イェンダーの徴:冥闇の女神とモーロックの片手








 5


 ノアレのがたがたと震える全身のうち、上体を支えようとしていた肘さえもが、それができなくなりつつあった。女神と名乗った者は、神通の体験してきた戦場の記憶のうち、まるで戦乱に巻き込まれた怯えた市民のような、それも、その中でもかなり幼年の者だけの示すような反応をした。
 「駄目! できない! 殺される!」黒の女神ノアレの口から、遂に堰を切ったように悲鳴じみた声が漏れた。「『冥王』に、メルコなんかに歯向かったら……私の宇宙も、ここまで育ててきた世界もぜんぶ……冥王軍に滅ぼされる! 今あんたに殺されなくったって、もう全部おしまいじゃない!」
 ケネスは無言で見下ろし続けるだけだった。神通も同様に言葉もなく見続けるしかない。神通にとっては、永劫のように感じられる時間が過ぎた。いや、この空間、宇宙そのもののような星空と、宇宙がなかば固化したような足場の上にあって、それはどれほどの時間なのだろうか、あるいは本当に永劫なのだろうか。
 黒の女神を名乗る、少女そのものの姿の地に伏せた者の、激しい息遣いが(神通の立っている位置からでは)聞こえにくくなる程度に落ち着くと、ケネスに向けるその視線もなんとか焦点があった。
 「冥王軍に歯向かって、……無駄死にする以外に何かあるっていうの?」
 「さっき言ったろ」ケネスは微動だにせずに返した。「お前に選択の余地はないんだ」
 「冥王軍なんかと戦って滅ぼされるよりは他になんだってましだわ! あんたたちに──”原初の王族”だろうが”混沌の王族”だろうが、あんたたちに殺されようが、永遠に拷問されようが、冥王軍の手におちるよりは、何だってましよ!!」
 「己と冥王軍と、どっちがましかは、お前の働き次第だよ。なんとかうまく戦えば、『原初の宮廷』の方は、何か配慮してくれるかもしれない。だが、冥王の方は、お前に慈悲をくれてやる可能性なんて、万に一つもない」
 「あんたたちの、”原初の王族”の慈悲なんて信じられるとでもいうの?」
 「そこはお前に選択の余地はないところだ。希望や可能性が少しでもあるんなら、お前はそれにすがるしかないんだよ」ケネスが見下ろして言った。「どれだけうまくやるかだ。巡ってきた運命の中でどうにかするか、自分の運命をどうにかするか、お前が自分のできる範囲で最善を尽くすしかないんだ」



 そのままケネス提督と神通は、トランターの司令部に戻り──確かに最初は、夜空と靄の大地のようなその空間から引き返す際は、馬に揺られて戻りはじめたように思えたが、いつのまにかそれは、記憶の中では軍の星間連絡艇での移動に変わっており、よく思い出せない──それから何週間かが過ぎた。
 ケネスはその後の話を何もしなかった。当面は、モーロック人の、また冥王軍とやらの話も聞かなかった。少なくとも、神通やリアンダーに理解できる話は、提督からも、その他のトランター司令部での連絡にも聞かなかった。
 先に倒れかけてから数日後に司令部の執務室に姿を見せたリアンダーは、平静をとりもどしているように見えた。神通は、その後に起こったこと──ケネス提督と馬で辿り着いた”宇宙の果て”の平野での出来事──を、全てリアンダーに打ち明けたい衝動にしばしばかられた。あの宇宙の果てで起こったことを話して信じるのは、いや、信じるかどうかはともかく、この話ができる相手はリアンダーしかいない。
 ナイト・オーダーの淑女騎士が自分よりも先に倒れるのを見る前なら、ためらいなくそうしていたろう。しかし、今打ち明けようものなら、それは辛うじて回復しているように見えるリアンダーを、おそらく前よりも酷い困惑に引き戻すのみで、思い出すほどに神通自身の混乱もますます深まるにすぎないのかもしれない。一方で、自分の中にだけしまい込んでいて、神通が正気でいられるかの確信もない。
 その日もしばらく迷ってから、リアンダーと会うのはやめて、神通は執務室に戻った。ケネス提督は執務室の机に向かった自席に相変わらず背をもたれて、別のМANGA本をいかにも斜め読みしていた。
 「提督」神通は切り出した。「あの宇宙の軍隊の、その後は」
 「ん? あの宇宙ってどの宇宙のどの軍隊だ」ケネスは本から目を上げた。
 神通はその言葉の意味を深く考えそうになったが、すぐに考えるのをやめて言葉を続けた。「私と提督で訪れた、辺境銀河の果ての、あの黒の女神なる者と、その手持ちの宇宙の軍隊と……」神通は思わず息を継ぎ、「そして、『冥王軍』に対しての戦果はあったのですか」
 ケネス提督は首を振った。「あの時に大佐の払ってくれたせっかくの労力に見合うほどの戦果は無かったよ。何もないまま、あの女神も宇宙もその軍も消滅した。モーロック信徒らの軍によってな」
 ケネスは続けて淡々と神通に説明した。黒の女神の支配する幾つもの宇宙からかき集められた神々の軍勢、地を焼き尽くす天使や悪魔、恒星間文明終末兵器といったものを含む大軍が、モーロックの軍に差し向けられたこと、そして全てが跡形もなく消滅させられたこと。冥王の配下のコボルド、オーク、ゴブリン、それらの呪術師らによって一方的に虐殺されたこと。黒の女神自身も捕らえられ、その霊魂は幽鬼王の配下の末端のオーク・シャーマンによってこまぎれに分断され、寸断されて、冥王軍の兵が用いる魔力工芸品(アーティファクト)を製造するための材料にされたこと。
 「冥王軍じゃ、下っ端の末端の兵士ですらそういう工芸品を軽々と使いこなしてるんだ。他のどんな並行世界(ワールド)の軍だって歯が立つわけがない。しかも、それも理由のひとつでしかない」
 「アーティファクト……」神通はその聴き慣れない言葉を反復するしかなかった。
 「ああ、永続的なアーティファクトには、”霊核”の一部を封入しなくちゃならない。大魔法を行う時に『生贄を捧げる』ってのはそれだ」
 ケネスはこの宇宙時代に、トランター政府の執務室の席に掛けている者が口にするとは信じられない言葉を、まるで当然のように神通に説明した。
 「生贄は獣や人間の血、霊魂の一部だっていいが、『冥王の妖術師』が自分の霊魂の大部分を『金無垢の指輪』に封じたみたいに、神霊の霊核なら、宇宙が何巡かしたってすり減ることはないからな。ノアレの、デーモン・ロードのたかが落とし子の一体でも、腐ったって神霊の霊核なら、細切れにすれば大量のアーティファクトの材料として使える。逆に言えば、冥王軍にとってすれば、あの女神なんてその程度の材料くらいの利用価値しかない」
 神通は無言で、理解しようと、否、告げられた事柄を呑み込んだ上で理性を保とうと努力しようとした。
 「いや、最初からわかってた話だ。あの女神とその支配する宇宙くらいじゃ、あの銀河帝国軍の艦隊の分の損失の、あるいは、その分をある程度埋める時間稼ぎにしかならないってのはな。それでも、被害は少しは食い止められる。この周りの並行世界(ワールド)の”影の濃さ”だと、冥王軍に対してできるのはどのみちそれくらいだ」
 ケネス提督は本を置き、上体を起こし、椅子に深く掛けた。
 「別の助力を見つけるしかないだろうな。そう簡単に協力、いや、戦力として利用できるやつらなんて、他にはそうはいないがな。『混沌の堂々たる鉄冠』と、刻まれた”徴”と、大量の並行世界の『イェンダーの魔除け』を手にした冥王の片手には、以前にやつを虚空に追放した神霊も妖精神どもも、もう二度と歯が立たないくらいだ。虚空で無力化してる冥王の他の部分さえどうすることもできない。……やつから魔除けを奪いたがってる他の神霊、特にマルドゥーク、つまり、バハムートの化身(アヴァター)の勢力に話をつけるって手もあることはあるが」
 神通は無言で、そのケネスの傍らに立っていた。冥王、モーロック、黒の女神とその掌中の無数の宇宙、それらに対して、自分は起こっている事態を把握することもできない。いや──そうではない。サムライ・オーダーの理力(フォース)の修練から、全貌ではないにせよ、どのような事態が起こっているのかは、おぼろげながら想像がつく。そして、このケネス・コーリーやその話に出る『冥王』は、存在をほのめかされていながらも、ほとんど信じられていなかった実体だった。それがわかるからこそ──今起こっている状況に対して自分の存在、自分の力は、無に等しいと思えた。
 「提督、このような発言が許されるのかはわかりませんが」神通はためらった後に言った。「私とリアンダー大佐は、この所属……この任務を、続けなくてはなりませんか」
 トランターの軍に助力するのは、サムライ・オーダーが神通に下した使命によるもので、あくまで所属はオーダーである神通やリアンダーが必ずしもトランターの軍の指揮系統に忠実である必要はない。オーダーにそれを申し出る余地は残されている。
 「無理強いする気はないが、ふたりとも居てくれると助かるところだ」ケネスは肩をそびやかして言った。
 「これも質問すべきことではないかもしれませんが」神通は低く言った。「私達は単なる武人です。有能な軍指揮官や、その他の……能力の持ち主ではなく。私達はお役に立つのですか」
 「オーダーの、理力(フォース)の修練のある大佐らの他には、このトランター軍に役に立つ人材なんていないよ。神通大佐は、あの早駆けの時に居てくれて本当に助かった」
 「理力(フォース)の使い手というだけでも、適任者が他にもいるはずです」
 神通はオーダーの正規のメンバーの中では最も若年のひとりで、フォースソードの剣技においても、十耀(ジューヨー)の型(フォーム)を極めるには遠く及んでいない。オーダーの長老ら、サムライ・マスターやハイマスターならば、もっと力になれるのではないか。
 「いざとなれば他にも助力を請うさ。だが、現に今、この場にいて対処できる者としては、神通大佐らに動いてもらうのが最善だ」
 「それでも、起こっている状況の中で──自分がこの戦況の中で、将来も力になるという気がしません」
 あの空間で目にした黒の女神の驚愕の表情、馬上で剣をふるった記憶を思い返そうとしても、何をしたのかも、何の実感も覚えることは不可能だった。おそらくそれ未満の問題、モーロックの地表勢力への宇宙連邦の抵抗、という問題の範囲だけとっても、自分の能力などは、何の影響にもならない、まったくの無力だとしか考えられない。
 「状況を自由になんかできないのは、つまり、わずかな行動、わずかな影響しか及ぼせないのは、誰だって同じだよ。冥王その人自身ですら、この多元宇宙(マルチバース)の中では、片手首から先しか動かせないんだぞ。だったら、まして己達なんかが、ひとりの力で何を自由にできる?」
 ケネス提督は神通の視線の前に、片掌を広げて見せた。
 「あの黒の女神にせよ、帝国大元帥にせよ、自分は宇宙を手に入れている、すべてを掌中に把握して支配している、そんなことを信じ込んでたから、その手にあるものを全部なくしたんじゃないか。誰だって自分の力で動かせるのは、わずかな範囲でしかない」
 「何千万の艦隊の犠牲、……一人のオーダーの力、……どちらも、その多元宇宙(マルチバース)というものや、それを股にかける冥王軍との戦いでは、わずかな要素だと、そう理解しろと?」神通は目を伏せて言った。
 「それはものの見方だよ。問題のとらえ方だ。犠牲にする数、自分を含めて何人までなら犠牲にしてもいいのか、そういう問題でもない。数や規模なんてのは、多元宇宙をどう見るかでしかない。問題は、もっと単純だよ。やらなくちゃならんこと、止めなくちゃならんことがあるなら、役割を果たすかどうか、そのために自分にできることをするかどうかだ」
 神通は執務室のケネス提督の席の傍らにそのまま立ち尽くした。この提督と行動を共にすることは……リアンダーが言うような、武士や騎士の名をかけるに値するのか。そのあまりにもとらえどころのない目的のもとに、単に軍隊の命令に従うように、あるいは機械的に働く以外のことができるのか。
 しかし、一方で、理解できなくとも、神通には漠然と感じられることはあった。幾つもの銀河を使い捨てに投げつけていたあの黒の女神の、”すべてが冥王の手におちるくらいなら他の何だってましだ”、という言葉、それは自分達の宇宙に起こった事態、さらに、あの女神やケネスですらも動く動機から考えて、ある程度の信憑性があると思われた。まだこの事態の全貌をとらえることはできないが、”すべてが冥王の手におちる”その事態を少しでも妨げるために、神通が自分の役割を果たそうとする、その理由にはなると思えた。
 きっと、今のところは。





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