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半身が血に染まった黒い制服の女学生は、這うようにあとじさりながら、傷ついているが空いている方の左手で、制服の襟元から首にかけていた反聖印(アンホーリー・シンボル)を再度引き出した。多色に輝く透明の翅を象っているように見える、その印に向かって語りかけた。「大公爵殿下、申し訳ありません。任務は失敗です」
『構わぬ。これはお前に対処できた事態ではない。不慮の事態が生じる可能性も想定に折り込み済だ』透明の翅からは、離れた位置でも聞こえるほどの声が漏れ出てきた。それは質量のない透明な固体そのものを震わせているかのように澄み切った声だった。『どのみち、この神には再び力を与える予定であった。それはこの者らを始末する前でも後でも変わらぬのだからな』
翅の輝きと共に発せられるように聞こえるその響きは、アストラル中継界の銀色の空間そのものに共鳴して震わせる天上の楽の音のようだった。”神々しい”とはまさにこのことと思えた。それは、《九層地獄界》の第七階層の汚泥地獄の底から呼びかけてくる、穢れの権化の声とはにわかには信じられなかった。
『廃神よ。カールとやら、イアベとやら』半ばうつぶせのバルバトスの手の中の反聖印が、その土塊の足場、すなわち死んだ神の身体に向けて、輝きと共に発した。『わたしだ。バアルゼブルだ』
『堕天使よ、もはや動くこともままならぬ私に何用だ』死んだ神の大地の震動が応えた。
『このわたしが、再び生ける神としての力を与えてやれるぞ』大公爵の輝かしい声が、反聖印を経由して地獄の底から響いた。『その与えた力で、わたしに助力するのであれば、この人間どもを始末するのに手を貸すというのであればだ』
『なんと、いかにしてだ。どのようにこの私に力をもたらすというのだ』死んだ神の身体、岩くれの大地は、激しい振幅の短い振動を発した。
『わたしの所有する権能の一部を与える』バルバトスの手の反聖印を通じて、地獄の底から悪魔の大公爵は声を送った。
『堕天使よ、おぬしが自由にできる権能があるとでもいうのか』
『《九層地獄界》の第七階層と、そこに接続する膨大な並行世界(ワールド)の全てにおいて自由にふるうことのできる権能がわたしにはある。その一部でも、少なくとも廃神の地位を脱して、半神としての行動力と、顕著神格能力(サリエント・デヴァイン・アビリティ)を取り戻すには十二分だ』ベルゼブブの声が応えた。『当面は半神としての力だが、さらにその後の働き次第では、中級神かそれ以上の神位(ステイタス)が手に入るぞ。かつてクロムが口先ばかりで与えた全能などは及びもつかぬ地位と能力がな』
「騙されてはいけません」”銀糸のシルヴァナ”が遮った。「地獄の階層支配者らともなれば、地獄に接続する世界のみでなら働く権能を、いくばくか所有してはいるでしょう。けれど、バアルゼブルはいまだにアスモデウスの威伏に怯えている、ただのインファーナル・パラゴンです。最古の古代神の一体であるクロム神以上の力を与えることができるなど、決してありえませんよ」
震動が途絶えた。死んだ神は沈黙した。騎士デュラックは剣を構えたまま、眉根を寄せ、今も対峙するバルバトスと、その足場(死んだ神の身体)とを見下ろし続けた。
『偉大なる神よ、大公爵の約定よりも、一介の定命の魔術師の高説とやらを信じるか?』バルバトスの持つ翅から漏れ出てくる、大公爵の声色が冷笑をおびた。『”クロム神”とやらの方に本当にわたし以上の力があると信じるのか? 権能のもととなる多大な意識、信仰を集めているなどと思うのか? クロムなどという名を誰が覚えている、誰が知っている? いまどき、誰もそんな神の名など知らぬ! 古代神どころか、
安物の娯楽映画が作られた折に金属元素の名前からでっちあげられた神だ、などと言いふらされている、それが今のクロムの体たらくではないか!』
翅状の反聖印は哄笑するかのように激しく明滅した。
『それに対して、いまやバアルゼブルの名は、大概の古代の大神などより遥かに知られているぞ。今、バルバトスの左手に叩きのめされてそこに潰されている虫けらは、わたしの事を、サタンに仕える下っ端、などと言ったな。その程度の塵にも劣る知識しか持たない者、信仰に何の縁も認識もない者ですらも、わたしの”名前だけ”は知っているのだぞ。それほどまでに膨大な者、”ゲームの世界しか知らない”おびただしい数の最卑小の虫けらどもですらも、揃ってわたしの名を唱えるということだ』
「虫共の主、蝿の王とはよくぞ言ったものか」デュラックがひとり呟いた。
「自分の息子を虫けら呼ばわりするような者に協力するのですか」シルヴァナは死んだ神の巨大な頭部に向かって問いかけた。
『それは伊阿部の過去の息子だ。カール・グロガウアー・コーリーの息子ではないし、これから名乗るかもしれぬ神としての私の名の息子ではないし、神の子でもない。かつての40億年の苦悩と、これから得られる権能の価値から見れば、まさに虫けらにも塵にも満たない存在にすぎぬ』
死んだ神の震動は静かに呟いた。
『クロムとこの堕天使のいずれが優れていようが、どのみちクロムからはもう何も得られぬ──いま堕天使を拒んだところで何も得られぬ──神として、この今よりもなお悪い状況などありえぬ──』
「”悪魔”と契約して、今より悪くなるはずがないなどと」シルヴァナは血色の失せた額から汗を拭うように手を当て、「この期に及んでなお、そこまで『想像力』に欠けているなど……」
『堕天使よ、おぬしを信じるぞ。ふたたび権能をこの身にもたらすというのであれば、何でもおぬしの望み通りにしよう』
「イアベ、あなたは愚かです!」シルヴァナが悲鳴のように咎めた。
『たとえ地獄の第七階層にのみ接続する、どれかの地球にすぎなくとも──どのような地球でも、再び丸ごとひとつの世界を与えられ、次には他の半神にも誰にも邪魔されずに、自由自在にできるのなら、他には何もいらぬ──』
「契約は成りました」制服の女学生、バルバトスがおごそかに呟いて手を伸ばし、その先にかざした翅を象った反聖印を、土塊の大地に、すなわち、”死んだ神の肉体”に差し向けた。
突如、それまで神の身体に伴っていた震動は激しい鳴動となり、急速に振幅を増し、叩きつけてくるような地震となった。それは地鳴りや地熱が大地の生命活動であるかのように感じられるのにも似て、神の肉体が突如として活力を得たように感じられた。この《アストラル中継界》には上も下もないが、それでもこの鳴動から体感することのできる確信として、神の上体が”起き上がり”、遥かに遠くに見える四肢に相当する地形に、動く力が漲りはじめたように見えた。”おぼろげに人の形をした地形”に過ぎなかった岩と土の塊が、”明確な人の形とその動き”をとりつつあった。
死んで沈黙していた神は、地獄の大公爵から付与された権能に伴って、真の神性としての行動力と強大な能力を取り戻していた。
老騎士デュラックは足場を、ついでなんとか足がかりになるものを求めようとしたが、震動に叩き潰されたり表面に突如生じた激しい起伏に飲み込まれないようにするのが精一杯だった。白魔術師シルヴァナは、簡単な呪文で地表から浮遊したものの、この激しい鳴動の中、デュラックを助け上げられるかはわからなかった。それ以前に、物理的な移動力などではなく意識力・知力によって移動ができるこの《アストラル中継界》で、このような移動の呪文でどれだけ地表から離れていられる力があるのか。もとい──この巨大な姿が真の神の力を取り戻したのだとすれば、そして、ベルゼブブの要請を受けて自分らを殲滅すべく追ってくるというのであれば、この次元界で、”神の精神の規模”から逃れることなど可能なのだろうか。
岩くれの間にへばりついていたキリヒトの身体が、震動によって地から跳ね飛ばされ、再度岩に叩きつけられ、さらに酷く損壊した。99レベル勇者の残骸は、もはや皮や腱の一部で繋がった臓物と肉の這いずる塊と化していたが、通常のようには『時間』が経過しない《アストラル中継界》、定命の世界とは経過の一致しない次元界であるためもあってか、まだ息があった。
「父さん……死んじまうよ……助けてくれ」ごぼごぼと血の息の中から、むしろ肉塊と化した自らの身体が泡立って発しようとするかのような声が、口の器官であったあたりから、接した地表に向けて発せられた。「全能の神になったんだろ……ひとり助けるくらい簡単だろ……」
『望みを言え』先にこれまでキリヒトらに語りかけていたよりも、さらに無感情な神の声が、地表を通じてキリヒトの意識に伝わった。『虫けらに等しい定命の人間よ。全能の神である私に何なりと救いを請うがいい。身体を治して欲しいか。現実世界の地球に戻して欲しいか』
キリヒトの肉塊と化した頭部の、潰れ残った目が薄れ、
「俺も、そっちの側に引き上げてくれよ……俺も真の神にしてくれよ……今ならできるんだろ……」
『それはできる』
土塊の神の身体の表面に、新たな口の器官が出来たような、あるいは、単なる切り傷が開いたような巨大な地割れの裂け目が生じた。そして、その裂け目は文字通り顎のように開くと、キリヒトの引き潰れた身体をくわえ込んだ。
挽肉を作る機械が肉を飲み込む途中のような断続的な無機質な響きと共に、神の口はまだ生きているキリヒトを噛み砕き、すりつぶした。激しい絶叫が上がった。キリヒトは残った生命の力であらん限り悲鳴を上げ、もがき逃れようと、むなしく身体のどこか動く所を動かそうとしたが、たとえ死にかけていなかったとしても、権能を持つ真の神の力から逃れることは不可能だった。
『肉体も霊魂も、私という神と一体化する。イアベという人間の名と過去が、神という全存在の中の破片にすぎないものとなったのと同様、イアベの息子キリヒトの全存在も神の一部となる。いまやお前は神そのものだ。永続する全能の神の一部となったのだから、お前も神としてその存在は永遠のものとなるのだ』
キリヒトの最後に残った意識は、確かにそこまでは聞いた。しかし、その意識も取り込まれ、噛み砕かれ、すりつぶされ、消化されて、神のその新たに与えられた生命の一部となった。
デュラックは剣を足場に、神の身体に繰り返し突き立てた。それは振り落とされまいとするものでもあったが、神の活動を止めるか一時的にでも怯ませようという絶望的な試みでもあった。このカオス・ブレードは、権能を持たない小世界の偽物の神であれば、真に神を殺せなくとも、傷つけることはでき、滅多切りにして動きを止めるくらいは造作もない。しかし、権能を持つ真の神に対して、再生を無効にし、神の”生”に影響を与えることは一切できなかった。
何らかの活路を求め、老騎士が周囲を見ると、上空に浮かんでいる黒い制服の少女、バルバトスが目に入った。唯一の悪魔(ユニークデヴィル)は、あらゆる並行世界(ワールド)の環境において飛行することなど造作もないが、いずれにせよ、今ここで地震にも巻き込まれず、安全に浮かんでいられるのは、ベルゼブブに命じられた神に襲われる対象にはないからだ。今、バルバトスや、あのベルゼブブの反聖印をなんとかしたところで──デュラックが空中でそんな戦いができるのかはわからないが──この半神自身が止まらない限りはデュラックらの方は助からない。
為すすべがない。巨大な神の身体には──真の権能を有する神の力の前には──”人間としての最強の騎士”の能力など、何の太刀打ちにもならなかった。
「これまでか」デュラックは震動の中、剣によりかかり、剣の柄を握りしめて再度、天を仰いだ。