イェンダーの徴: 緑の女神とモーロックの聖域








 6

 リオンを先頭に、リゼとニムエは王城の郊外に向かい、古代神の神殿に急いだ。この3人だけがルーチェの教団を追い、他の戦士団の面々は全員王城に残していた。戦士団には、王都の混乱を収めてもらう必要があった。リオンたち3人の戦力については、ニムエの箒の化け物の数があった。今は箒の化け物どもは跡形もなく姿を消していたが、ニムエの言によると、神殿で教団と衝突した時点で、再度同数を作れるとのことだった。正直なところ、あのニムエの箒の化け物の大軍団の方が、単純な戦力としては僅かな生き残りの戦士団より高そうではあった。しかし、はたして教団の全戦力や、さきの攻撃を持ちこたえた法王ルーチェに準じる女神の加護を強く受けた高司祭たち、さらにはあの強大な土の化け物『女神の御使い』に充分に対抗できるものかは、確信はなかった。
 郊外から神殿に向かう途中、『光の女神の祭儀』が広場で行われていた時と比べて、空は一転してかき曇っていた。かれら3人を阻む者はなく、これも不気味な静けさが覆っていた。教団は残った戦力を神殿に集結させているのかもしれなかったが、人数はまだ充分にいる以上、戦士団を入れても寡兵のリオンらに対して戦力を出し惜しむ必要も感じられない。そこはリオンもリゼも不可解なものは感じていたかもしれないが、ルーチェを追うのが先で、口にはしなかった。
 古代神の神殿に着いても、さらに入口の通廊なかばまで達しても、阻む者も誰ひとりいなかった。
 「これは何か様子がおかしいぞ」さすがにリゼが呟いた。「前に潜入したときほどの守りさえない、というか、人っ子ひとりいない。教団の残りはここに居るんじゃないのか」
 ──しかし、そのまま広間に駆け込んだリオンらが目にしたのは、ごく控えめに言っても、言語を絶する光景だった。
 ルーチェと高司祭らをはじめとして、信者らの法衣の姿が広間一杯の石床に転がっていた。いずれも悲惨極まりない有様だった。比喩ではなく、間違いなく確かに、『巨大な掌』によって全身がねじられていた。おそらく『大地の御使い』の手によるものに違いない。
 床じゅうに血が飛び散っていたが、膨大な死体の数のわりには、床に広がった血は明らかに少なすぎた。それは死体を見れば理由はよくわかった。絞られた死体からは、血は何か別の所に奪われているようだ。文字通り、雑巾を固く絞るように血を搾り取られていたのだった。それも人間が雑巾を絞るのとは違って、ゆっくりと時間をかけて、余すことなく絞られたに違いない。
 リオンは無言で、法王ルーチェの死体を見下ろした。ねじくれた体はあらゆる孔から人体の内容物だったものが押し出されていた。他の死体も確認するまでもなく、絞られ方から考えて同様だった。
 「何だこれは……」ようやくリオンが声を発した。
 「『御使い』の仕業だよな……」リゼがその巨大な拳と力の影響らしきものを見下ろして言った。「ということは、つまり、『女神』自身の仕業ってことだ。なんのためにしたのかはさっぱりだが、他にこれができそうなやつもいない──」
 「何かに『血』を使うつもりなんだと思います」ニムエが平坦に、実に平然と言った。「『悪魔のやること』なので」
 リゼがその意味を察し、眉をひそめてニムエを振り返った。
 「血を全部、魂を引きずり出されてるので、蘇生の儀式もできません」ニムエが死体を見下ろして平然と言った。
 「……ここまでひどい死に方をするほどのことをしたのか」リオンはルーチェの文字通りねじくれた死体のそばに膝をついたまま言ったが、やがて、立ち上がり、高司祭や神官戦士らに目を移した。「このうち何人かは──戦士団に志願してきた同志だったことも、少なくとも一度はあったんだ」
 「さっきはルーチェに向かって銃をぶっぱなしたり、剣で斬りかかったりしてたじゃないか」リゼが言った。
 「これはどう考えたって”自然”な死に方じゃない」リオンはリゼに構わないように低く言った。「死の運命は皆平等だ、というやつもいるが、これは違いすぎる。人間の死に方じゃない。おおよそ、どんな悪人だろうが、悪行の報いだろうが、『人間』が『こんな死に方』をしていいわけがない」
 「いや、私に言われたってさ」リゼが当惑して言った。「戦争でも事故でもなんでもそうだけどさ、ひどい死に方をする人間が、全員『その死に方に値する所業をした』わけじゃない。いや、──セトと冥府の毒蛇どもら全員の名にかけて、間違いなくそうはなってないだろ」
 リオンは何も言わなかった。
 「『悪魔に魂を売った』やつの末路がどうなるかなんて、ここの世界にもいくらだって伝わってる話なんじゃないのか」リゼは見回し、独り言のように、「……いや、世界じゅうで一番性悪なやつを探しても、MAZOKUとやらしか出てこない、ニムエなんぞがそんな代物に見える、なんて世界には、それさえ伝わってない話なのかもしれないけどさ……」
 リゼはやがて首を振り、
 「要するにこいつらは全員、『近道』しようとしたんだろう。世界が自分たちを認めないことに対して、『まっすぐ道を進んで、その状況に正面から立ち向かっていく』んじゃなく、自分だけは『楽に近道ができて、楽にひっくり返せる』、とか思ってた。……だけど、人間が荒野に旅をするときも、脇道に逸れたりすれば、獣に襲われたって、なんなら単に悪天候に襲われたって、それだけの理由でくたばったって、一向におかしいことはないんだ。『自分だけは』そんなくだらない死に方をするはずがない、何の根拠もなくそう思って『近道』する、自分から道を外れるようなやつは、当然にそれ相応の死に方をするってだけの話じゃないのか?」
 リゼは再度見回し、再度頭を振り、
 「一生懸命、道を踏み外さないように歩いていこうとした者だって、迷いだして、その結果、破滅することだってある。だったら、自分から好き好んで『近道』に踏み外そうとしたやつらが、こんな目にあったって、それの何が『不自然』だっていうんだ?」
 リオンは無言だった。
 広間には、リゼが先に見たときには石の台座の上に神像があったが、今、死体が転がる広間の中心の台座も像も粉微塵に破壊されていた。人間の力や呪文で壊すことはかなり困難そうな代物であったが、これもおそらくあの『御使い』の剛腕によって破壊されたに違いなかった。リゼはざっと破片を見回したが、像が握っていた『魔除け』は無かった。
 ──が、破壊された台座の下に、暗い空間を見つけ、リゼは覗き込んだ。その先には、地下に続く石段があった。
 「地下、というより、これは『地下世界』への道と言った方がよさそうだぞ」リゼの半妖精の眼がきらめき、続いていく道の空気の変化、次元界の歪みを捉えた。「イグドラスとは別の世界に続いてるみたいだ。ニムエ──」
 「『モーロックの聖域』です」ニムエが言った。「さきほどのソロモン王の鍵の世界と同じ、半次元界(デミプレイン)に続いています」
 リゼがごくりと喉を鳴らした。
 しかし、リオンは無言でその石段を、『モーロックの聖域』へと降りていった。
 リゼはさらに躊躇した。が、ニムエを見ると、手にしていた箒から、さきほどの箒の化け物の軍団を再度作り出し始めていた。リゼは小さく息をつくと、箒の軍団とニムエと共に、リオンの後に続いて石段を、聖域へと降りていった。



 石段の通路が開けた先は、神殿の広間によく似た空間だった。だが、その光景が与えてくる圧力は、それまでの広間とはあまりにも異質に見えた。石細工の組み合わせに至るまで陰影があまりにも”濃い”ように見え、それはどこかあのグラストンベリのマールの湖の洞窟を思わせる。先ほどまでの、イグドラスの世界最古の神殿の古び方と比べてさえ、重厚な歳月を重ねてきたかのように見える。
 その広間の中、一行の入ってきた石段とは反対側に、祭壇のように一歩高くなった段があり、そこに、あの魔法の鏡の幻影で見た通りの”緑の女神”自身の、実体の姿があった。
 その隣には、例の土の巨人の姿もあった。ただし、バエレト自身も土の巨人も、全身が返り血に染まっていた。鮮やかな金髪も緑の服も、そこから垣間見える真っ白い肌も、何もかもが返り血で赤とのまだらになっていた。巨人だけでなくバエレト本人も、直接、信者らを手にかけたのだろう。
 女神の手には、さきにリゼが石像で見た『魔除け』があった。何かの詠唱の途中だったのか、それを高く掲げていたが、一行が聖域に入ってくるのとほぼ同時に、振り返った。
 「あら? 何をしに来たの」バエレトは素っ頓狂に言ってから、さらに、リオンが来ているのを見ると、「もう、あなた達の敵はルーチェ達でしょう! もうあの連中は居ないんだからここに用はないでしょう? 帰ったら」
 「用はないけど、帰るのは、自分を崇めてくれてた信者らに、何のためにあんなことをしたのか聞いてからだよ」リゼが言った。「帰るかどうかもそれによるけどさ」
 「何って、モーロックへの血の生贄に捧げて、手っ取り早く最終試練への”次元門”を開くためよ」バエレトが朗らかに言った。「次元門を開くには、信者を集めてから、ルーチェ達にゆっくり儀式をさせてもよかったんだけど。でも、先にあの”毒蛇の落とし仔”に──あなた達の導師(メンター)に、”宮廷”に報告されたりしたら厄介だわ。だから、それよりも先に、最終試練に行ってしまうこと。モーロックに『魔除け』を捧げて、先に権能を手に入れてしまえば、”宮廷”も手だしはできなくなるもの」
 「それだけか」リオンが叫んだ。「早く儀式をしたい、ただそれだけのためにか。人間を、そんなことのためにあんな目に──」
 「信者たちは最後、女神のために役に立てて、この上ない幸せってやつだったとでもいうわけか」リゼがげんなりして言った。
 「何が?」バエレトは肩をすくめた。「血を使おうが使うまいが、あんなゴミどもの幸せと私に一体何の関係があるのよ?」
 リオンは無言で剣を引き抜いた。剣にマールが刻んだ紋様がひときわ輝いた。リオンは血みどろの女神めがけて一直線に駆けた。
 「何なのよ!? 私の邪魔をしたってあなた達に何の得にもならないじゃない!」
 「まぁそりゃそうだよな」リゼは言いつつも、リオンと並んで剣を抜いた。
 リゼはもう片方の手で、最後に残っていた『すい発銃ピストル』をバエレトに撃ち込んだが、発射時の妖精郷の粉の轟音と煙は『モーロックの聖域』に響き渡ったものの、銃弾自体はバエレトの目の前で文字通り豆鉄砲のような音を立てて軽く跳ね返り、床に落ちた。どうやらこの世界の物理法則でも、弾丸は推進はするものの、”銃”程度ではそれが最大限(以上)の威力を発揮したところで、魔神自身の防護を貫くには到底及ばないようだ。リオンがルーチェに放った際にとどめがさせなかったのも同様の理由かもしれないが──リゼはこの時点で嫌な予感がした。
 が、剣に刻まれている、魔神自身のシジルを相殺する”徴”であればどうだろう。リゼは”徴”の刻まれた闘剣(グラディウス)を構え、リオンと並んで突進した。そのうしろに、ニムエの箒の化け物どもがぶかっこうに行進した。
 目の前に、土の巨人が立ちふさがった。土塊の拳をふるい、箒の化け物を木の葉のように吹き飛ばした。バエレトの魔神としての力と、ニムエの魔法使いの弟子の力の、それぞれの呪文の強さの差というものなのか、吹き飛ばされた箒の木切れは再び増殖はせず、二度と立ち上がりもしなかった。
 リゼがその土の巨人、大地の御使いに突進しながら、”徴”の刻まれた剣を目の前に掲げた。”影”の奥を見通す妖精(ムーン・エルフ)の青紫の瞳がきらめき、剣に刻まれた枝分かれしたその”徴”と、大地の御使いの影の奥に編み上がった呪文がその目の中で重なった。そこに包含された呪文の網目にとらわれた反復・従属関係を見切った。それは妖精の瞳と、彼女自身の魔術の心得あってのものだった。のしかかるように突進してくる、その巨大な質量の土塊の中枢に、リゼの剣が突き立ち、剣の徴が土の中枢の呪文の結び目を捉えた。
 バエレトの呪文の網の目が散り散りに寸断され、物理の容にまとめ上げられていた土くれの元素が、岩なだれをうつように崩壊し砕け落ちていった。
 「や……やったぞ!」リゼは『大地の御使い』の崩壊から身をかわしながら、思わず小声で呟いた。
 と、横殴りに、光が歪むような急激な気圧の変化が襲った。物理的な視界にすらも、巨大な拳のような形をした歪みが見えたので、リゼは迎え撃つべく、呪文を反発する”徴”の残像をいまだに発している剣の峰に手を添え、さえぎるように掲げた。
 が、その構えた決めのような姿勢をとるリゼの姿を、そのまま透明な力場の拳が横殴りにぶちのめした。
 「へぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜しっ!!」リゼは殴られた姿勢で全身をくの字に曲げたまま、神々の投槍のように風を切って一直線に真横にすっ飛び、(今回は何も緩衝するものもないので)聖域の岩壁に半身をめりこませるほどに激突した。
 力場の拳と同じ形に手を曲げていたバエレトが、一度その拳を引いた。この力場、空間の歪みの掌が、土の巨人の手だけでなく、バエレト自身の手でも人間をねじり上げて血を絞り出した力の正体のようだった。
 「”混沌の貴族”に対して、”徴”さえあれば何かできるとでも思ったの?」バエレトは朗らかに、呆れたように言った。「せっかく緻密度の高い”徴”を持って来たって、それを制御できるかどうかは、あくまで扱う者の能力なんだから。しょせん半妖精や人間なんかじゃ、その緻密度や規模を制御できないのよ」
 剣を腰だめに構えたリオンが、その女神の横から近づこうとしたが、無形の拳はそのリオンも難なく石畳に叩きのめした。拳はそのまま、かなり離れた聖域の隅に杖を構えていたニムエも、払いのけるように投げ飛ばした。
 他に立っている者がいなくなると、血みどろの女神はモーロックの聖域の中心に近づいていった。その手には『イェンダーの魔除け』があった。





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