イェンダーの徴: 猫とハイエナと冷たい鉄
4
リゼは来た道を振り向いたが、当然、賢者マールの洞窟から続いていた一方通行のポータルは既に消滅しており、一度引っ込んで出直すということはできなかった。
「いったん身を隠すか?」
「あんまりうまくいかないと思う」コーデリアが答えた。「あのくらいのダイモーンは、視透明の疑呪もだけど、かなりの感知能力を持ってるから。呪文でも他の方法でも、隠れるのは難しいと思う」
リゼは再度、甲虫じみた悪鬼の集団と、崖の山道、その先の横穴までの距離をはかるように見つめた。
「急ごう。まだやつらとの間は遠い。見つからないうちに進むしかない」
リゼは先頭に立ち、不安定な山道を早足で進んでいった。背後から不意をうたれないよう、また肉体能力が低い魔術師が足を踏み外した際に前後から手助けできるよう、コーデリアがその後に、隊列の中央を歩いた。殿に猫少年が続いた。
しかし猫少年、中装鎧で武装した神聖代行戦士(ディヴァイン・チャンピオン)は、猫のような敏捷さは発揮できなかった。上から迫る危険、そして山道の仮に足を踏み外した場合の危険を感じると、急がなくてはならないといわれても、足取りは進まなかった。猫少年は足元、山道の下を──そうすべきではなかったが──見下ろした。上もそうだが、《苦界》の山脈は果てしなく斜面だけが続き、黒い雲とも下から来る火山の噴煙ともつかぬものに覆われている。底というものが──仮に落下したときに、どこかにとどまりそうな場所というものが全く見えない。
「ためらわずに、目や足をとられずに駆け抜けろ」リゼがその猫少年の様子に気付き、焦燥のこもった声で言った。
猫少年は踏み出した。あるいは、急かされていなければ、時間が充分にあれば、静かに安全に進むことは可能だったかもしれない。しかし、不意に、山道のすぐ傍の裂け目が、轟音を立てて蒸気を噴出させた時、猫少年は思わず足をすくませ、よろめいた。
猫少年は足場を踏みかえ、ついで踏みしめて、辛うじて均衡を保った。が、その代償は大きすぎた。
おそらく《苦界》原住ではない者が設けた(元々『ネコの帝王』の手の者による抜け道だったのか)元から不安定な山道の、踏みかえた足元の、山道の岩の足元が脆くも崩れ始めた。それは瞬時に裂け目になり、岩だなから巨大な一塊が巨石となって剥がれ落ち、落下した。
猫少年とリゼは、岩場につかまりながら、茫然としてその落下物を見た。かれらが崩れる山道から生き延びたとしても──この場で起こった落石が、今近づきつつあるメッツォダイモーンの十数体の集団と、さらには《苦界》の多数の原住生物の集団を大量に呼び寄せることは確実だった。
コーデリアが尖った帽子の裏地から羽毛を──小さな白い鳥の羽根を一本だけむしり取ると、それを空中に投じながら、聞き取りづらい数語を発した。ごく簡単な呪文、落下をやわらげる羽毛落下の術だった。リゼは(おそらくは猫少年本人も)平衡を崩していた猫少年に対して呪文をかけたのだと思った。
が、コーデリアが次に指さしたのは、崩れて今まさに落下するところの巨大な岩に対してだった。
巨石は重みのない羽根のように、音もなくふわふわと、側面が周りの斜面や崖にぶつかってもそれ以上崩壊もさせず音も立てず、かれらの視界一杯の遥かな下方まで、ゆっくりと落下していった。……そして、遥か下の中途に突き出した岩棚の一つの上に落下した。その瞬間も、衝突する音もそれによる影響もないように見えた。
が、落下が終了し岩が停止して呪文が終了したそのとき、巨石の重みのかかった岩棚が、大音響と共に引き裂けた。落下や衝突が遅くなったといっても、巨石の質量自体が消え失せたわけではない。渓谷狭しと轟きわたる爆音を反響させ、断崖の岩々を巻き添えに、底なしの斜面を岩雪崩となって果てしなく拡大していった。
メッツォダイモーンの群れはその方向に──すなわち、猫少年の足元からは数百フィート以上もの遥か下ではじめて生じた崩落の光景と轟音の方に、斜面を素早く飛び走るように疾駆していった。
その経路から隠れるように岩陰に身をひそめたまま、猫少年とリゼとコーデリアは、つかの間そのメッツォデーモンらの通過する姿を見下ろしていた。が、一行は、すぐに山道に戻り、例の斜面に開いた入り口まで一気に駆け抜けた。山腹の洞窟の中に飛び込み、まっすぐにその中を突っ走った。
走りながらもコーデリアが『見る石』を取り出し、前後のいずれにも動く者の気配がないと確信したところで、足を止めた。
一行は自然の洞窟の通路(『見る石』がわずかに光を放っていた)に立ち止まり、しばらく息を切らしていた。
「僕のせいで──」やがて、ようやく声を出せるようになった猫少年が発したのはその言葉だった。
「なんにも。だって、”下方次元界”だもの」コーデリアが朗らかに言った。「”予測できない災難”がどんどん起こることくらい、”予測のうち”だよ」
猫少年はしばらく息を整えるように、言葉を発さなかったが、
「でも、それにしても僕が今起こしたことと……今の逃れ方は……」
今のメッツォダイモーンを避ける時の、コーデリアの手管について言ったように思えた。
「そこはそれ、”ピンチの時こそが切り抜けるチャンス”だって」
「それは師匠の、マールの受け売りだろ」リゼが言った。
「……何か、いまだに信じられません」猫少年は嘆息するように言った。「さっきのが通り抜けられたのが。ここから先も、進めるんでしょうか」
「これからだって切り抜けられるよ。今みたいな感じでやれば、いけるよ」
猫少年はしばらく俯いていたが、やがて、身を震わせるようにして言った。
「いえ、この分だと……切り抜けられる気がしません。今のみたいなことが、もう一度起こったら……あるいは、自分に今みたいな切り抜け方ができる気は、ますますしません……」
リゼは困惑したようにコーデリアを見た。正直リゼとしても、不安を感じる要素は山ほどある。なにしろさきほど言ったように下方次元界、”地獄の一種”で起こることであり、しかもこの先に待つのは大迷宮の”ゲヘナ階層”なのだ。しかし、不安に立ち止まっていても仕方がない。しばらくして再び、リゼは一行の先頭に立ち、洞窟を進み始めた。
はてしなく長い自然の洞窟は、火山帯の地下であるためか気温や湿気はかなり高いが、これもあらかじめある程度は準備された抜け道なのか、危険を感じるような、例えば裂け目や溶岩などに出くわすことはなかった。
やがて、自然の洞窟のその先は、石でできた通路に続いていた。一行は何気なく進みそこまで足を踏み入れたが、不意に、リゼが振り向いた。
今、洞窟に通じていた入り口は無くなって、人工の石壁だけになっていた。リゼが近づいて再度調べたが、石壁が開いたりしそうな様子は無かった。
「こっちからは出られない。”運命の大迷宮”のゲヘナ階層の方から、《苦界》の山脈の外側には出られないみたいだ」リゼは言ってから、猫少年を振り向き、「さいわい、私達が大迷宮を脱出するには、『ネコの帝王』の準備したポータルストーンがあるけど」
「任務を達成したら脱出だね」コーデリアが朗らかに言った。
あるいは、任務も進退もどうにもならなくなった時だな、とリゼは言おうとしたが、猫少年の(その猫族じみた)目から伺える色を見て、口を閉じた。本当にそうしようとしている、というほどではないが、今すぐにポータルストーンで脱出できるものなら、と心のどこかでは考えているのがいかにもわかる目だった。これ以上、猫少年が不安を感じると、進むのにさえ支障がありそうなので、リゼはそれは黙っていた。
大迷宮のゲヘナ階層、石壁の通路はまっすぐ整然と続いており、枝分かれした横道の数々も非常に正確に直角に折れ、まるで長方形の階層が正確に通路だけで緻密に分断されたかのように見える。文字通り、絵に描いたような”迷宮(ラビュリントス)”である。石壁は溶岩が固まってできているようだが、しばしば赤熱している箇所があったり、溶岩がまだ充分固まっていない箇所や、石壁のひび割れから奥の赤熱や溶岩の赤みがほんのりと漏れてきているような箇所も散見される。言うまでもなく、気温は非常に熱い。防護の呪文や品物は備えてきてはあるが、例えばやっと英雄級くらいの冒険者が耐性なしで歩くのは非常に難しいだろう。そして空気中の熱気や湿気には、様々な生物──多くはかなり恐ろしいもの──の存在を文字通り匂わせるようなものが入り混じっていた。
「さっきの蒸気みたいな、炎のワナとかがあちこちにあるだろう。”自然の罠”、さっき外で出くわした間欠泉みたいなのが、罠同然になってるだとか。あと”人工の罠”、人工的に仕掛けられたものとか、純粋な”魔法の罠”として施術されたものとかな」
リゼが慎重に歩き、周囲に目を配りながら言った。
「あと、たぶんこれから出くわすのはさっきみたいな《苦界》のダイモーンじゃなく、《奈落》のデーモンやその他の妖魔類だと思う。ここが『ハイエナの公王』の勢力範囲、《奈落》のデーモン・プリンスの狙う階層なら、出くわすのは公王の奈落の手勢だ」
コーデリアは立ち止まり、ローブの裾で再度『見る石』をこすると覗き込んだ。
「壁越しに幾つか動くのがいるなあ」コーデリアは、あわせて立ち止まったリゼらに言った。「そのうち、近くにいるのはかなり大きい、それも十中八九、”混沌にして悪”なのが」
「迂回しよう。まだ避ける道を探してみる余地はある」リゼは冷静な声で言った。
が、それから数歩も進まないうちに、
「うばーーーーーーっ!!」
リゼの謎の奇声と共に、通路の真ん中から炎が噴出した。
「炎の罠だ!!」リゼが叫んだ。
「てかなんで!? 盗賊なのに踏むの!? わからなかったの!?」コーデリアが頓狂に叫んだ。
「純粋な魔法で隠されてた、純粋な魔法の罠だぞ! 盗賊の技でどうしろってんだ」
どうしろとはいえ、リゼのその盗賊の技の身をかわす能力と、あらかじめの防護の小呪文のおかげで、リゼも、もう少し遠くにいた他の二人も、目立った外傷は負わなかった。──が、今のリゼの奇声、はともかくとして、吹きあがった炎が隠しおおせるわけがない。さきほど『見る石』が示していた巨大な気配の一つが、まっすぐ向かってきた。リゼがその危険に対して次の一言を発するよりも前に、ゲヘナ階層の迷宮の広い通路を塞ぐように、その姿は視界に膨れ上がってきた。
コーデリアは目を見開いてその近づいてくる姿を凝視した。それから俯いて自分の指を見つめ、指を折った。「ひいふう」
ついで、顔を上げてふたたびその相手を凝視して言った。
「II類のデーモンだわ!」
「いや、なんでそこで指で数えるんだよ!」リゼが叫んだ。
next
back
back to index