イェンダーの徴: デルファイの隅の人馬像







 5

 三者は洞窟の庵の老人馬に別れを告げ、荒くれ者のケンタウロスその他の《祭界山》の狂暴な生き物のいない場所を見計らった。
 オラクルはアルテウスから『アリアドネの糸』の宝石を受け取ると、両手の指で捧げるように手に取り念をこらすように目をとじた。
 「いや、その──オラクルがやるのか」リゼが小声で、傍らのアルテウスに言った。「並行世界を探すために”徴”を辿るのも、”徴”の力で世界を移動するのも──」
 「オラクルは預言の巫女で、少なからぬ霊力、呪文能力の持ち主だ」アルテウスはオラクルの方を見守ったまま、淡々とリゼに答えた。「対して、わたしは戦士にすぎぬ。リゼの方は、先ほど『自分には並大抵にできることじゃない』と言っていたではないか」
 この宝石でケンタウロスだけの並行世界に移動するなどという案を出したのもオラクルで、能力的にも、この場の三者の中で最も適しているということはリゼは承知している。しかし、適性を別にしても、あの宝石はアルテウスの所有物であり、彼が操るのが自然と何となく思っていた。そして、今までの次元界(プレイン)を渡る旅でアルテウスが頼りになったことは何度もあるが、あのオラクルに命運を預けるのは不安が尽きない──
 「むうん、オベロンの娘フローラから聞いた話によると、”徴”を念でたどりながら、同時に次第に行先を想像し、望んでゆくのじゃ」目を閉じたまま、もったいぶった口調で、しかし魔術の儀式の神秘的な空気は何も感じさせない緊張感を欠いた声で、オラクルが言った。「どのように並行世界の可能性が分岐、収束してゆくか。そうやって人間のかわりに人馬ばかりが地上じゅうに住んでいた、という可能性の世界まで探して、たどってゆくのじゃな……」
 オラクルは突っ立って宝石を持って目を閉じたまま(宝石の中の”徴”を霊的に探っているのかそうでないのか、見たところわからなかった)、
 「可能性……うーんと、人間のかわりに半分が馬……」
 「『半分が馬』だと、人間の頭と蹄だけが馬になってる馬型のガーディナル(半動物型使徒)みたいなやつがいる所にたどりつくぞ」リゼが思わず口を挟んだ。
 「ん!?」オラクルははっと気付いたようだったが、目を閉じたまま、「いやわかっておる。最初からわかっておるわ」
 「あと『馬』だけだと、でかい二本足の鳥、”運命の大迷宮”に住んでるエミュー(大うずら)みたいなのを、『ウマ』って呼んでる並行世界(ワールド)もたまにあるぞ」
 「むむむ、わかっとるわい。リゼは黙っておれ」オラクルは目を閉じたまま、「脚が馬……人間を基本にして、歩く脚が増えている可能性の世界……余分に……脚が余分に脚が余分に」
 光景が細かくねじ曲がりはじめた。オラクルは言葉通りに、いきなりケンタウロスのいる世界を想像し移動しているのではなく、現在のさまざまな生物のいる《祭界山》から次第に、人型生物が少しずつ別の姿をとっていた可能性を探り、宝石の中の”イェンダーの徴”に念じて接触し辿っている。世界の配列図であるその”徴”への霊的な接触と同調して、周りの光景が移り変わり、もとい、その別の並行世界へと次第に移動していく。その移動を少しずつ続けて、目的とする世界に到達するのである。
 《祭界山》の山野であった風景が激しく湾曲し、迷路のような曲線と螺旋で出来た入り組んだパターンが明滅し、それがほどけて、元に戻った時にわずかに別の光景に変わっている。それが細部にわたって少しずつ繰り返されてゆく。それは他の機会でリゼがアルテウスと旅するときに目にする、『アリアドネの糸』を普通に発動する際に見える光景と同じものだったが、それがさらに数多く、別の光景となるまで繰り返されてゆく。別の可能性世界に移動するために小さな変化が繰り返されてゆくという点では、魔法使マールが世界の”影”をたどって別の可能性の並行世界に単に歩行して移動してゆく、そのときの光景にも似ていた。そのときの移動と原理は同じなのだが、宝石の中の”徴”をたどることで、より急速に起こっているのだ。
 明滅し湾曲する視界の中から、霧の奥を垣間見ることができるように、しばしば自然の地形の姿が現れた。あらゆる風水山野が険しく入り乱れる《祭界山》の姿が消え、まるで別の場所に見える風景、ほとんど水のない岩に覆われた風景が現れる。次に風景が目視できたときは、山が全くない岩の突起だけからできた風景の世界が現れた。ついで、一面の丈の高い草に覆われた、起伏のない平地の世界が垣間見え、すぐに湾曲と明滅に飲み込まれた。
 ──やがて、光景が安定した。オラクルはまだ突っ立ったまま宝石に念じ続けているが、光景の変化はもう起こっていない。
 リゼはあたりを見回した。一見すると、元の《祭界山》と、雰囲気そのものはそっくりな土地に見える。わずかに丈の短い植物に覆われた、ほとんどが土が露出した平地だけが、一面の青空の下に広がっているように見える。地形は大きく違うが、自然の風景の色彩や細部が(大抵の《主物質界》と比べると)異常に明瞭で鮮やかなあたりはそっくりだ。
 「どこかに着いたみたいだぞ」リゼは、目を固く閉じたままのオラクルの肩を掴んで言った。
 「まだ移動するように念じておるぞ」オラクルがつむった目のしかめ面のままで答えた。
 「たぶん、念じてももう移動しなくなってるんだ。並行世界の要素が、色々な可能性に少しずつ移り変わっていくけど、”希望している要素”に一致するとそれ以上は動かないんだろう。あるいは、少しずつ微調整はされてもほとんど移動しないように見えるか」リゼは辺りを見回し、「が、ほんとにこの場所で正しいのか──」
 リゼはさらに遠くに目を移し、平地の向こうに目をこらした。月(ムーン)エルフの卓越した視力が、そのかなたに土埃が移動しているのを見出した。
 「──どうやら”あたり”らしいぞ」
 リゼの視力は、埃の中まで見通していた。中にいたのは、速足で軽々と移動する隊商だった。護衛の兵士、車の上のきらびやかな商人たち、その車や荷物を運ぶ質素な人足たち、その全員が、一見すると騎馬に見えはしたが、よく見ると、人間の上半身が──そこから下は土煙が激しすぎて見えにくいのだが──馬の胴体の首の部分に直接生えているように見えた。
 「そして、あの連中についていけば、当然、あの隊商の積荷を必要としているような場所に着く」リゼは目をこらして言った。「つまり、ケンタウロスたちのそれなりの文明の都市に」



 このケンタウロスらの並行世界は──人馬世界は──確かに雰囲気は《祭界山(オリュンポス)》に似ていたが、土地の様相を比べると、こちらは明らかに平地ばかりだった。岩山のような地形もなく、足元が岩場になっているような平地もない。石そのものがまばらにしか見当たらない。ほとんどが土がむきだしだが、植物は丈の短いものしか生えていない。少なくとも見渡す限りは、森林のようなものもない。足元は泥土で、砂や砂利のようなものもほとんどなく、水はけもかなり悪そうだと思えた。雨も滅多に振らないのだろうか。もっとも、振ったところで流されるようなものも見当たらない平地ばかりだ。
 つまるところ、ケンタウロスが走り回るのに適した自然の光景になっている。何もかもが、このような種族が栄えるに適した世界に、そうなるように可能性が選択された世界なのだ。このような土地だからこそ、四足の者どもが栄えた平行世界となったともいえるし、あるいは、四足の者どもが栄える世界を探せば、自然とかれらにとって都合のよい並行世界が見つかる、ともいえる。
 この多元宇宙には、無限の可能性に分岐した並行世界が存在する。ありとあらゆる望む世界が多元宇宙のどこかには存在するが、ほとんどの定命の者には、それを見つける手段も、まして辿り着く手段もない。しかし、畏怖と共に語られる”イェンダーの魔法使”が見出した秘儀──並行世界の可能性の分岐と収束、その無限の階層状態の配列図である”イェンダーの徴”を辿れば、それを見つけることができ、移動することができるのだった。それは”徴”を辿るだけの能力がある者に限られるのだが──正直、リゼはこの幼いオラクルにそれに充分な能力があるとは予想していなかった。
 ともあれ、一行はその隊商のあとを追おうとしたが、すぐに引き離された。こちらは徒歩、あの隊商は全員が騎馬と同等の速度なので当たり前といえば当たり前だが、それにしても速い。《祭界山》で出会ったケンタウロスたちは、《主物質界》で遭遇する同族に比べてかなり能力の高い(おそらくリゼがぶちこまれそうになった馬並のやつを含めて)者らだが、今かれらが追おうとしている隊商は、それに比べてもリゼの目算で2割から3割増しの速度はある。
 「2割5分増しだ」アルテウスが腕と指を、遠くの腕と群れにかざしながら言った。距離と移動距離と速度を目算したようだった。おそらく彼自身の歩兵戦の経験から造作もないことなのだろう。
 「あいつら自身の能力も、『ケンタウロスの世界』の本場物だから速いのか? 厄介だな」体躯が発達してでもいるのかとリゼは群れに目をこらしたが、月(ムーン)エルフの視力でもよくわからなかった。隊商の全員が、脚が高速で動いており、土煙のためもあって足回りがよく見えないのだ。
 ともあれ、追いつけなくとも、人里(人馬里)にたどり着くには、その後を追ってゆくしかない。
 三人は隊商の土煙がもう見えなくなった遥かに後を、追って歩き出した。隊商の足跡は、まるで砂漠のようにほとんど残らないが、遮るものもない平地をまっすぐ進んでいるので追ってゆくのは難しくない。しかし、延々と続くのはとにかく平地で、歩くのに障害になるようなものは何もないが、それ以外にも本当に何もなかった。
 そのまま四半刻ほどが過ぎた。
 一行は行く手の傍らに川が流れている箇所にさしかかった。広いがえらく浅く、水量も少なく流れも遅い。河床にはやはり砂利もない。つまり、人馬が歩いて越えるのにまったく障害にならないようにできた水源だった。
 一行はそこで一度、オラクルの呪文で水を清め(ピュリファイし)てから(異なる平行世界である以上、成分にも何があるかわからない)、水袋に水を満たし、喉を潤した。オラクルの呪文は聖職者呪文だが、ここがオラクルの仕えるアポロンやテミスらの一切信仰されていない並行世界であっても、発動に支障はない。アポロンらのように全多元宇宙(マルチバース)で権能を有している神性に対しては、どのような並行世界でも接触でき、またそもそも既に準備されている呪文の発動には支障はない。もっとも、あくまで一般的な”呪文の発動できる”並行世界での話ではある。
 「──ひょっとしてあの隊商、馬の脚で何日もかかる旅をしている最中ではあるまいのう」
 オラクルが座り込んだままうんざりと言った。足を止めて呪文まで使ったことで、逆にどっと疲れがでたような様子だった。
 「”徴”を使って、同じ世界の”都市の近く”の位置を念じて移動してみたらどうだろう」リゼが言った。
 「そんな器用なことはできん……知らない世界じゃぞ……この世界に着いて、移動が止まっているのに念じ続けていたくらいなんじゃぞ……右も左もわからん……」
 リゼはオラクルのとなりで首を俯け、何となく平地を、かすかに残った隊商の足跡を見つめた。
 「……迂回してるな」リゼは呟いた。「川に道が遮られてるってわけでもないのに……」
 リゼはさらに辺りを見回したが、見渡す限り平地が広がっているばかりで、迂回の理由になるような地形やら施設やらはさっぱり見つからなかった。いったい都市なり、像が調達できるような場所に辿り着くのだろうか。





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