イェンダーの徴: 猫とハイエナと冷たい鉄







 5

 コーデリアが出発前に調べていた通り、この”大迷宮”にいるデーモンやデヴィルたちは、《奈落》の次元界にいるものよりも遥かに小規模だった。しかし、それでも肉体的規模、その巨躯は通路を覆いつくすと思えるほどはある。目の前の通路を塞ぐII類のデーモンは、どことなく、巨大な両生類に似ており、それが他の四足の獣の身体の支え方もできる一方で、後ろ足で平然と立つこともできる、といった体形に見える。しかし、不揃いな粘膜質の肌、中でも硬質のたてがみのような鋭く大きな逆棘が背筋から頭部まで回り込んで幾筋も走り、自然の生物の整合性のようなものを絶妙に消している。立ち上がっている今は誇示されているような腕も巨大だが、これも両生類じみた大顎の中の巨大な歯、それも牙ではなくぎざぎざの臼歯めいたものがびっしりと口じゅうに並んでいた。
 ただし、この《奈落》の種族が主物質界(プライム・マテリアル・プレイン)に召喚された前例によると、II類のデーモンは近づいただけで呼吸に支障をきたして多数の兵力が無力化するほどの毒臭を持つが、ここでは先にコーデリアが述べた規模の問題なのか、”大迷宮”のゲヘナ階層に凝り固まったおびただしい瘴気の中に混ざり込んでしまっており、近づいても目立った障害を(少なくともコーデリアらの防護の呪文や装備を貫いて与えるほどには)もたらしていない。何より──自在の転移などを含めた将来の魔法能力も、そしてトゥルー・デーモンの能力でも最も恐ろしい霊能(サイオニック)能力も、この大迷宮ではほとんど発揮することはできない、という。したがって、”大迷宮”の中でデーモンと戦うには、肉体能力だけを相手にすればよい、という話で、それもこの大迷宮の規模ではさほどではないとはいうが──
 猫少年が、一行の中では重装の神聖代行戦士(ディヴァイン・チャンピオン)、そしてこの一行の中での”異次元界の戦士”が、剣を抜いて、通路の奥から迫る姿に相対した。踏み込んできたその巨躯に、突進に怯みもせず、体格差による間合いの見誤りもなく、振るわれる剛腕の見切りを狂わせることもなく、真向から剣を叩きこんだ。横目にとらえたリゼも息を止めるほど、目も覚めるような一撃だった。
 しかし、剣はII類のデーモンのさほど硬質にも見えない両生類じみた皮膚に、まったく通らずに跳ね返された。
 猫少年は後退しながらも、幾度か剣をふるった。何度かのうちには刃が通るか、怯ませるくらいのことはできるかと思ったが、いずれも効を奏した様子がない。猫少年の剣は見るからにそれなりの業物で、おそらく上方次元界(アッパー・プレイン)の魔力も少なからずこめられていると思われるが、驚くほどに効果がなかった。リゼは『冷たい鉄の剣』を構えて加勢する機をうかがったが、デーモンが猫少年にふるっている剛腕に対して、盗賊には戦列を形成することができない。リゼの方は鎧が薄く、しかもこの重い剣は軽妙に揮うことができないので、打撃の対象となったときに充分に身を防ぐことができない。それでも猫少年に向かう打撃のうちの一部を引き受けながらも、猫少年と共に後退していくほかにない。
 あわせてコーデリアもさらに下がったが、やはりなすすべもない。デーモンに呪文を投射しようとする場合、『見る石』の焦点具としての力で、外方次元界の来訪者の生来有する魔法抵抗力(マジック・レジスタンス)ならば貫通できる可能性もある。しかし、たとえ魔法抵抗力を通したとしても、トゥルー・デーモンは内方次元界に由来するような各種の元素などの力源の攻撃に対しては、おおむね完全に無効か、高い耐性か免疫(イミュニティ)がある。つまるところ、コーデリアにしても生半可な呪文による攻撃では、相手に損害を与えることは難しい。
 「こりゃまずい感じだぞ」どんどん押されてゆく自分と猫少年の足取りに、リゼが呟いた。戦士が後退が続いて前列を崩されると致命的なのは当たり前だが、デーモンはそれを特に狙う。”秩序”のデヴィルは作戦を遂行するにせよ崩すにせよ戦列を組むが、”混沌”のデーモンは自分にも敵にも戦列を破壊するような戦い方をするのが常套手段だ。機を見てあの巨大な腕で、前列の戦士を放り出し、後列を攻撃するか、あるいは滅多にやることはないが、行われるとなすすべがないのは、別のデーモンを招来し、割り込ませるかだ。
 コーデリアは数歩を下がると、II類のデーモンと猫少年とリゼの位置関係に再度目を走らせ、ローブの奥から木の枝のようなものをひとつまみ取り出した。よく見ると削って整えてあるが木の根らしい。コーデリアは入り組んだ言葉を朗々と発し始めた。
 リゼはコーデリアの術のその響きと、物質触媒(マテリアル・コンポネント)の甘草(カンゾウ)の根を見て取ると、ついで、隣の猫少年に言った。「コーデリアの呪文が終わるまでは踏みこたえろ」
 「その後は!?」剣を跳ね上げる音の中から、猫少年がうめくように言った。
 「そうなったら下がれ。ただし一歩ずつだけど」
 リゼはそう言って、見開かれたデーモンの目を見た。II類のデーモンが人語を解するのは確実だが、両生類じみたその瞼と瞳孔の動きからは、今のやり取りをどの程度デーモンに『聞き取られた』かは疑問だった。II類はトゥルー・デーモンの中では最も知能が低く力まかせで、そこが乱闘に飢えるハイエナ人とその公王の近くによく出現する理由でもあるが、知能が低いといっても、教養のない一般の人間くらいはある。つまり──ちかごろの自称”勇者”だのなんだのの手合いとは比較にならないほどに知性的で状況の判断力もある、ということだ。
 コーデリアが入り組んだ呪の糸を結び留めるように終結させると、変成術(オルターレーション)の影響独特の、主物質界とその背後のイセリアル中継界そのものがぐにゃりと歪むような余波が、つかのま猫少年とリゼに及んだ。リゼと異なり秘術呪文を聞き取れない猫少年は、何か炎や光などの破壊的な支援の攻撃を予想していたのが、そうした光景が現れなかった期待が外れためもあってか、思わず拍子を外したかのように膝の力がわずかに抜け、そこにデーモンの腕と牙の猛攻が押し寄せた。
 しかし、それとほぼ同時に、猫少年と正反対の方向にリゼが踏み込んだ。その移動はデーモンの位置に対してというより、周囲の空間に対して跳ね飛ぶような動きだった。変成術呪文により異常加速されたリゼの踏み込みは、大振りのデーモンの腕の間合い裡、通常の速度なら攻撃機会を免れないその範囲のまさに真ん中をかいくぐり、猫少年の戦列が崩れてデーモンが踏み込んだ位置と、あたかも入れ替わるように背後に飛び込んだ。
 それを見た猫少年は踏みかえて身を翻し、斬り込んだ。その斬り上げは今までと同様、何の効力も発揮できないもので、デーモンはそれを真正面から受け止めた。しかし、躱す動きを取らなかったそのデーモンの背後に、猫少年の剣の刃光を照り返すように、挟撃のリゼの刃が斬り下ろした。リゼの”冷たい鉄”製の清浄武器の剣は(重さにひどく難儀しながら振り下ろされたものではあったが)II類のデーモンの背筋に沿ってやすやすと叩き斬った。
 デーモンの身体は現世(うつしよ)の生物が傷を受けた時のように、倒れたりよろめいたりはしなかった。招来(サモン)の呪文の魔力だけで構成されたかりそめの身体ではなく、招請された本体であったが、その肉体は瞬時に骨まで含めて物理的な構成力を全て失ったかのように、その場に溶け崩れて、”大迷宮”の石畳の上で悪臭を放つ水たまりのようなものに変化した。
 リゼは膝をつき、剣も地に立てて息を整えた。普通に正面から打ち込んだのでは、とてもではないが致命傷を与える機会は無かったに違いない。
 「肝を冷やしたなあ」しばらくしてリゼが、嘆息した後にやっと言った。
 猫少年は、自分の剣を握って地ずりに構えたような姿勢のままだった。黙ってII類のデーモンだった水たまりの跡を見つめていた。やはり、今しがたの一連の展開が信じられないようだった。
 「神聖代行戦士だけのことはあるよ。予想してた以上の剣技だ」そんな猫少年に、リゼが声をかけた。
 「そんな、僕は……」
 「いや、充分に太刀打ちできていた。今のは、デーモンに”普通の鋼の剣”が通らなかっただけだ。──やっぱりこの剣は、そっちが持ってた方がいいんじゃないのか」
 リゼが”冷たい鉄”の重たい広刃を抜き身のまま、柄を猫少年に向けて差し出した。
 猫少年はためらい、剣を見つめたが、マールの洞窟の時とは異なり、手を出そうとはしなかった。その柄と、抜き身の冷たい鉄の刃の紋を、その猫族の瞳に、畏怖のような色もあらわに帯びて見つめた。
 「……いえ、やっぱり僕は、この剣をふるったとしても、今のリゼさんのようには、とてもできません」猫少年が言った。「それに、違和感のあるこの剣を無理に使えば、いざというときに失敗するかもしれない……」
 リゼは困惑して、コーデリアを振り返った。
 「私にはわかんない。剣のことは」コーデリアも当惑したように言った。「無理強いしなくても、少なくともリゼが持ってれば大丈夫じゃないの……」
 リゼは考えたようだったが、結局、その”冷たい鉄”の剣を自分の差したままの鞘に収めた。



 一行は『見る石』から見える相手を避けながら(火の罠にも注意して、リゼがなんとか避けたり、避けられなかったりしながら)”運命の大迷宮”を延々、直角の枝道をたどって長々と進んでいった。
 やがて、『見る石』からも動く姿が密集している場所が見え、それが近づいてきた。
 通路の曲がり角ごしにリゼが、通路の先が続いている空間をのぞきこんだ。そこはこれまでのゲヘナ階層の通路と違い、ある程度の広間になっていた。
 リゼがしばらくのぞきこんだ先を凝視し、それから曲がり角から首をひっこめて、あとのふたりに言った。「おめあての場所だ。ハイエナ人の部隊だ」
 残りふたりも広間にいる姿、ハイエナ人の部隊を垣間見た。他の人型生物も、よく動物──例えば、バグベアなら熊──になぞらえられることがあるが、ハイエナ人はそれらとはまるで異なり、はるかにハイエナそのもの、まさしく猛獣自体が直立した生物に見える。獣そのものの斑紋と剛毛に覆われた肌に、重厚に武装している。といっても獣の変身生物(シェイプチェンジャー)などの類ではなく、あくまで人型生物で、種族自体が『ハイエナの公王』というデーモンの祝福もとい呪いによって生じたと、多元宇宙を研究する賢者らには考察されている。公王の渇望にしたがって暴走するのみの種族だというが、真偽、実態は定かではない。
 ここのハイエナ人の部隊は陣営を形成し、勢力圏を護っているように見える。十体前後の姿が見え、要所を護る軍としては少ないように見えるが、この危険なゲヘナ階層に常駐することが可能なほどの精鋭なのだろう。個々の生まれと思われる体躯も、身のこなしから伺える経験も、人間の自称勇者の冒険者だのの比ではないことがわかる。
 広間の最も奥には、祭壇らしきものと、石で作られたアーチ状の中空の枠がある。恒久的なポータルの施設であることがわかる。リゼ達の目だけからは、それが『ハイエナの公王』の不浄の印や祭壇なのかは判別はつかなかったが、ハイエナ人の粗く実用的な他の様式とは異なり、いかにも儀式用の装飾が刻まれていた。
 「人型生物だとすると、さっきのダイモーンやデーモンと違って普通に呪文が効くと思うよ」コーデリアが囁いた。「『見る石』のおかげで向こうよりは先に気づいてここまで近づけてるし、思ったよりすぐ片付くかも」
 「といっても、呪文だけで片付くとは考えない方がいいぞ。その後に荒事も残ってる、と思った方がいい」リゼが猫少年に言った。「準備をしとこう」
 リゼはベルトの小道具袋から、盗賊道具としては見慣れない銀粉の小箱を取り出した。それを自分と猫少年の周りに撒きつつ、”上方世界の諸力”の名を幾つか唱えた(これは、リゼ自身が発動できる自前の魔法のようだった)。それから、ひとふた口くらいの大きさの小瓶に入った魔力の水薬(ポーション)の何本かを猫少年にも手渡した(そのうち一本は、先の甘草(カンゾウ)の根の匂いのする、加速の薬だった)。猫少年はリゼに倣ってそれを飲み下しながら、これから起こる事を予想してかできずにか、神妙にしていた。
 それらの準備が済むと、リゼは通路の奥を再度伺い、にじり寄るように奥の広間に向かって進んでいった。





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