イェンダーの徴:廃神の骸







 4

 シルヴァナも驚愕にあとじさり、紅葉にも、女学生に向ける視線に当惑のようなものが浮かんだ。
 「理由もわからぬというのに殲滅するなどと言われてもな」デュラック自身はといえば、あまり取り乱した様子もなかった。「我々の誰にも、君の主とやら、つまり第七階層の支配者、大公爵ベルゼブブの不興を買うような覚えはない。我らの存在によって、かれにとって都合が悪いことも何ら思い当たらぬ。──だが、殲滅の任務であるにも関わらず、暴れ屋の”穴の悪霊(ピット・フィーンド)”やら”角のある悪魔(ホーンド・デヴィル)”の一体を送るでもなく、大元帥にじかに任務を任せてきた、となれば、ベルゼブブにとってもそれなりに重要なのであろうな。何かの間違いであるとも思えぬ」
 「最初の目的は、あなたがたに足元のこの神を探して貰うことでした」制服の女学生、バルバトスが誠実な声で応えた。「足元のこの神が、クロムに繋がる手がかりだからです。あなたがたができなくても、我が主には今の状態のこの神から、手がかりを引き出す手段はあります」
 「それはあるかもしれぬな。《九層地獄界》のデヴィルらには、我らの想像もつかないおぞましい手段がな」デュラックは顎を撫でて飄々と言った。
 「この神の息子だという、その人間にアストラル中継界を旅させて、この神を見つけさせました。しばらく質問を続けさせたのもそのためです」バルバトスが金色の目でキリヒトを見てから、デュラックらに目を戻し、「息子だけが父から引き出せる情報もあるかと思い、しばらくは神とその息子で対話もして貰いましたが、その点は期待外れでした」
 「だが、なぜベルゼブブがクロムの居場所など知ろうとする?」デュラックが問うた。
 バルバトスは金色の目をきらめかせ、しばし言葉を途絶えさせた。制服の胸元から、首にかけていた何か(この間合いからはよく見えない)を取り出し、掌の中のそれをつかのま見下ろした。が、やがてかれらに目を戻した。
 「あなたがたがこの廃神を見つけてくれた代償に教えることにします。あえて口にする者はそう居ませんが、《外方諸次元界》の諸侯の間では、特に秘匿されている情報でもありません。ある程度の事情の説明は、大公爵によると、そこの人間との契約の範囲に入っているので」
 バルバトスは淡々と続けた。
 「私達、《下方諸次元界》の悪鬼(フィーンド)全員にとってその地位から追い落とすべき相手、さらに《混沌》と《上方諸次元界》の存在全員にとってすべての大敵は、第九階層の主、デヴィルの最高君主アスモデウスです。その者の起源にかかわるのが、クロムだからです。アスモデウスに力を与えている、《九層地獄界》第九階層の最深奥にあると考えられている『魔太子の聖紋』を描いたのは、クロム神なのです。であれば、クロムは聖紋を破壊する方法も知っているはずです」
 「”大蛇(アンリマンユ)のとぐろ”か!?」デュラックが、それまでの老成した落ち着きを忘れさせるかのような、色を失った声で叫んだ。「それを描いたのも、壊せるのも、クロムだというのか!?」
 バルバトスはしばし口をつぐんでから、「その地点の名については、発する権限はありません」
 シルヴァナは驚愕に目を見開き、思わずふらつくようにあとじさった。
 「クロムに魔除けを捧げるために、『アーリマンの心臓』がまず必要というのもそのためであったか……」デュラックが額を撫で、呻くようにようやく言った。
 「すでに《外方諸次元界》の実力者の多くが、その目的でクロムの行方を追っています」バルバトスは続けた。「最も先に辿り着いた者が最も有利なのは確実です。そして、ここの死んだ神という、クロムに繋がる手がかり、手札をあなたがた自身が知っているのも、他の者にとって危険ですし、あなたがたから他の実力者、モーロックやメフィストや、アスモデウス自身に、この場所の存在が知られるのももっと危険です。である以上、この死んだ神の位置を見つけてくれたその後は、あなたがたを生き延びさせておくことはできません」
 「そちらの事情は呑み込めた。だが、我らはあくまで自身らの目的でクロムを探している。モーロックやアスモデウスや他の大君主、セトや他の神々に、我らがこの場所の情報を売ったりするつもりはない」デュラックはそう言つつ、諦めたように再び、「そう弁解したところで、しかし、そちらは我らを見逃しはすまいな」
 バルバトスは無言で、小柄な身体に数倍する規模に見える巨大なメイスに素振りをくれた。その名も高い大悪魔バルバトスの杖『ユーヤタス』の正体は、並行世界によって様々に伝えられるが、今、かれらが目の当たりにしたそれは、女学生の姿をしたバルバトス同様に、にわかには信じがたい光景だった。



 その巨大な得物を持った女学生の姿に、キリヒトは冷笑をもらした。剣を抜き放ち、無造作に歩み足で近づいていった。さきほどの驚愕とはうって変わり、何か、にわかに思い出せることを思い出し、そして急に安心したようだった。
 「いけません、下手に踏み入っては」シルヴァナが思わず発した。
 「何だよ、下手にってさ」キリヒトが歩きながら、失笑して言った。「知ってるよ。今言ってた『ベルゼバブ』なんて、サタンに仕えるたかが下っ端の悪魔のことだろ。そのさらに手下だか何だか知らないけど、『バルバトス』なんてさらに下っ端じゃないか。何をこわがるんだよ」
 制服の女学生は、右片手には巨大なメイスを無造作に提げたまま、キリヒトの方はろくに見もせずに、左の掌だけをキリヒトの方に向けて振り下ろした。
 キリヒトは見えない掌に、蚊が机の表面に叩きつけられたかのように真上から打たれ、石くれの地面に全身を投げ倒され叩きのめされた。全身の骨が砕け、四肢のいずれもねじ曲がり、胴体も潰れ、腹と胸が破れて、引き裂けた体躯から突き出した砕けた肋骨と共に、おびただしい内容物が地に溢れだした。地に押し付けられた目鼻と口から、それ以外の割れた皮膚のすべてからも、血が膨大に土砂の上に流れた。
 神の地位にも手を伸ばそうとしていた99レベル勇者は、血煙と共に地を這う姿へと無理矢理に叩き潰された。取るに足らぬ”影の薄い”並行世界(ワールド)、”実存性(リアリティ)”の皆無なゲーム世界のたぐいで絶対の力を持つなどという99レベル勇者などに対しては、極めて”影の濃い”実存性の高い膨大な並行世界に接続している《九層地獄界》の魔神にとっては、その名も高い『ユーヤタス』による鉄槌を下すまでもない。文字通り掌のひとふりで十二分だった。
 キリヒトが叩き潰されるのとほとんど同時に、すでに高下駄をその場に捨てていた紅葉が、突進しつつバルバトスとの間合いを詰めていた。踏み込みと共に抜き放った腰の大太刀と、相手との間境をそのまま一気に超えられるかのように見えた。相手が人間の剣士ならば疑いなくその結果となっていた。
 しかし、間境をこえる最後の一歩を踏み込む直前に、轟音と共に土塊の破片が視界を飛散し、風唸りに塵が巻き起こった。
 何が起こったかは立ち止まった紅葉にも把握できないようだった。他人事のように自身の右半身を見つめた。刃が相手に届くはずであった大太刀は消え失せていた。それ以前に、それを持つ右腕も、その付け根の右上半身のかなりの部分も、えぐり取られたように完全に消失していた。その右足元には、バルバトスが両手で頭上から振り下ろしたメイスの頭部が地を穿って深々と打ち込まれていた。
 紅葉が次の何らかの動き(それが可能だったとしても)をするより前に、バルバトスは片手だけでその柄頭近くを握った『ユーヤタス』を横薙ぎにふるい、その戦槌鉾の頭部の巨大な質量を紅葉の上体に叩きつけた。どう見ても背骨がへし折れて胴体が完全に潰れねじ曲がった紅葉の姿は、文字通り宙を高く飛ぶと、やや離れてそびえたつ小山、死んだ神の頭の上部付近に叩きつけられて血だまりへと潰れ、遠目にはその神の頭部を染める赤い染みのひとつと化した。



 キリヒトと紅葉が明らかにもう助かりようもない状態にまで粉砕され排除されると、残るふたりのうち、老騎士デュラックが進み出た。ゆるゆると制服の女学生に歩み寄りながら、長大なカオス・ブレードを抜き放った。
 騎士の連れの貴婦人シルヴァナの方はあとじさった。可能な支援を探したが、事前の準備があるならともかく現在可能な魔術の類は限られている。強力な次元界来訪者(アウトサイダー)、まして指折りの唯一の悪魔(ユニークデヴィル)に対しては、少なくとも大魔道師(アークマギ)未満の投射する呪文は、ほぼ確実に何の効果もない。
 「手加減はしません、ご老体とはいえ」大悪魔バルバトスは両手でメイスを掲げつつ言った。
 「それほどの敬意を払って貰ったのは久々だ」老騎士は一旦立ち止まり、剣を眼前に立てる刀礼を表した。しかし、その後は剣を掲げたまま、何の頓着もなしに次第に間合いを詰めた。
 ほとんど轟音といえるほどの風唸りを伴って『ユーヤタス』のメイスが落ちかかった。老騎士の剣が正面に切落の太刀行きを描いて打ち込まれ、メイスとカオス・ブレードが激突した。並の鋼どころか、大抵の並行世界で魔法金属と呼ばれる類でも、このバルバトスのメイスの圧倒的な質量と硬度に触れただけで粉々に砕け散り、剣の持ち主ごと四散するのは必至の光景に見えたが、しかし、カオス・ブレードは少なくとも見た限りでは持ちこたえていた。老騎士の剣はメイスに向かって真正面から、頭上に撃ち落とされる軌道に沿って正確無比に打ち込まれ、その結果、互いの鎬の線に沿って巨大なメイスの軌道をわずかに反らしていた。それと共に、デュラック自身は真正面に踏み込んでいた結果、長大かつ巨大なメイスの頭部の巨大な質量が落下する位置の真下からは、騎士自身の身体はわずかに外れていた。
 バルバトスは無造作に、地に落ちたメイスの頭部を跳ね上げさせ、斜め下からのメイスの質量と速度が、老騎士の上半身を襲った。やはり上向きのその軌道に力を加えるように老騎士のカオス・ブレードもメイスを跳ね上げると共に、騎士自身は踏み込み、メイスの軌道から我が身を逸らしていた。また間髪入れず、大悪魔のメイスは騎士の頭上に落ちかかったが、デュラックの鋭い打ち込みと踏み込みが再度、その打撃を外した。
 老騎士デュラックは真正面に切落し続けているため体勢を崩すことはないが、しかし一方でバルバトスの強力無比な殴打の衝撃は、たとえ直撃をしのいでいても並の鈍器の打撃に遜色ないほどの負担を騎士の身体に強いているのは明らかだった。一方で、超重量のメイスを軽々とふるい繰り返し叩きつけ続けるデヴィルの腕は、何ら疲労した様子も負荷を負っている様子もない。老騎士はあと何撃も保つわけがない。
 デュラックが辛うじてしのいだ直後に、頭上から再度叩き落とす打撃が襲った。無論受け止めなければメイスの下に無数の肉片にまで叩き潰されるのみだが、頭上で剣で無理に受け止めれば、カオス・ブレードは砕けないとしても両腕が衝撃に耐えきれず、紅葉の時と同様にちぎれ飛ぶか、受け止めた剣ごと全身がこの土塊の足場にめり込むかだった。
 デュラックはその振り下ろされる真下に再度踏み出した。しかし、このときは老騎士のカオス・ブレードは切落の位を取ってはいたが打ち込まれず、足運びだけが手元に入り込んでいた。信じられぬ話だが、大悪魔の膂力とメイスの重量によるその落下する速度にも関わらず、老騎士の踏み込みはメイスの落下する下から外れ間合いに入り込んでいた。
 バルバトスは咄嗟に、その両腕はメイスを振り下ろした体勢のまま、全身を急激に右に捻った。小柄な制服の少女そのものに見える身体、無骨なメイスの重量それ自体よりも遥かに軽快な身体は、人間には不可能な悪魔の身体能力に操られて右に跳ね飛ぶように回転した。それは同時に真向から唐竹に打ち込まれたカオス・ブレードを皮一枚でかわし、あるいは少女の制服の左腕にかするのみに止めただけに見えた。しかし、カオス・ブレードの正確無比な切先は、大悪魔の左の肘に食い込み、深々と刃を埋め込んだ。
 下腕が多少傷ついたところで、悪魔にとってメイスを揮う力、手の裡の締めに影響が生じたりはしない。しかし、バルバトスの戦闘経験はこの時点で裡に激しい警告を発した。明らかに何かがおかしい。大悪魔は全力で背後に飛びずさりつつ、メイスを目の前の地に突き込んで反動で後退した。
 そこを横一文字に薙ぎ払ったカオス・ブレードは、メイスの鋼の柄、すなわち『ユーヤタス』の杖の柄の部分を真っ二つに叩き割り、その剣の切先八寸近くがバルバトスの膝から腿にかけてを断ち割り、骨を砕いた。
 バルバトスはほとんど倒れ込むように、メイスの残りの柄を文字通りに杖のように突き、さらに傷ついた左腕を地に突いて、這うようにさらに後退した。悪魔のおびただしい血と汗が、死んだ神の肉体である土塊の上に滴り、あとじさった跡に帯のように引き塗られた。
 バルバトスは対峙を続ける警戒とそれ以上に、激しい困惑と共に、頸をのけぞらせて老騎士を見上げた。先ほど全力で後ろに飛び、かつ『ユーヤタス』の柄を犠牲にしなければ、明らかに胴体が両断されていた。それは信じがたい事態だった。バルバトスは唯一の悪魔(ユニークデヴィル)、しかも第七階層の大元帥であり、”九大君主”ら未満のデヴィルでは、武力でバルバトスと同等の者は地獄の軍勢全員を探しても片手に満たない。そのバルバトスを、人間が武力でしのぐとは到底考えられない。
 一体、この男は人間なのか。いや、それは間違いはない。あのカオス・ブレードにしても、本人の技量以上の力などを与えているわけではない。あの身体能力は、超常のものではなく、あくまで定命の範疇のものだ。
 「唯一の悪魔の”本体”であれば、ほぼ定命の範疇の人間に立ち向かうすべはありません。ですが、現れたのが他のユニークデヴィルならばともかく、並行世界によっては一階層を支配している者であれば、多元宇宙内の”本体”が迂闊に他次元界を訪れられるわけがありません。……アストラル投射(プロジェクション)体でもないとすれば、デヴィルが他の次元界に投影できる”アスペクト(側面;様相;分化身)”にすぎない可能性が高いはずです」”銀糸のシルヴァナ”が、老騎士デュラックの背後からバルバトスに声をかけた。「本体よりも大幅に能力の減退した悪魔らのアスペクトは、九大君主のそれですらも、まるで名もない人間の迷宮探検家一行に打倒された例がいくらでもあるのです。まして、九大君主でもない者のアスペクトに対してであれば──多元宇宙のあらゆる人間の中でも最も名のある騎士、サー・ランスロ・デュ・ラが、おくれを取る道理がありません」
 大悪魔バルバトスは目を見張って、数歩の間合いに剣を提げた老騎士を凝視した。
 「……ランス様、この相手が悪魔の”本体”でなく、”アスペクト”だと知っていたのですか。その上で立ち向かわれたのですか」シルヴァナは老騎士に向き直って言った。
 「いや、知らぬ」デュラックは、シルヴァナの問いに振り向かぬまま答えてみせた。「だが、仮に大悪魔のかりそめの何らかであろうが本体であろうが、立ち向かわない、黙って皆で殺される、という選択肢は無いのではないか?」
 老騎士は剣を提げたままで素っ気なく、「──わたしは若い頃から、いかなる相手にも恐れも知らず真正面から戦う者であるかのように呼ばれてきた。しかし、実際のところは、そうするよりも他に選択肢がなかった、というだけのことなのだ。ほとんどの場合は、だが」





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