イェンダーの徴: 緑の女神とモーロックの聖域








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 「この戦士団、リオンたちの世界で──イグドラスだかの信仰が広まってた世界で、偽の神の座に収まって、それをはびこらせて、この世界の信仰を乗っ取ってる、てのはわかってる」少年は、金髪の”女神”を軽く指さして言った。「何をたくらんでるのか言いなよ」
 「言うって? なんのために?」吊り上がっていたバエレトの目がふたたび笑った。「つまり、何故それをあんたなんかに教える必要があるの?」
 「いや、べつに必要はないよ」マールは肩をすくめた。「教えないなら、ぼくが知ってる範囲だけのことを、”混沌”か”原初”の”宮廷”に報告するだけの話だからね。魔神バエレトが、無断で勢力を拡大していて、その目的も言おうとしない以上、明らかに何か宮廷に言えないことをたくらんでるって、さ」
 「無断じゃなかったら?」バエレトは笑みのまま、「この世界で勢力を広めろというのが”宮廷”の意向だったら? さぞかし間の抜けた報告になるでしょうよ」
 「かもね。ときどき間の抜けた報告をするやつだって思われてるよ。けど、抜けてはいても、少なくとも『本当の報告』をするやつだとは叔父らには思われてるんだ」
 沈黙が流れた。かなり長かった。
 「──知り合いなのか。何者なんだ」リオンが囁くように、隣のマールに尋ねた。「女神じゃないってことか」
 「『混沌の血族』の落とし子の一体だ」マールが答えた。「早い話が、一種の悪魔、悪神の端くれだよ」
 「魔族か──」
 「君の知ってるMAZOKU(マールはすべての子音を独立させてこう発音した)かって話なら、まったくもって否だな。たかが人間の精神の考える負や闇の精神活動なんたらじゃない。この言い方でリオンにわかるかは別だけど、"順説(オーダー)の紋様(パターン)"の対極の、"逆説(パラドクス)の窮理(ログリ)"の具象そのもの。逆説のイデア、悪霊(Damned Spirit)だ」マールがバエレトを見たまま答えた。「この個体は、混沌の”宮廷”の王族に連なる、ともいえるけど、そういう見方でも、貴族どころか従士階級の妾腹の何番目かの娘ってとこか。ごく一部の並行世界や次元界、状況では『神』を名乗ることはできるといえばできるけど、多元宇宙全体に影響を与えられるような権能(ポートフォリオ)は持っちゃいない」
 リオンはふたたび当惑のまじった目を『鏡』の上の姿に戻した。
 「……いいわ。お互いに得になることもあるでしょうから」
 ただの宗教の像画(アイコン)かというほどに静止していたその映像の女神が、やがて、口を開いた。
 「私があのイグドラスの世界に目をつけたのは、あんな世界の支配とやらでも、古代神とやらでもないわ。あの神殿、いえ、神像よ」バエレトは言った。「あんな辺境の下位の世界の、あの神殿の像に。『イェンダーの魔除け』が祀られていたのよ」
 リゼが突如ぎょっとしたようにバエレトを、ついでマールをすばやく見た。が、マールはそれに何も反応した様子はなかった。
 「魔除けを持って『モーロックの聖域』に行って、『最終試練』でモーロックと取引するのよ。モーロックが魔除け、”徴”のかけらを、既にいくつか持っていて今も集めていること、かれら神々が、魔除けを捧げた者には半神(デミゴッド)の神位(ディヴァイン・ランク)を与えるのも知ってるでしょう。魔除けと引き換えに、多元宇宙(マルチバース)に君臨できる権能(ポートフォリオ)が手に入るのよ。あのイグドラスみたいな”影の薄い世界”であがめられるだけのけちな神性じゃなく、モーロックやコスやアーリマンたちと同様の、百万世界への勢力になる権能がね」
 しばらく沈黙が続いたので、マールが言った。
 「じゃ、さっさと捧げればいいじゃないか」
 「うーん、それがね」バエレトは蠱惑的に顎を上げ、その顎の前に人差し指の腹を当てた。「あのイグドラスの世界、あの神殿からだと、最終試練への入口、次元門が開かないのよ。イェンダーの魔除けは、”本物の門”を見つける鍵としての力もあるはず。それが開かないのは──きっと、あのイグドラスの世界が”徴”の末端すぎる配列にあるから、あまりにも”影が薄い”下位の並行世界だから、かしらね。だから、遠くの並行世界(ワールド)への門を繋ぐために、儀式が必要なのよ。信仰力を集めるため。そのための女神の教団。……すでに、私に獣を捧げる者も、自分の血を何滴か捧げる者もいるわ。そこから入る信仰力はいまのところ微々たるものだけど、このぶんなら、そのうちもっと大きい儀式、もっと力の入る犠牲が捧げられるのも、もう間もなくね」
 バエレトは水盤上に輝く映像の中から見下ろし、
 「どうして貴方に教えたのかわかる?」マールに向かって言ってから、バエレトは澄んだ藍の瞳を笑みの形に細めてみせ、「協力すれば、私が『イェンダーの魔除け』をモーロックに捧げて、多元宇宙に君臨できる力、権能を手に入れたときには、貴方にも見返りもあるわよ。……それとも、ああやって教団を使って信仰を集めるのが貴方に、あるいはそこの依頼人の方々にとって、不都合だっていうなら、相談に乗ってあげなくもないわ。貴方がそれ以外の方法で、『最終試練』への次元門を開けるのに協力してくれればね」
 「何をどう協力しろっていうんだ」マールが言った。
 「それは貴方の方が思いつくでしょう、混沌と原初の両方の宮廷に、血脈も人脈もある大魔法使の貴方なら。どれだけやってくれるかによって、私が手に入れた権能から、相応の恩恵を与えてあげたっていいわ。例えば、いくつかの並行世界については、共同統治者にしてあげたっていい」
 「いいや、何ひとつ思いつかないね」マールが即座に答えた。「そんな価値のある話なんて、そっちの相談だろうが、こっちの協力だろうが、これっぽっちも思いつかない」
 「なんにも知らないのね」バエレトの澄んだ瞳が微笑した。「独立した神位、多元宇宙に君臨できる権能を得れば、”宮廷”に怯える必要もないし、貴方みたいに混沌や原初の王族どもの”宮廷”の使い走りになる必要もないのよ」
 「そっちこそ何を知ってるっていうんだよ」マールはどこかげだるげに指を上げ、バエレトを指して言った。「たかがモーロックなんかに『イェンダーの魔除け』をくれてやるなんて、それが最良の選択だ、とか思ってる時点で、何も教わっていないんだろう。魔除けについて教えてくれた、そちらの父親やらおじい様やら、あるいは他の魔神らにはさ。モーロック自身だか、あるいはセトだかコスだかが、君を利用するために、都合のいいことだけしか教えてない、とか考えないのかい。君もやつらの手管を知らないわけでもあるまいに、さ」



 マールはやがて肩をすくめ、「君が教わってるのがその程度だってんなら、あとはたいして話を続ける価値はないね。……なるほど、”宮廷”に報告しておくよ。遊んでいられるのも今のうちだ」
 「報告するですって、何──」
 「何ってそりゃあ、君が今、自分から白状したこと洗いざらいだよ」
 バエレトが眉を吊り上げた。
 「騙したのね! 何が『本当のことを言うやつとして信用されてる』よ──」
 「騙したって、『そっちの目的を教えれば宮廷に報告しないでおく』、なんて、一言も言ってないじゃないか。だいたい自分の手札にたいした価値がある、”魔除けで自分に入る力”やら”権能のおこぼれ”をちらつかせれば、誰でも飛びついてくるなんて、勝手に君が思い込んでただけだろう。……仮に、ぼくにとって価値があったところで、悪魔と”交渉”なんてしないよ。もとい、どのみち君には交渉の余地なんて最初からなかったんだよ、バエレト」
 バエレトは獣じみた形相で目を剥いた。「このいかれた毒蛇(アーリマン)とあばずれの落とし仔がッ」
 「そっちはしょせん”生ごみの山の主(バアル・ゼレブク)”の妾腹じゃないか」マールが水盤にばさりと小石を放り込むと、『マーリンの魔法の鏡』の輝きは消滅し、女神の像も吹き散らされた。
 突っ立っているリオンの方を、マールは振り返り、
 「事情は今聞いた通りだよ。つまり、よその世界のあの魔神が、君のイグドラスの世界で見つけた魔除けを利用するため、その信仰力を集めるために、自前の魔法を信者に与えて、イグドラスの世界の女神を装ってる、って話だけど。といっても、それ自体はリオンにはあんまり意味はない情報だね。結局、対策はあまり変わらないだろうから。やりたい放題の教団を潰す、それしかやることはない」
 リオンは頭を整理するように振ってから、
 「……さっき言っていた、イェンダーの魔除けとは何だ。そんなものが、僕らの世界にあったのか。それがあの女神、魔神とかの企みの中心で……一体何なんだ」
 「『イェンダーの魔除け』は、緻密度・複雑度の塊だよ」マールがリオンに答えた。「さっき言ったように、この多元宇宙(マルチバース)は、緻密度が再現なく枝分かれしてる構造が無限に続いていて、その多元宇宙の構造図が”イェンダーの徴”だ。”徴”を刻まれた物品はいくつかあるけど、中でも『イェンダーの魔除け』は、”徴”を見つけた『イェンダーの魔法使い』自身が施したものだ。『魔除け』を辿れば、どの並行世界のどんな原理でも引き出せる。イグドラスどころか、多元宇宙のどこでも、神性のごとき力をふるえる、権能を手に入れる、といってもいい」
 マールは宙に小指で何か、回転する”徴”の一部、『,』や『”』のような形を描いてみせ、
 「それを集めようとしてる連中、魔法使や神や魔神もいるし、モーロックみたいにすでに”徴”の断片を幾つか持っていて、もっと集めてる連中もいる。どこかの迷宮の26階層以下に無造作に落ちているのを手に入れようとしてる連中もいるし、すでに持っているモーロックその他から奪おうとしてる連中もいる。……ただ、誰でも使えるわけじゃない。バエレトみたいな下級の魔神じゃ、自力で魔除けの力を引き出す能力がない。魔除けみたいな特に複雑度の高すぎる紋様は、バエレト自身の力では制御できないんだ。だから、もっと力のある、すでにある程度の権能を持っている本物の神性、モーロックやコスやセトとかに、魔除けを上納して、引き換えにある程度の力を分けてもらうしかないわけだ。ぼくらの──まあなんだその、魔法使やらドルイドやらの間では、その魔除けを神性とかに捧げる儀式とか場所を、『最終試練』と呼ぶやつがいる。本当は最終試練にはこみいった様式が必要だけど、バエレトは偽の神として信仰力をかき集めることで、近道をしようとしてるってことだ」
 「マール、その『魔除け』の場所はわかると思う」と、そこで突然、ニムエが平坦な声を発した。「リゼさんが見つけてた」
 「イグドラス世界の、あの教団の、古代神の神殿にあったというか、そこの神像が持ってたんだ。護符をな」リゼが思い出すように、自分の額を撫でて言った。「石と魔法に封じられてて、しかも女神の信者たちに追っかけられてる最中に取ってくるのはかなり難しそうだったんだが……最終的には、それも回収してくるべきなんだろう? てか、『イェンダーの魔除け』って、その」リゼは言葉を忍ばせるように、リオンや戦士団を見回してから、「マールが”徴”を追っかける上じゃかなり、最終目的、ってやつに近い代物だよな……」
 「いんや、それは別に無理して回収しなくったっていいよ」マールはあっさりと、ぞんざいなウェールズ訛りで言った。「教団はともかく、バエレト本人と正面から戦って奪い合う羽目にでもなれば、やつも下級のどん底ったって魔神の端くれだ。そう簡単な話でもないだろうしさ」
 「そりゃそうだけどさ」リゼは当惑して、ニムエと顔を見合わせた。
 「なんにせよ、君らがやらなきゃいけないことは結局変わらないよ」マールはふたたびリオンの方を振り向いて言った。「その法王と高司祭らを討ち取って、教団を潰すだけだね。その助力はする。教団と一緒にバエレトの計画が潰れれば、やつは立て直す暇がないから、ぼくや”宮廷”の目の届かないまた別の世界に敗走するしかない。……リオンらのために、急がなくちゃならない。このまんまバエレトや教団の好きにさせて、君達のイグドラスの世界が収めきれない緻密度、その世界でありえない現象を際限なく起こさせておくと、イグドラスみたいな”影の薄い”世界は、簡単に細切れに引き裂けちまうぞ」
 「あっちは別に世界が壊れるとかじゃなく、教団の儀式と『最終試練』が普通に成功すると思ってるんじゃないのか」リゼがマールに言った。
 「それもありえるけど、たぶんバエレトのやつもちゃんと教わってなくて、何が起こるのかよく知らないからね」
 「世界の終末が来るのか……」リオンが目を見張って言った。「イグドラスの伝承には、魔族たちの最終目的は、蛇竜神の維持する世界のすべてを破壊して虚無の闇の海に帰し、破壊によって生じる苦悶などの精神活動による負の力を手に入れようと──」
 「人間の理屈が考える、破壊だとか負の精神なんたら、とかの問題じゃないってさっき言ったろう。世界同士が隣り合ってる”徴”の配列から、多元宇宙の因果から、君達の世界が丸ごと消滅するんだ。虚無なんたらとかの空間もなく、両隣の並行世界同士が、最初からイグドラスの世界なんて無かったかのように繋がっちまう。MAZOKUとやらも、蛇竜神とやらも、ひっくるめて全部、終末も開始も、虚無自体も何もかもが、最初からなかったことになっちまうんだよ」マールはこともなげに、まるでウェールズの田舎の野菜畑が大雨で流されるか何かのような口調で言った。
 ……リオンには結局のところ、よく理解はできなかった。ただ、マールやリゼ達の事情から見ても、バエレトを止めたいような状況が起こりつつある、リオンらに助力してくれる理由がある、という点を想像するのみだった。
 「教団と戦うってことは、つまりアレか、セトの名にかけて」リゼがうめいた。「またアレに殴られるのか、『大地の御使い』に」
 「やつのシジルが手に入ってるから、これをもとに、バエレトの名においての魔法、つまり『女神の力』とやらを破る呪文を書ける。地元素霊(アースエレメンタル)でも何でも、バエレトの召喚したものは壊せるだろう」
 マールはさきほどの、バエレトのシジルが描かれたプレートを眺めてから、指先でリオンの剣と、リゼの闘剣(グラディウス)の刀身に、紋様を書き付けるようになぞった。剣にはなぞった箇所がかすかに発光するような、光の屈折率が違っているような模様が残った。一部がそのバエレトのシジルのようだったが、それよりもかなり複雑で長い模様だった。
 「マールの呪文を、っていうか自分が持って帰ってきたシジルを信用しないってわけじゃないけど、その、なんだ」リゼが『妖精郷』と書かれた、粗い粉の入った箱を持って言った。「なあ、あと、あの粉を少し持っていってもいいか……」
 リオンは紋様の残る自分の剣をしばらく見おろし、さらに無言で顔を挙げて再びマールを見た。
 「その剣に描いた呪文と、あとはリゼとニムエがもういちど同行する。それがぼくらの助力だ」マールはリオンと戦士団に言った。「それでバエレトに力を貰った教団を破るには充分だろうし、やつの計画を破るにも充分だろう」





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