イェンダーの徴: かみ殺しのチェーンソー
3
次の世界に移動する前に、貴婦人”銀糸のシルヴァナ”は鞘から抜いて差し出された紅葉の剣を調べた。クロム神の月の剣の”影”であるその大太刀には、際限ない複雑度の”徴”が刻まれていた。一見すると刀身そのものの刃文の中に埋まっているように見えるが、調べているとまるで常に波打つ紋様が無限に複雑になっていき、吸い込まれるようだった。魔術の心得があり魔力を視認できるシルヴァナには、その照り返しだけでも強すぎるらしく、しばしば目を閉じて休めていた。
「これが本当にクロム神自身の剣の複製だとすれば、おおよそ多元宇宙のどんな敵も傷つけることができると考えられます。うまくすれば、クロムに敵対する他の古代神自身を傷つけることすら、期待されているのかもしれません」シルヴァナは刃文を指でなぞりながら、紅葉に言ったが、「……けれど、この”徴”の緻密度は、わたくしにも、とても制御できるものではありません。深入りすれば、魔力に飲み込まれて正気を失うか、彼方の世界の深淵に引き込まれる危険さえあります……」
たとえ緻密度の高い”徴”を所有していようとも、相応の能力──それは出身となる世界の”影の濃さ”、緻密度に直結している──が無ければ、制御できる緻密度にはおのずと限界がある。例えば、全く魔術の心得のない紅葉では、”徴”に一方的に操られて、神を殺しては同列の似た世界に次々と移動させられるよりほかにないのだ。だが、このシルヴァナのある程度の魔術の心得があれば、その精緻な”徴”の断片に触れるだけでも、大きな手掛かりを得ることができた。これまで老騎士と貴婦人の二人連れの頼ってきた手探りの、すぐ隣の世界に通じるポータルに比べると、より緻密な世界へと一気に移動を可能にするものだった。
緻密度の高い世界へ、すなわち、これまで紅葉のいた世界から、同じ枝や隣の枝の世界、規模も形状も似ている世界から、一気に『枝の根本』へと遡るのだ。
「ランス様の方は、すでにご存じではあると思いますが」シルヴァナは移動の術の前に、老騎士デュラックと、紅葉に対して、その世界に遡る危険の可能性について言及した。「枝の根本、緻密度の高い世界へと一気に飛ぶことは、自分の能力の規模はそのまま、周りの規模が何もかも増大するようなものです」
しかし、クロム神を追うデュラックと、さらに紅葉も、移動には同意した。
「──ランス様は恐れというものを知らず、相応の力も備えていますが」シルヴァナは儀式の合間に、紅葉にささやいた。「ですが、貴女は気を付けて下さい。たとえ──貴女の剣の”徴”と、神殺しの力があろうとも。”徴”が際限ない緻密度、魔力を引き出せるということは、同時に”徴”を経てたどり着ける世界の規模も際限ないということです」
……今までのシルヴァナの術よりもはるかに短時間で完成したその次元門を、二人連れと紅葉が通り抜けると、到達した場所は、さきほどの廃寺のあった東洋の世界によく似ていた。というよりも、おおまかな部分はそっくり同じで、ただ異様なほどの『重さ』が周囲の環境から感じられた。肌寒さ、それでいて湿気のじっとりとした重さ、大気の感触が厚みを帯びて感じられる。日光、針葉樹の緑の陰影、すべての光景が目に突き刺さるように重くかつ鋭い。
老騎士は前の世界で廃寺のあったところを振り返った。こちらの世界では、建物の姿は基礎部分のわずかな痕跡しか見当たらなかった。
「かなり時間もずれているのか、つまり、滅びた後なのかだな」デュラックは言った。
シルヴァナがその廃墟に歩み寄った。寺院よりは、神殿に近いようにも見えるその構造を目にして、推測を口にした。「あるいは、信仰自体がまるで別のものなのか──」
「シィルよ、今の時点で、この世界に何か感じられる性質はあるか」老騎士が他の光景を軽く見回して言った。
「強い魔法は感じません」シルヴァナが見回し、軽く何かを呟いてから言った。感覚を増大させる軽いまじないの類らしかった。二人連れのうち、少なくともこの婦人の方は、魔術のたぐいの『実存性』が非常に高い世界からやってきているようであった。さもなくば、たいていの術や技や科学のたぐいは、より緻密度の高い世界や別の法則の支配する世界に持っていくと、容易に誤作動を起こしたり、作動しなくなる、という。
「おそらくですが、魔法はより弱まり、剣は強くなっているのではないかと感じます」
「”剣の徴”を辿って移動すれば、そういった質の世界にも着こうな」デュラックは言ってから、紅葉を振り返り、「おそらく、もう少し時間をかけて、ここが何処なのか、どういった性質の場所なのかを調べることになる。どれだけ目標、マーリンや、クロム神自身に近づいているのか。これまでは、それを繰り返して移動してきたのだ。その経過で剣をふるう面倒に巻き込まれることもあったが、他に着実に進む方法はないのでな」
「今回は、この世界に危険がないかも念入りに調べる必要がありますが──」シルヴァナが補足した。
人里はなれたほとんど秘境のような場所であったが、一行は人を探し、下山することにした。非常に険しい山道だった。一行、三者は足元に気を付けつつ──なにしろ、緻密度の高い世界は、自然の脅威の全てが危険になっているのだ──切り立った断崖のような峠の道をおりていった。決して煽られるほどの強い風ではないが、静かに谷底に響いていく風唸りが、渓谷全体に不気味な緊張感をもたらしていた。
紅葉はしばらく立ち止まって、その谷底を見下ろした。そのまま、老騎士と貴婦人の背中に目を戻し、あとを追って歩みを再開しようとした。が、──
不意に、山伏の高下駄を道に放るように脱ぎ捨て、大太刀に反りをうたせた。
低く響く風唸りがあたかも滑りの悪い木戸を開けるようにして、長身の、いや装束を含めた全体の影は巨大といえる姿が、峠の山道の上に、まさに風の間からすべり出すように姿を顕し始めていた。痩せた全身が白装束、白塗りで、腕が五本あり、いずれの手にもぎらつく直剣をすでに構えていた。装束の足元は見えないが、少なくとも裾の先は宙に浮いている。それがいかにも『戦神』であるとわかったのは、五本の剣を構えているという他にも、白装束の上にぎらつく鋼の装身具の数々と、それらの全体的な刺々しさ、さらには、その容貌の線の細さ、繊細さの中に、流血への渇望、むしろその予感への喜びのようなものが明らかに読み取れたことだ。
紅葉は大太刀を鞘走らせた。戦神の直剣に抜き合わせるように構えられた紅葉の剣は、さきにシルヴァナも見た、これまでの緻密度の世界におけるものよりも激しい、むしろ刺々しい光をその刃文から発していた。刀身への自然光の照り返しが、どういうわけか複雑な反射を伴い、表面が波打ち無数の棘が刀身の上でのたうっているように見える。
紅葉が今までも”神”を殺してきた時もそうだったのだろう、禍々しく異様な装いの相手、戦神の姿にも、何も動じも物怖じもせずに踏み出した。
「いかん──」が、それらの光景を振り向いたデュラックは思わずそう呟いていた。
紅葉が踏み込むのと同時に、ばさりと鳥の群れが羽ばたいたような音がした。戦神の五本の直剣の動きのうち、紅葉が目視できたのは、動きの終わり付近の軌跡、わずかにぎらつく光芒として見えた部分のみだった。
紅葉は信じられないように自分の剣、いやそれが存在していたあたりを見下ろした。両肘の少し上、そこから先が無くなっていた。切り落とされた両腕は、大太刀を握ったまま、峠の道に落ちて転がり、そのまま崖下に落ちていった。その落下音も、渓谷を静かに吹き抜ける風の音にかき消された。
紅葉は見下ろした姿勢と目を見張った表情のそのまま、棒が転がるように前に倒れ伏した。
「わが神域に、他の写し世より、やけに鋭い『刀』が入り込んだと思えば」戦神は性別も定かならぬ高い声で、白塗りの面に目立つ真紅の唇と隈取の目を歪めて言った。「仮に神を脅かし得る者なら、先んじて取り除けておこうと思ったが、まるで他愛もないわ。神を傷つけられる『刀』はともかく、使い手がこれほどまでに脆弱だったとは」
おそらく、これまで紅葉がさまよって来た他の世界と同様、紅葉の剣にこの世界の『神』が引き寄せられてきただけに違いない。しかし、シルヴァナの呪文によって踏み込んだこの世界は、それまでとは比較にならないほどに”影の濃い”世界だった。紅葉の持つ剣はともかく、剣技では到底その世界の神の力には及ばなかった。別の言い方をすれば、クロム神も紅葉がこのような”影の濃い”世界、緻密度の高い”徴”の根本に遡った世界にまで踏み込むことは想定しておらず、紅葉の本人に対してそこまでの力は与えていなかったのだ。
血だまりが、倒れた紅葉の身体の下、峠の道に広がり、その生命は明らかに急速に抜け落ちていった。シルヴァナはその姿を凝視した。クロム神の剣を失った紅葉だが、特に別の世界──例えば、最初に生まれた世界──に去るようなことはなく、どう見ても単に、死んでいくだけに見えた。
倒れた紅葉と戦神の間を遮り、すでに腰の長大なカオス・ブレードを抜き放ったデュラックが進み出た。
「人間か」戦神が赤い唇を再び歪め、「神殺しの力も何も持たない人間が、身のほどを知らぬことを。あの剣がなければ怖いものなどないわ。さっさと逃げていれば生き残れていたかも知れぬものを。武の神にとって他のあらゆるモノを気まぐれに殺すことも造作も──」
戦神の長広舌が終わるのも待たず、カオス・ブレードを担ぐように構えた老騎士の鉄靴が一気に間合いまで踏み込んでいた。ふたたび例の、鳥の群れが羽ばたくような、戦神の直剣が一斉に襲い掛かる音がした。
デュラックのカオス・ブレードは渓谷の風音すら聞こえなくなるほどの猛然とした刃唸りを立てて大上段を薙ぎ払った。耳障りな、肉塊が引きちぎれる音がそこに重なり、直剣を持った戦神の二本の腕が叩き潰されねじ切られて一直線に宙を飛んだ。
カオス・ブレードは戦神の左肩口(のうち、最も左にある腕の付け根という意味だが)に深々と食い込んでいた。そのまま肉と腱を食い込み押し切り続け、その肩、三本目の腕を骨ごと断ち切った。
その老騎士の背中に、すでに鎌首のようにもう一本の剣が襲いかかっていた。直剣が首筋近くの鎧に当たり硬い音を立て、神の力であればそんな古びた甲冑を貫くことは造作もないように見えたが、地生にかけて跳ね上がったカオス・ブレードは難なくその腕も根本から斬り飛ばしていた。
戦神は宙に浮き上がって、最後に一本だけ残った腕から直剣をその場に放り捨て、逃れようとした、のかもしれなかったが、デュラックの剣は戦神の装束ごと、その下にある両足首をはねた。峠の山道に落下した戦神の、残った腕と脚を、デュラックは寸分も逡巡せず、軽々とすべて切り離した。おびただしい霊液(イコール)が山道に飛び散った。戦神が喉を仰向け、赤い唇と目をひき剥かんばかりに開いて絶叫した。
「身のほどを知らぬことを」シルヴァナが歩み寄って、戦神を見下ろして言った。「一体、ムッシュ・サー・ランスロ・デュ・ラに、なぜ剣技で勝てるなどと思ったのです。人であろうが神であろうが、”キャメロット最後の守護者”に武力でまさった者など、この多元宇宙にはひとりとして存在しないのですよ」
「……それはもう、随分と昔の話だ」老騎士はシルヴァナを振り返らないまま、剣を戦神の身体に突き立てて言った。「混沌や原初の王族らには誰ひとりとして及ばず、ひいてはマーリンの『うつろなる騎士』にすらも、既におくれを取っている」
デュラックはカオス・ブレードを繰り返し突き刺し、何度目かで戦神の身体を貫通して山道の踏み固められた土に神を串刺しにした。戦神は激しい悲鳴を繰り返し上げ続け、霊液をまき散らしたが、どうにも生命が抜け出る様子はなかった。
「わたしのこの剣では、魔力結界のたぐいの中和はできても、神にとどめをさすことはできぬ。このようなとるにたらぬ神であってもな」
「封印しますか」シルヴァナが冷たく言った。「それとも、<アストラル中継界>か、<忘却界>に廃棄しますか」
「やめろ──どちらも止めてくれ──お願いだ」戦神がすすり泣いた。
「いや……」言ってから、デュラックは剣を引き抜き、うしろを振り向いた。騎士としての経験から、背後に生じた気配に気付いていた。
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