イェンダーの徴:冥闇の女神とモーロックの片手








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 「大丈夫だ、神通大佐の土俵外の戦いにはならないだろうさ。いや、そうするようには努力する」
 言っている意味は相変わらずわからなかった。が、神通がさらに考える間もなく、ケネスは拍車をかけ、馬を疾駆させた。まっすぐ女神ノアレの方に向かってゆく。元々距離感がよく掴めないが、かなりの速度で走らせている割には、距離はさほど急速に詰まらなかった。
 「宇宙の支配者、女神の力、見るがいいわ!」少女の姿の者は、何かのゲームからそのまま取ってきたようなあまりにも月並みな台詞を、甲高い落ち着きのない声で放ってから、両腕を上げた。
 少女の背後の闇の中、星雲の中で輝いていた星の幾つかがあたかも近づいてくるように、光が急速に膨れ上がった。四つほどの光の塊がさらに光量を増した。本当に恒星が光を増しているとすれば、いったい星に何が起こっているのか、あるいは秒に何光年の速度で近づいてきているのか、などと神通は考えざるを得なかった。それは、見るまに星系の中から恒星を目の当たりにするかのように迫ってきた。女神が火の玉でも投げつけるかのように両腕を振り下ろすと、その光球はさらに光を増した。爆発する白い光、新星(ノヴァ)という語が相応のそれは、あの銀河帝国艦隊が蒸発した恒星の爆発の現象の記録と異常に似ていた。
 「つかまれ」ケネスが一言言い、馬が一度棹立ちになると、馬首が巡った。ケネスの駆る馬は、短い円周を描いてその地(靄のかかったような地面の上)をぐるぐると回った。何周かするうちに──近づいてくる光の増加が止まった。そして、星が迫ってくる速度も遅くなったかと思えたが──不意に、その光は夜空の闇に溶け込むように綺麗に消滅した。ケネスが馬足を緩める間、そのまま星間の闇は沈黙を続けた。
 「あの光は? 向かって来ないのですか」神通は馬上で激しく揺れる中で言った。「星雲の中に戻ったのですか」
 「いや、最初からこっちに来なかったことになった」ケネスが馬を操りながら、「さっき帝国大元帥に言ったろう。恒星の運命を爆発する可能性にすりかえるのと同様、爆発しなかったり移動しなかった可能性にすりかえることは可能だ。まして、宇宙の理に反して安直に移動させたり爆発させようとしたものを元にすりかえるのは容易だ」
 神通は言葉を飲み込んだ。つまり、あの今向かってきた四つの光は、自分達のもといた宇宙で爆発した恒星と同じで、ひとつでも2500万隻の銀河帝国艦隊を、──
 「紋様を、”イェンダーの徴”を操らなくても、”影”を渡るだけで充分だっていうの!?」黒の女神の少女声が響いた。
 女神ノアレがふたたび両腕を上げた。また何かを叫んでいるが、すでによく聞こえず、口の動きもよく見えない。周囲の光の変遷の激しさが光景の詳細を定かならぬものにしていた。背後の夜空のような光景の中にある星の群れが、周囲の夜空ごとゆがみ激しく回転してゆく。それらの島宇宙は燃え尽きるように激しく閃光を放った後、渦を巻く光の奔流となって、周囲の光の伝播を著しく歪ませながら、次々と、馬上の二人の頭上におちかかってきた。それらは星間艇や光子魚雷のアルキュビエ・ドライブの際に元の宇宙から切り取られた塵細宇宙(ナノユニヴァース)にも似ていたが、違うのは、中に艦艇や魚雷ではなく、銀河や島宇宙──のように見えるもの──が丸ごと入っているように見えることで──
 「どうすれば」神通は見上げながら思わずケネスにささやいた。
 「押し通ろう。己(オレ)はあれを防がない。大佐が防いでくれ。サムライの理力(フォース)を傾けて叩き落せ」
 そう言われても、神通はひと呼吸、絶句するしかなかった。
 「私にできると?」そして、思わず聞き返すしかなかった。
 「大仰なものに見えるかもしれないが、単にそう見えるだけだ。あるいは、ただの見かけ通りのもの、だと思いな。目の前に飛んでくるものの規模だってことだ。あるいは、これから己が”そうなるようにする”が」
 ケネスは言いながら、さらに激しく馬を駆けさせた。周囲の宇宙の光景が──宇宙自体のスケールの規模原理が──馬の一足ごとに急速に変化していった。回転する光の渦、島宇宙のように見える光球は、その間にも次々と視界に落ちかかってくる。
 神通は陣太刀の柄部分に見える理力剣(フォースソード)を佩いた帯から外し、柄のセレクタを弾いて、まばゆく発光する力場の刃を発振させた。理力剣の柄の中のカイバー・クリスタルから発振する刃の光は、これまでに神通が有事に臨んで剣を抜いた無数の機会と、何も変わることがないように思えた。神通は突進してくる星々の群れを見つめ、今の提督の語を頭によぎらせた。あの帝国大元帥は、太陽を飲み込む魔術師の神話を単なる比喩だと信じ込み失敗した。目の前の光景は比喩的なものなのか、それとも本当に光景から想像できる限りの規模のものなのか? が、それを迷っている暇はなかった。クリスタルの力場と自らの理力(フォース)の媒介でもあるそのサムライ・ソードの刃で、神通は次々と飛来する渦巻く銀河の群れを、真向から叩き割り、薙ぎ払い跳ね上げた。なぜそれができたのか、あるいは、なぜそうなったのかはよくわからなかった。神通の理力剣に吹き飛ばされた銀河と島宇宙の数々は、ちょうどアルキュビエ・ドライブの誤計算で塵細宇宙が元の宇宙と再結合できずに別の時空に向かって跳ね飛ばされた事故のように、忽然と消滅した。
 「銀河まるごとのエネルギーを弾くなんて!」女神ノアレが、わめくような甲高い少女声を上げた。「その女も只者じゃないのね!」
 「充分にただ者なんだがな、それを種明ししてやる義理はないな」
 そう言ったケネスの方を神通が振り返ると、緑の服の男はさきまで背負っていた長弓を引き絞っていた。弓矢はまるでごくあたりまえの西洋の長弓と矢に見えた。神通は次の飛翔体(銀河規模の弾丸)に備えて、馬上でサムライ・ソードを振りかぶりながらも、そのケネスの姿を目の端に捉え続けた。
 動物を操りながら、しかも早駆けさせながら両手が塞がる弓矢を正確に射るのは、にわかな馬術と弓術の鍛錬ではできない。神通らの所属するサムライ・オーダーは、伝統から、あるいは建前としては様々な星系環境での騎射に備えてそれらを訓練している、とかつて同僚のリアンダーに話した時は、淑女騎士はころころと上品な笑い声を上げて、今の宇宙じゅう、トランター連邦の正規軍はもちろん、リアンダーのナイト・オーダーを含めて、そのような訓練をしている軍などひとつとして無いでしょうね、と言っていたものだった。
 しかし、ケネス・コーリー提督は寸分の手元の狂いもなく、馬上から矢を放ち、矢はあやまたず、女神ノアレの正面めがけて直進した。
 黒の女神は掌で飛翔する矢を左手で無造作に払いのけた。あるいは、何か能力のようなもので跳ね返そうとしたのかもしれなかったが、どちらにせよ、弓から放たれた矢のような質量と速度の物体であれば、手で叩き落すだけでもなんら不足のない動作のつもりであるに違いなかった。
 しかし──いったい、何の偶然なのか、その当たり所のためなのか──矢を払いのけようとしたその左掌に、まるで生き物が、いわば蛇の鎌首がしなって食いついたかのように、矢尻が食い込んだ。それこそ食いついた蛇の牙が深々と埋め込まれるように、さらには、鏃から矢の軸の半ばまでが、見る間に女神の左下腕までめりこんだ。それは飛ぶ矢の持っていた勢いのまま刺さったと考えるべきだったが、あたかも蛇がのたうつかのように矢が自ら食い破っていったかのように見えた。
 耳障りな絶叫が挙がった。あまりの激痛なのか、仰向けに倒れ込んだ”黒の女神”は地をのたうちながら、もう片方の右手で空しく矢や鏃を掴もうとし、ついで、腕に這い上がってくる鏃をとどめようとでもいうように、右の拳で上腕を締め付けた。しかし、ケネスの操る馬で近づいた神通の目にも、その距離からでも見てとれるように、矢が深々と食い込んだ女神の左腕には、鏃による裂傷であるかのような激しい傷跡が腕に現れていた。食い込んだ跡は、どす黒く赤い刺青のような形状となって腕を引き裂いた痕を残している。刺さっている状態でこの少女が不用意に暴れたためか? それだけでこれほど悲惨な傷になるのか?
 女神ノアレは続く激痛にのたうちつつも、馬を降りて歩み寄ってきたケネスに対して、やっとのことで顔を上げた。いまや女神が片手で抑えている左手は、烙印のようなその紋様を思わせる傷跡となっているが、埋め込まれた矢が今も蠢いているように見える。女神の苦悶によじれた腕の動きによってそう見えるのかどうかは、神通にはわからなかった。
 が、数歩先まで近づいた時、地をのたうっていた女神の自由な方の右手が、ケネスに向かって不意に振り上げられたように見えた。また何かの術なのか隠し武器なのかは定かでないが、当然、つがえていない長弓が間に合う呼吸にも間合いにも見えない──
 しかし、再度の悲鳴と共に、女神はその挙げた右手をひきつらせ、ついで右腕を地に叩きつけるようにし、その上体もふたたび倒れ伏した。
 ケネスの黒と緑の装束のその帯に吊られていた(神通は単なる装飾品のひとつだと思っていた)緑の装飾の短剣、『陰謀家ケインのダガー』が、ノアレの右掌の甲に突き刺さっていた。いったい何時、投げつけられたのかは神通にはわからなかった。
 神通を数歩後ろに控えさせたまま、そのケネスはノアレにさらに歩み寄った。いまや両手が動かせなくなった黒の女神は、上体だけを曲げてケネスを見上げ、苦痛の喘ぎ声の中からようやく言った。
 「何が欲しいの?」
 その女神の顔面、鼻面に、ケネスは靴先を叩き込んだ。
 獣じみた叫び声を上げ、”すべての闇の女神”と名乗った少女の小柄な身体は背をひきつらせたように跳ね飛び、よじれた背で再度、もやのかかったような地表に横たわった。
 「『望みを聞き合う』だとか『取引』とかまどろっこしいことはしない」ケネスが見下ろして言った。「黙ってこっちの言うことを実行しろ。実行しなければ殺す。お前に選択の余地はない」
 倒れた女神は喉から激しく呼吸音を上げて、自ら掴んでいるその腕の傷跡を恐慌にかられた瞳で見つめた。まるで、その鏃と傷跡が今にも暴れだして、すぐにでも苦痛だけで自分の息の根を止められることを、完全に理解したとでもいうようだった。
 黒の女神はかなりの間激しく咳き込んでから、ようやく、涙まじりの鼻にかかった声であえぎながら言った。
 「私に……この私に向かってこんなことして、……ノクティクラやセトが黙ってると思うの?」
 「そりゃ当然黙ってるよ。なんだ、それは何かのはったりか? ノクティクラやセトが、”原初の王族”の宮廷に報復してくれるとでも? どちらもクロムやミトラやモーロックに脅かされている今、『原初の宮廷』の周囲の”影”を周回する艦隊と事を構える余裕はない。本当に知らなかったのかも知れないが、お前はセトらにとっちゃ、ただの捨て駒だよ。──もう一度言うが、無駄な会話をする気はない」
 黒の女神はしばらく顔を俯けてから、やがて、再度ケネスに向かって顔を上げ、
 「……ここまでして、私に一体何をさせたいのよ。そこまで無理強いさせたいことなんて、よほど酷い貧乏籤なのね」
 「減らず口も死に近づくぞ」ケネスは平然と、「だが、その通りだな。最初からそのつもりだったから、交渉の余地がないやつ、お前みたいな交渉も受け入れずに襲って来るようなやつの所に、わざわざ選んで来たんだよ」
 黒の女神は無言で見上げながらも、唇を震わせた。
 「モーロックの軍と戦え」ケネスは見下ろして続けた。「お前の持っている戦力、支配してる宇宙の総力を上げてやつらとぶつかれ。抵抗しろ」
 女神ノアレはしばらくそのまま見上げていたが、
 「そんなことなの? やれというならやるけど、そんなもので済むの? ここまでのことをして、要求がそんなものなの?」かすかに嘲弄のまざった少女声で、ノアレはケネスに言った。「『モロク』なんて、《九層地獄界》の第六階層を追い出されて、戻るために時間を無駄にしてる、たかが小物デヴィルじゃないの。──そんなものに対して、ここまで切羽詰まった手段を使うくらいに、”原初の王族”らは追い詰められてるの?」
 「じゃあ、セトはお前には教えたことがなかったのか」ケネスは面倒そうに眉をひそめた。女神の侮蔑の表情に不快感を覚えたのではなく、浅ましさ、愚かさに心底苛立っているようだった。「モーロック、モレク、メレク──妖精神(イルダリエ)らの言葉では、『メルコ』とか『モルコス』とかだ。ただ、妖精神らも己たちも、近頃は単に、『冥王』、とだけ呼ぶがな」
 その名をきいたとき、ノアレは激しく目を見開いた。瞳の焦点が振動すると共に、呼吸の不安定さのために喉が激しく鳴った。合わない歯のぶつかる音すらも聞こえてきた。
 「モーロックと呼ばれてる神とか悪魔は、その冥王の一側面(アスペクト)だ。もっと正確に言うと、神霊や妖精神どもが冥王を『怒りの合戦』で打倒して虚空に鎖で縛り上げた時、切り落とした冥王の両手足首のうちの、片手首が離れて生きて活動しているのが『モーロックの神』なんだよ。……地獄の六階層を奪還するために這いずりまわっている悪魔(デヴィル)のモロクは、その冥王の片手のさらに一側面(アスペクト)か、あるいは代理として部下が名を借りているにすぎないんだ。もっとも、やつにとっては、《九層地獄界》の階層に進める駒はかなり重要な一手だがな。その一手の本当の目的は、九層の最下層のとぐろ状の”紋様”にある」
 「『冥王』が……動いてるなんて嘘だわ!」ノアレは突如、耳障りな甲高い叫び声を上げた。「それに、悪魔モロクなんて、誰に聞いたって小物よ! 今は誰もあがめてもいないじゃない!」
 「お前、普段から自分の目に見えてるもの、自分がもう知ってるものの、意味を理解することもできないんだな。うちの銀河大元帥様と同じだよ」ケネスはうんざりしたように言った。「幻想世界、全ての幻想遊戯の原典になってる書物の表紙に描かれて、以後の幻想の多元宇宙の全てに無意識に君臨してきたのは、モーロックの神像だぞ
 ケネスを見つめていた、驚愕に見開かれたままの目が、急に虚ろになり宙を見つめるように焦点を失った。





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