煉獄の行進
8
黒の乗り手が去った後、小休止をかねて充分な時間を置いてから、一行は歩き出した。山道の支道に戻るのではなく、長く続いている洞窟の中の道を辿っていった。これがパラニアの言う、モリバントに続くのではなく山沿いの回り道なのだろう。しかし洞窟は山の表面に近いらしく、ごく浅く、あちこちに日の光が入ってくるような隙間や出口があった。
視界は悪くなかったが、山の表面に近い植物の根や苔の這った地下は、ただでさえひどく足場が悪かった。一行についてゆきながらも、カイトの足元はひどくふらついて遅れ気味だった。さきの幽鬼との遭遇によって、特に身体に疲労や外傷があるわけではない以上、旅を続けられないということはなかったが、気力が参っていた。
「それほど急ぐ必要はない」何度かカイトを振り向いて立ち止まるアリスとマリアに、パラニアは言った。「乗り手からも、旧魔国のオーク軍からも随分と離れた頃だ。当面の危険はない」
そして、その洞窟の出口のひとつをのぞき込み、「何か、あまり外の天気はよくないがな。逆に、悪天候に襲われても、ここなら洞窟の奥に引っ込めばよいわけだ」
「こんなひどい世界はさっさとおさらばしたいのに……モリバントに真っすぐ行かずに、寄り道だと……」カイトは歩きながら、ぶつぶつと呟き続けていた。ふらつき、消耗、それらのすべてが苛立たしかった。「元の世界に戻れば、オレに倒せないやつなんて……」
……またしばらく歩いてから、アリスとパラニアは外の様子を見に、洞窟を出て山肌を上っていった。カイトについては、少しでも休ませようとして、洞窟の出口近くに残し、マリアもその傍らに残った。
アリスは、岩のやや見晴らしのよい所にまで登った。
「エルフの野営地って?」アリスがパラニアを振り返って言った。「モリバントや『オークの洞窟』からそう遠くない所に、樹エルフや森エルフの国や村が別にあるわけじゃないわよね」
「実際は、ちょっとした集落だな。このあたりの地理を利用して、隠れ住んでいる箇所がある。ここの山がちな地形そのもの、木々と、そしてモリバント近くの西方国(ウェスターネス)の遺跡をだ」パラニアは丘の上から見渡しながら言った。「実際はエルフに限らず、一種族や民族といったものではないから、集落とか村とか呼ぶのも、少し違う。なので、あえて呼ぶなら、『隊商の野営地』に近いわけだ。実際に、ある程度定住していて、種族をとわず、通りがかる隊商に手助けしてくれることもある。移動していなければの話だが。が、辺境の地を出かける時の、雑貨屋のホビットの店長の話では、当面はその心配はないようだ。このご時世なので、確実ではないにせよ」
一方、カイトはマリアと並んで、洞窟の壁ぎわに座り込んでいた。
「カイトさん……元気を出して下さい」マリアがささやいた。「次に着くのは、きっといい所ですよ。きっと休めますよ……」
カイトは朦朧としたように、かすかな光のさしこむ洞窟の中を眺めていた。もはや、今のカイトには、優しい言葉はマリアくらいからしか聞けなかったが、彼女の言葉であってすらも、この何もかもが狂って苦痛と疲労に満ちた世界で、『いい所』などという言葉にはもはや何も期待できない。元の世界に帰るまでは。
──と、視線を彷徨わせているうちに、カイトはこの洞窟の一室のうち、奥まったあたりに何かがあるのに気付いた。石とは明らかに色も、よく見ると質感も異なる異物だった。
それはごってりとした塊で、石のひとつの表面を分厚く覆っていた。洞窟のかすかな光の中に輝いて見えるほどに毒々しい色で、表面にはまるで繊毛のような無数の菌糸が生えていた。洞窟に生じているかすかな気流のため、その繊毛がゆっくりとゆらめき、蠢いているように見える。そのおぞましい姿に、カイトは目を見張った。
「不定形の粘体生物……スライムだ!」カイトは飛び起きて叫んだ。
「え」マリアが見上げた。
「モンスターなんだよ! 襲ってくるぞ!!」
その声にマリアも立ち上がり、身をすくめて菌糸の塊を見、そしてカイトを見た。
「スライムは冒険者が最初に出くわす雑魚モンスターだとか最弱モンスターだとか、一発剣で切るだけで一般人でも子供でも誰でも倒せる、とか信じ込んでるやつもいる。だけど、モンスターや地下迷宮の世界に詳しいオレ達高レベル冒険者なら誰でも、本当のことはよく知ってる」カイトは言った。「スライムは、特殊攻撃や分裂能力を持ってたり、こっちの通常攻撃が無効だったりする、かなり厄介な敵なんだ」
その言葉に、マリアはさらに腕に緊張をこめて、カイトの背後に隠れた。
「だけどオレは、確実に倒す方法も知ってる。スライムは99.9%が水分でできてる。塩をかければ、浸透圧で水分を奪うことができる。塩をぶつけて追い払えるはずだ。塩だ! 塩をくれ」
「はい!」マリアは期待に目を輝かせ、料理道具の入った肩掛け鞄から、自分の握り拳よりも大きな岩塩の塊を取り出すと、カイトに手渡した。
カイトは苔むした石に駆け寄った。そして、握った岩塩の塊で、その菌糸に覆われた黴を思い切り殴りつけた。
岩塩は黴に覆われていない部分の洞窟の石に当たり跳ね返って、カイトの手の中から弾け飛び、どこかに飛んでいき見えなくなった。
数拍を置いて、菌糸の塊から爆発的に胞子が噴出した。
黴よりもさらに毒々しい色の胞子の雲がその周囲の視界を覆いつくした。そして、胞子をまともに吸い込んだカイトの身の毛もよだつような絶叫が、山沿いの洞窟の地下の道じゅうに響き渡った。
「なにごと!?」アリスが駆けおりてきた。その洞窟の一室でアリスが目にしたものは、一部の空間を覆いつくしている毒々しい胞子の雲、その胞子のまっただ中で、絶叫しつつ床の上をのたうち回っているカイト、そして、胞子の雲の外から、そのカイトを胞子から引き出そうと、おそるおそる手を伸ばしているマリアの姿だった。
「『毛むくじゃらモルド』だわ!」アリスが胞子の中心、石に付着した黴の分厚い塊を見るなり叫んだ。「近づいちゃだめよ!」
アリスの言葉に、マリアが身をすくませて手をひっこめた。
アリスに続いて降りてきたパラニアが、ひょいと杖を伸ばし、杖の曲がった部分をカイトの襟首にひっかけて(そのとき、何か不自然に杖が長いように見えた)胞子の雲の外へと軽々と引きずった。
……胞子の雲から救い出された後も、カイトはしばらくの間、せき込み続けていた。
パラニアは、かなり平然とした様子でその姿をのぞき込んだ。「さいわい、すぐに呼吸ができないというほどに深刻な状態ではなさそうだ。毒素にやられずに済んでおるかどうかはわからんがな」
「どういうこと!?」アリスがマリアを振り向いて問い詰めた。
「その……スライムだから、塩をぶつけて追い払うって、カイトさんが」
アリスは、まだ洞窟の片隅に漂っているモルドの胞子の雲のただ中に、完全に胞子に汚染された状態で転がっている岩塩の塊を見出し、目をむいた。
「何てことするのよ! かたまり全部を使ったの!?」アリスはマリアに食ってかかった。「塩がもったいないじゃない!!」
パラニアが首をかしげた。何と言って補足すべきか、考えあぐねている様子だった。
「毛むくじゃらモルドを見て、スライム(粘液)だって話もなんだかよくわからないけれど、それよりも追い払えるって何なの」アリスが例の灰色エルフ語訛りの滑らかな発声で滔々と言った。「仮にその仮説になんらかの理があって、追い払えるとしてもよ。それは具体的にどういう結果をもたらすのよ。黴から足が生えて走り去っていくとでもいうの。毛むくじゃらモルドの菌糸が名をいうもはばかるとある部位の体毛のように見えるのがその名の由来、というまことしやかな説はあるらしいけど、足に見えるとかそのように機能するってのはにわかには賛同しがたい新説だわ。そう、”ブリー村で聞いた話”の酔っ払いの法螺歌の『土曜の皿と日曜のスプーンに足が生えて駆け落ちした』が信じられないのと同じくらいかそれ以上にね!!」
「一体どうしたのだ。アリスまでが、なぜそこまで取り乱す必要があるのだ」パラニアがやや困惑したように問いかけた。「塩などまた買えばいいだろう」
「あれはホビット庄の西四が一の庄で仕入れてきた塩なのよ!!」アリスが駄目になった岩塩を指さして叫んだ。
と、カイトがぜいぜいと息をしながら、必死で片腕を上げようとした。気付いた他の三人は、一斉にその姿を振り返った。
「そいつ──そいつは──」カイトは上げた片腕、震える指を、岩にへばりついた毛むくじゃらモルドに向けて言った。
「何!?」アリスは身をのりだし、カイトの言葉、かれらを襲った危険に関する情報を聞き逃すまいとした。
「魔族だっ!」カイトは毛むくじゃらモルドを指さし、荒れた喉から、金属がこすれるような声で吐き出した。「あれは、魔族だっ! こんな、これほどひどすぎる痛さ、ものすごい苦しみを与えるほどの、凶悪な攻撃なんて、魔族の魔力容量(キャパシティ)でないとできるわけないだろ!」
カイトはそのまま、菌糸と黴に覆われた石壁を虚ろな目で見つめながらぶつぶつとつぶやき続けた。「虚無の海を彷徨ってる負の精神活動が集積した最も低位の魔族の精神面(アストラルサイド)は人間界の生物や物体たとえば植物や石のようなものに憑依してかりそめの姿をとっているものが俗に低位魔族と呼ばれててその姿は普通の生物の姿とは大きく違うような破片や断片のような姿をとってるがその肉体の部分は人間界の普通の生物や物体だから普通の武器でも傷つけることが」
「うむ、どうやら、胞子を吸い込んだせいで譫妄状態に陥っているのかもしれん」パラニアが、自分の顎髭の上を何度も掌を往復させるようにしながら、カイトを見下ろして飄々と分析した。
「そうなの?」アリスが怪訝げに言った。「いつものカイトと、この男が普段から言ってることと何ひとつ変わらないように聞こえるわよ」
「あるいはそうかもしれんが、胞子のせいでさらに弱っているのは確かだな」パラニアはカイトの腕をつかんで持ち上げたが、完全に力なくだらりと下がるだけになった。「毒は残っていないとしても、大幅に腕力を削がれたらしい」
パラニアは無造作に手を放して、ぱたりとカイトの腕が石の上に落ちるに任せ、「もうこんな状態では動かすことはできん。これ以上旅は続けられんだろう。……できるだけ避けたかったが、ルーミルに、野営地のエルフの方にこちらから知らせるしかない。向こうから人をよこしてもらうしか無かろう」
「当然だわ」アリスが間髪いれず同意した。「塩抜きの食事で、これ以上旅を続けようなんてぞっとしないもの」
一方、横たわったままのカイトはぜいぜいと喉を鳴らし続けた。
「魔族だ……オレのことを狙ってるんだ……そこらじゅうから……奴らは……魔族どもには……」
「カイトさん──落ち着いて。休んでください」マリアが悲しげに言って、カイトの額の少し上に手をかざした。マリアは一言、何か全く聞き取れない、起伏の少ない韻律のきめの揃った言語を発した。
突如、カイトの意識は重い水底に沈むように、静寂と圧力の底に一気に引きずりこまれた。そのまま抵抗することさえ考えるまでもなく、カイトの意識はいつか感じた覚えがあるような眠りの深みに落ちていった。
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