第五階層:聖剣の泉







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 ”運命の大迷宮”の半ばに設けられた”デルファイの神託所”、その賢者オラクルが神託を授ける三脚座の周囲四方には、石造りの水場、湧き水を伴う清冽な泉がある。この鬱屈も殺伐もともに極める”大迷宮”の中に無造作に設けられた神託所の、空間を清々しい空気に満たし、神々しさを演出するのにひと役を買っている。
 その日、デルファイの神託所では、オラクルは、その泉に囲まれた三脚座のてっぺんに腰掛けて、迷宮探検家のひとり、半妖精の女盗賊と、何やら神託にも迷宮探索にも関係のない、おみくじクッキーやKレーションの不味さについてしきりに議論していた。幼い黒髪の、ギリシア風キトンに身を包んだ少女に見える預言の賢者オラクルは、高い三脚座のてっぺんに座ると、足は当然地にはつかず、地上より遥かに上にぶら下がる形になった。(実際のところ、このオラクルがこの椅子に掛けるときは普段どうしているのか、ギリシア風の扮装の見慣れない大男や、この女盗賊が手伝って登らせているのを見た者もいたし、断崖をよじのぼるようにオラクルが自力で登っているのを見たという者もいた。)女盗賊の方は、青紫の髪の半妖精の、豊満な身体の線が浮くような薄い皮装に帯剣、背嚢のいかにも迷宮探検家らしい扮装だが、ただしこのときは(会話内容からも伺えるように)この迷宮の探索の任務は特におびておらず、別の用で神託所を通りかかっただけである。
 そこに”ワルキューレ”が現れた。ワルキューレは、いかにも生真面目そうな凛然とした女戦士で、非常に長身かつ肉感的、量の多い灰色の髪を兜でまとめ、立派な小盾を持っているが、鎧を含めたその他の装具はかなりみすぼらしい。
 そのワルキューレは、その場のふたりに何の遠慮もした様子もなく近づき、これも何のためらいもなく腰の長剣を抜き放った。
 そして、三脚座の周囲の泉のひとつにその刃を突っ込んだ。
 オラクルと女盗賊は話を中断し、そのワルキューレの姿を見つめた。
 ワルキューレは剣を泉から上げた。何も起こっていない。剣はさびついている。オラクルと女盗賊には、それが元々さびていたのか、今のワルキューレの行動と関係があるのかは判断がつかなかった。
 ワルキューレは剣を目の前に立て掲げるようにして、しげしげと刀身から拵えまで眺めた。剣自体は、何の変哲もない、あたりまえの数打ちの一口に見える。ワルキューレはそれを隅々まで眺め終えると、さほど躊躇する様子もなく、再度同様に泉にひたした。
 もういちど剣を水から上げてしげしげと眺め(剣のさびた様子もワルキューレの仕草も、さきほどと寸分たがわず同じである)それが終わるのを見計らって、オラクルが声をかけた。「これ、そなた」
 「何でしょう?」ワルキューレはそこでようやく、デルファイの三脚座と、そこに既にいる2人の存在を気に留めたかのように顔を上げた。
 「なにをしておるのじゃ。ここは聖域なのじゃぞ」オラクルは三脚座のてっぺんから小さな身を乗り出すようにしながら言った。傍目にはかなり危なっかしくも見える仕草だが、あたかもその必要があるほどかなり気がかりでもあるように、オラクルは身体を傾けた。
 「その聖域にある泉となれば、畏れ多いものだとは少しは思わぬのか」
 「いいえ、思いません。というよりも、数少ない”利用してもよい水源”だと理解していますが」ワルキューレは朴訥に生真面目に、深く美しい声でよどみなく答えた。「ノーム鉱山の”鉱山の街”にある泉の方は、利用すると街の衛兵の機嫌を損ねますので」
 「まるでこちらは誰の機嫌も損ねないかのような理解じゃのお」オラクルがひきつったような笑みを浮かべて言った。「まことそうなのかその身をもって知ってみるか、のお?」
 「それより、その行動に何の意味があるのか知りたいんだがな」女盗賊が、三脚座の上のオラクルから、ついで泉と、剣を提げた女騎手の姿に目を移しながら言った。
 が、すでにワルキューレはオラクルの言葉も女盗賊の言葉も聞いていなかった。手の長剣を、3度目に同じ泉に突っ込んだ。
 やはり何も起こらなかった。
 しかし、ワルキューレは何かに気付いて、泉を覗き込んだ。
 「何だ?」女盗賊も同じ箇所を見た。何か光るものが見えた気がした。
 「硬貨(ゾークミド)を見つけました」ワルキューレは言って、手を泉に突っ込もうとした。
 「だめじゃ! それはデルファイの施設のものじゃ!」オラクルが両手をぐるぐると振り回して(三脚座のてっぺんなので見るからに危なっかしい平衡で)わめいた。「参列者の賽銭なのじゃ! 持っていこうなど罰当たりめが!!」
 「そんなのを投げ込んだやつなんていたのか。その、なんだ、幸運の願掛けの泉のつもりとかいうやつか。こんな水路をか」女盗賊が首をかしげた。「それに、今まで泉に沈んでたなら気付きそうなもんだぞ」
 が、そのとき異変が起こった。
 穏やかだった泉の水面が不意に、激しく沸き立つようにうごめいた。そう思う間もなく、飛沫が炸裂するように弾き出し、それぞれが体長数フィートはある水ヘビがのたくり出した。
 「何だこりゃ、どっから出てきたんだ!」女盗賊が叫んだ。「この水中に今まで住んでたのか!? コイン以上にありえんぞ、この体長からして」
 石造りの水場、水路と噴水の中には、こんなヘビが1匹たりとも隠れる場所などない。しかも、それはおびただしい数だった。
 「知らぬ、知らぬのじゃ!」オラクルが掌を両の頬に押し付けて叫んだ。
 模様から見て水ヘビ、沼マムシである。この迷宮の想像を絶する化け物どもの中では、規模でも形態でもごく当たり前の生物、ヘビの一種だが、暗色で毒々しい斑紋の入った鱗に覆われたその体躯は、1匹のこらずどう見ても人間の身長以上の体長があった。
 「わーっ、わーっ、わーっなのじゃあ!!」オラクルは三脚座のてっぺんまでよじのぼった。この三脚座は預言の巫女であるオラクルが星宿と天数の時節を厳選した上で厳かに万物の気を整えて《祭界山》の神々と交信し神託を授かるための神聖な畏れ多い祭器である、と少なくとも別の折にオラクルは他の者らに述べていたのだが、その神聖な預言の座の頂上にオラクルは恭しさの欠片もなく両手両足でしがみつき、そのオラクルに向かって無数の水ヘビが三脚座の脚部分を伝って次々と這い上がろうとしている姿は、あたかもオラクルの行動が祭器に怪物を引き寄せているように見えないでもない。しかし、オラクルが天辺まで逃れようとも、水ヘビらは少しばかりの時間をかければ、この三脚くらいの高さはたやすく越えて這い上ることができるように見える。
 その三脚座の頂上めがけて身体を伸ばした水ヘビらのうち数匹を、女盗賊の抜き放った闘剣(グラディウス)が次々と両断した。
 一方、地上、蛇の湧き出した泉のかたわらの方にいるワルキューレは、さびた数打ちの剣をふるって、のたうつ胴体に斬り込み、あわせて小盾をふりかざして(こちらは紋章の描かれた見事な盾だが、見事だという点が役に立つわけでもない)その盾の面で角ばった水ヘビの頭を叩きのめしたが、これらの剣や小盾を生半可にふるったところで、一撃で絶命し得るような大きさのヘビではない。この水ヘビの集団は、一匹だけでも、駆け出しの迷宮探検家なら4、5人の徒党を組んでも相打ちがやっとというほどの脅威である。先の女盗賊の刃捌きの鋭さに比べると、得物の質の悪さ以上に、ワルキューレの戦い方はいかにも力任せで練度も及ばない。ワルキューレはそれでも数撃がかりで石床にのたくる一頭一頭の大蛇を絶命させてゆき、その間にも牙や鱗に覆われた胴体が容赦なく、ワルキューレの粗末な鎧の継ぎ目に襲い掛かっていた。
 ……水ヘビの最後の一匹が動かなくなった時には、三脚座のてっぺんにいただけのオラクルとそれを守っていただけの女盗賊はともかくとして、水ヘビの大半を引き受けたワルキューレは、石床の上にうずくまるように膝をついていた。全身が噛み傷と擦り傷、殴打だらけで、裂傷や打撲の中にはかなり酷いものもある。ただし、肌や傷の色が不自然に変色したようなところはなく、毒を受けたようには見えないが(この迷宮に出現する蛇の大半は毒持ちである)たまたま逃れたのか、毒に耐えるなんらかの能力(一般に、迷宮探検家のうちでもワルキューレには特にそういった特技はない)をすでに身につけているのかは、外からはわからなかった。
 ワルキューレは凹んだ盾と血と脂だらけの剣、全身が自分と蛇の血に染まったままの鎧の姿のままで、しばらくそのまま床の上に、茫然とするように膝をついていた。
 が、やがて、ふらふらと立ち上がり、泉の方に近づいた。
 そして、血染めの錆びた剣を、再度泉にひたそうとした。
 「おぅい、待つのじゃあ! 待たぬかぁ!」オラクルが三脚座のてっぺんにしがみついたまま叫んだ。



 ワルキューレはうつろな表情で、またしてもオラクルの姿にはじめて気付いたとでもいうように振り向いた。
 「何をしておるのじゃあ! 剣をひたすのは何のためじゃあ!」
 「今の血を洗うためじゃないのか」女盗賊が言った。
 「ちがいます」ワルキューレは短く答えて、ふたたび剣を泉に差し込もうとした。
 「では何なのじゃ! いったい何が目的なのじゃ!」オラクルが両脚で三脚座に身体を固定しつつも、両腕をぶんぶんと振り回しながらわめいた。「また蛇だの何だのを呼び出す気か!」
 「聖剣が見つかるという話なのです」ワルキューレがまた振り向いて言った。「噂の巻物だとか、他の迷宮探検家から聞きました」
 「なぬ」オラクルがうめいた。
 「この大迷宮では、泉に長剣をひたすと、泉から手が生えてきて──聖剣が手に入ると」





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