第五階層:聖剣の泉
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しばらく沈黙が流れた。
「噂の巻物にも書いてあったっていうけど」女盗賊がオラクルを振り向き、「噂の巻物って『低位の神託』が含まれてるんじゃないのか。つまり、ここのデルファイで下してる預言と同じ内容だろう。似たような話を聞いた覚えはないのか」
「さっぱり覚えがないのじゃ。低位の方の神託だのおみくじクッキーの中身だの逐一記憶してはおらんのじゃ」オラクルは最初から怪訝げに、「いずれにせよ、ありえそうもないのじゃ。いや、たぶんありえぬ話じゃの。いかにこの運命の大迷宮が突拍子もない異変だの混沌だのにあふれていたとしてものぅ。偉大な聖騎士でも何でもない者が、いかな錆び剣であろうが水に突っ込んだら、その場で聖剣が飛び出してくる、など、そんな都合のよい話など到底ありえそうも無いのじゃ」
「──いや、待て、何か聞いたことがあるような気がするぞ」やがて、女盗賊が指を額にあてながら言った。「ニムエから──湖の洞窟に住む魔女から」
「誰じゃったかのう。この神託の賢者よりも頼りにでもなるとでもいうのかのう、その穴に潜っとる魔女とやらが」オラクルが覇気のなさげな目を女盗賊に流した。
「ええと、私が厄介になってるというか腐れ縁のドルイドの魔法使の、その弟子だ」
「リゼが毎度厄介かけとる魔法使といえば──」オラクルが不意にぎょっとして、女盗賊を振り向き、「魔法使マーリンと、その弟子の湖の魔女ではないか!? まさにその聖剣伝説の張本人らではないのか!?」
「まさにその伝説と何か関係あるかどうかは知らないが」女盗賊が祭壇の泉を見つめ、額を撫でつつ、「この大迷宮で”秩序の諸力”の恩恵を得るために、そういう儀式ってのは何かあるらしいんだ。騎士だとか、その前にこなした実績だとか、その前に必要な手順だとかは特に必要なく、長剣を持っていればできるってのが」
「この場でその儀式を行えばこのデルファイの泉から聖剣が……」オラクルは独り言のように言いつつ、泉を凝視し、ワルキューレと女盗賊と剣に順次目を向け、ふたたび足元の、デルファイの備え付けの石作りの水場を凝視し、
「ふむ、いかにも聖なるデルファイの泉にあってしかるべき奇跡じゃな!」オラクルは我が事を自慢するように、小さな(とても小さな)胸を張り、聖域の床と水場(いずれも蛇の死体と血が飛び散っており、もはや壮麗も何もない)を示すように両手を広げてみせ、「実にありがたい顕現じゃ! 湧く水のひとつとっても霊験あらたかなこと極まりないのじゃ!」
「いえ、ここの泉が何の変哲もない普通の水の湧く”ただの泉”だからです」ワルキューレが言った。「魔法の泉ではだめだというのです。上の階には魔法の泉が幾つかありましたが、いずれも使えませんでした。さきに言ったように、ノームの鉱山には普通の水の湧く泉がありましたが、衛兵に止められました。そこで、この階層のただの泉を使っているのです」
「ただの水の方がいいのか。それで、そのただの湧き水に、なんでもいいから、例えばただの剣を浸せば、なんでもかんでも聖剣が出てくるのか」女盗賊が割り込んで、ワルキューレに尋ねた。
「いえ、何かが起こるのはおよそ6分の1ということです」
「それはちょっと分が悪いんじゃないのか。1割6分と7厘か」
「わずかな分だとしても、ただ浸すだけなら、何度行ってみても損は無いかと──」
「いやただ浸すだけだとか損はないだとか言うけど、ただ浸しただけのせいで、今まさに錆とか蛇とかさんざんな目にあわなかったか」女盗賊はうめいた。
「うぬうぅ、しかし聖なる報酬を得るためには聖なる試練はつきものなのじゃ」オラクルは三脚座の上から見下ろし、「勇敢に挑む者にこそ報酬は与えられようぞ。存分に試みるがよいのじゃ」
「いや、待て」女盗賊は、突如として翻意したように見えるオラクルを振り向き、「どう見たって危険が──」
「まあ待つのじゃリゼよ、考えてみよ」オラクルが声をひそめて、女盗賊の耳元にささやいた。「ここの泉で”聖剣”が見つかったともなれば、このデルファイの聖地としての評判はだだ上がりなのじゃ。参拝者は引きも切らぬのじゃ。ありがたき御利益を信じて下位はもちろん、上位の神託のために訪れる迷宮探検家も増えようし、そうなれば神託のための寄付金がまさに泉のごとく沸いてくるのじゃぞ。仮にただの見物人が増えるのみとも、評判のためには重畳なのじゃぞ。……何か、わしらにもできることがないか……」オラクルはあたりを見回し、「たとえば泉に水を足すだとか、水場の縁を磨くとか……よし、リゼよ、雑巾と石鹸を持ってくるのじゃ」
「どこにある。てか自分でやれよ、持ってくるのも磨くのも」女盗賊が嫌そうにうめいた。
しかし、ワルキューレはすでにオラクルと女盗賊には目もくれず、急かされたように剣に近づき、再度、剣を泉にひたしていた。
蛇の出現の後はしばらく凪いでいた泉は、ワルキューレの行動の直後、即座に異変が起こった。泉の中心あたりから、急速に水全体が渦を巻き始めた。何かに吸引されているか逆に噴出しているのかよくわからない。オラクルとワルキューレはかたずを呑んで、女盗賊は怪訝げに、その水面を見守った。
その渦の中心から、水面に対して垂直に伸びてきたものがあった。確かにそれは腕のように見えた。
「うぉ、手が出てくるというのはあれか」オラクルがうめいた。「思っとったよりもぶっとい腕だのぅ」
「……いや、ひょっとして、何かが違うんじゃないのか」女盗賊がつぶやいた。「少なくともニムエの言っていた話じゃないような気がする……」
青色の筋肉質な腕は次第に水上に伸び、やがて、そのものの全身が水上に浮き上がるように出現した。人間の数倍はあるきわめて屈強な、全体としては人型の、しかし明らかに異相の悪鬼だった。細長い手足(といっても、その太さ自体が人間のそれの数倍はあったが)に比すると大きな腹を持つ、青い身体をしていたが、顔は白く、膨張したかのように飛び出す大きな緑色の目を持っている。足と鉤爪は深紅だった。腰の帯にはその身体に見合った大きさと太さとおそらく重さの、巨大なアキリスをぶら下げていた。(”アキリス”という名の物品は、並行世界(ワールド)によっては投げ槍や投擲棒を指すこともあるが、この”運命の大迷宮”ではもっぱら、棘付きの野太いごつごつした棍棒である。)
「なんじゃい、これは水の精霊の類ではないのか!?」オラクルが叫んだ。青い肌こそしているものの、その他の特徴から見るからに、元素界(エレメンタル・プレイン)に在住する元素魔神(ジィニー)のたぐい、水の元素魔神(マリード)ではない。オラクルの肌にびりびりと感じられるのは、元素界などの《内方次元界(インナー・プレイン)》ではなく、まさに《混沌の外方諸次元界(アナーキック・アウター・プレインズ)》の空気であり、それをまとう魔神は十中八九はデーモンかディモダンドである。
泉から聖剣が見つかる、という噂が正しかったのか否か、見つけるための一連のワルキューレの振舞いが正しかったのか否かはわからない。しかし、どちらにせよ、わずか6分の1の聖剣のかわりに、水ヘビの大群よりもさらによっぽど酷いものが出てくる可能性は、予想して然るべきであったのだ。
水の魔神はアキリスを装備した。
その場の誰かが何らかの反応をするよりも前に、ワルキューレの頭上にそのアキリスが叩き落とされた。胸の悪くなるような破裂的な粉砕音、肉が引きちぎれ骨がへし折れる音のまざりあった音がデルファイの神託所に響き渡った。
魔神の強靭な腕力とアキリスの威力のすべてが一極集中されたワルキューレの頭部は、兜があるので鉢が割れることは無かった。が、その割れない頭が丸ごと兜ごと全部、胴体の内部にめりこんだ。ワルキューレの首のない死体(首自体はいまだ存在しているので正確な表現ではないが、首は外部から観測することは不可能となっており、ワルキューレのシルエット上は首のない死体、と表現して差し支えないと思われた)は、泉に対してまだ名残惜しさでもあるかのように、剣を突き出して一歩、水路に向かって進んだ。が、そのまま泉に頭を突っ込むように(くどいかもしれないが、泉に突っ込もうにも正確には頭の部分は外部からは観測できなくなっていたが)飛沫と共に水中に倒れ伏した。
元々水ヘビとの戦いで傷ついていたワルキューレが、仮に、充分に休んで癒えてから再び剣と泉を試したのであれば、何か結果は違っていたどうかはわからない。が、ともかくも、この状況はワルキューレと無謀な一連のその行動の両方に、完全にとどめをさした。ワルキューレの物語はここで終わる。
しかし、当然だが、その場の残りの者にとっての物語は不幸なことに全く終わっていなかった。
水の魔神は首を回し、緑の巨大な瞳をオラクルの方に向けた。
「ひぃぃ!」やけに愛らしい悲鳴を喉から上げて、オラクルは預言の三脚座のてっぺんに再度とびあがった。
──その水の魔神の脇腹めがけて、闘剣(グラディウス)をきらめかせた女盗賊が疾風のように踏み込んだ。ワルキューレとオラクルに魔神の注意がそれた間に、懐に飛び込める隙は確かにあった。人間相手であれば、完全に勝負あったかに見える機の捉え方だった。
が、女盗賊の身体と剣が懐に飛び込むよりも前に魔神はその突っ立った姿勢のまま片腕だけをぐんと伸ばしてアキリスをまっすぐに突き出した。当然、女盗賊の闘剣が届く間合いよりも魔神の腕とアキリスの間合いは数倍長く、魔神の剛力に支えられたその突きの速度と威力は女盗賊の踏み込みの速度と力を数倍上回っていた。
「へぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜しっ!!!!」女盗賊の胴体真正面にアキリスの先端がまともにぶち込まれ、女盗賊は身体をくの字に曲げ両腕両足を正面に突き出したまままっすぐ後ろに宙を飛び、デルファイの神託所の隅のケンタウロス石像のひとつに激突した。そのケンタウロスが振り上げている石像の杖の部分にひっかかり、両手両足をだらりとぶら下げたまま、女盗賊は動かなくなった。
「ううう絶体絶命なのじゃあ……」オラクルは三脚座のてっぺんに登ったままですくみあがり、歩み寄ってくる巨大な水の魔神を見上げた。
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