煉獄の行進








 3

 カイトはすでに何の支障もなく動けるようになっていたが、彼らはすぐには出発せず、次の日もまた次の日も、老人と双子の娘は頻繁に部屋に出入りし、包みや、包んでいないままの香草などを部屋に置いたり、改めて包んだりしていた。無論、カイトの身体を気遣ってというわけでもなく、何か慌しく長旅のための準備をしているようで、あるいはこれまでカイトのために準備が遅れていたのかもしれない。
 カイトを居もしないように気に留めずに三人がしばしば出入りする中、寝床に起き上がって腰掛けたままのカイトは、居心地の悪さに耐え切れず、とりあえず外を出歩いてみることに決めた。
 カイトが元いた世界での装備品は、無論のこと、オークに敗北し囚われた際──いや、魔族の幻覚に陥れられた際になくなっていた。寝床の横に元の服と重ねて置かれていたのは、革製の胴衣(ダブレット)で、カイトの元の世界では『冒険者学園』はもちろん、普通の村民の服にもありふれていた、ジッパーやマジックテープが使われておらず、カイトには革紐の留め方が全くわからず、少し考えた挙句、ベルトに適当に押し込んでそれらしく着た。剣も置かれていた。どちらかというと細身の剣だが、「レイピア」とも「ショート・ソード」ともつかない中途半端な身幅で、長さも「ショート・ソード」と「ブロード・ソード」の中間くらいだった。カイトには飾りか何かのために適当に作られた剣としか思えないが、にも関わらず豪華さはなく、灰色で薄汚れている。どう考えても『強い武器』ではないが、あの老人と少女らがただの薬草師なら三人とも剣に詳しいとは思えないし、「高レベル冒険者」に相応しい装備を求めても仕方ないだろう。カイトはそれを一応ベルトに吊って、他の三人がこのとき出かけたままの「雑貨店の裏」の部屋を出た。


 ”辺境の地”を囲んでいる柵を過ぎて、陽の当たる南に歩いてゆくと、すぐに、まばらな木々が遠くに見え、雑多な下生えが広がる荒地となった。
 ──カイトは不意に立ち止まった。野のどこからか聞こえてきたそれは、確かに、眠っている間に聞こえたあの歌だったのだ。抑揚の少ない、長短いずれの調ともつかない律で、小さなせせらぎか玉水が流れるように詞の言葉が続いている。カイトは歌の聞こえる方に足を運び、やがて街の柵が見えづらくなるほどになって、歌声の主の姿が見えてきた。
 予想していた通り、それは例の双子の娘らのうち、妹マリアの歌声だった。草原を、歌にあわせたような足取りでゆったり小股で歩きつつ、歩むごとに左右に踏み出す足元を見ている。ときにかがんで草を改め、さらにときどき、その葉をむしって手にした小袋に入れていた。香草や薬草を集めているのかもしれないが、歌のせいか、懸命に探しているという雰囲気でない。何を歌っているのかも、何を集めているのかもわからないが、何か理由もなく、どこか不思議な光景に見えた。
 カイトは歌に誘われたように、特に何を考えるともなく、近づいていった。
 ……不意に、マリアの歌声と足が止まった。最初、カイトは自分がおびえさせたかと思ったが、どうもそうではないようだった。構わずにさらに近づいてゆくと、マリアは小さな潅木の茂みごしに身を隠すようにして、荒野の遠くの一箇所を見つめていた。カイトが傍らに来ると、少し驚いたように目をやったが、無言で、また不安げに元の方向を見た。
 マリアの視線の遠く先、……燦々と照る日光の中、日陰を求められるような木々も辺りにはないまばらな草地をひとり、ふらふらと歩いているのは、薄汚れた武具をまとったオークだった。無骨な鎧の意匠はともかく、その隙間に遠目からでも伺える、肌の粗さと色、骨ばった容貌と手足の作り、それがやつれて痩せこけた印象から一層ひどくなっており、オークより見間違いようがない。破損し、雨ざらしが続いたとおぼしき武具、そして、負傷か疲労か栄養不足かあるいはその全てかでふらついている歩みを見るに、軍からはぐれたか、敗軍をひとり落ち延びたのかもしれなかった。
 オークはどこへ行くとも知れず、遠くの荒野を横切るように進んでいた。その歩みは緩慢ではあるが、互いに声も聞こえないほどの距離なので、このままじっとしていれば何事も起こらずにやりすごすことができるだろう。だが、少女としてみれば香草採りを中断して、街道に戻ればさらに確実に安全と言える。マリアがやがて目を離して、カイトの方に小股に近寄ったのは、あるいは、小声でそうしようと言い出そうとしたのかもしれなかった。
 ……だが、カイトは剣を抜き放つと、オークに向けて大股に、真正面から歩み寄っていった。
 「カイトさん!?」マリアが小さく呼ぶ声が、背後から聞こえた。


 草地にうずくまった、やせこけて薄汚れたオークの姿には、カイトの前の土牢で囚われていた際に入れ違いに現れていた怪物らのような、悪魔のように凶悪に歪んだ印象は微塵も見られなかった。つまり、あれは結局は痛みか精神攻撃呪文による悪夢にすぎなかったもので、オークは所詮ただのオークなのだと、カイトは判断した。今の間に合わせの鎧や剣でも、カイトの既に持つ「技能」ならば、たとえ36分の1にも”オーク”程度に遅れをとることはない。そう信じつつも一方で、また自分の身体や技が、本当に元の「冒険」していた通りに回復しているかどうか、──ともかくも、諸々のすべてを『あのオークで試してみようと』思ったのだ。
 オークは、正面から剣を振りかざしてくるカイトにのっそりと向き直り、先が鉤爪のようになった片刃剣を抜いた時にも、カイトはまだ何も警戒していなかった。が、その剣はカイトが来ると予期していた、その数呼吸は前に、横殴りに刃唸りを立てて襲い掛かった。
 カイトは反射的に剣を立てた。がっしりと受け止めたと自分では思ったのだが、まるでそういう力のかかり方を何も予測していなかったように、数歩分の距離を、背後に跳ね飛ばされていた。
 カイトはさらに背後に大きくよろめいて、ついで必死に体勢を取り直そうとした。(傍から見れば、オークも弱々しくふらついているのでなければ、即座に踏み出しつつその返す刃でカイトの首は難なく刎ねられていただろう。)カイトは完全に引けた腰で、闇雲に剣を前に何度も突き出しながら、オークの歩み寄ってくるのに合わせて、無意識に背後にあとじさり続けた。
 オークは疲労なり傷なりに相当によろめきつつ、緩慢な足取りで踏み出していたが、だが歩きながら一度確かめるように素振りをくれたその剣は、風を切って再びごうと唸った。
 「アィヤ アリエン ナイラ! イ ヴァーサ カラァ カアルヤンナ!」
 不意に、マリアが叫ぶ声が聞こえた。背後の遠くからのその声は、マリアの普段の小鈴のようにまばらな話し言葉とはまるで異なり、あの夢うつつの中の歌と同じように、瞬く閃光のように射し込み脳裏を打ったように思えた。あるいは、それがカイトの気のせいでなかったようにも思えたのは、オークは、その声に不意に立ち止まり、──そして、頭上に照り付けている日光を唐突に思い出したように、不愉快そうに顔をしかめたかに見えたことだった。
 ……が、それもつかの間で、オークは再びカイトに向き直り、間合いをつめてきた。
 続いて、草を踏み分けて駆けてくる音が急速に近づき、長い赤毛をなびかせ、この場に駆け込むようにアリスが現れた。既にカイトの背後にだいぶ遠く離れたマリアと、そして、カイトの置かれた状況とを瞬時に認めたようだった。
 「何やってんのよ、この暮六ツの盆暗ッ」アリスはカイトの方に、意味がよくわからないが何かかなり名誉ありそうな称号を授与した後、ふたたび元の方向に、その小柄からは信じられないほどの速さで駆けてたちまちその姿は見えなくなった。
 もはやオークは眼前に迫り、こちらから攻撃するしかない。カイトはその距離を真正面から突進すると、顔中を口にして雄叫びを上げ、剣を振り下ろした。身体は元いた世界で戦っていた頃と同じように、間違いなく万全に動いた。ロード・ドラゴンにも致命傷を与えたことがある、必殺の一撃だった。
 オークの剣は、その軌跡にあわせて正確に切り込んだ。
 カイトの剣は手からもぎ取られ、弾け飛んで、下生えの合間に見えなくなった。が、カイト自身の身体は、遥かにそれ以上の距離を芥子粒のように吹っ飛び、不規則に横転しながら荒野の土に跳ね返った。
 倒れたカイトは朦朧とした状態を幾呼吸か経て、何とか立ち上がろうとしたが、剣を吹き飛ばしたほどの衝撃に両腕は痺れきっており、また地面に叩き付けられた時にまともに腰と背中を打っていた。どうしようもないほど身体が動かなくなっており、まるで起き上がることができない。
 今の打撃でかなり距離の離れたオークが、再びゆっくりと歩み寄ってきていた。くたびれた鎧姿は、空腹と凋落のふらふらとした足取りだったが、その剣を支える腕は間違いなく強靭で、カイトに避けがたい死をもたらすものだった。


 が、不意に、カイトの視界に青い衣の老人の姿が現れた。
 後で思えばアリスに呼ばれて来たのか、あるいは少し前から傍らに居たのかもしれないが、すぐそばに来るまで気付かなかった。パラニアのその右手には無造作に、東国風の湾刀(タルワール)が提げられていた。
 オークがそのまま、目の前の老人の方に向かって剣を振り下ろした時、パラニアは軽々と緩い曲線を描く足取りでそこに歩み入った。湾刀を閃かせつつもその老人の体躯は、オークの正確で強靭な刃の振り下ろされる、その下へと、みずから踏み込んだように見えた。
 カイトは老人が斬られると思った時、自分自身が無防備に刃に晒されたかのように思えた。ひりつくような刃風が正面から背筋まで通り抜けた気がした。その錯覚に、カイトは思わず全身をすくませて目をそらしたいとさえ思ったが、一方でこの一連の流れはあたかもカイトの身体を麻痺させたように、瞼を動かすことすらも許さなかった。……結果、その光景はカイトの目に焼き付けられ、カイトがこの次元世界を去るその日までの間、その脳裏に残り続けた。
 ──地響きが立つかと思うほどに、カイトの目の前の大地にオークの身体が叩き付けられた。あたかも、何か巨大な力で投げつけられたかの如く、重い鎧姿が雑草の合間の土に深々と沈み込み、それきり、微動だにしなかった。
 カイトは自分も上体だけ起こした体勢で、大の字に仰向けに倒れたオークを凝視した。オークは、先までの日光に顔をしかめた不機嫌な表情ではなく、驚愕と怒りにその容貌を目一杯に歪め、目を引き剥いていた。
 その眉間から鼻梁に沿って、ただの一太刀、深々と割られ、絶命していた。
 カイトは喉を鳴らした。喉がからからに乾ききっていて、唾を呑もうにも何も飲み込むものがなかったのだ。
 ……カイトはこれまでに、自分や仲間の「必殺技」や「攻撃呪文」によって、全身を黒焦げにされたり跡形も残さず吹き飛ばされたりした「モンスター」など、いくらでも見たことがあった。こんな刀傷など、それらの「破壊力」に比べれば、とても問題にならないはずだ。
 カイトの「理性」はそう思おうとした。しかし、カイトはその光景から、どうしても目を離すことができなかった。あの一太刀、そしてこの刀傷、これほど見事に”死を与えられた”──生命というものを剥奪された物体は、見た覚えがない。そう思えてならなかった。
 カイトはその光景に釘付けにされたように、倒れているオークの姿をそのまま何時までとも知れず、見つめ続けていた。
 「何をしている?」その頭上からパラニアの声が、問い詰める様子もなく、何気もなしに掛けられた。「おまえは一体、何をしようとしていたのだ?」
 カイトはなんとか頭を働かせ、
 「……倒そうとしたんだ」
 この状況からすれば、あまりにも間の抜けた答えだった。
 「おまえの言う『たおす』とは何だ。排除する必要もなかった相手を殺すことか。そのためにわざわざ刺激することか」
 パラニアは言いながら無造作にかがみこんで、倒れたオークの鎧の合間からその服の汚れた布地を掴み、今しがたそのオークを斬った湾刀を丹念に拭った。──そうしながら、再びカイトの方に目をやり、
 「まぁ、何をするつもりだったにせよ、わしには、おまえがただ”死”に向かって突っ込んでいたようにしか見えなかったぞ」
 まさにその通りだったろう。自分は今、自分からオークに突っ込んでいったにも関わらず、一切何をすることもできず、一方的にオークの剣に殺されようとしていた。だが、……そんなはずではなかったのだ。
 「そんなことっ……どんなモンスターだって、戦ってみるまでわからないだろっ!」カイトは躊躇った後、言い訳するように叫んだが、それはほぼ老人への言い訳でないことは、口に出してみて漠然と分かった。「……それにっ、もしどんなに強いモンスターだとしたって、運さえ良ければ倒せるんだっ!」
 「つまり、わからない上、たまたま運がないと生き延びられないわけだな」
 老人はまた、何気もないように言った。
 「結果が死になるか、生き延びるのか、わからないことを、必要もなしに自分から進んでこれからも繰り返そうとする、それは、確実に死に向かって突っ走っているのと同じことだ」パラニアは拭い終わった剣を確かめ、青い外套の奥に吊った鞘に収めつつ、「わしは友人の『茶の賢者』から、おまえの命を救うように頼まれた。だが、自分から死にまっすぐ走ってゆく奴の命までは、とても救いきれんな。……わしが今、このオークを殺したのは、あの娘たちに危害が及ばないようにするために過ぎん。これからの道のりの間、おまえがまた死に向けて突っ走っても、止める者がいるとは限らんぞ」





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