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「うむ、その通りじゃ!」オラクルはキトンをまとった小さな胸を精一杯突き出すように胸を張った。
「アポロン神殿の芸堂の者どもから聞いておりまするぞ。《主物質界》のデルファイの神託所は、ケイロンとアスクレピオスの徒弟の者とは懇意だと。芸堂で作られた彫像を納める先とも聞いておりますな」
「いかにもその通りじゃ。神殿から納められた彫像は、神託所の四隅に恭しく設置してあるのじゃ」オラクルはさらに胸を張った。
リゼは内心ぎくりとした。
「アポロン神殿のケンタウロスらからは日々実に世話になっておるのじゃ」オラクルはつづけた。「ご老体も、これほど尽くして貰いよもやとも思い起こしたが、あの徒弟らとも懇意であったか。実にかたじけないのう」
「いや礼は要りませぬ。アポロンの巫女どのの手助けになるならばなによりですじゃ」
老人馬は一礼し、そこで思い出したように、替えの包帯や飲食物を取りに洞窟の奥に歩み去った。
「……あのご老体、まことに殊勝な心がけじゃのう」オラクルは嘆息してから、「それにしても、デルファイとわしの叡智と名声、その有難みは《祭界山》に、いや、おそらくは多元宇宙広しと知れ渡っていると見えるのぅ」
横目でアルテウスとリゼに、どうだ見たか、とでも言うようなそのオラクルの視線は、特に傷だらけのリゼに向けられたのは、自分のおかげであの老人馬の手当を受けられた、とでも言いたげである。しかし、老人馬がもてなしてくれたのはオラクルの素性に気付くよりも前だったではないか。──が、そんなことよりもさらに、リゼには気になる点があった。
「いや、素性をバラしていいのか。しかも、このへんを彫像、多分にケンタウロス像を探して歩いてるってのが知れ渡るんじゃないのか。てか今ので、アスクレピオスの徒弟だとか──アポロン本人の耳にまで届くんじゃないのか」
「なぬ。……あ」
オラクルは口ごもったが、数呼吸おいて、年齢にそぐわぬ仕草で肩をすくめて、両掌を上に向けてみせ、
「いや、まさか。今のたったの二言三言でありえんのじゃ。それに、あのご老体がそんな噂話好きだとも見えんではないか」
「確かに今の程度では、我らが『彫刻を壊して調達に走っている』とまでは知れまい」アルテウスが口を開いた。「たとえ今の話だけが知れ渡ろうとも。だが、我らがこれ以上探りまわれば、あるいは、仮にじかに探しているところに出くわせば、アポロンやテミス自身らはともかく、薬師の徒弟らの耳に入り、あるいは目的まで気付かれぬとも限らぬ。以後は、《祭界山》を探せば探すほどその危険は大きくなる」
「そ、そんな」オラクルは小さな両掌を両頬に、頬の柔らかい曲線がへこむほどに押し付け、「どうすればよいのじゃ!」
「どのみちこの郷を探し続けても見つからぬ。これ以上、ここを探すのは限界でもある」アルテウスは包帯だらけのリゼを見て言った。「やはり、《対峙の中枢(コンコルダント・オポジション)》の次元界に赴くしかないかもしれぬ。それでも見つけるのが間に合うか、資金が足りるかはわからぬ」
三者は沈黙した。どうにも希望的な見通しが立たない。
「最後の手段だが……マールに相談するか」やがて、リゼが口を開いた。
「リゼが仕える師匠の大魔法使か?」俯いていたオラクルがリゼの方を見て言った。
「仕えてるんでも師匠でもないよ。ただ、腐れ縁とか、借りが溜まってるんだ。……あいつに頼めば、像自体か、アポロン神殿や薬師との政治のことか、どっちかはわからないけど、だいたい解決する手段がある。ただし、今もあいつへの借りを返すために働いてるのに、頼むと余計に借りが増える気がするんでやりたくない」
「魔法で像とか出せたりするのかの」オラクルが小首をかしげた。
「似たようなもんだ。別世界から引き寄せるんだ。マールなら、適当な別の並行世界(ワールド)に、”イェンダーの徴”の一種、”紋様(パターン)”とか”窮理(ログリ)”とかを伸ばして、コルクの栓抜きでも聖剣でも何でも取り出したり、星を破壊したりする。別の確率、それが存在する並行世界に”徴”を伸ばすんだな」
「それもよいが、魔法使マールを通じて《祭界山》の支配者らに知られぬとも限らぬ」アルテウスが言った。「魔法使は強大で我々よりは融通が利きはするであろうが、魔法使自身にも、情報を交換したり、情報を伏せる必要のある相手というものがいるのだ。……我らの落度を、魔法使に進んで知らしめる手はない。やはり、《対峙の中枢》ほかの次元界で見つからない場合の、最後の手段と考えるに如くは無い」
リゼとオラクルは、腕を組んで再度考え込んだ。
「……のう、その別の並行世界(ワールド)から持ってくるというのは、わしらにはできんのかの」やがて、オラクルが口を開き、リゼに言った。
「いやそんな術は私には使えないし、たぶんオラクルやアルテウスにも──」
「アルテウスの『アリアドネの糸』があるではないか」オラクルがリゼに言った。「それは、”イェンダーの徴”が封じ込まれて、次元界間を移動できる秘宝ではないのか」
アルテウスは紐で首にかけていたアリアドネの糸という名の”宝石”を取り出して、リゼとオラクルの前に示してみせた。不規則な平面を持つ透明の宝石の中には、もつれた糸のように見える”徴”の輝くパターンが封じられている。”イェンダーの徴”は、
次元界同士、ひいてはある並行世界が細部(すなわち可能性)の異なる別の並行世界へと際限なく分岐、分離してゆく、世界同士の無限の階層構造を記述した原理の魔法図である。
「いや、だが、その宝石は《祭界山》と、大迷宮のデルファイを行き来するだけの、移動場所が決まってるだけの品物なんじゃないのか」
「おそらく、それは戦士であるアルテウスにも、その機能だけはすぐに使えるように調節してある仕組みにすぎんのじゃ」オラクルが言った。「”徴”が刻まれた次元界移動の魔遺物は、その”徴”を辿って発動すれば、どのような並行世界(ワールド)にも移動ができる、と聞いたことがあるぞ」
「随分おおざっぱだな。魔術ってのは繊細なんだぞ」リゼがオラクルに懐疑的な目を向けた。「聞いたことがあるって、誰だ、そんなことを言っていたのは」
「オベロンの娘フローラじゃ」オラクルがあっさりと答えた。「”華の女神”こと、《祭界山》の女君主のひとりじゃ」
「ふむ」が、その名前を聞くと、なぜかアルテウスは得心したようだった。
リゼには、アルテウスがなぜ納得したのかは疑問が残ったが、「……けど、その制御はできるのか。マールならともかく、私達には、ケンタウロス像なんて変なものが転がってる世界を見つけるだけじゃなく、この世界から手を伸ばして、それを持ってくるなんて並大抵にできることじゃないぞ」
”イェンダーの徴”は理論上は辿ればどのような並行世界、どのような可能性にも手を伸ばすことができ、小規模、大規模まで無限に連なっている。徴の辿り方次第では、まったくかけ離れた並行世界に移動することもでき、実のところ、”運命の大迷宮”の途中の階層から唐突に、探索(クエスト)の際に、”故郷”なるまったくの別世界、屋外の光景に突如としてポータルが開くのは、その働きによるものだ。
魔法使マールや、原初や混沌の王族らならば、遥かに複雑度や規模の大きい並行世界から魔力を引き出すこともできる。しかし、”徴”からどのような細部、どのような規模まで引き出せるか、もとい目的とするものを探し出す能力があるかは、”徴”に手を伸ばす本人次第でしかない。
仮に、最も精緻に”徴”の呪文が刻まれた秘宝、『イェンダーの魔除け』を手にしたとしても、定命の者は、自身ではほとんどその力を引き出すことはできず、いずれかの神性に魔除けを貢物として捧げて、見返りを得る以外には何もできない、といわれている。リゼには、《祭界山》生まれのオラクルやアルテウスが厳密な意味で”定命の者”なのかは知らないが、少なくとも能力の規模では、迷宮探検家らと同じ程度のものでしかないはずだ。
「この世界にいるまま、手探りでいきなりケンタウロス像を取り出すのはたぶんできないのう。手を伸ばして探したり持ってこようとしても、大魔法使や諸神のような認識力があるわけではないからじゃ」オラクルが首をひねって言った。「が、これもフローラが言っとったのじゃが、取り寄せる力がない場合は、こちらから訪ねてゆく。つまり、いかにもケンタウロス像がありそうな並行世界(ワールド)に移動して、その世界の中で探せばよいのじゃ」
「ここの”ケンタウロス郷”よりもさらにケンタウロス像がありそうって、一体どんな並行世界なんだよ」
「そうじゃな。例えば、人間や人型生物(ヒューマノイド)のかわりに、皆ケンタウロスばかりが住んでいるような世界はどうじゃ。ここのケンタウロス郷のように、一部の土地の住人として気の荒いケンタウロスだけが住んでいる世界ではなく。世界じゅうの温厚な住人も含めて誰もかれも、人型生物のすべてがケンタウロスだというような並行世界じゃ。人間像と同じように人馬像だけがあるに違いないのじゃ」
突拍子もなさすぎる。リゼはしばし言葉を失った。
「なるほど、理屈ではある」ところが、アルテウスが言った。「この郷をはじめ、《祭界山(オリュンポス)》や《猟野界(ハンティング・グラウンド)》に住むケンタウロスらは、元々はかれらばかりの住む、まったく別の並行世界(ワールド)から移住してきたもの、とも言われておる。昔から、ケンタウロスという、《祭界山》の諸神や人間とは異質な種族は、異民族への想像が発達したもので、《祭界山》の神々の創造や祝福によるものではない、と考える賢者らもいる」
「そのまったく別の並行世界(ワールド)とやらに行くのか。……”大迷宮”に戻れなくなったりはしないのか」
単に奇抜な世界に移動するという話だけなら、リゼ自身、魔法使マールの使命その他もろもろで、毎回のように別の並行世界(ワールド)や次元界(プレイン)に放り込まれているので、想像もつかないという話ではないし、勝手がわからないわけでもない。しかし、唐突に今このオラクルから出た話では、不安を感じないわけにはいかない。
「いざとなれば、この魔遺物の本来の発動をすれば、オリュンポスやデルファイに戻るだけのことはいつでもできるだろう」アルテウスが答えた。「低級な呪文での次元移動はともかく、”徴”や影を渡る能力であれば、阻害されることもない」
リゼは黙り込んだ。気は進まないが、うまくいきそうな選択肢が(どちらも最後の手段といえる《対峙の中枢》次元界の高級市場と、マールへの相談を除けば)他にあるわけでもない。