イェンダーの徴:廃神の骸







 6

 が、顔を上げたデュラックの目に、神の頭部にあたる山のような地形と、その上にある小さな影が映った。
 バルバトスも同じ方向を見ていた。悪魔の金の瞳には、さきのデュラックとの戦い以上に、信じられないものを見るような驚愕があった。
 巨大な神の顔貌の上を横切るように、赤い帯のような色が引かれていた。そして、その赤い線の先、仰向いた神の顔の頂上近く、ちょうど眉間に、紅葉が立っていた。それは、さきほどバルバトスのメイスによって神の頭部に叩きつけられた紅葉が、その帯の軌跡を残して這いずって、そこまで登ったのだった。
 バルバトスにより全身を砕かれた紅葉には、その距離を這い上がることも、ましてそのように自身の力で立つことも不可能なはずだった。しかし、今、その上に立っている紅葉の身体は、えぐり取られたはずの右半身と右腕の箇所に、うごめく銀色の紋様でできた、鎖と縄で縒られたような半身が発生していた。失われていた箇所だけでなく、骨が砕けたり肉の引き裂かれた他の傷口からも、銀光と光の束が溢れ出し、全身が絶え間なく動く鋸の刃のような後光をまとっていた。
 紅葉は神の眉間の上に立ち、剣を振り上げた。剣も右腕と共にバルバトスに粉砕されていたはずだったが、これも他の補われた箇所と同じ、光の束でできた剣が、その手に握られていた。形状と大きさこそ壊されたはずの大太刀とほぼ同じだったが、絶え間なくのたうつ紋様で形成され、鋸の刃のような枝とその先の棘で覆われた刃が、高速で動き回転していた。
 「死んだままでいれば良かったのに」紅葉はデュラックやバルバトスの方ではなく、今蘇ったその神に向かって、その頭部を見下ろして言った。「”生きている”神は、”殺される”んですよ」



 紅葉は逆手に刃を下にしたその剣を、神の眉間に突き立てた。紅葉がクロムの神から与えられた剣、”かみ殺しの鋸”の剣は、光輝く棘が高速で走る刃を神の身体に埋め込んだ。走る棘は埋め込まれるとさらに輝きを増し、反応している神の生命と共鳴するかのようだった。
 突き立てられた土塊の表面に亀裂が入り、刃と同じ銀の光の束がその亀裂から吹き出し、間を置いて、炸裂するように無数の亀裂が神の肉体を縦横に全面に走り、そこからも輝く紋様の棘が迸った。多元宇宙の構造を記載する”イェンダーの徴”そのものである”神殺しの鋸”は、神と、その宇宙に影響する力である権能との関係をたやすく織りほぐし放ち、ことごとく断ち切った。
 亀裂が分かたれ、土塊は八方に激しく散った。そして、虚空に浮かぶ巨大な神の身体は一斉に崩壊していった。神の頭部も、大地を構成していた胴体も四肢も、無数の亀裂と光芒を伴って、激しい崩壊を続けた。神の骸とその脈動から感じられていた存在感そのものが失せてゆくのが手にとるように感じられ、神の生命は(食いつくした息子の生命も含めて)霧散していった。死んだ神がほんの束の間とりもどした神としての生命、権能、地位、神位が全て四散してゆく、その名残を惜しむ哀切の叫び声のように、土塊の鳴動、数々の衝突の共鳴が、次元界の空間一帯にこだました。
 神の傍らの上空に浮いていたバルバトスは、あまりにも予想外の経緯と事態にその離散する神の残骸をしばし見つめた。
 「殿下」悪魔の大元帥は呻くように主に呼び掛けた。
 『これは想定外中の想定外だ』バルバトスの首にかけた反聖印の翅から、ベルゼブブの声が響いた。『すべて放棄せよ。戻れ』
 バルバトスはその声に加え、置かれたその状況は認めると、激しい崩壊に巻き込まれつつあるその空間を離脱しようと、黒髪と黒い女学生の制服の裾を翻した。
 そのとき、鋸のような刃を持つ銀の剣が唸りを立てて飛来した。その刃は避ける間もなく、バルバトスの胸に突き刺さり、その身体を崩壊する土塊のひとつに串刺しにした。
 アストラル中継界では、知性を持たない物体は当然自ら移動することができない。何もない空間で単に剣などの物体を投げたところで、他の次元界のようにはそのまま推進しないはずだった。が、紅葉が投げつけた剣が、アストラル中継界を投擲では信じがたい距離を飛翔し、さらには大悪魔バルバトスですら回避できないほど文字通り意識を持ったように飛んだのは、結局のところこの『クロムの魔剣』が、紅葉自身の身体の一部、むしろ紅葉の身体そのものであり、その意識・知性と不可分であるためだった。
 バルバトスは色を失い、自分を岩塊に縫い留めるその剣を引き抜こうと、そこから逃れようとした。しかし、その目の前に飛来した別の岩塊、死んだ神の残骸が真正面に迫った。岩塊は剣の柄頭の側に衝突し、大悪魔の身体にさらに深々と剣を突き徹した。直後、柄頭がその岩塊に埋まり込んで、大岩の表面同士が激突し、大量の血を吐いた大悪魔の顔面を押し潰した。
 透明な翅のような反聖印がバルバトスのかけた首からちぎれ飛び、文字通り生き物のように跳ね飛んでその空域から飛び離れるかと見えたが、やはり飛来した石の衝突に挟まれ、砕け散った。
 そのまま、閉じた継ぎ目にバルバトスを閉じ込めた岩塊は、他の塊との衝突を繰り返しながら虚空を飛び去っていった。
 ──バルバトス自身の力の一部、強力なアスペクトがこの次元界に囚われたままでは、バルバトスが持つ力の総量のうち、使用可能な力は著しく削がれる。同等の強力なアスペクトをもう一体作ることなどできず、したがって、大悪魔バルバトスが今後、他の並行世界(ワールド)や次元界(プレイン)に同様の力で干渉することはいまや不可能だった。



 シルヴァナは呪文の円陣の足場に乗って移動し、デュラックと紅葉を助け上げ、防護と移動の円陣を描きなおして、その空間一帯から離れた。『クロムの魔剣』、”かみ殺しの鋸”によって、”かみはばらばらになった”あとの無数の巨大な塊は、互いに衝突や交錯をしばらくの間続けていたが、やがて離散していくのが見えた。つなぎとめる要素もない以上、さらにばらばらになって、《アストラル中継界》じゅうに飛散してゆくのだろう。
 それでも、ひとたびは真の権能を有する神であったその破片群は、”死んだ神の身体”ではあり続け、完全に滅ぶわけではない。破片の幾つかをつなぎあわせれば、再び意思疎通が可能にはなるかもしれないし、さらに大半の破片を集めた上で復活の儀式や、あるいは権能を与えれば、ふたたび生ける神、真の神として活動はするかもしれない。
 しかし、この神が君臨していた別の地球での、この神を崇めていた人類は滅亡している。神が人間だった頃の因果を残すキリヒトももう居ない。この神を探し出せる、破片それぞれの場所に辿り着くことができる人間も、おそらくはこの神を覚えている人間すらも、もう一人もいない。もはや、バルバトス(なんとかあのアスペクトが《九層地獄界》に復帰できたとしての話だが)やベルゼブブにとっても、この神に対してそれほどまでの手間と悠久の時間をかけてまで、情報源として利用する価値は既に無いだろう。
 「結局、クロムの居場所を知る、辿り着くには、何の進展もありませんでした」
 紅葉は、人間の肉体の四肢の形状に戻った右手を動かし、これも大太刀の拵えで手元に戻った『クロムの魔剣』を、鞘に納めて言った。
 「そうでもあるまい。ベルゼブブや、その他の大君主がクロム神を追っているということは、そこに手がかりもある。半神規模の者を巻き込んだ計画、ベルゼブブらがそこから手がかりを掴もうと目論んでいるならば、それは勝算があってのことだ。我らにも手が伸ばせないでもあるまい。我らがクロムを追うのが、徹頭徹尾に盲目的な行為というわけでもない、と判明しただけでも収穫といえるものだ」デュラックが紅葉を見下ろし、「もっとも、その過程では、あの親子の破滅のような事態を、今まで以上に見せられる、ということになりそうだが」
 「イアベがクロム神に会ったとすれば、同じ手段で辿り着けるのでしょうか」シルヴァナがデュラックと紅葉を振り向いて言った。「私達が、『イェンダーの魔除け』とやらを見つけて、捧げると偽ってクロムを呼び出し、または──イアベよりも巧みにことを運んで、他の半神から奪った権能を献上する、と言えば。私達の前にもクロムは姿を現すのでしょうか」
 「決して、うまくはいきません」紅葉が自分の剣を見下ろして言った。「その経路では所詮はクロムの手の内です。人間を『神』にするのも、人間を『かみ殺しの剣』にするのも、クロムにとっては同じ、手の内の駒を作ることでしかない」
 「結局、この一連の旅程も、クロムを追っていたベルゼブブが半神に上げた者を殺しただけ、クロムに利益だけ与えて終わった、ともいえるな」デュラックが、彼方に散らばる神の破片を仰ぎ見て言った。
 紅葉はアストラル中継界の虚空の彼方にまだ見える、互いに離れつつある破片の数々を見つめ、
 「あの親子は、神にさえなれば他者全ての運命を好きなように全て操れる、などと信じていましたが、結局、すべてはクロムの手のうちでした。最終的な末路を含めて」
 紅葉はその方向を見つめたまま、佩いた大太刀、『クロムの魔剣』の柄を握り、
 「結局、誰も自力で運命を操る側にはなれないのでしょうか」
 「なれぬな。ある並行世界で”『冥王』を殺した”、”魔除けを捧げて半神の地位を得た”、などと自称する行為など、君が過去に行ってきたような、様々な並行世界の造物主を殺す行為の規模にすら遠く及ばん。そして、全多元宇宙の権能を持っていた神とて、あのざまだ。この多元宇宙では、半神などというものも、クロムやセトらがコイン集めのように権能や勢力を奪い合うための捨て駒でしかない。そして、そのクロム、セトやミトラら古代神であっても、多元宇宙全体の歯車のひとつでしかない。いかなる力を持った者であろうが、全てを操る側に立つことなど決してできぬのだろう」
 デュラックは、紅葉と同じ方向を見て答えた。
 「あのバルバトスや半神は、強大な『力』を示してみせたが、それらの力にせよ、わたしの力にせよ、それはこの一連の旅程での最終的な結果には、何の決定的な役にも立たなかった。結果を決めたのは紅葉の剣だが、君に力があったわけでもなく、クロムがここまで予想して結果を決めたわけでもない。この多元宇宙では、いかに力を持とうが、その者が結果の全てを一方的に決めることなどできぬ。あくまで結果が決まるのは、関連する全ての要素が重なり合った帰結にすぎぬのだ」
 デュラックは肩をすくめ、
 「が、人間ひとりがこの多元宇宙では大したものではないとすれば、その大したものではない自分ひとりや周りの運命くらいは、自力でもどうにかする余地はあるのかもしれん。ちっぽけなものくらいは、おそらくは何とでもなるものだ。少なくとも、わたしはそう信じてはいるがな」





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