イェンダーの徴:廃神の骸







 2

 「そんな……」キリヒトは倒れるように足元に膝と両掌をつき、その声の元である、巨大な土塊に対して目を見張った。「何か……いる……??」
 「死んだ神とは話すこともできる、こともある、と聞いている」老騎士デュラックが、明朗な口調とは裏腹な、いいかげんな文言で言った。「神の残滓、遺物にすぎないといっても、人間よりも遥かに大規模な情報量、意思、存在の総量が残っている、ためであると聞いたことがある」
 キリヒトは茫然と、当惑したまま、そびえたつ丘のような巨大な顔に歩み寄っていった。人間の造形をわずかにとどめている、巨大な顔を見上げた。
 キリヒトに続いたシルヴァナとデュラックは、キリヒトのその横顔を見つめたが、当惑の他には、父の面影を見出したなりの何かを認めた様子はなかった。
 『キリヒトなのか?』
 しかし、足元全体からの振動と共にその声が響いた。淡々としており、感慨のようなものはその声にもなかった。
 「ああ……」キリヒトは曖昧な声を出した。
 「君のことはわかるようだ」デュラックが言わずもがなの声をかけた。「君の記憶を頼りにこの《アストラル中継界》を旅してたどりついたのならば、求める相手ということのようだ」



 「本当に父さんなのか?」キリヒトが、そびえたつ巨大な岩塊の顔に問いかけた。「伊阿部(イアベ)なのか?」
 『私はそのような名ではない』が、地から響く声はそう答えた。『私の人間としての名は、カール・グロガウアー・コーリー』
 「誰だそれは!」キリヒトが叫んだ。「聞いたこともない。父さんなんかじゃない」
 『私は伊阿部という名も”所有”しているが、今では私の人間としての名ではない。伊阿部の過去も所有している。伊阿部の息子の名前は、今言ったようにキリヒトだ。私はお前の父の過去も所有している。その人間としての名や過去も用いていたこともあり、今も所有しているが、その過去は”使用”することはない』
 「過去を……所有? ……使用しない?」キリヒトがうめくように言った。
 『カール・グロガウアー・コーリーは、もとはクロムが所有していた人間としての顔、名と過去のひとつだ。かの者の所有していた無数の名のひとつを付与された』
 「やはり、全てクロムの作為か」デュラックが呟いた。
 「わからない……こんなのが、父さんのわけがない」キリヒトが岩塊を凝視したまま、うめくように呟いた。「言葉使いも声も全部違う。話していて別人だって、全然違うってわかる。父さんどころか……その、人間でもないみたいだ……」
 「人間が”神”になった時点で、もとの人間とは──もとの人間の姿を纏う、”使う”こともありますが──別個の存在です」シルヴァナが説明した。「そして、神がその権能を喪失しても、つまり神として死んですべての力を失っても、もとの人間に、定命の存在に戻れるわけではありません」
 キリヒトはその言葉を聞いているのか聞いていないのか、死んだ神の巨大な岩石の面(おもて)に、ふらふらと歩み寄った。
 「一体、何が起こったんだ」キリヒトは岩塊に手をついてうなだれた。「人間も全ての者も超えた、神になったんじゃないのか? 何もかも支配してるはずなのに、なんで他人の名前を使ってるだとか……クロムだとかいうのは、なんで全能の神に対してそんなことができるんだよ。クロムに何をされたんだよ」
 『何が起こったか知りたいか。クロムとの間に何があったか知りたいか』
 その振動による音声はひときわ岩塊全体の激しい鳴動を伴った。
 『クロムの助力で、なにもかも全てのものを、全能の力を得た。──そして、クロムに全てを奪われた』
 そこから、しばらく振動は中断した。思い出そうとしているかのような間だったが、はたして、神にそのその必要があるのだろうか。あるいは、”使っていなかった過去”を引き出そうとするには、その必要があるのか。
 『運命の大迷宮で、『アーリマンの心臓』と『死者の書』を手に入れ、そして《苦界(ゲヘナ)》の最下層のモーロックの高僧から、『イェンダーの魔除け』を手に入れた。最終試練、4つの元素界を通り、《アストラル中継界》にある三つの祭壇から、古代神クロムにイェンダーの魔除けを捧げた時、神位(ステイタス)を手にした。多元宇宙、全次元で力を持つ真の権能を手に入れたことで、本物の全能の神となった』
 岩塊を見上げるキリヒトと、他の三者の前で、鳴動はしばし沈黙してから、
 『クロムに案内された、ある地球、ある並行世界で、世界の万物の上に”造物主”として君臨した。その世界で知られたカール・グロガウアー・コーリーなる、クロムの持っていた名を用いて、地上に降臨して奇跡を起こした』
 「なんで別の名前だとか別の地球なんだ!?」キリヒトが咎めるように言った。「自分がせっかく地球の、『リアル世界』も全部思い通りにできる神になったのに、その”自分”だとか、元の地球のリアル世界を捨ててどうするんだよ!?」
 『人間だった頃の名やら過去など、どれを使おうが同じだ。どこの地球だろうがどれも地球で、丸ごと一つの地球を支配することにかわりはない。私の人間としての記憶でも、”元の地球”、生まれ育った”現実世界”などに、愛着を感じたことなど一度としてなかった。価値も感じなかった。ならば、どの地球でも支配さえできればどれも同じだ。誰か他の者が歪に作った醜悪な”現実世界”などをひとつひとつ修正するよりも、最初から自分の思い通りになる世界を相手にした方が、理想に近い世界ができる』
 「クロムにそのように吹き込まれたのだな」デュラックが口を挟んだ。
 『クロムがそう語ったのか、といえば、その通りだ。だが、それは神にとっては妥当な認識だ。神となった者の規模にとっては、神となる以前に生きていた人間としての生や、元の地球での生など、そんなものの区別は既に顧みるに値しない』
 キリヒトは困惑したようだった。やはり神が人間とは別次元の意識と化したこと自体を理解できないのだろう。
 「だからって……なんでクロムに貰ったもの、クロムに案内された地球だの、クロムから貰った名前をそのまま使うんだよ!? せっかくすべてを超越した神になったのに、自分で決めるんじゃないのか!? なんで誰かの言いなりなんだ!?」
 『その時点ではクロムを疑う理由など無かった』死んだ神は地の鳴動でキリヒトに答えた。『クロムは魔除けを渡したことに感謝し、同族の神の座に案内してくれた者だ。先に神であった者として教え、力をふるい君臨するのに有利だという世界や、その手法を案内してくれた。なぜ自分に有利になるような案内を拒否する必要がある?』
 「”異世界に行けば前の世界よりも都合のよいように運ぶ”と、クロムがそんな口実を使ったとは思えないが、なぜか、自分の方から進んでそう信じ込みたがる輩はあとを絶たない、とはよく聞くな」デュラックは肩をすくめた。「おそらく、実際はクロムの意のままに操られ、強制されていたが、それにさえ気付かないようにされていたのだろう」
 『事実、その名にも世界にも、何の問題もなかったのだ。思うままに超越者の力をふるうには何の支障もなかった』鳴動する声は、思い出しながらのように緩慢に言った。『その世界で、思うままの創世を行い、理想郷を作った。いや、作ろうとした。少なくとも当初は。だが──』
 振動が途切れ、不気味な静寂が覆った後、しばらくして、
 『──その地球には、他にも創世を行う者、全能者として君臨している者がいた。その相手も神だった』
 「それはおかしいだろ!」キリヒトが叫んだ。「全能の神、最高の、至高の存在は、世界にひとつだけのはずだ!」
 「ひとつの世界に、自分達の掲げる神こそが唯一で至高の存在だと主張する者たちが、別々に複数いるなど、いくらでもあることではないか」老騎士デュラックが、何かを思い出すように言った。「あるいは、そのどちらの言うことも『正しい』のかもしれぬ。人間などに何がわかる。神のあり方などに、”人間”が理解できる”理屈”が通るものなどという保証はどこにもない」
 『その世界の人間の歴史にして40億年間──その世界の至高者の座を巡って、破壊と創造を繰り返し、その相手と争い続けた。私を信ずる民には、神の奇跡として、”現代地球の科学文明”を与えた。相手方の神の民は、”石器と精霊”などというものを使っていた。だが、私の民も機械兵器も文明も、そんな相手らに対する戦いで一人も生き残れなかった』
 「そんなやつらに勝てないわけないだろ! ”現代科学”があるんなら、相手の城にでも何でも、核とか落とせば一発だろ!」キリヒトが叫んだ。
 『その通りだ。私の民が相手の部族を核で滅ぼすのと同時に、かれらの民の大精霊による天変地異が襲い、陸地の全土を草一本すら残さず蹂躙した。地表から両方の民が、一人残らず死に絶えた』
 死んだ神の鳴動する声は続けた。
 『相互に戦力が無くなった私と、相手の神自身が戦い──私も相手も致命傷を負ったが、その後、相手がどうなったかわからない』
 しばらく死んだ神の言葉が途切れ、何か中途半端な雑音のような震動が混ざり、
 『だが、間違いないことは、倒れた我ら二者のもとに、クロム神が現れ──黒い服と銀の薔薇、緑の目のクロムが──我ら二者のどちらの”権能”も、クロムが持ち去ったということだ』
 そこから、記憶がおぼろげなのか、振動を介した神の言葉は断続的になってきた。
 『その後──滅亡したその世界から──気が付くと、身体も心も死んだように動かず──この空間に浮かんだまま──』



 「神でも、権能の全てを奪われれば、神として死にます。死んだ神(デッドパワー)です」シルヴァナが、土くれでできた足場を見下ろし、「あとは、このように残滓のみとなります。《主物質界》を含むあらゆる《内方次元界》にも、もちろん昇天した直後の本来の神々の居所である《外方次元界》にも、もう居場所がありません。よって、空間でも時間でもないこの虚空、《アストラル中継界》が、神の永遠の墓場となるのです」
 『多元宇宙における真の権能を手にした私は、少なくともあのひとつの地球では、カール・グロガウアー・コーリーとして、間違いなく全能の造物主の力を揮うことができた』低く鳴動する声が言った。『しかし、同等の権能の持ち主は他にもいくらでも──そして、クロム神にとっては、どちらの権能も、あの者の手持ちの何百枚、何千枚ものコインのうち一枚でしかなく──』
 それは、シルヴァナが紅葉にも何度か説明したことのある、多元宇宙(マルチバース)の原理のひとつだった。クロム、ミトラやセトといった多元宇宙に君臨する強力な神性は、特定の並行世界(ワールド)を支配するだけでなく、多元宇宙の全世界で有効な権能(ポートフォリオ)を所有する。一部の世界に限られた能力を持つ無数の神と、強力な古代神との差がそこにある。その権能のほんの一かけら、塵ほどでも与えられた者であっても、そうした全次元の神性の最下位である”半神(デミゴッズ)”の地位を獲得し、それ未満の特定世界のみの神や、全次元でも準神格や英雄神といった存在とは隔絶した能力を有する。そうした”半神”であっても、権能が宇宙の事象を操れる能力や、顕著神格能力、現実変容能力のみでも、他に同等の存在がいない世界や、”影の薄い”大半の世界の中では、まさに全知全能の造物主に等しい絶対的な能力を発揮する。
 「つまるところ、クロムにとっては、魔除けの代替として”半神”の地位にのぼらせた者は、手駒のひとつだったのだ」デュラックが言った。「他の古代神、セトやモーロックと抗争するための手駒で、抗争相手の方もそのような駒の半神を使っている。あくまで結果から言えば、クロムはその抗争相手の手駒の半神を倒し、もとはセトなりモーロックなりが持っていたその半神の権能、コインの何枚かをかすめ取る、たったそれだけの目的のために、君の父に造物主や唯一神の真似事をさせていたのだ。クロムは目的を果たし、この神、元はイアベという人間だった捨て駒は、死んだ神として不要になって、どこの世界でもない間隙の虚空、この《アストラル中継界》のからっぽの空間に捨てられたのだ」
 『しかし、あの権能をもう一度手にすることができれば、私にもふたたび全能の力が──』鳴動する死んだ神の声は、次第にかすれて聞き取りにくくなった。『だが、この身体では、もはやそれもかなわぬ──」
 「信じられない……神になれば、何者も超えられる力が手に入るんじゃないのか……」
 キリヒトは冷たい石壁のような塊に、よりかかるように手をついてうなだれた。





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