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緑の女神、魔神バエレトはモーロックの聖域の中心近くに立ち、その手の『魔除け』をかざした。
空間が文字通り張り裂けた音と、続いて、世界そのものがそのつけられた傷にのたうつような激しい震動が起こった。楕円形のまばゆい力場の渦に縁どられた空間の裂け目が生じていた。かろうじて人ひとりくぐれるほどの大きさの縁のその中は、空間ともそれ以外の何かがあるともいえない光景が渦巻いていた。
倒れ伏したリオンは、かろうじて顔を上げ、這ってでも女神を止めようとしたが、明らかに間に合わなかった。ほとんどなすすべもなく見上げるしかなかった。
バエレトは何のためらいもなく、その次元門の裂け目に足を踏み入れた。あのマールに語った彼女自身の言葉が正しければ、その門は『最終試練』なる世界にバエレトを導くはずだった。その『最終試練』の世界で彼女がモーロックにこの魔除けを捧げ、彼女が多元宇宙に君臨する真の神性となるのを、止められる者はいなかった。
が、ふたたび空間が震えた。バエレトのその身体は、他の世界や次元界へと自分から抜け出した、というよりも、逆に、一気に体を何かの力にとらわれた、吸い込まれた、ように見えた。
「何!?」その異常に、バエレトは先のマールとの話の終わりのあたりで現したような、仰天の表情と声色を顕した。「どこに連れて行かれ──いえ、これ、どこにも繋がってない!?」
『イェンダーの魔除け』が門の位置を示した上で、血の生贄で次元門を開けば、魔除けは次元門を『最終試練』の場へとつなぐはずだった。が、血により次元門は開いたが、バエレトは目的の空間へと通り抜けたのではなく──その先に、何の空間もないように見えた。まさしく裂け目だけがあって、どこにも貫通しておらず、閉じることしかできない。うしろに下がろうと、出ようとしても、その隙間のない裂け目に押しつぶされていく。
「どうして!?」再度バエレトは叫び、理由はわからないままだろうが、とにかくリオンらの方に振り向いて、体を押し出そうとしているようだった。が、魔神としての生来の能力と、彼女の操ることの可能な徴や呪文をもってしても、その世界の裂け目からは一寸たりとも抜け出せなかった。
その光景を、倒れたまま顔だけ上げることしかできずに、リオンが見上げていた。そのリオンと、もがくバエレトの目が合った。
「ねえ、その剣で──あいつが、あの毒蛇の仔が、高位の”徴”を刻んだその剣なら、この次元門を壊せるわ」バエレトは優しくリオンに言った。「この門の縁に、その剣で触れるだけでいいのよ」
リオンはかたわらの剣を拾い、石床に両手をついて、どうにか立ち上がった。
「ねえ、助けて。力をあげるから、お願いよ──」バエレトは次元門から、こちらの次元のリオンの方に、かろうじて手をのばした。「そうだわ、貴方を次の法王に──いえ、私と同等の力で、一緒に『男神』としてこの世界を支配させてあげるから──」
リオンは荒い息をついた。バエレトの姿は、次元門に半ば引き込まれ、引き込まれた半身がすでにかすんで見え始めている。リオンは剣の切っ先を上げると、全身の力を振り絞り、次元門めがけて諸手で突きを放った。
高位の”徴”の刻まれた剣は、次元門の縁でなく中央、次元門からこちらの世界にまだ出ていたバエレトの、喉首を一気に突き通した。
剣に刻まれた、バエレトのシジルを逆転させた呪文と、バエレト本人の身体は、互いに食らい合うように一気に浸食し、その喉の部分が焼け激しく沸騰した。女悪魔の相貌が苦悶にねじくれたが、当然ながら崩壊し始めている喉から悲鳴は出ようもなかった。リオンの剣は互いの徴の干渉の力に耐えられずに砕け散った。
引き込まれるのになんとか抵抗しようとしていたバエレトの身体は、差し伸ばしていた手を含めて、一気に次元門の向こうに引き込まれた。垣間見えるその姿は瞬時に、世界の裂け目が元に戻ろうとする力に押しつぶされ、引き伸ばされて、ねじ切れた。それは、ルーチェと信者らが血を絞り出されたあの姿と、ぞっとするほどよく似ていた。
裂け目が閉じると、次元門は周囲の力場の縁もその中の空間も、跡形もなく、何の名残も残さず忽然と消え失せた。
甲高い音を立てて、『魔除け』が石床に落ちた。それ以外は、次元門のあった所には何も残っていなかった。
リオンをしばらく後に到着した戦士団に任せて、その神殿、そのイグドラスの世界をあとにし、グラストンベリ郊外のマールの洞窟に戻ったリゼとニムエが報告したのは、おおよそ以上のような顛末だった。
「なるほど」マールはニムエから手渡された魔除けを見て言った。
「予定通りじゃなかったけど、つまりは教団も魔神も全部いなくなった。その魔除けだけ残して」リゼがうめくように言った。「それを……解析すれば、今回のごたごたはひと段落か」
おそらくは今回の骨折り、繰り返しの殴られの唯一の戦利品とおぼしき、マールの手の中のそれを見て、リゼが言った。
「多元宇宙の配列、とやらの解析が進むな……たしか『イェンダーの魔除け』ってのは、あの大魔法使の”徴”そのもの、一番高位の複製、だったよな」
「いや、特にぼくが解析することはないよ」マールはその魔除けをリゼに放った。「欲しいならとっときな」
リゼは、慌てて受け取った魔除けを見下ろし、マールを見返し、再度魔除けを見下ろし、そして魔除けとマールの間を幾度も視線を往復させた。
「それは
『偽物のイェンダーの魔除け』だよ。プラスチック製のまがいものだ」
リゼは半分口を開けてマールを見てから、再度視線を往復させた。
「本物の魔除けのひとつが、マルドゥーク神からモーロック神の手に一時渡っていたことがある。その頃に偽造されたものだろうね、その形からすると。あるいはイグドラスの世界の、神殿の古代神とやらの正体は、マルドゥークの”影”か化身か何かだったのかもしれない。あるいは、マルドゥークの呼名のひとつのベール(バアエル)が、古代神が信じられてたあの世界にバエレトが潜り込めた理由のひとつかもしれない。……何にせよ、その偽物は、かつてマルドゥークが持っていた魔除けを模した、ただの儀式用の代物だろう。『それらしい形に見えるように』技が施されてはいるけど、実質は何の力も持っちゃいない。これで次元門を見つけようにも、そりゃどこに繋がった出口もできないよ。『偽物のイェンダーの魔除け』を持って『最終試練』に抜けようとすれば、破滅するだけさ」
マールは素っ気なく肩をすくめ、
「あのイグドラスの世界みたいな、いかにも”影の薄い世界”に、本物の『イェンダーの魔除け』があるわけがないだろう。逆に言えば、仮に本物の魔除け、『とげの生えた指輪(スピカード)』が、長い間安置されてる世界なら、とっくの昔にもっと”影の濃い世界”に変わっていたはずだ。あんなバエレトなんかの干渉を最初から受け付けないくらいのさ」
「”トロール神”の名にかけて……!」リゼがうめくように言った。「じゃ、最初からバエレトのこの魔除けがニセモノだってわかってたのか……!?」
「最初から、バエレトが信じてた力とやらは、そんなものでしかない。……バエレトも、あのルーチェと教団も、結局同じさ。何の才覚も労力もなしに、自分らだけに都合よく『力』が転がり込んできたと信じ込んで、しかもその『力』だけで何でもどうにでもなる、とか信じ込んでるやつの末路なんて、皆こんなもんだよ」
「てことは、バエレトがやってることが無駄だって……儀式で最終試練への次元門を開くとか、モーロックに捧げて神性になるとかは、こっちが何もしなくても全部失敗するって、全部最初からわかってたのか……」リゼが、無表情なニムエの隣でがっくりと肩を落とし、「だったら、あの教団の連中の生贄にされ損……リオンの骨折り損……てか、私のあの土の怪物とかに殴られまくったりした苦労は一体何だったんだ……」
「そりゃ、放っておいてもバエレトは自滅しただろうけど、そうなるまでに女神の教団とやらに勝手をさせておくわけにもいかなかったろう。リオンたちが持ちこたえられたとは思えないからね。放っておけば、あの世界の人々が滅びるなり、世界自体が張り裂けるなりしてたろう」マールは首をすくめ、「どのみち、バエレトなり、それを背後で操ってるモーロックなりを野放しにしとくわけにはいかなかったんだ。今回は偽物だったけど、遊ばせておこうものなら、いつか本物の”徴”のかけらとかを掴まないとも限らなかったからね」
しかし、その後イグドラスの世界はどうなったか、はたしてそののち世界やリオン達は無事であったのか、リゼはふと気になって、その後、ニムエに頼んで『マーリンの魔法の鏡』から覗き見たことがあった。リゼとニムエが探ったその鏡の光景によると、女神とその教団は跡形もなく消滅したが、かれらの傍若無人の跡は、二度と元通りにならなかった。かれらが破壊した物や、虐待した傷を治せる者は誰もいなかった。悪魔バエレトが、最初から何ら成功する可能性がないほどちっぽけな才覚しか無い存在だったとはいえ、世界よりも不当に”緻密度”が高い力をいいように揮ったために世界に生じた綻びから、将来もどんな災厄が生じないともわからない。
生還した直後のリオンは、全身を苛む傷と疲労でやつれ果てていたが、魔法の鏡の水盤から見る現在の姿は、もはやひからびた白髪の老人のようになっていた。傷は癒えるかもしれないし、ふたたび戦士団のため、イグドラスの世界のために尽力することもできるかもしれないが、もはや二度と『少年のような若さ』には見えることはないだろう。あの数日の出来事の積み重ねのためなのか、あるいは、複数の並行世界を往復するという体験のためか、それとも、次元門や本物の混沌の血族をじかにその手にかけるという、人にあるまじき行為の反動のためなのかはわからない。
どのみち言えることは、リオンは自分の世界にとって『不自然なことがら』をひたすら正そうとし続けていた。しかし、今回この世界をおそった事柄、世界の外からの力でもたらされたが故の不自然さ、というものは、今度ばかりは一人の人間が背負うには荷がかちすぎた、ということだ。