第五階層:聖剣の泉







 3

 「アポロンかテミスに祈るか天恵を求めるか……」オラクルが震える声で呻いた。
 「毎日神託で酷使してるのに他の”祈り”が聞き届けられる望みは薄いぞ……」女盗賊が像の上から、顔を上げて言った。「頼れるのは自力だ……呪文くらいあるだろう……」
 「精霊ならともかく、《外方次元界》の魔神には呪文抵抗力(スペルレジスタンス)があるのじゃあ……中位のデーモンなら3割強じゃあ……」
 「あいつも死ぬ直前まで1割6分の成功率に賭け続けたんだよ! 錆が出ても蛇が出ても一直線にな! ためらうな!」
 「何かわけが違うような気もするが」オラクルはワルキューレの無惨な死体に目を走らせ、「ほかにできることもないわい……!」
 オラクルは三脚座のてっぺんから(これ自体は、普段から神託を受ける際の術式で手慣れた行動に過ぎない)気を練り上げ喚起した呪言を呼び下した。信仰力の鉄槌(ハンマー・オブ・ザ・ゴッヅ)が上方から降るように見えるのは、上方次元界と干渉するために主物質界からはそう錯覚されるのみであり、魔術の詳細に詳しくない者や部外者にとって、起こる現象自体は、この大迷宮では巨大な”魔力の矢(マジック・ミサイル)の一種”と区別はつかない。
 輝く魔力の重塊が正面から炸裂し、水の魔神の上半身は閃光に覆われた。魔神は束の間目がくらみ、ひるんだように見えたが、しかし、動きは止まらなかった。他の並行世界(ワールド)の主物質界に存在する迷宮とは異なり、外方次元界の影響が著しい”運命の大迷宮”では、魔法抵抗力による無効化だけではなく、しばしば威力の部分的な減衰が起こる。魔法抵抗力を完全に打ち破れず、突進の勢いを止めることもできない。
 「うわーっ、駄目じゃあ!!」
 「もう一度やれぇ……!」石像にぶら下がったままの女盗賊がうめいた。
 再度オラクルが発動した二撃目と、アキリスが振り下ろされるのは同時だった。三脚座にアキリスが直撃し、支柱とてっぺんの腰掛け部分が丸ごと粉々に粉砕され、オラクルの身体は宙に吹っ飛ばされた。
 ──三脚座が粉砕されてその場に魔神が踏み込んだ瞬間、その場の光景全体がわずかに、しかし、明らかに不自然にぐにゃりと歪んだ。次元界の相互の距離の勾配が変化したためだったが、力ある者が静かな状況で注意深く観察していたならばともかく、その場の魔神もオラクルも(言うまでもなくリゼも)その光景には一切気付かなかった。が、上方次元界(さらに言うならば《祭界山》)と特殊な次元距離にあるデルファイの神託所、その結節点でもある預言の座が破壊され、その足場に下方次元界来訪者が踏み込めば、この場所の次元界上の安定性は尋常ではありえず、来訪者が主物質界で有する特異性がそのまま維持される道理はない。
 『何割の魔法抵抗力』に対して、貫通するのか否か、何割のどちらの結果が出るのかは、正20面体を放り転がして、上になる面に書かれた数字が大きいか小さいか、で決まる、と主張する者もいる。それは個人の認識の規模ではほぼ正確だが、実際には多元宇宙(マルチバース)の原理上は、それらは全て、”偶然”で決まっているのではない。全てのその場の状況、多元宇宙の転輪の噛み合わせがどう出るかである。その噛み合わせは、魔神にもオラクルにもリゼにもワルキューレにも超越神格らにも、多元宇宙のあらゆる存在でも制御することはできない。
 それはまさにオラクル自身にも『たまたま何割を引き当てた』ようにしか認識できなかったが、水の魔神の青い巨躯は、オラクルが放った信仰力の爆発の鉄槌をまともに食らい、その場にのけぞり、仰向けに地に落ちていくかと見えたが、身体の上方から順次、毒々しい色の混ざった分厚い煙と変化していった。やがて、足元まで全て煙に変わるとぶすぶすとくすぶるように音をたてて大気と反応していたが、見守るうちにも跡形もなく、忽然と消滅した。
 《奈落界(アビス)》や《幽閉界(タルタロス)》の生物、すなわちデーモンやディモダンドが、他の次元界(プレイン)で絶命した際にその次元界の身体が消滅する過程は個体ごとに全く異なるが、何にせよ、わずかな例外を除いてその殆どは、最終的には跡形もなく忽然と消滅する。
 三脚座から叩き落とされたオラクルと、ケンタウロスの石像からずり落ちた女盗賊は、いずれもふらふらとデルファイの神託所の中心近くまで歩み出た。そして、その場に残る惨憺たる光景──そこらじゅうに散らばった大量の水へビの死体、一面が水ヘビや(一部は女盗賊の、叩きのめされたときの)血にまみれた神託所の内装、石床や水場の光景、粉砕されて水場の底に没した三脚座の残骸──そして中空の何もない光景、水の魔神が消え失せたあとの空間も、茫然と見つめ続けた。



 ふたりはどちらともなく、泉に目をおとした。
 と、不意に、その表面がざわめき波立った。オラクルと女盗賊はとびあがるように、その水場の近くからあとじさった。
 が、次に水上に現れたのは──水から浮かび上がってきたというよりは、水上にかすかな光を発する空間、断層のようなものが生じ、その水面すれすれにある次元界門(ポータル)を通じて顕現したのは──黒いビロードのローブの上に黒いマント、黒い鍔広の先のとがった帽子をかぶった少女だった。年のころはせいぜいオラクルよりひとつふたつ上にしか見えない。くせの少ない長い髪と眠そうな瞳は、いずれも赤銅色の金属光沢を放っている。マントや帽子はかなり装飾過多で、それらの装飾はいずれも金属製の占星術の観測儀(アストロラーベ)の部品めいていた。
 「ニムエ!」女盗賊が、その姿を見て叫んだ。「その……なんだ、なんでこんな所に?」
 「この泉と、グラストンベリの”水晶の洞窟”の間に今、イセリアル・ヴォーテックスが開いたようなので、見に来ただけです」湖の魔女が眠そうな声で、ゆっくりと答えた。
 「内方次元渦(ヴォーテックス)って……てことは、繋がるのか? ”大迷宮”にある泉と、湖の魔女の住む水晶の洞窟が」
 「泉に長剣が奉納された時に、一定の確率で繋がります」湖の魔女が答えた。「魔法使マーリンと、秩序の”原初の宮廷”の命令で、大迷宮の英雄たちへの助力のために、泉に捧げられた長剣に”紋様”を刻んで、聖剣の一側面(アスペクト)の能力を与えているのは、私ですから」
 オラクルと女盗賊は沈黙した。
 女盗賊が、魔法使マーリンと湖の魔女の”運命の大迷宮”における役割を再度、頭の中で整理するのにしばらく時間がかかったが、
 「なぁ……結局、聖剣はできるのか」やがて、女盗賊は口を開いた。「どんな剣でも、泉に突っ込めば……蛇や魔神が出なければ、6分の1で聖剣ができるのか」
 「できません」湖の魔女は眠そうな無表情のまま、ワルキューレの死体を見下ろして言った。「この人は『中立』なので、何度、剣を泉に奉じても、決してできません」
 オラクルと女盗賊は無言で突っ立った。
 「『秩序』の英雄になら、聖剣の能力を与えることはありますけど」湖の魔女は無表情で言った。「『中立』や『混沌』の人は、この方法で聖剣やその他の工芸品(アーティファクト)を得ることは無いです。万一剣が捧げられた時には、剣を劣化させます。今も、私はそれをしに来ただけです」
 湖の魔女は、ワルキューレの首のない死体がまだ握っている剣に手をかざした。剣は深い靄と水滴に包まれた。不意に、それらの靄が晴れると、長剣は今までよりもさらに激しい錆と、さらに束の間、”呪い”の暗色の霊気に包まれた。
 湖の魔女は手をひっこめると、泉の中心に戻った。ヴォーテックスとやらが派生したのか、湖の魔女のローブと帽子の姿は、水上の光の渦に吸い込まれた。そして水にも渦が生じ、そのポータルの光も吸い込んだ。ついで、水場の中の水そのものも、水底に向かって吸い込まれるように急激に水位を減じ、あとかたもなくなった。水分の一滴も残さず、デルファイの泉は消滅していた。水ヘビの死体も、ワルキューレの首のない死体も、残らず吸い込まれ、跡形も残らなかった。



 オラクルと女盗賊は後に残ったデルファイの光景を無言で見つめた。錆びた、何の価値もない呪われた長剣、腰掛け部分が粉砕され脚もばらばらに壊れた神託の三脚座の残骸、そして、涸れ切った石造りの水場が残った。
 オラクルがふと気付いたように、水が涸れた後の水場の底を覗き込んだ。隅々までさがしてから、うめいた。「なんということじゃ……!」
 「どうした」その姿を黙って見下ろし続けていた女盗賊が、力なく言った。
 「さっき泉の底に見つかったはずの硬貨、賽銭も消え失せておる……」オラクルはがっくりとうなだれた。
 「元々、泉の中のコインなんて存在を知らなかったんだろう。最初から無かったものと思えばいい」
 「……結局、なんだったのじゃ……あの女探検家の呼び込んだ災厄のすべては何の意味もなかったというのか……」オラクルは頭を抱えた。「あの女もただ無駄に死んだだけではないか……このデルファイも色々なものを失っただけではないか……後に残ったものといえば、眠っていたはずの黄金も含めて涸れ果てた泉だけではないか……!」
 さんざん尽力した挙句に、実は最初からその尽力は全部が無駄だった、などとわかるのは、この”運命の大迷宮”では、いや、この多元宇宙(マルチバース)では、当たり前にあることだ、──などと言おうとして、女盗賊は、それを寸前で飲み込んだ。それは、目の前の相手が迷宮の人々への助言者オラクル、なおかつ(少なくとも、見かけと頭の中身においては)あどけない小児であるためかもしれなかった。
 「いや、こんなことが起こるくらいなら、デルファイに泉なんて最初から無い方が良かったんだ」女盗賊がオラクルとは目を合わせず、遠くを見るように言った。「あえて得たものといえば、それがわかっただけ、儲けもんだと思いなよ」





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