームを支えている基本部分はAD&D準拠により必然的に(そして説明が省かれている)シビアで容赦ない部分である。
 それがD&D系準拠の数値で表現された世界であれば、どんなにパロディ要素を加えていようが、それ以外の部分は、特に説明がなければ、城壁からその外に一歩出れば、飢えと渇きと血と略奪と野外環境に襲われ天災に襲われアイウーズ軍に襲われワンダリングの1d8で8が出ればドラゴンが空から襲ってくる世界であることはD&D系ゲーマーにとっては当然の認識である。
 もっと突っ込んだ話をすれば、AD&Dではルールや資料から読み取れる世界が、緻密に設定された徹底的に過酷で無残な世界であるからこそ、息抜きのためのユーモアやパロディは、プレイにあたって個々の卓で加えるのがごく自然に行われる要素だったともいえる。
 (といっても、AD&Dのメーカー側から提供される世界自体も硬派一辺倒とはほど遠く、ものによっては羽ばたき宇宙船とか、球形砲弾のかわりにビホノレダーを撃ち込んでくる著作権的にえんがちょなハイパーバズーカとか出てくるが、そこまで説明していると日が暮れるので省く。)


 つまり、wizが「硬派一辺倒な世界」だというのは、明らかに勘違いではあるが、そのように勘違いした理由ならば明確である。そのAD&Dのシステムや基本設定の根底に由来し、それに準拠したゲームに共通にのしかかる「重み」「独特の雰囲気」を感じ取ったからに他ならない。
 Apple][やPC版wizの少ない情報、主にゲーム内容の凄惨さから、その背後の重厚さまでも何となく感じ取ったのだとすれば、そのセンスはむしろ鋭敏である。


 誤っているのは、「wizには(AD&Dの基本設定を知らないので)数値以外の基本設定など存在せず、この世界は最初からマニュアルやメッセージから読み取れるパロディやギャグ要素だけで構成されている」「重厚な要素は日本に入ってくるまでは一切存在しなかった・それらの要素は日本人(自分たち)が最初に考え出した」「マイナーだったTRPGを有名にするほど莫大な本数がFC版以前にも売れながらも世界中で(註:これらも誤り)お笑い一辺倒の世界として広まっていたwizを、FC版ただ一本が、末弥絵と羽健サウンド(とベニ松)が重厚な世界に昇華してしまった」などと信じ込んでいるような側である。
 言っておくが、これは原理主義者(wizを硬派と盲信する側)ではなく、そんな原理主義者を揶揄する側(wizはただのパロディ世界と主張する側)、自称「良識派」がこんなことを主張しているのである。それは、wiz世界のパロディとシリアスを取り違えるよりも遥かにおこがましい。



レビューの影響力


>ウィザードリィ
>8 8 9 8
>すべてのRPGの基本となった『ウィザードリィ』だ。
>5年も6年も前に製作されたゲームなのに、この水準。
>エライとゆーよりほかはない。『ウィザードリィ』が
>製作されてから何年もたつのに、いまだにこのゲーム
>のマネでしかないゲームがいっっっぱい作られている
>とゆーのは、カナシイね。(店長)
(『ファミコン通信』クロスレビュー、1987年12月25日号)



 これまでも述べてきたことだが、RPGの要素が何でもかんでも「wizが最初から完成させた」とか「wizの真似でしかない」とかに見えるのは、wiz以外のRPGが直接AD&Dや、1970年代の研究所製CRPG、酷い場合は実は日本の初期PCのCRPGを模倣している要素を、どれも「wizが作った」「wizを真似た」などと頭から決めつけているためである。
 かれら全員、やっていることは、常日頃ネットで見下されているJRPGプレイヤーの手当たり次第「DQのパクリ」「トルネコ(シレン)のパクリ」認定と何ひとつ変わらない。


 が、wizに関してはDQやトルネコよりもさらに致命的に酷い点がある。
 このネットのパクリ認定レベルの所業を、RPG史に疎いネットの有象無象連中ではなく、ことwizに関しては、上記の引用のように影響力の高い雑誌のレビューや有名なライター等が数十年間延々と続けてきた、という点である。
 これがさらに下層・後世代に対しては多大な影響を与え、「wizが世界的にヒットして全FT/RPGに影響を与えた重要な作品である」という何の根拠もない盲信は、明確な反証を挙げられてもなお頭から否定する者が多い深層に刷り込まれるほどに、日本のCRPG文化に根強く定着している。
 あたかも、『野球』が存在せず、コンシューマのベースボールゲームがいちから作られて大衆に普及させたかのように流布され続け、実際に米国の大リーグの歴史や海外諸国の野球試合の映像を見せても「ファミコンのベースボールゲームに影響された人々」「あのファミコンゲームがいまだにこれほどに影響を与えている」などと主張し、しかも「その主張に対して誰ひとり疑問を持たない」までに刷り込まれている、といえば、日本のFT/RPG史論がどれだけ異様な状況かは推して知るべしであろう。


 このサイトの言及に対して「wizの原理主義的な狂信者なんていまどきほとんどいないので、そんなことに拘る必要はない」という評がある。
 しかし、現在に至っても日本のあらゆるFT/RPG関連には上記の根本的に誤った前提が埋め込まれ、それに立脚・派生した情報が多々乱れ飛んでいる。それを注意せずに取り入れていれば、誰しも知らないうちにどんな誤った認識を持ってしまうか、どんな発言をしても一向に不思議はない。
 以前にも述べたことがあるが、ネット上でおおよそ最も参照される辞典上で、海外FT/RPGでは当然に普及しているAD&D由来の種族像に対して、wizと異なるなどという理由で「旧来のファンタジーと大きく異なる」などと決めつけた記事がいまだに載っていたり、もっと酷い例としてはwizと何ひとつ関係もない項目に侍の話など持ち出した挙句「魔法使いが呪文を唱えるというイメージが一般市民に定着したのは(旧PCの)wizでキーボードから呪文を入力していたのが理由」などと主張する記事がかつて平気で載っていたりした。
 特にキーボード云々は並外れたインパクトを伴うトンデモ説だが、これは決して原理主義者・狂信者だから出てくる説ではない。「wiz#1がファンタジー像を世界中に普及・定着させた大ヒット作」「AD&Dは名前すら知らなくていい」といった通例がまかり通る日本でならば、特にwizの信者等でなくとも、このような帰結以外、夢にも思い至ることがない者がいても全く不思議はない。そして、そんなものが拡散される情報として日々量産され続けてもやはり不思議はない。
 ここを読んでいる読者の明日の発言も、来週には上記ファミ通レビューと同様にこのコーナーでwiz盲信の典型例や派生例として挙げられているかもわからない。「自分は原理主義者じゃないからいい」ではなく、今も耳から入ってくるRPG知識自体をまっとうに考え直さない限りは、それを決して防ぐことはできない。





ビジュアルと想像力


 wizをはじめ、さらに元となった1970年代の研究所CRPGなどの黎明期のRPGの多くでは、ゲーム中には数値しかなく、グラフィックは無論のこと背景の説明文すらないのは、無論のこと、当時のマシンの機能上の制約のためである。
 しかし、RPGでないゲーム(例えばテニスやスペースウォー系列)では最初期から、もう少しはスピードやグラフィックを重視していた。
 wizと同時期やそれ以前の初期のCRPGでは、グラフィックはともかく、なぜ説明すらも切り捨てられたか(優先順位が低いか)には、至極合理的な理由がある。
 海外では児童ですら読んでいるホビットの冒険や、LotRやひいてはAD&Dの背景から、当時の海外ゲーマーは誰でも『FT世界とはどんなものか』は知っており、それらと共通の用語(ホビット等の種族名など)が出ていれば、「だいたい同じような世界であること・基本設定があること」は当然だったので、何も設定を説明する必要がなかったためである。


 しかし、wiz以前のFTやAD&Dに遡ることができない、当時はそれらの存在さえも知らず、今でもそれらの名前だけ知っているだけで知識を一切活用できない日本のゲーマーは、「wizは最初から数値以外存在しないゲーム」「そこから想像力で世界を創造することを喚起する目的でグラフィックが排されている」などと信じ込み、終いにはとうとう、「数値だけで背景の世界や設定が一切存在しなかったwizに対して、日本人の想像力によって派生創作のような『硬派ファンタジー世界』がいちから創造され、有難く与えられた」などと主張するようになった。


 そのwizの多々の二次・派生創作の「自称硬派ファンタジー世界」なるものが、wizのその数値の実際の背景であるAD&Dの膨大な基本設定から見れば「お笑いネタ」(しかも彼らが日々見下しているドリルブレード以下のギャグセンス)程度の価値しかない稚拙な珍設定・珍描写のオンパレードであることは、これまで述べた通りである。


 なお、別ページでも述べている通り、日本人がwizと同列のCRPGの祖と主張するオリジナルRogueは、のちにRoguelikeの特徴とされるランダムダンジョンやらキャラロストやらが特徴(独自の新規な点)だったのではなく、「ダンジョンが画期的に視覚表示された」というのが当時の最大の売りであり、ヒットした理由であった。
 これに対して、現代のゲーマーからは、@だのTだの#だのが並んだ画面の一体どこが「視覚的」なのか、何を言っているのかさっぱりわからないという声を聞く。

 要は、「視覚表示」とは、ビジュアルを強化する(ファンタジー世界の光景をリアルに再現する)とかいうのではなく、AD&Dのマップやタイル、TRPGをプレイするにあたってプレイヤーが目にするものに近づいたというだけである。AD&Dのプレイヤーはプレイ中には普段からそれしか目にしていないし、CRPGがあくまでTRPGを再現するなら、特にそれ以上の必要もない。
 モンスターとかの駒は使われていたが、それは当時は輸入したウルトラ怪獣の消しゴムとかだったというのも別の所で述べている。つまり、Apple][版wizのモンスター像の解像度とどっこいである。このApple][版のモンスター画像すら、当時は遭遇相手が大写しされるものとして新規と呼ばれていたが(それ以前のCRPGから、モンスター画像自体が出ることは無いでもない)それ以上の解像度はたいして必要なかったのだ。
 ではTRPGのプレイヤーはファンタジー世界のビジュアル・映像を、TRPGやCRPG以外・以前のどこから得ていたかといえば、無論それ以外のFT作品である。以前述べたように、海外では既に、LotR準拠のFTそのものがwizとは4桁違うオーダーで普及していた。

 これに対し、日本では、RPG風のエピック・ヒロイックFTの像画・ビジュアル自体、ドルアーガやDQ等のCRPGブーム以前には触れたことすらないといった者が大半を占め、FC版wizの末弥ビジュアルから必要以上に大きい影響を受け、(海外でも同様だなどと信じる等)そのビジュアルの影響力を異常なほど過大評価しているのも、結局のところそこに行き着く。日本のwizフリークは原作者ウッドヘッドがFC版wiz#1を絶賛したのがまるで末弥絵のおかげであるかのように平然と印象操作を行うことがあるが、実際はウッドヘッドがFC版を評価した理由で最も大きいのは、硬派世界観とやらでもゲームバランス(実際はFC版はApple][以上にバグだらけ)でもなく、単に「フロッピーディスクが回らないことによる快適さ」であり、その点がFC版で最も画期的だった点は移植のevezoo(遠藤雅伸)氏も言及している。


 これらの当時の感覚は、当時のTRPGの正確な認識が欠如した(「TRPG」にソードワールド1以降の内容やプレイスタイルを無理矢理あてはめて語ったり、AD&Dは名前すら知らなかったり)日本のゲーマーには、確かにさっぱり想像もつかないだろうと思われる点である。
 wiz#1が1981年当時「とにかく斬新だった」とか「画期的だった」とか「全てをいちから作り出し、作った全てが全世界に絶大なインパクトを与えた」とか、何の根拠もなく馬鹿一に喚き散らすより前に、この当時のRPGにとって、一体どういう要素こそが「本当に新規だった」のか、何がどういった評価か、どう見えていたか、それは80年代当時普及していたもの(端的にはLotRやAD&Dなのだが、これまで述べてきた和風趣味など、それ以外のものも含め)の知識がなければ、全く把握することはできない。





なぜ海外ではwizクローンが作られないのか


>wizライクやwizクローンのフリーソフトは海外では見当たらない
>wizはRPGの「原点にして頂点」のはずなのに、なぜ本国の方ではwizライクが作られないんだろう


 wizが原点などというのは日本人だけの勘違いだからである。とかいう言い方では話が続かないのでもう少し噛み砕くと、日本のゲーマーや製作者の多くが、wizよりも以前に遡ることができず、wiz以前のFTやD&D系自体の知識が全くない。正確には、存在(名前)だけ知っていてもその意義が理解できず、活用・反映できない。そのため、いまだに「RPGの原点に回帰する」=「wizをそのシステムバランスの理由(AD&Dの背景)もわからずに盲目的になぞること」以外に見当もつかず、結果、wizもどきを延々と作り続けているわけである。
 AD&Dを知っていれば、本来何を再現するのが重要であったか、何が重要でなかったか(wiz#1にはどの要素が足りず、どの要素がApple][の性能上の制約故に存在する処置に過ぎなかったか)、さらにはAD&D1stの時点から元々何が足りなかったかも理解できるはずなのだが、それがAD&Dの知識のない日本のwiz#1原理主義者には皆目見当もつかないので、延々とオートローラーもなしの単純作業キャラメイクや、馬小屋+ロイヤルスイート、貧相なスペルリスト等を盲目的に丸写しを続けるしかない。こんな特殊な事情は日本にしかない。
 「wizが原点だという勘違い」が問題だというのは、単にoublietteの方が先だとかいう点(「最初でないのは指輪物語もD&Dも同じ」という馬鹿一の言い訳で済むような問題)ではない。原点(派生元)と盲信するあまり、それ以前の知識を用いることができない(用いようともしない)点、勘違いから不可分に生じている上記の珍妙な様相にこそ、問題の本質がある。


 話を戻し、そうした勘違いのない海外ではどうなっているかというと、PLATOや初期UNIX汎用機のCRPG黎明期の当初から、目標としてきたのは、「OD&D・AD&D」を再現することであった。現に海外のRPGは、大半はwiz(やUlやRogue)から派生したのではなく、wizと何も関係なしにAD&D(wizとは数桁違う米国一般層に普及していた)を再現するために作られたり、または、wizとは全く無関係にAD&Dを再現してきたUNIXやPLATO黎明期の研究所CRPGから発展してきたものであることは従来の記事で述べてきた通りである。


 例えば、「AD&Dの再現のCRPG」であり、さらに日本でのwizクローンのごとく「いまだに作り続けられている」という例のひとつに、Forgotten Realms: Unlimited Adventures (FRUA)のコミュニティがある。これは、日本でもFCなどに移植された初代『プール・オブ・レイディアンス(PoR)』等のGold Boxシリーズに似たエンジンで、AD&D1st準拠のシナリオや素材製作が可能なツールである。非常にレトロスタイルであるが、いまだに素材・シナリオや、FRUA自体のクローンも作られ続けている。
 実を言うと日本語版Zangbandの板倉氏がRoguelikeのタイルを作った際に参照したモンスター等のアイコンも、元々はいずれもこのFRUA用に作られたチップであり、それほど定着した、息の長いシリーズ、コミュニティである。
 FRUAも採用しているエンジン、Gold Boxは、FCでも再現可能なくらいであるから、ゲームとしての完成度は(初出当時の他ゲームに比べてすら)決して高くはない。しかし、wizで再現できなかった数値バランス(各種テーブルや呪文システム、かなり不完全だがマルチ・デュアルクラス)や戦闘ゲームとしての空気(wizのような大味な抽象戦闘でなく)は忠実、というより愚直に再現されているのが、AD&D1stのツールとして長年使い続けられている所以であると思われる。


 結論として、非常に乱暴に言えば、原型であるAD&DそのもののCRPGのツールがあり、普及しているのだから、レトロゲームのクローンの範疇ですらも、AD&Dを中途半端に再現したにすぎないwizをライクとかどうこうする必要性は皆無である。
 このFRUA等がCRPG自体の原点だとか頂点だとかいう意味ではない。AD&D1stを再現したゲームはwiz以外にもいくらでもあるが、そのいずれも不完全であって、どれかが原点や頂点として崇められているわけではない。単に、FRUAをはじめとしてwiz#1などよりもAD&Dの再現性が高く、故に、長年愛好されているものはwiz#1の他にいくらでもある、という話である。
 逆の言い方をすれば、こんなFC版PoR程度のものが単にAD&Dツールだからという理由だけでも、wiz#1よりよっぽど長く利用されたりクローンされている、wiz#1には現在参照されるゲームとしてはその程度の価値すらもないということである。



究極のCRPG


>AD&DがRPGの原点、wizが当時の性能上の制限内でのAD&Dの不完全な再現なら
>「AD&Dの完全な再現に成功したゲーム」こそが、究極のCRPGなのか


 残念ながら全然そんなことはない。これまでもこのサイトのあらゆる記事で述べてきたように、TRPGシステムとしてのAD&D1st、2ndは、1974年当時のOD&Dを行き当たりばったりの付け焼刃で拡張、普及しすぎて後戻りできないので派生と枝分かれがクトゥルフのお口の触手のごとくのたくり雁字搦めに混線してきた、非常に歪でカオスなゲームシステムに過ぎず、特に、CRPGやコンピュータ処理には明らかに不向きとわかるシステムも山ほど抱えている。
 それは、wizやUlが発展する過程の80年代半ばにも、すでに明らかになっていた点であった。にも関わらず、90年代以降に至ってもAD&Dの影響が多大に見られるのは、AD&Dが80−90年代当時にはあまりにも当然のものとして「普及」しきっていたため、RPGの常識(プレイヤーの馴染み・愛着)にも浸透し、除去することが不可能であり、また再現する需要もあったためである(なお余談だが、このAD&Dの諸要素を日本人は見るなり「wizの要素」と勘違いし、「wizが現在もこんな所にまで影響を与え続けている」などと歪曲して受け取っていることが大半である)。
 このサイトでAD&Dの知識を繰り返し要求するのは、それが「優れているか否か」とは全く無関係である。単に、80-90年代に渡り完全に(日本以外の)ファンタジー、ゲーム史の背景になっており、前提知識としてもはや不可欠であるために過ぎない。


 現に、90年代にはすでに、AD&D(を再現したCRPG)よりも明らかに優れたCRPGのシステムのアプローチはいくらでもあった。#1原理主義的wizフリークに対しては非常に逆説的に聞こえることを言うが、Wiz#6-8もそのひとつであり、#7,8の基本的な思想(の数値部分のシステム)はAD&Dよりも遥かに優れた点が多い。(非常にくどいようだが、Wiz#1-5がD&D再現でWiz#6-8がAD&D再現、というwizファンに有名な流言はAD&Dの内容を知らない者があてずっぽうに想像して広めた非常に迷惑なデマである。)Wiz#6-8はAD&Dとは全くの別物であり、そして大幅に改良を試みている(ただし、特に#6の時点ではその実現はかなり不完全な)ものである。


 現実問題として、先にFRUAなどの80年代にAD&Dを再現したゲームについて述べたが、その後、「AD&Dを再現したゲーム」のひとつの到達点としては、AD&D2nd準拠の『バルダーズゲート』1、2がある。これは現在でも、最新ゲームに交じって拡張modがユーザーらによって作られ続けており、前述したFRUAの次世代システムのような趣もある。
 BGはそれ自体が、史上有数の傑作RPGに幾度も挙げられるほどの評価を受けている。しかし、実際のところ、それは「AD&Dを再現していたこと」とはあまり関係はない。緻密な世界設定(FR世界)や大量のゲームデータなどがその完成度には大きく寄与しているが、それは90年代においては既に、少なくとも「AD&D以外にはできないこと」ではない。BGはそれ自体が傑作であり、たまたまそれがAD&Dの名前を使うライセンスを受けていた、というだけである。
 日本では、実際にはAD&Dを知らない者が(ソードワールド1以後の日本製TRPGの経験しかない者が、あたかも「TRPG全般」を知っているかのように訳知り顔に語る等)「BGはAD&Dを完璧に再現しているから史上最高の傑作だ」等と主張していることがあるが、断じて鵜呑みにしてはいけない。ゲームシステムの細部や、そもリアルタイム制である点も含めて、BGは決してAD&D2nd自体への忠実性が高いわけでもない。(AD&Dらしさで言えば、前世代のFRUAの方がむしろ高いほどである。)


 ともあれ、日本で言うwizライク・クローンのように息が長くユーザーが長年拡張し続けているシステムの位置には、海外では、AD&Dを再現したFRUAやBGのような例がある。しかし、FRUAやBGが作り続けられているのは、単にそれらのシステムに明らかに欠点がありつつも、AD&Dの普及度から「既に馴染み深いものであるから」「愛着が持たれているから」であって、それ自体が「原点」に据えられて狂信されているためではない。


 なお、筆者はWiz#1-5, #6-8, FRUA及びBGのそれぞれに対して多大な愛着を持つが、これらのうちどれかが「究極のRPG」なのかと問われれば、どれひとつとして「一般人にはおすすめできない」としか言えない。概してシステムを重視したゲームはとっつきにくいものである。
 AD&Dのシステムをどれだけ忠実に再現するかという問題は、現代となってはもはや単なる個人の嗜好のみに関係する問題であり(たとえその嗜好を持つ者が、世界規模ではwizの数百倍だとしても)CRPGとしての出来とはもはや全く関係はない。





前回のつづき(当時事情2)


 前回が好評だったのでまたデータを挙げてみよう。「RPGに『侍』が出てくるのは」ひいては「外国人が『侍』というものを知ったのはWizardryの影響」(曰く、海外でのApple][版wizの大ヒットのおかげ)という日本での風説に対して、普及度のデータを示す。


Wizardry#1                      24,000 ※1
トゥクガゥ・アィェェアズ  30,000,000 ※2
ミューゼシィ               120,000,000 ※3

※1 CGW誌
※2 紀伊国屋書店
※3 New York Times



 『徳川家康』は山岡荘八の各国語版合計で内訳の多くはアジア(中・韓)のようである。一方、『宮本武蔵』は吉川英治のものの英語版である(アジア版を入れるとさらに膨れ上がると思われる)。後者の世界的な刊行数は児童書の定番・ホビットの冒険(1億)を軽く上回るほどである。興味深いことに英語版の刊行はwiz#1と同年(1981)である。(なお、侍や忍者のさらに後代の影響力というと、サムライ=エックス Rurouni Kenshinやネアルツゥ Naruto原作も数千万〜億単位の部数だが80年代時点ではまだ関係ないので省く。)


 Musashiの米国版のペーパーバックの表紙はむっちゃ濃い&むさ苦しい。これは、アカデミー外国語映画賞などを取り海外でも有名な1954-56年のSamurai Trilogyで宮本武蔵を演じた、われらが「ミフューン」をモデルにしていると思われる(ただし、この映画の時点で三船敏郎は結構若く、上の表紙はむしろ後の黒沢映画で演じていた髭面侍が直接のモデルと思われる)。
 海外ゲーム、例えばD&D系などに侍が登場する際は、なぜかやたらと「二刀流」が得意であるのは、様々な理由は考えられるが、要は宮本武蔵(もしかすると、じかにこのむさ苦しい表紙)の影響がかなり大きいと考えていいだろう。


 とりあえず、上記書籍やスターウォーズやOD&D・AD&Dの和風資料等に顕著なように、東洋趣味が(特にナード層には)wiz当時にはかなり一般的であり、ひいてはwizの原型のoublietteの時点でとっくに侍や忍者が登場していたことを加味したとしても、「Wizardryに侍や忍者が登場していたのは、作者ウッドヘッドに日本趣味があったから」という言い方は、必ずしも誤りではない。

 が、海外で一般に(ゲーマーのみならず)Samuraiというものを知っている人間を無作為につかまえて、「それを知ったのがWizardryが原因」という可能性に関しては、上記の普及率の数値関係から考えて、ほぼノイズの範囲といえるほど低い。




前回のつづき(当時の事情3)


>さて、このRPGにとって、コンピュータは強い味方になった。
>複雑な計算・・・などで、コンピュータは、本によるRPGや、
>後のRPGの遊び方のところで書く、ゲームマスターによる
>RPGより、手間を省くことができるからだっ。

>「D&D」をコンピュータRPGに作りあげた「ウィザードリー」
>や、「ウルティマ」などの大ヒットによって、RPGは、全アメリカ
>で遊ばれる、有名なゲームになっていったんだぜっ。」

(ファミコン神拳奥義大全書特別編、1987)


 そうか、あんたらの仕業か。
 (wiz#1やUl1当時の海外での)「CRPGの普及数>TRPGの普及数」「コンピュータ化の大ヒットによってFTやRPGがアメリカで有名になった」とかいうのは、
「FCのベースボールの前には野球というスポーツがあったが最低18人いないとできないから普及せず、誰も野球など知らなかった。FCのベースボールで野球が一般に知られるような有名な遊戯になった。」
 と主張するぐらいの凄まじいトンデモ説である。


 いわば、FCのベースボールゲームだけあって野球がどんなものか誰も知らない国の人間が、FCベースボールの元ネタを見つけたが、知識を持っていても何の役にも立てる能力がなく(野球という名前を知っていても選手がどんなことをしているのかまともに想像すらしようともせず)適当に「世界の野球史をあたかもFCベースボール中心に回ってきたかのようにでっちあげた」ような代物が、長年、そして今も日本で吹聴されているFTやRPG史である。そんな歴史を「wizは『実質上の元祖』『元祖と言っていい』」などと今後も吹聴し続けるつもりなのだろうか。「wizに関する誤解」「誤ったことを言ってるのは一部の過激なwiz原理主義者だけ」で片づけるのでは済まないほど重篤な問題である。





wiz#1(1981)当時の事情(wizが与えたインパクト)


>Wizardryが出た時なんでヒットしたの? こんなのが流行る理由が想像できない

>それまではTRPGといってD&Dみたいなやつしかなかったんだから
>当時を想像してみれば大流行するに決まってる

>ゲームマスターとか数人いないと遊べなかったTRPGがPC1台に
>置き換えできたのが決定的


 1981年にApple][でwizが出ていた当時を、具体的資料による何の推測の根拠もないにも関わらず、あたかも見てきたかのように語るwizフリークは多い。
 中でも、ゲームカタログにもある論調であるが、wiz以前の海外のTRPGを「多人数でしかできない」ため、「マイナーなマニアの遊び」だったかのように捉えている論調が頻繁に見られる。日本でのTRPG、すなわち、ソードワールドに発する、日本ではまさしく「マイナージャンル」でしかない(エロゲオタの玩具とかいう位置づけでしかない)TRPGなんぞを基準に、Apple][版wiz初出の81年の海外の状況をそこから逆算して考えているのである。(これは、レトロゲーマーがむしろTRPG=マイナーという位置づけにしておきたい願望という選民思想も関係するが、今回は省く。)

 これに対して、あたかもwizはTRPGよりも手軽に選択できたかのように、すなわち、最初のwizの動いていたApple][が、今の携帯ゲーム機はともかく、あたかもFCくらいにはどこにでもあったとでもいうような感覚で語られている。


>wizとかウルティマとかAD&Dとかってどのくらい売れてたの?

>FFが500万本なんだから、最初のwizがそれより少ないわけないだろ


 そのため、「マイナーだったTRPGに対して、wizはコンピュータでプレイできるようになったので発売と同時に全世界に爆発的に流行した」「一人でできるCRPG=wizが出たとたんに一気にTRPGを淘汰した」などといった図式に落とし込んで(わからない細かい部分は、例によってwizは元祖と『言っていい』説でごまかして)強引にまとめにかかっている、というのが常である。

 その結果、あたかもそれまで「ファンタジー」も「RPG」も全く一般に認識されていなかった日本に出現したドラクエと同様に、『wizがFTもRPGもほとんど無い世界に降臨して巨大なインパクトを与え、唯一無二の存在として君臨していた』かのように頭から決めてかかって喋っている。


 実際には80年代前半、「Apple][のCRPG」「TRPG」「ファンタジー」の普及数がどういった状況だったかというと、


Ultima1               20,000 ※1
Wizardry#1            24,000 ※1
Temple of Apshai      30,000 ※1
Akalabeth             30,000 ※2
AD&D1st    7,000,000 ※3
ホビットの冒険   100,000,000 ※4
指輪物語         150,000,000 ※5


※1 Computer Gaming World, いわゆるCGW誌。87年あたりまでのwizシリーズ総計は20万、Ulも同程度という個人サイトの言及(ソース不明)が引用されているサイトもある
※2 R.ギャリオット自身の自称。眉唾と評されることが多いが、Ul1から考えると全くの出鱈目とも言えない
※3 E.G.ガイギャックス『ロール・プレイング・ゲームの達人』等。合衆国のみ。『達人』の他の箇所には「全米人口の2%強」という記述もあり、これだと500万前後である。合衆国以外も含めた値は1000万強と推定している。
※4 BBCニュース
※5 Tronto Star誌記事等。なお、本についてはカウント基準が違うと思われるので厳密な値ではないが、人口の目安にはなると思われる。例えば日本では指輪物語は全編あわせると文庫10分冊だが、この値は全編まるごとについての数(初巻から完結巻まで全部売れたものを1セットとしたセット刊行数、1.5億セット)である。日本の基準に直せばシリーズ累計15億冊となる


 Wizardryは唯一無二どころか、並ぶCRPGもそれ以上のCRPGもあった。そして、wizの頃はFTやTRPGがマイナーなマニアの遊びどころか、wizに対して「RPG」人口は2桁、「ファンタジー」人口は4桁違っていた。(なお、81年当時のApple][の総出荷台数そのものが20万台足らずである。)
 無論、日本だけが、FTやTRPGが、CRPGより優に何桁も少ないという正反対の国である。海外では「ホビット」は児童書で読んで子供でも知っている種族、「ノーム(デミヒューマン)」ですらAD&D1st以来RPG定番の種族だが、日本では毎回毎回「Wizardryに出てきた種族」などと口走るwiz信者以外、誰もわからないというのがその状況を端的に物語っている。

 並ぶ位置にTemple of ApshaiやSword of Fargoal等があったとはいえ、wizやUlがApple][のゲームでは特に重要であることは確かである。wizは#1-3のどれもが、上記CGW誌でも80年代前半から半ば近くまでランキングに載り続けた名作である(なぜかwizの価値を主張するwizフリーク側が、こうした客観的根拠のデータの方も示しているのはほとんど見たためしがない)。
 しかし、ここでは「Apple][用ゲーム史内での位置づけ」などを問題にしているのではない(wizの世界的インパクトなるものを主張する人々もそこを問題にはしていないだろう)。wizがRPGそのもの、「TRPGみたいな代物しか無かったような」RPGに「置き換えできた」ほどの衝撃だったのか、である。
 wizがそのまま丸写ししたFTやTRPGの世界設定やシステム(wizが加えた要素自体が何ひとつ無い)は、wizの発売前も後も通じて、wizと数桁違うレベルで一般に完全に普及していたものであり、wizが「FTやRPGとはどういうものなのか」の認識をTRPGから塗り替えたり、これらを淘汰したりできる余地などない。
 海外にはwizクローンやリメイクがほぼ存在しないことに対して、#1原理主義者ならずともレトロゲーマー全般から疑問が上がることが多い。しかし、「wizに回帰」など誰もせず、直に「D&D系を再現」しようとする者ならいくらでもいるのは、単にそのプレイヤー数比から考えても至極当然の話である。
 「なぜこんなマニア向けにしか見えない(いかにも不親切な)wiz#1が世界中に大ヒットしたのか」という問いに対しては、「ヒットしたのは(LotRやAD&Dの普及に比べれば)ごく少数のPCマニアのみ」=「世界中に大ヒットしてRPGを普及させたなどという事実自体が無い」という答えになる。


 それが何故、日本では現在のような論調がまかり通るようになったのか。理由は上に挙げたものだけでも充分と思われ、他にもいくらでも挙げられる。しかし、レトロゲーマーが「wizがマスに与えたインパクト」なる誤解を「殊更に喧伝する」最も大きな理由はおそらく、FC版が本当に大変な傑作であったし、ヒットしたからである。そんなFC版への認識に、「Apple][最初期のRPGで、当時のApple][の規模としては大ヒット・長期ヒットした」が、Apple][がらみの部分が全部すっぽ抜けた上に混同されたのだ。
 81年のApple][版が、あたかもFC版の完成度や位置づけを持っていたかのように(これは、操作性や難易度についても錯覚されている点である)、ひいては、自分達が「硬派ファンタジー」に対して単に無知だったというだけの理由でFC版wizやその派生創作から受けたFTやRPGに関する衝撃を、かつて世界中が全て受けたかのように錯覚したのである。
 wizのインパクトなるものは、自分達の(この国での)FTやRPGに対する知識と認識の貧困さを、そのまま81年当時の世界中に無理矢理貼り付けて理解したつもりになっているにすぎない。





無限レベルアップはwizが初出か(その1)


 「最初のTRPGでwizの原型のD&Dにはレベルが36までしか存在しないので、レベルが果てしなく上がるという要素はwiz#1以前には存在しておらず、レベルを際限なく上げる『やりこみ要素』はwizが初出である」という主張がある。

 しかし、毎度の話だが、ここで例に挙げられているD&Dとは和訳されていた赤箱〜黒箱、CD&D第4バージョン(1983)であり、wiz#1(1981)よりも後出、かつ海外ではAD&Dとは比較にならないほどのマイナールールで、wizとは一切何の関係もない。
 wizのルーツはCD&Dではなく、その原型のOD&D(1974)と、OD&Dの直系のAD&D1st(1977)である。

 そして、OD&DでもAD&D1stでも、CD&Dとは異なり「レベルに上限はない」と明記されており(これはAD&D2nd〜D&D3e、4版とも異なる)果てしなくレベルが上がるという要素は、この時点ですでにある。現に、AD&Dには数百レベルだののキャラに対応した公式シナリオなども存在する。
 (ここで、3e以前のOD&D〜AD&DやCD&Dには、種族やクラスによっては一定レベル限界がある(成長が遅くなり、必ずしも止まるわけではない)といったルールがあるが、詳細は次回以降に譲る。)


 それ以前の問題として、OD&Dベースでpedit5(orthanc)と並ぶ最古の研究所CRPGのひとつ、dnd(wiz#1より5、6年は前)のプレイ画面に、「レベル372」という、CD&DではもちろんAD&Dのプレイングでもあまりお目にかかれない(前述したように別に皆無ではない)値が表示されていたりする。

 無限レベルアップややりこみ要素が「wizが初出」というのは、他の要素(侍や忍者のFTへの導入、種族職業の分離、魔法回数制、戦闘中心のゲーム進行、ダンジョンの構造やドロップのランダム性等)の大半と同様、wizを過剰に神聖視する信者以外の目(無論、レトロゲーマーのみならず現在の「普通の」RPGプレイヤーの目)から見れば、まるで考慮するに値しない妄言にすぎない。



 これで話はおしまいなのだが、どうもこのサイトの一部だけを抜粋して(自身はCD&DとAD&Dの区別がつかないので単に「D&D」とだけ呼称する等、自力で主張できる材料を何も持たないにも関わらず)あちこちに貼り付ける輩なども昨今非常に多くなっているので、適当に詳細の補足を続ける。
 「wiz以前にはやりこみというプレイスタイル自体が存在しなかった」という主張の論拠として、「#1を13レベルをこえてやりこむのは日本人だけで、海外プレイヤーはそんなことはしない。ならば、元々(wiz以前、TRPG、ひいてはwizが日本に入ってくる以前には)そんなプレイスタイル自体が存在していなかったはずだ」というものがある。


 しかし、海外のwizプレイヤーらの間でも、レベルをやたらと上げたという話はまったく皆無というわけではない。事実、KoDの呪文無効化能力を持つ敵を無闇に増やした大味なバランスや、当初のApple][や旧PC版でKoDからLoLへの転送ではレベル継続を(#1マニュアルの公約に反して)放棄した、という事情は、現に、レベルを上げ過ぎていたプレイヤーに対処するためのものである。上述したように、また詳細は以後の機会に述べるが、海外のOD&DやAD&D自体にも、何十何百といった意味不明な高レベルまで上げるようなプレイヤーは皆無ではない。

 やりこみプレイヤーは海外にも日本にもある程度存在し、おそらくはその比率差の程度問題でしかない。にも関わらず、なぜ日本のwizプレイヤーには、やたらとやりこみプレイヤーの方が多い(目立つ)のか、その理由は数多く考えられるが、その大きなものとして挙げられるのは、FT素養の性質の違いである。
 早い話が、LotRやAD&Dがすでに普及し、こうしたゲームの世界もシステムもごく一般的なものでしかない欧米では、普通にwizに手を出すプレイヤーにはいわゆる「マニアでもないライトユーザー」(コンピュータGeekかもしれないが、ゲーム廃人やRPG廃人とは限らない)の割合がかなり多く含まれていた。それに対して、日本では何もかもがとっつきにくいwiz#1をプレイする時点(さわりで投げ出さない限り)で、相当な「マニアかつヘビーユーザー」の比率が大半であり、それ以外のライトユーザーなどふるい落とされている。wizなどに手を出す時点で、13レベルのクリアの先まで続けるようなやりこみの素質を持つプレイヤーが大半を占めていた、という側面がある。








 ミキサー剣を「刀匠カシナートが作った」云々に比べると知られていないことなのだが、LoLのバタフライナイフ(チンピラギャングが使うアレ)のことを、日本の解説本で「蝶の意匠をあしらった華麗な短剣」というのは、小粒ながらピリリと効いている。



蘇生魔法


>小説版ワードナの逆襲の
>首を落とされる→蘇生される→首を落とされる→蘇生→繰り返し
>という拷問

 Wiz#1の元ルールであるAD&Dでは、蘇生魔法は「蘇生対象者が蘇生に同意した場合」のみ蘇生される。言い換えれば、死亡してアストラル中継界に入り外方次元界(おそらく属性に応じたどれかの界)に向かい始めたイデアル体(霊魂)が、蘇生魔法を施された場合、主物質界に戻るかどうかを決めるのは、「蘇生魔法の術者の側」ではなく、「死者(霊魂)の側」である。蘇生されると決めた場合も、霊魂が主物質界まで戻るには、並ならぬ労力と負担を伴う長大な旅を行わなくてはならない(もっとも、*band用語集の方に書いたが、アストラル中継界には「時間」が存在しないため、主物質界の側から見れば、術者の施術間のわずか1ラウンドである)。そも、蘇生に耐久度の減少や加齢やレベル低下(3.Xeなど)を伴うのは、実はこの労力がそれほどまでに大きいというのが理由である。(これら蘇生に関するギミックは、3.0eだがPCゲーム『ネヴァーウィンターナイツ』の蘇生に関してNPCが喋る印象的なセリフの数々を覚えている当サイト読者もいるかもしれない。)
 もちろん、それほどの負担があったとしても、冒険などで不慮の死をとげた者はそのまま死亡確定したくはないだろうから(外方次元界の藻屑にはなりたくないだろうから)どんなに労力を費やそうと蘇生には同意すると思われるので、仲間の冒険者に蘇生魔法が効くかどうか考慮する必要はまずない。が、繰り返し拷問と殺害を繰り返されるとわかっている者が、蘇生に同意する=蘇生魔法が効くことはまずありえない。
 それ以前に、これらのまっとうな蘇生は、外方次元界に向かう霊魂を引き戻し、かなり大きな次元界の原理に干渉するため、たとえ悪の神や死の権能を持つ神の僧侶であったとしても、たかが拷問の道具などにむやみに濫用すればその神のパンテノン内での立場さえも往々にしてただでは済まない(まして僧侶の立場など論外)。一方、まっとうでない蘇生、死者をその意思を問わず無理やり呼び出す類の、俗なファンタジー談義で言うところの死霊術(AD&Dのnecromancyの語意とはイコールでない)も存在するが、こちらは術そのものが霊魂に対して本当に拷問そのものの苦痛を与えるものであり、ただ使用するだけでアライメントは無論のことクラス維持にすら影響を与える類として定義される。

 このように、元のAD&Dではゲームの必然性上、死や蘇生を必須としているからこそ、生死や蘇生を「過剰に軽々しく」扱う(国家要人を殺した後に無理矢理蘇生させて繰り返し道具にするとか)ことがないよう、細部の事情や理由が詳細に整備されている。これは別の機会に詳細に述べるが、「テレポートの失敗は石の中に入りロストする」といったAD&Dのシステムも、wizとは比較にならないほど戦略戦術的に強力な手段になりえるテレポートを過剰に軽々しく扱われないための整備のひとつである。


 wizの派生創作は大半が、wizのシステムが一体何故そうなっているかの理由(つまり、AD&Dにおいて設定されている背景)を知らずに、あるいはwizの一見不可解なシステムがそうなっていることにはきちんと「当たり前にそうなっている」理由がある、ということ自体を想像だにできないまま、解釈・設定・描写が作られている。
 wizのゲーム内ではほとんど数値だけしか提示されないのは、当時のマシンの性能上の理由という以上に、(AD&Dが普及している国では)数値の背景・理由などはFTファンにとっては当たり前の前提知識なので、説明する必要自体がないためである。にも関わらず、日本のwizフリーク、ときには派生作品の創作側までもが、あたかもこのゲームには数値しか出てこないから、数値(ゲームの進行の都合)以外には「最初から考えられていないに違いない」だとか、それらの数値やシステムに対して「理屈の通る理由を考えたのは自分達が最初だ」などと信じ込み、さらに、その数値に調整された本当の「理由」とはかけ離れた屁理屈・稚拙な駄法螺を、何の疑念も持たずに主張している。これまで述べてきた、「(日本製の攻略本が初出などと頭から信じ込まれている)ヒットポイント非体力説」「エルフらの寿命減少説、訓練場は時間経過が違う説(いずれもwizにおける加齢=肉体負担が、時間経過とは無関係であることを理解していない)」など、枚挙に暇がない。
 それらを、「あくまでゲームのシステムや数値だけ、ゲーム内から読み取ったものだけから、その総てに忠実に解釈を与えようとしているという姿勢に価値がある」という面から評価を与えようとするwizフリークも多いのだが、少なくとも客観的にファンタジー世界設定として見れば、また、AD&Dの本当のシステムや数値の理由及びその密度に比べれば、さらには別の理由づけや定義をもとに組み立てられているものを的外れに強引に解釈している以外の何にもなっていない以上は、「珍解釈」「ネタ話」としての価値くらいしかない(#4について言えば、原作含めて何もかもネタだが)。仮にwiz信者以外に、AD&Dとそれらwiz信者解釈の両方を見せて比較させた場合、wiz信者の解釈にはネタ以外の評価は与えられようがないことは確実である。少なくとも、「wizファンはファンタジーの各事項に対してこんな硬派で深遠な解釈を持っている」などとDQやFFのファンを見下す根拠になどならない。





上級下級呪文


 FFやDQはもちろん、ファンタジーやバトル物全般で定番となった、「炎・氷などの魔法属性ごとに高レベルの呪文ほど威力が高くなる『上級・下級呪文』が存在するという概念はwizが発祥」などという主張がある。
 例えば、wiz#1では氷の呪文がダルト(4レベル)及びマダルト(5レベル)等と複数あるが、RPGの元祖であるD&Dには炎・電撃・氷ともFireballとLightning BoltとIce Storm/Wallの1種類ずつしかないから(※1)、というのが根拠だというのである。


 しかし、wiz#1(1981年)の実際の引用元であるAD&D1st(1978年)では、氷の呪文はIce Storm/Wall(4レベル)の上にCone of Cold(5レベル)があり、ダルトとマダルトはこの二つに呪文レベルすらそのままである。上でD&Dとだけ呼ばれている赤箱シリーズ(CD&D第4バージョン,1983年)は、実際は遥かに後出(「元祖」ではない)の、実質上はAD&Dの簡略版ルールなので、Cone of Coldが削られているという、単にそれだけである。AD&Dには他にも、炎・電撃・氷とも上下レベルともに莫大な種類が存在する。


 もう話すことがない。この手のwiz信者の主張はAD&D1stを持ってくると5秒で終わる。
 終わってしまってはしょうがないので、まるで別のゲームの話をする。実のところ、wiz以降のRPGが、wizを模倣して「上級・下級呪文」を導入するようになったかというと、全くそんなことはない。wiz以後・DQFF以前のRPGでも、「同魔法属性の上級呪文・下級呪文」のように分類されておらず、かといってCD&Dのように威力がどれも横並びというわけでもなく、別々の魔法属性が別々の威力(例えば炎<雷など)として呪文リストを形成しているものが少なくない。
 例えば「日本製8ビットPCの旧3大RPG」のひとつザナドゥは、NEEDLE<MITTER<DELUGE=FIRE<THUNDER<POISON<CORROSION<TILTE<DEATHという序列になっており、値段や威力がこの並び方になっている。FIREとDELUGEは同じ威力の別属性魔法で、他にも敵によって魔法属性ごとに効き方が違い使い分ける性質も若干あるが、おおむねTHUNDERそのものがFIREよりも威力が高いなど、「後のものほど高威力」になっている。毒や腐食の呪文(いうまでもないが、wizには存在しない)が炎や稲妻の呪文よりも高レベルになっているのは、AD&Dの序列そのままである。
 旧3大RPGの別のひとつ、ハイドライド2のFIRE<ICE<WAVE<MAGMA<FLASHなどもそうである。これも効果範囲など、魔法属性ごとに性質も異なっているが、実質上、後にいくほど上級呪文(使い勝手はまた別)である。

 実はこれは、かなり後のFCのRPGに至ってもそうである。例えば、現在ではDQでは「ギラ系は熱線の魔法属性」とされているが、DQ1の時点ではギラは小型の火の玉、ベギラマは雨雲から雷を落とす呪文(FC版DQ1マニュアルより)で、まったく内容は異なり、同系列・同魔法属性の下級・上級呪文ではなかった。DQ2では魔法の種類こそ増えるがほとんど同様に整合性はなく、DQ3でギラ系・ヒャド系など上級下級呪文が揃った図式ができるが、デイン系が一定していない(FC版DQ3マニュアルではライデインが電線、ギガデインが北斗神拳など)などと、まだかなり不整合な面を残している(前記マニュアルでは他にも属性は後年のものと食い違いが激しい)。FF1は最初からファイア・サンダー・ブリザド系という上級・下級呪文の図式であるが、これがFC版wizと同年であり、上記した数々のPCやFCのRPGと比べても相当後である。


 つまり、呪文に関しては、wizの後のRPGがどれもwizをそのまま模倣して同様のシステムを導入していた、などという事実は全くない。このシステムはwizの発祥ではないというだけでなく、wizの模倣も全くされていない状況が続き、つまりwizが定着させたものですらない。事実上、ここまで定着させたのはDQFFである。


※1 実際はCD&Dでも3レベルのFireballの上に7レベルの強化版であるDelayed Blast Fireballがあるが、緑箱の呪文であるため、せいぜい青箱までしか知らないゲーマーは存在自体知らないことが多い。さらに、CD&D緑箱のDelayed Blast Fireballはダメージ自体は3レベルのFireballと変わらないため、いわゆる高威力の上級呪文とみなされていないこともある。
 しかし、AD&DやD&D3.XeのDelayed Blast Fireballは威力自体もFireballより大幅に高く、明らかに上級呪文である。なお、AD&DではCone of ColdやChain Lightningも、下級呪文であるIce StormやLightning Boltより威力は高い(さらに、AD&Dには低レベル呪文では貫通できない防御手段が多々あるので、単に高レベル呪文というだけの理由でも大きな優位性を持つ)。威力が高くなっていく上級呪文も、AD&Dの時点で当然のものでしかない。





命中率、武器ダメージ、運勢値が表示されないのは何故か


 wikipedia - - ウィザードリィ - 能力値


 wikipediaがなんでわざわざ当たり前の能力値一つ一つにwizではこんな詳細な項目を設けている(14.08.09現在)のかというそれ自体が大いに疑問なのだが、能力値「運」の箇所にさらにへんてこな追記がある。


>また、ステータス画面では参照されない、隠しパラメータとしての運も存在している。


 ひょっとして「運勢値」のことを言っているのか。そりゃ単なるセービングスローだっつのよ。
 D&D系はじめRPGに非常に当たり前の概念を、自分がたまたま知らなかったからといって「存在さえ伏せられている謎の隠しパラメータ」のような紹介をするのは、独自研究とか以前の問題であって、特に一般の参照されることの多いwikipediaの記事としては非常な疑問を感じざるを得ない。


 さて、運勢値よりは存在自体が知られている他の能力に、「命中率」「武器のダメージ」等がある。Wizardry#1-3において、アーマークラスやヒットポイントが表示されるのに対して、「命中率」「武器のダメージ」が表示されないことについて、指摘されることが多い。これは理不尽(インターフェイスの不完全、不親切)として糾弾されることもあれば、正反対に、wiz独自のシビアさ、絶妙な高難易度のために選択されたwizの神バランス感覚要素などとwiz原理主義者に盲信されていることもある。
 どちらにせよ、「数値を人間が管理するTRPG(この手の議論は例外なく、wizの原型と誤解されているCD&D赤箱シリーズが根拠であったり、ひいてはソードワールド1.0以降の日本製システムを「TRPG一般」であるかのように根拠にしていたりする)では数値がマスクされていることなどありえないので、wiz独自の要素である」という論拠によったものである。


 が、実はこれらが「プレイヤー側に」表示されないことは、wizの原型のAD&D1stにおいてはアタリマエの話である。別にこれで不完全なわけではなく、かといってwiz独自の深い考えというわけでもない。

 AD&D1stのプレイヤーが参照可能なPHB(プレイヤーズハンドブック)には、(CD&DやAD&D2nd以降とは異なり)キャラクターのthac0(命中率)も、セービングスロー値(運勢値)も記載されていない。これらの値はDMG(ダンジョンマスターズガイド)に載っている。非常に厳密にルールを解釈すると、プレイヤーは自キャラのthac0やセービングスローの具体的な値を一切知ることはない。命中判定やセービングスローの際に、プレイヤーはd20だけ振って結果をDM(ダンジョンマスター)に告げるが、ダイスの結果から判定を行い成否を告げるのは唯一数値を知るDMのみである。
 武器のダメージ等の性能についても、これも非常に厳密に運用すると、プレイヤーは具体的値を一切知ることはない。魔法の武器を拾っても、それがいくらの数値なのか呪われているのかはわからないので、プレイヤーは武器のダイス(武器の形状から分かる)だけは振ってDMに結果を告げるが、命中の是非や、最終的なダメージの計算を行うのはDMである。武器の性能が完全に鑑定され判明していればプレイヤーが管理することも可能かもしれないが、AD&D1stでは鑑定呪文の効力が非常に弱いか、あるいは強力な鑑定呪文は非常な高レベルでしかもこれも完全ではないので、アイテムの能力の全容が完全にプレイヤーに明らかになることは実質皆無、という言い方もできる。
 つまり、「命中率」「武器性能」「運勢値」、これらを一切プレイヤーが目にすることがないのが、AD&D1stでは普通に基本ルールブックの運用だったのである。


 ただし、AD&Dではしばしばプレイヤー数が多くなることもあって、これらを厳密に行っているとDMの手間上煩雑きわまりない話であった。現に、後出のCD&D(赤箱〜黒箱)や、AD&D2nd(無論、D&D3e以降も)では、thac0もセービングスローも普通にプレイヤー情報のマニュアルやPHBに載っており、プレイヤーが管理するようになっている。武器性能も、ある程度判明すれば普通にプレイヤーが管理するのも通例である。
 余談だが、オフィシャルのD&D系シリーズのCRPG(AD&D2ndをベースとした『バルダーズゲート』、3.0eをベースとした『ネヴァーウィンターナイツ』等)でも、これらの値がかなり細かく逐一表示されるようになっていることが多いが、こちらは1stの事情とは無関係に、TRPGベースのゲームであることを特に強調する目的のためと思われる。





弱すぎるhp回復


 ヒットポイントが「体力」ではなく、「致命傷を避けるための技術」だけを指すならば、宿屋の休息や回復魔法で少ない固定値しか回復しないのはおかしい(すなわち、レベルが上がり技術が向上して軽傷で済ませたはずなのに、レベルが上がるとその軽傷がどんどん治りにくくなっていく)というのは、ベニ松解釈(前述したが「ヒットポイント≠体力」はAD&Dの時点で最初からの明記・定義なので、この呼称は誤りである)を受け入れがたいというwizフリークからもよく引き合いに出される。
 当然の話である。
 AD&D1stで定義されているヒットポイントは「物理的な耐久能力、戦闘技術、幸運(超自然的な力を含む)、魔法的な力」等の総合的な値(1st Edition Players HandBook, 1978)とされ、戦闘を継続する能力すべてを総合した、これ自体が非常に漠然とした極めて抽象的な値である。肉体の耐久性(生命力)「だけ」、戦闘技術「だけ」のいずれの片方だけでは決して解釈できない。曖昧な総合値であることそれ自体が「定義」なので、それ以上に具体的な「解釈」に落とし込むことは不可能である。
 なので、固定値回復であろうが割合回復であろうが、どちらも正しくはない。この抽象的な値に対して、整合性や理屈にあった「正しい」回復のルールなどはそもそも存在し得ない。


 正しい回復が存在しないなら元のAD&Dでは一体どうしているのか、問題が生じないのか、と思うかもしれないが、実はAD&Dの基本ルールでは、hp回復とは、回復全般があまりに「弱すぎる」ので、理屈上の整合性とか別に取る必要はない(最初から取る気が見られない)という、実に世紀末なデザインになっている。
 実のところを言うと、AD&D1stにおいてヒットポイントは、のちのRPG(CRPG、TRPG含め)の常識から考えると、そもそも信じられないほど回復しにくいものである。hpはその最大値にかかわらず(hp2の盗賊でもhp150の英雄でも)休息による自然回復のみでは、1日に1ポイントしか回復しない。休息の際のコンディションが非常に良いと、これが2〜5ポイントずつまで上がることがある(これがwizの宿屋のロイヤルスイート等の出典である)が、どちらにせよ固定値であり、hp150の英雄やhp240の半神でもノロノロとしか回復しないことには変わりはない。


 呪文の方はどうかといえば、wizでも丸写しされている通り、AD&D1stの聖職者の回復呪文は当面は1レベル呪文にあるCure Light Wounds (ディオス)のみで、8面ダイス1個分しか回復せず、しかも4レベル呪文(キャラクターレベル7)のCure Serious Wounds(ディアル)を習得するまでは、この呪文だけである。しかもAD&Dでは強力な戦士系は中レベル域はwizよりも遥かにhpが大きくなることが多いため、まったくおっつかない。
 よほどキャラが成長するまでの膨大な期間を、1レベル回復呪文だけでしのがなくてはならないのだが、ここでAD&Dの方には、さらにこのCure Light Woundsにさえも、頼ることのできない事情がある。それは、AD&Dでは呪文は「あらかじめ記憶(黙想)して準備しておかなくてはならない」ということである。聖職者なら光(ミルワ)とか防御とかの問題解決に使える呪文をある程度あらかじめ準備しておかないと、いざというときに解決できずに完全に詰む。すなわち、1レベル呪文さえ、全部回復呪文に費やすことなどできない。

 さらに、これもwizでも常々指摘されていることだが、4レベル呪文でようやく追加される回復呪文Cure Serious Wounds(ディアル)でもダイス2個、5レベル呪文という蘇生呪文と同等の上級呪文であるCure Critical Wounds(ディアルマ)(※1)でもダイス3個である。このAD&Dのゲームデザインはどう見ても、充分な回復量を持たせようという意図が最初からまったく見られない。(なお、上述の休息回復時にwizと同様に呪文を併用して回復量を早めることなら問題なくできるが、ここで言うのはゲーム(探索)の最中や戦闘の最中の回復手段としては非常に弱いということである。)

 つまり、これらCure系は後のゲーム中の回復呪文(ホイミとかケアル)のような「ゲームバランスに大きく影響する命綱の回復手段」ではなく、あまりにも頼りにならなすぎて、「たまたま回復呪文が残ってたら儲けもん」程度のボーナスでしかない、ともいえる。逆に、重要性が低いことで、たいして厳密な回復量の整合性やバランスの必要がない呪文、という位置づけになっているともいえるのだ(※2)。


 極端な話、AD&Dのヒットポイントは、回復しないのが当然のものと言い換えてもよい。すなわち、ヒットポイントとは「一日」ごとにまとまった値を回復できるといった、体力や生命力や疲労などのキャラクターの物理的能力の数値ではなく、基本的に休息期間のない1シナリオ(1セッション)にその一定の点数を持っていると仮定して、「1シナリオ内にどの程度の活躍が可能か」、という「ヒーローポイント」に近い数値にすぎないともいえる。
 AD&Dは、チェインメイル〜OD&D以来、ウォーゲームがベースであることもあって、戦闘継続不可能なほどのヒットを受けたユニットは、すみやかに『戦線離脱』する、という考え方が多分にある(※3)。そしてそれは2日や3日の休息では回復せず、ゲーム内時間で数か月経つまで、簡単に言えば、リアル時間で次回のゲームの機会にでもならない限りは復帰できない。

 AD&DのCure系の回復呪文は(後出のRPGや日本のRPG型小説によくある説明のような)「本人の回復力を利用して治癒を促進させる」呪文ではなく、Positive Material Planeからのチャネルを介して正の生命力を流入させる呪文である。回復呪文は「傷を治す」呪文ではなく「ヒーローポイント・行動力を補填する=信仰の恩寵で一定量の闘魂を注入する」呪文でしかないので、最大値にかかわらず一定量しか注入されない、と考えることもできる。


 聖職者の呪文レベル6になって、いきなり(ほぼ)全回復のHeal(Cure all =マディ)になるのも、それなりの理由がある。この呪文は、それ以前のレベルの回復呪文から連続的に強力になった呪文(それ以下のものの上級呪文)ではない。このHealは、ヒットポイントだけでなく、恒久的・魔法的な異常、恒久的な精神影響等(wizでは再現されていないが、膨大な種類にのぼる)もすべて回復することからも、「いったん『戦線離脱』という状態になったユニットを、無造作に完全に元通り復帰させる」という、他の回復呪文とは役割や位置づけそのものが根本的に別物の、まったく異なる状況変更手段として設けられているものである。
 このHealが、死者復活呪文(Raise Dead = ディ、呪文レベル5)よりも「高レベル呪文」である理由もそこにある。Raise DeadはD&D系ではすぐには戦線復帰はできないため、Healの方が強力なのは当然の話である。
 ディアルマからマディで急に回復効果が増えることは、「wizの理不尽な点」だの、「バランス調整ミス」だのと主張されることがもっぱらだが、これはAD&Dの元来のデザインにおいて、Healが単なる「Cure Wounds系の上位呪文」ではなく、「根本的に異なる位置づけの解決手段」であることに由来する。


 なお、D&D系の話をすれば、こんなAD&D2ndまでの回復の弱すぎるデストロイバランスがそのままプレイヤーらにも受け入れられ続けていたのかというと当然そんなわけがなく、以上の基本ルール以外にもAD&Dには膨大な選択ルールがあり、また、のちの2ndのオプションルールやD&D3eでは大幅に回復呪文が増え、発動も容易になり(任意発動で準備の必要がなくなり)、大幅に回復量が上がり(それでも多くの場合おっつかないが)、さらにD&D4版では完全に回復のルールが別物となっている。これらがhpの定義やバランス上「改良」であるのかそうでないのかは筆者には判断はつきかねる。



※1 余談であるが、Light/Serious/Critical(軽傷、重症、致命傷)の治癒という名前がついているのにまったく回復量が追い付いていないだとか、前述したように固定量回復であるのにこの名前が実情に合っていないというのは、こちらはD&D系プレイヤーから常々指摘されることである。
 これは、D&D系の呪文は、元々(後出のRPGによくある呪文名のように)効果を正確にわかりやすく表したものではなく、ガイギャックスが傾倒したジャック・ヴァンスの著作を模倣して、故意に「わかりにくい上に語感も悪い」「素っ気ない上になんだか要領を得ない」名前がつけられているためである。軽傷、重症、致命傷云々というのは効果を指しているのではなく、なんとなくノリとか凄みでついている名前にすぎない。

※2 ただし、特にレベルが上がって2レベル呪文以上が使えるようになって以降は、1レベル呪文のスロットはほとんど又は全部、さらに4レベルや5レベル呪文も、そんな頼りないCure系呪文でもできるだけ埋めておくプレイヤーも多かった。ただでさえ死にやすいD&D系である。誰だって死からできるだけ遠ざかろうとする。実際はこんな呪文で問題解決呪文よりも生存率が上がるのかは甚だ疑わしいところだが、それでも目に見えるhp低下を食い止める治癒を求めるのは当然の心境である。

※3 戦闘の真っ最中に(後列から、あるいは自力で呪文やポーション等も駆使して)チマチマと回復しながら長時間ボス戦を戦う、というのは、CRPGでは、WizardryというよりもDQ1のラストの竜王あたりから、通例としてすでに定着している。MMORPGでも、また、ソードワールド1.0以降の日本のTRPGでも通例であり、「TRPGの時点からこのような運用が当然であった」ような主張がこれらのTRPGプレイヤーから行われることもある。
 しかし、CD&D・AD&Dでは、回復役たる聖職者は「戦闘中は前線に立つ者」であり、回復含めた呪文は「戦闘外」に用いるという位置づけがルールにも記載されているので、「回復しつつ戦う」という図式は想定されていない(少なくとも回復呪文が非常に弱い中レベル域までは)。CD&D・AD&Dでは、回復呪文は「対象に隣接、接触しなくてはならない」等、スクエア盤上で移動しながら戦うD&D系の戦闘中には非常に使いにくく、非現実的である。ただし、D&D3.Xeや4版では回復量といい使いやすさといい大きく変化し、CRPGに近いプレイも可能となってくる。





ロストのシステム(2)


 さて、次に、蘇生に「失敗確率がある」「2度失敗した場合、再試行不可」の方である。これはD&D系(主にAD&D1st、2nd)を知っているゲーマーには当たり前すぎる話で改めて話すようなことではないのだが、このサイトで元ネタをはじめて知ったというような話もよくあるので、まとめておくことは無意味ではなさそうである。


 まず簡単にwizでの死亡システムを整理すると、「死亡」したキャラには蘇生(ディ、寺院)を試みることができ、蘇生に失敗すると「灰」になる。「灰」になったキャラはさらに蘇生(カドルト、寺院)を試みることができ、失敗すると「ロスト」してそれ以上蘇生は試みられない。(ロストすると即座にキャラが消されるか、他の何かのタイミングで消されるか、アクセスが不可能になるかは、シナリオや移植版によって様々である。)


 wizのシステムの大本であるAD&D1stでも、「死亡」キャラに対してRaise DeadやRessurectionのような蘇生呪文は必ず成功するものではなく、さまざまな要素で失敗確率がある。代表的なものは、蘇生する本人のCon値に依存するレサレクション・サバイバルチェック値であり、wizのディやカドルトの内部動作まんまである。

 ともあれ、「死亡」状態に呪文をかけて失敗確率にひっかかり、1度目に蘇生に失敗すると、死者は「絶対死」状態に陥る。絶対死とはこのサイトでたびたび用いている用語で正確なD&D系用語ではないが、つまりはRaise Dead(5レベル呪文、=ディ)では蘇生できなくなった状態である。
 wizとは異なる点として、絶対死する要因はRaiseの失敗の他にもさまざまなものがある。AD&D1st−2ndでは種族エルフには「死亡」はなく、死ぬといきなり絶対死する。即死呪文を食らった者は死亡ではなくたいてい絶対死する(wizの難易度の比ではない)。死亡から日数が経ちすぎると、Raiseが不可能になり、つまるところ絶対死する。最後の日数だが、要は灰や骨と化してしまった者はRaiseできないということで、だいたいこの絶対死がwizの「灰」にあたると考えてよいかもしれない。ついでに、土下座破壊光線をまともに食らって「塵」になった場合などもRaiseできなくなり、これもいわゆる灰=絶対死の例である。

 絶対死をどうやったら治せるかは版(AD&D1st、2nd、D&D3e等)によって大きな差がある。Ressurection(Raise Dead Fully)(7レベル呪文、=カドルト)で治ることもあれば、要因によっては直らないこともあり、エルフだけ治らない版とかもある。なので、絶対死=灰とロストの中間のようなもの、ともいえる。
 絶対死からのRessurectionにも当然レサレクション・サバイバルチェックがある(なお、wizでディよりもカドルトの方が蘇生確率が高いというのは、少なくともApple][やFCの#1-3に関しては都市伝説である。内部動作はディと同じチェックでしかない)。そこでも失敗すると、あとはWish以外にはもうどうしようもない。この状態がいわゆるロストである。
 ちなみにRaise DeadやRessurectionで呪文蘇生を行うたびに、対象のConが1点(恒久的に)減少する(3.Xeで「レベル」が低下するのとは異なる)。これはwizのディやカドルトでの蘇生が忠実に踏襲している。

 この他、例えばRaise DeadのかわりにLimited Wishで蘇生呪文を模して蘇生させると、ほぼ必ず成功したり、成功率が大きく上がる。ただし、Limited Wishは使用者か対象者が歳をとる。これらは、寺院での蘇生(wiz#1-3では加齢を伴う)に対応するといえるだろう。


 なお、実際の「世界初のRPG」、AD&D1stとクラシックD&Dのさらに原型であるOD&Dでも、AD&D同様にRaise Deadに失敗確率がある。ただし、OD&Dの基本ルールでは聖職者呪文が5レベルまでしか存在しないため、Raiseに失敗した後にどうなるかは定かではない。
 ただし、日本で「D&D」として知られているCD&D(青箱〜緑箱)については、レイズ・デッドやレイズデッドフーリィは、失敗確率は一切なく、年齢やConに対するペナルティーも全くない。せいぜいあるのは蘇生直後は休息が必要といったものだけである。これが、(世界初のTRPGが赤箱シリーズだと勘違いした)wizフリークが、「D&Dには蘇生失敗はないからロストはwizが創始した」だとか、「wizの方がD&Dよりシビアで上級者向け」だとかいう主張の根拠である。
 なぜCD&Dの蘇生がここまで容易かといえば、ルールを端折っているという他に、CD&DがAD&Dの入門編であり、できるだけ若年層が抵抗を感じないマイルドな空気にしようと作られたためであろう。無論のこと、そういう細部をマイルドにしたところで、実際のゲームの様相は、とにかくプレイヤーキャラが著しくローパワーなCD&Dは、AD&Dやwizとは比較にならないほどの惨劇が繰り広げられることも珍しくない。
 ちなみに、蘇生が簡単なCD&Dや失敗率があるAD&Dのほかに、蘇生がもっと難しいか、まったく蘇生手段が存在しないTRPGなどはざらである。よく例示されるものに、T&Tではあらかじめ用意していた別の体(=他人)を乗っ取って転生する以外に蘇生手段がない(T&T7版では、同様に転生ではあるが、他人の体を準備する必要がないなどやや現実的である)。もっとも、「プレイヤーキャラが喪失するなどという超難易度要素はwizが起源」といったwizフリークの主張は、そもそも蘇生以前に「プレイヤーキャラが死ぬようなこと自体がありえない」といった運用が少なからず行われているソードワールド以降のTRPGと比較しているということがしばしばある。





ロストのシステム(1)


 wizがシナリオ難易度的には70-80年代前半当時のゲームと比べれば「ヌルゲー」の範疇であることは、別項に述べてある。
 にも関わらず、「wizの絶妙の超難易度」というwizフリークの優越感・選民思想の根拠となっているものに、かれらの基準がFC版当時の他のFCゲームとの比較であること、そして、「ロスト」というシステムが存在する、という点がある。


 この「ロスト」については、他のRPGの蘇生手段(ザオリク等)と比較して、「失敗確率がある」「さらに失敗することに対してペナルティーがある(蘇生に2度失敗した場合、再試行不可)」となる点が、問題の本質であるかのように論じられていることがある。
 が、実際は、問題はそんな所になどない。単に蘇生失敗だの再試行不可になるだけ(※1)なら、そうなった時点でロード(リセット)すれば済むことなので同じことである。
 ここで実際に問題となる点、焦点となるのは、ロストすること自体ではなく、古典的なwizでは(リルサガなど、「オートセーブではない」という点が特記されていない限りは)ロストしたことがセーブデータにほぼ即座に「記録」されるという点である。システム上(システムを回避すれば別だが)死亡やロストが「事実」として後戻りできない構造になっていること、オートセーブの方である。
 なお、死亡やロストが記録されるようになっているゲームは、当時は特に珍しいものではない。初代UNIX-Rogueがその代表であるし、そこから派生したRoguelikeはwiz同様に後代に至ってもそれがシリーズの特徴である。


 しかしながら、この死亡やロストが記録されるというシステムの方にも、元来たいして深い意味があるわけではない。簡単に言えば、当時のマシン性能の都合である。
 とあるゲーマーが初期wizに対して、あまりに頻繁にディスクの読み書きが起こるため、フロッピーディスク内にメインルーチンがあるのではないかと愚痴った話も以前に述べたが、要するに初期のwizでは、マシンのメモリ容量の問題から、「現在の状態」の大半をメモリに記録しておくことができず、どんな些細な状況の変化までも逐一ディスクにガッコンガッコンと記録するほかに無かった(※2)。

 死亡やロストを含めて、逐一経過が記録されるというのは、別に「リアリティ」だの「難易度」だのを追及したものではなく、当時のハードウェア・ソフトウェア制約上必然のものにすぎなかったし、wizやRogueだけがそれらを追及した結果でもない。



※1 次回以降述べるが、wizの「蘇生に失敗確率がある」「死亡状態(5レベルの蘇生呪文)、より重篤な死亡状態(7レベルの復活呪文)からの蘇生失敗を繰り返すと蘇生不能となる(ロストする)」といった点は、AD&D1st(CD&D(赤箱)や現D&Dではない)の丸写しのシステムである。
 これは要するに、蘇生に失敗確率があったり失敗を繰り返すと蘇生不可となるゲームは、D&D系をベースとした洋ゲーには、掃いて捨てるほど存在するという事実を意味している。
 しかしながら、それらのゲームでも、ロストの結果が記録される(オートセーブされる)ようになっているとは限らない。現に、AD&D1stのCRPGバージョン(GoldBoxシリーズ等)においても、ロストとかエルフは蘇生自体ができないとか忠実に再現されているが、それらがオートセーブされるわけではなく、ロードは普通に可能となっている。
 BCFのSFC版(#6)でロストが記録(オートセーブ)されずロードが可能となっている点について、日本では非難が集中したが、海外ではわざわざロストを実装しながらも、それがオートセーブされる点については全く重視されていなかった、逐一のセーブは単にマシンの制約上のものに過ぎなかったことがよくわかる。

※2 ただし、wizの場合は当時の他のゲームと比べ、内部データに比してもあまりにもディスクアクセスが多すぎたのは、実際はマシン性能以上に、Apple][版やPC版のコーディングがあまりにも稚拙すぎたためともいわれている。





転移の兜の原型と正体


 転移の兜は、AD&D1stのランダムマジックアイテムテーブルのその他(misc)表の中にある、Helmet of Teleportationに由来する。wizの直接の祖形のひとつである黎明期の研究所CRPG、oublietteにもD&D系の方と同名で存在する。(oublietteの時点では1st以前のOD&Dからの引用である。なお、Dragon SlayerやRing of Healing(Regen.)と異なり、D&D系においてはたいして重要・有名なアイテムではないこのHelmet of Teleportationがwizに入っている理由は、現にゲーム進行上有用であるというシステム的な理由以上に、oublietteから丸写ししたという動機が非常に大きいことを推測させる。)
 ただし、D&D系のteleport呪文とwizのマロールは細部が異なるので(実際にマロールに対応するのはteleport any object/teleport without error呪文である)効果には呪文の差に対応した細かい差がある。Helmet of Teleportationは、魔法使系のキャラも装備できる(OD&DやAD&Dでは通常、魔法使系は防具自体が装備できないが、この物品は魔法使系が装備した場合の効果が当然のように書かれている)という共通点のほか、転移効果を使用したのが魔法使系キャラであれば使用回数等にボーナスがある等の差異がある。


 転移の兜がどんな形状をしているのかはwizファンにも諸説がある。オリジナルのApple][版では"DIADEM of MALOR"として兜、Mac版では"Ring of Movement"として兜ではなくその他アイテムの枠に存在する。IBM版やコモドール64版ではApple][版を平易にしたとおぼしき"HELM OF MALOR"になっているが、旧日本製PC版では"RING OF MALOR"で兜の枠、さらにFC版の英語表記やNES版ではMac版の"RING OF MOVEMENT"にも関わらず兜の枠になっている。しかも、不確定名はRINGにも関わらず、発動して魔力を失うとHELMになるという謎の物品である。

 wizファンの中では、これらの交錯について、Apple][版の"Diadem"という表記に注目し、ダイアデムとは「額冠」という意味があるので、額冠型や金鉢巻型の、環状の兜を指しているのではないか、と主張されていることがある。
 しかし、元のApple][版の"DIADEM"が何を指していたかといえば、D&D系ではベースアイテムの名称には形状に対応する定義が存在する(学術上や、ここでは一般の装飾用語として合っているかどうかは問題ではなく、ルールを作る以上、このデータはそのようなものを指すと「定義」されているということである)。装飾品用語上、各種の冠を表す英語には様々な意味があるが、D&D系ではtiaraが王族冠(王妃〜親王、大公、公国王などが用いる)であり、crownよりも簡素な装飾のものを指す(いわゆる小冠とは限らない)一方で、diademは皇帝冠(皇帝、上級王、上王、皇などが用いる)であり、crownよりも上質で装飾の多い冠(宝冠)を示す。(これらは装飾品用語上のニュアンスとは必ずしも完全に合致していない。)
 つまり、Apple][版の宝冠であるDIADEM OF MALOR(兜枠)とMac版の指輪であるRing of Movement(その他アイテム枠)は明らかに両立せず、これらは別のものだと考えるべきである(もっとも、旧PC版等後でこれらの折衷により別の設定が作られている可能性はある)。FC版の発動で輪から兜に変形したりする「転移のリング」の珍妙さは、Apple][版の名称がMac版の名称と半端に混合され、特に、FC版でMac版の英語名を無理やり引っ張った際に起こった合体事故にすぎないと考えられる。





D&Dにはそんなモンスターはいなかったはずなのに、終盤呪文を無効化する連中が大量発生するせいで呪文が無意味になってwizが衰退だとか呪文無効化はwizが発祥だとか以下略


 しょうがないなあ。AD&DのモンスターデータにはMR(マジックレジスタンス)という数値があり、wizの呪文無効化は、完全にこの丸写しである。
 MRは一定確率(パーセンテージ)でかけられた呪文を完全に無力化する能力で、高度に魔法的な存在、例えば土地自体が魔法的なアザープレーン(異次元界)の住人などが多く有する。
 MRは個人的な効果を無効化する能力で、呪文全体が無効となるわけではない。例えば範囲攻撃(ファイヤーボール等)が本人を中心とする範囲にかけられた場合、本人は「アヒルが水をはじくように(AD&D2nd、PHBより)」何の影響も受けないが、周囲に呪文の効果自体は発生する。後述するAM(アンチマジック)と異なり、恒久的マジックアイテムのボーナスまで無力化することはない。ドリッズトが+5ディフェンダーのシミターでエルトゥ(VI類のグレーターデーモンでMRは70%)を攻撃しても、攻撃に+5のボーナスはつくし、防御に+5のボーナスを回すこともできる。つまり、wizで言えば村正等の有するたぶんに魔法的な効果が、デーモン等を攻撃する際にも低下することはない。

 AD&D1st、2nd、さらに3.0以降のSR(スペルレジスタンス)でそれぞれルールの細部は異なるが、だいたい相当物と言っていい。wiz以外でもCRPGでは『ザナドゥ』やら何やらにはそのままの名前(ダメージ減少率とか実装は違っていたりもする)で踏襲されていたりもする。
 余談だが、ソードワールドやロードスTRPG(フォーセリア世界設定)で「ダークエルフは魔法に強い抵抗力を持つ」は単に抵抗値(D&D系でのセービングスロー、wizでの運勢値)にボーナスという形で表現されているが、そのモデルであるAD&D1stのGreyhawkのドロウエルフが持っているのはMRであり、全く効果は異なり、MRの方が遥かに強力である。これはフォーセリア世界設定が基盤ルールをD&D系から無理やり自作ルールに移行する際に生じた無数の副作用のひとつである。


 一方、CD&D(くどいようだが、世でレトロゲームの話題でD&Dとか最初のTRPGというときはほぼこの「赤箱シリーズ」を指しているが、CD&Dは最初の「白箱(OD&D)」とはまったくの別物であり、遥かに後出である)のノーマルモンスターには、その手の呪文無効化能力は無い。AD&DでMRを持っていたのと同じモンスターでも、CD&Dではそうした特殊能力は原則的に持っていない。これは、CD&Dでは同じ呪文の場合はAD&Dよりも効果が強力(つまるところは、魔法偏重)な点にも関係している。
 ただし、CD&Dでも最上級の「黒箱」に記載されているが、ノーマルモンスターではなく「イモータル(神格や天使等の不滅存在)のアヴァター」(便宜上こう呼ぶ)や「アーティファクトのパワー」には、AM(アンチマジック)能力がある。これはAD&DのMRや3.0以降のSRによく似ているが、自分にかけられた呪文を弾くだけでなく、マジックアイテムの効果(武器などでも発動による特殊効果などを含む)を無効化し、周囲の一定範囲にディスペル的な放射を行う能力で、AD&Dではティアマット、ホーリーアベンジャーが持っているものに匹敵するともいえる。結局のところ、強力なデーモン等はAMを持っているわけで、一定確率の呪文無効化を持つ点は同様である。


 つまり、たとえCD&Dしか知らなかったとしても、CD&DにAMがある以上「確率による呪文無効化はwizが発祥」などと主張できた道理がないのだが、たぶんwiz関連などでCD&Dを話題にしている者は多くても、その中でも黒箱まで知っていたり少なくともDMとして黒箱ルールブックの細部まで読んだ者が滅多にいないのかもしれない。
 余談だが、個人的にはCD&Dのようにノーマルモンスターと、超越存在としてのイモータル、ひいてはデーモンやエンジェオホオホオホホホウホホンセレスチャルをこのようにあからさまに差別化するのは良い案だとは思うのだが、逆に言うと、高レベルではこうでもしないと差別化できないというCD&Dの(最初から高レベルを見越して調整されたAD&Dや3e以降とは違い、赤青緑黒箱と追加していく形態による)へんてこなインフレ具合を如実に示してもいる。






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