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「君もこのあたりの様々な世界の神を片端から殺し続けているのなら、もう気付いているだろうが、この多元宇宙(マルチバース)は、よく似た並行世界の数々が集まって成立している」老騎士デュラックが言った。「それが、どのように並んでいるか。よく似た単純な世界の集まりが隣り合い、合流して、その全てが、より複雑で緻密度の高い世界に繋がっている。枝葉が幹に合流するように。その多元宇宙の設計図が、”イェンダーの徴”だ。その図、枝分かれした世界同士が並んで根幹に合流していく様は、一部を見ると
光を放射する剣のようにも──あるいは、ぎざぎざの刃が常に動き続ける鋸のような形状をして見える」
「強大な魔法使や古代神は、”徴”を所有し操り、”徴”から無限に緻密度の高い世界の原理、つまり強大な力を引き出したり、それを辿って多元宇宙内のどんな世界にも移動できます」一旦口を閉ざしたデュラックにかわって、シルヴァナが言った。「わたくし自身の技では、”徴”の存在自体は知っていても、冗長な儀式を経て”徴”の痕跡を辿ったり、すぐ隣の世界に移動するのがせいぜいですが」
「まして、古代神以外が”徴”を手にすれば、やつらに利用されるのみだ」老騎士が言った。「セト、クロム、コスやモーロックといった古代の毒蛇たちだ。やつら古代の神("g"od"s", ≠"The G"od)は、君の殺している意味での神(deities, kami)と共通性はあるが、もっと古く──もっと原初や混沌の根源の世界から来ている者らだ。やつら自身が、
のたうつ毒蛇や竜のような姿をあらわすこともあるが、”徴”を操ったり、”徴”の複製を人間やその他に与えることがある。力の劣った者、わざと分別を持たない者に、”徴”の強大な力を与えて、自滅するまで暴走させ、自分らの抗争の駒として使うのだ。他の古代神の力、その支配下にある並行世界の群れを破壊するためにな」
デュラックは言葉を切り、まだ目だけを自分の太刀に向けている紅葉を見つめた。
「君もその誰か、古代神か魔法使の誰かに操られて、その剣、”徴”で神(kami)を殺し、世界を滅ぼして、対立する古代神の力を削ぐ抗争に利用されているのかもしれぬ。……無論、詳しくは言いたくないというのであれば、言う必要はないが」
シルヴァナは静かに老騎士の方を見つめた。さきほどのデュラックの言葉からは、紅葉が何も言わないか、又は言った内容によって、味方にならなければ、少女を殺すつもりでいるのは明らかだった。
「……話せる範囲でよいのですが」シルヴァナがやがて続けて言った。「どのように、その剣を手に入れたのか。できれば、どの古代神がどのように接触してきたのかも」
またしばらく、焚火のはぜる音以外は沈黙が流れた。ふたたび焚火だけを見つめる紅葉の赤みがかかった目に、その炎がしばらく反射し続けていたが、
「私は──」やがて、呟くように紅葉は言った。「学校の部活の友達に勝つために、天狗様に願掛けして、この剣を貰ったんです」
「学校の試合で、どうしても負けたくなかったから。聞いたことがあったんです。昔から、鞍馬山を訪れて、流派に開眼したとか、秘太刀の技を授かった、天狗道に入った、とかいう話。本当に、本気にしてたわけじゃない。縁起をかつぐくらいの気分で行ったんです。でも、どこか本当に祈っていたのかも。本気で願ってたのかも」紅葉はとぎれとぎれで緩慢ではあったが、続けて口にしていた。「最初は夢の中だと思っていたけれど、天狗が、魔王尊が現れて、天狗道の奥義と、刀を授かりました。新翳流紅葉、三光之利剣の秘太刀の技を授かったあとに、自分の下げていた剣、最初は銀のサーベルみたいで、渡されると、この刀の形に変わったけれど、それをくれたのです」
紅葉は長く沈黙し、さらに思い出そうとしたらしいが、
「最初は、何か凄い力を貰ったんだって、思ってました。これであの友達にも、誰にでも勝てるって。でも、……そこから先はずっと曖昧です。友達との試合どころか……山から学校まで帰れたのかとか、その夢から覚めることができたのか、それさえ思い出せません。それからあとは、色々な姿のものたちが私を斬りに襲ってきて、……身を守るために斬って、しばらくすると何か別の場所、世界に移って、襲われて、ずっとその繰り返しです」
「その剣を授けた者、……天狗、魔王尊、と言ったか」デュラックは山伏装束の少女、紅葉を凝視して言った。
「テングとは東洋東端の、小神や精霊、魔神です」シルヴァナが老騎士に言った。
「ええ。鞍馬山の天魔、クマナです」紅葉が言った。
「クマナ……クラマだと……」老騎士は今までの堂々とした発声とは声色の違う、しわがれた声で言った。「それは一体、如何なる姿で現れたのだ。その東洋の妖魔の姿か」
「よくいう天狗の姿ではなかったと思います」紅葉はしかし、思い出すのに苦心する様子もなく、ほとんど間を置かずに言った。「全身が黒装束、黒いマントでした、鴉(クロウ)みたいに。ただ、アクセサリが銀色で、銀の薔薇の模様がありました」
「そして銀のサーベルだと」老騎士は目を見張った。「そいつの”瞳の色”を覚えているか」
「決して……忘れられません」少女はうつろな瞳で言った。「緑です」
「それはクロム神だ!」デュラックはそれまでの老成した威厳のある物腰が嘘のように、色を失って叫んだ。「君のその剣、『クロムの魔剣』は、やつの銀のサーベル、月の剣の”影”、複製だ。よいか、君はクロム自身から、”スピカード(とげの生えた指輪)”、多元宇宙を記述する”イェンダーの徴”の、複製をじかに渡されたのだ。おそらく、下級の神(kami)を殺し続けて、対立するモーロックやセトたちの支配する世界の勢力をそぐ目的のためだ。君は文字通り、そのクロムの”走狗”として利用されているのだ」
紅葉の身体がふたたび瘧のように震えた。シルヴァナは落ち着かせようとするように、銀糸のケープを少女の肩にかけ、手を触れた。緊張を漲らせているデュラックとは対照的だった。「紅葉、というのは、剣の名前、と言いましたか」
「”新翳流紅葉”は、この刀ではなく、太刀名義、使い方、技術の名です。天狗様にこの刀と一緒に貰った秘太刀の名です」少女が弱々しく言った。「他に思い出せないから……それを名前として名乗っているだけです。自分の、もとの世界にいた頃の名前は……もう思い出せないので」
シルヴァナは思わず紅葉を見返した。
「どんどん忘れていきます。もとの世界のことは。あれだけ勝ちたかったはずの友達の名前も、家族や周りの人達の名前も、学校も街の名前も、何も思い出せません。覚えているのは、鞍馬山とか、元は友達に勝つためだったとか、”この剣に何か関係があったこと”だけです。……もう自分の中に何もないのに、生き残るだけのために、神を殺しては世界を移っています。立ち止まっていても、次々と神々が襲ってきます。反撃して殺さないと──私が殺されます。でも、……自分が何なのか、何もかも忘れたのに、何のために生きているのかも、よくわかりません」
「その髪や目の色も、そうではないのか。東洋出身の者は、髪や肌の色素は我々よりも濃いはずだ。次第に薄れていったのではないか」デュラックが、少女の灰色の髪と薄い茶の目を指さして言った。「よく似た姿になった、これも東洋の者を知っている。『彩』という、もと骨董品屋の娘だ。殺し続けて無限に生きていくうちに、人間性をなくすにつれ、内面の虚無と共に、色が薄くなってゆくのだ」
焚火を前に、しばらく沈黙が流れた。
「その剣を、手放そうとはしてみましたか?」シルヴァナが尋ねた。
「どうしても、その勇気が出ませんでした」紅葉は大太刀を身体から一度離して見つめ、「でも、手放しても、名前や記憶は戻らないかもしれない。元の世界にも戻れないかもしれない。手放したとしても、神々はまだ襲ってくるかもしれない。もし、その神に殺されても──自分が救われるのかどうか、私にはわかりません」
少女は再び震え、
「剣を手放して、そして殺されてしまえば、私は救われるんでしょうか……」
シルヴァナが眉を憂いにひそめて、紅葉を見つめた。
「……それは我々にも、はっきりとはわからぬ」老騎士が言った。「だが、幾つか確実に言えることならある。君にも嘘を言ってもためにならないであろうから、それらは教えておく。クロム神が、自分の捨て駒に救いを用意しておくなど、決してありえぬ。かれらは『信心』というものが存在する以前の無慈悲な古代神、いや、地獄の毒蛇そのものだ。確実なことではないが──君の方の意思にかかわらず、剣を捨てようが死を選ぼうが、あるいは、今のまま生きる目的を探そうとしても、何の救いの道も用意されていない、という可能性がほとんどであると言わざるを得ぬな」
紅葉は無言で大太刀を抱えたまま、焚火を見つめ続けた。
「どうすればいいんでしょう……」
「剣を手放し、記憶を取り戻し、かつ元いた世界を探し出して、戻るには」シルヴァナが言った。「難問ではありますが、”徴”をよく理解した魔術師であれば、解決できるか、少なくとも何か手がかりを知っているかもしれません。”イェンダーの徴”は、多元宇宙のすべての情報と、すべての並行世界に繋がっているのです。わたくしの魔術では及びませんが」
「あるいはクロム自身に解かせるかだ」デュラックが低く言った。
沈黙が流れた。
「君の選ぶ道筋がひとつある。我らに協力することだ」デュラックが再び口を開いた。「我らは古代神ら、特にクロム神を止めて、かれらの忌まわしい抗争を止める手段を求め、”徴”にしたがって並ぶ平行世界を巡っている。当面の目的は、クロムやセトの使い走り、毒蛇の落とし仔マーリンを殺すことだが。そのマーリンの操る『うつろなる騎士』とも戦わなくてはならないだろう。我々に同行すれば、”徴”をよく知るマーリンなり、クロム自身にはいずれ辿り着く」
紅葉は無言だった。
「急に同行しろといっても躊躇するかもしれぬ。あるいは、にわかには信用できないとしても尤もではあるな」デュラックが低く言った。「このさい、これも言っておくことだが、わたしがもっと若く正義感に溢れていた頃の騎士であれば、即座に君を殺していたかもしれない。君は神を殺すことで、神を失った世界と、そこに住む人々ももろともに全て、大量に殺戮しているからだ。……今はその正義感までは向ける気にはならないのは、”徴”に並んで無数に存在する世界のうち、幾つかが滅びているに過ぎない、文字通り”枝葉”の世界やその神(kami)など、とるにたらない、そんな割り切り方ができるようになっているからだろう。世界を破壊する、神を殺す、などというと大それて聞こえるが、枝葉の最も端の世界、”影の薄い”世界の神などは所詮、この多元宇宙内では譫妄者の夢程度の価値しかない。無論、だからといってそこに住む生命と心を持つ人々すべてに対して、多元宇宙にそんな状況を作り出しているクロムら古代神どもを、決して許すわけにはゆかぬがな」
デュラックは言葉を切り、
「つまり、我らのこの申し出は、君を味方につけた方がよい、という打算によるものだ。神を殺せる君の剣は、こちらにも何かと力になるだろう。そして君の剣、精密な”徴”の刻まれたクロム自身の剣の複製は、”徴”の解明にも、世界を移動する際にも、これまで我らの頼ってきた呪文よりも、大きく力になる。君を同行させることで、それら利益がある限りは、我らの方が君を見捨てる理由はない」
シルヴァナはデュラックを見つめた。味方になればよいが、もし紅葉が断れば、つまり味方にならないと決心すれば、デュラックはさきの紅葉に出会う前の言葉によれば、やはり紅葉を殺すつもりでいる。……だが、そうはならないだろう。少女も老騎士も共に。クロム神に近づく、という両者の共通の目的において、双方に利益があるからだ。
紅葉は大太刀を抱えたまま、それでも焚火を見つめ続けていた。枝分かれする火の形の中に来るべき途が示されているとでもいうように。しかし、本人もわかっているように、炎も”徴”も行方も無限に変遷するのみで、そこに答えなどはない。それでも踏み出すしかないことに心を決めるまで、束の間なりとも要しても仕方はあるまい。