イェンダーの徴:廃神の骸







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 鈍く輝きのない金属色、銀色の空間が見渡す限り広がり、ほとんど見通せないにもかかわらず、そこには果てのない空間が広がっていると把握できる。それは、筒状の雲が渦巻いて視界の上下を横切り、あるいは、かすかにきらめく線や点が映り、それらが際限ない遠くから近くまで様々に垣間見えるために、広大な空間の遠近をかろうじて認識させるためだった。もっとも、それらの視界を横切るものの姿は稀であり、光景の殆どは果てしない虚空だった。
 その銀色の虚空の中にひとつ、岩山ほどもある、巨大な石くれのような塊が浮かんでいた。その表面は艶もなければ目立つほどの地形の起伏もなく、苔も草木もないまったくの不毛であり、岩石でも土砂でもないことは確実だが、他に似ているものもなく、石くれや土塊としか呼びようもない。
 その石くれの上に、4人の男女がおりたった。ひとりは、すでに老境に入って久しいと思われる騎士だった。かつては緑だったらしい色褪せた胴着の上に、無数の凹みや傷のある鎧をまとい、腰には優美というよりは禍々しい形状の、翼か刃のように広がった鍔を持つ拵えの長大なカオス・ブレードを佩いていた。重装備を負っても、いまだに背筋は伸びており長身なのがわかる。
 「さて、奇妙な空間を奇妙な旅をしてきたものだが、着いた場所は、さらに奇妙であるようだ」一行のうち最初にその岩山におりたった老騎士は、足場の感触を確かめるように、そう言った。
 「《アストラル中継界》内での移動は、厳密には時間でも空間でもない次元界を、想像力、記憶をたどって移動することになります」次におりたった貴婦人が言った。「今までの銀色の空間がそれです」
 揩スけた貴婦人は、くすんだ赤毛をもち、白地に銀糸のケープと長衣をまとっていた。よく見ると、足元には白く輝く円盤、否、よく見ると、それ自体が呪文の輝く文字でできた”円陣”のようなものがあり、もとは足場にしていたその円陣から岩山に降り立ったようだった。どうやら、一行がこれまでにこの空間を移動する際に載ってきたこの呪文を制御していたのが、この貴婦人のようだった。
 「キリヒトさんの想像、記憶を辿ってここまで来た以上、ここが目的の場所であるはずですが……」貴婦人は足場をやはり疑問を含んだ目で見下ろしてから、うしろの少年を振り返った。
 キリヒトと呼ばれた少年は、10代半ばというところだが、短い黒髪に、黒い裾の長い上衣を着て、やはり帯剣している。
 「ここは何なんだ?」キリヒトは土くれの上に降りたってから、上空の銀色の空間を見回した。「こんなところに父さんがいるってことなのか?」
 「君の父の記憶から辿り着けるはずの者が、か。もっとも、今は”神”となっているという君の父だが」老騎士が少年を振り向いて言った。
 「──この場所で合っています」
 口を開いた最後のひとりは、山伏の装束をした、ほぼキリヒトと同じ年ごろの少女だった。高下駄に、反りは全くないが拵えは大太刀の一口を腰に佩いている。短く切った髪は真っ白で、目も赤く、肌も白く色素が全くない。少女はその佩いた剣から伝わる感触を確かめるようにした。まるでその剣から、この土地に関する何かが知れるとでもいうようだった。
 「ここが”神”の上です」
 少女は土くれを見下ろして言った。それから、近くにそびえ立っている小山を指さした。
 一行の他の者らは息を呑んだ。キリヒトは喘ぎ声すら漏らした。その小山と見えた巨大な塊は、人間の頭の形状をしていた。そして、その手間に両側に伸びた尾根は、開いた人間の両腕と手だった。この場所に降り立つ前、遠くからでは、逆に細部がわからなかったのだ。この虚空に浮かぶ巨大な土くれは、おおまかには巨大な人型に相違なかった。
 かれらが立っている場所こそが、巨大な神の身体の上だった。



 老騎士デュラック、連れの貴婦人”銀糸のシルヴァナ”、剣士の少女の紅葉の三者が、古代神クロムの手がかりを探すうちに出会ったのが、この少年キリヒトだった。
 少年自身も”冒険者”で、剣と魔法の両方で最強ということだったが(その出会った並行世界(ワールド)、つまりネットゲーム世界の99レベルで人間の域としては限界、などと、よく意味のわからないことを名乗った)彼は、姿を消したという父、イアベ(伊阿部)の消息を探していた。
 「俺には何も言い残さずに消えたんだ」キリヒトは他の三者と出会った旅途中の酒場宿で、そう言った。
 「お父様とは、いつも話はされていたのですか」”銀糸のシルヴァナ”が尋ねた。
 「いいや……あまり、話だとかはしなかったけどさ」キリヒトはやや口ごもり、「ただ、俺とは……似てたんだ。だから、色々と父さんから知った」
 「口で教わりはしなくても、その姿を見て学ぶことが多いようなお父様だった、というわけなのですね。実際の世の中で立派に生きる様を」シルヴァナが穏やかに言った。
 「まさか」キリヒトは不意に、ぶっきらぼうに言った。「あんなリアル世界なんかに、『立派に生きる』なんて何もあるもんか」
 シルヴァナは怪訝げに、キリヒトを見返した。
 「父さんだって俺と同じ考えだったよ。よく親や大人が押し付ける話みたいに、リアルの世の中に出ていけだとかそっちで生きていけだとか、無理矢理に俺に押し付けたりとかは、絶対しなかった。父さんは自分も、あんな退屈なリアル世界なんかの側じゃなく、こっち側の人間だったからさ。ゲームの世界の面白さを教えてくれた。昔の、ネットとかハックとかいうゲームのことなんかを話してた。名前からして、きっと俺と似たようなネットゲームをしてたんだ」キリヒトはひとしきり思い出すように言ってから、「よく話してたとかでもないけど……仲が悪かっただとかじゃないんだ。だから、いくら急いでたって、何も言い残さないで消えるってのはおかしい」
 そのように突如として忽然と姿を消した父の手がかりを、キリヒトは『リアル世界』でも『ネット上』でも出歩いて探し回った(などと、意味のわからないことを三者に説明した)が、何も手がかりは見あたらなかったという。
 しかし、きっかけは不意に、身近なところから見つかった。”父のPCに残っていた記録”(デュラックやシルヴァナの理解では、おそらく日記や手紙のようなものだろう)を整理していると、何か覚書や、ネットの誰かとのやりとりが見つかった。それによると、彼の父イアベは、そのネットだかハックだかいうゲームの終点、最後の到達点で、『クロム』なる者と出会い、神となることができたという。そして”昇天”し──キリヒトの認識としては、その記録の日時から直後に、父は住居からも職場からも、その他の場所からも、文字通りに忽然と消え失せた、というのである。
 「父さんは、ゲームを最高まで極めて本当に神になったんだ」キリヒトが真剣に言った。「俺はそう信じてる。クリアすると、リアル世界の願いが何でも叶うって都市伝説があるゲームもある」
 「”昇天”したといえば、神位昇格(ディヴァイン・アセンション)でしょう」シルヴァナが言った。「神々の住む領域、《外方諸次元界(アウター・プレインズ)》のいずれかの次元界に移動して、人間の知覚できる範囲から消え失せた、ということです」
 「神になったってことは、世界を支配してるんだろう」キリヒトは、シルヴァナの言葉を理解してかせずか答えた。「神の力もふるってるはずだ。99レベルの冒険者よりも強大なものになったんだから、そんなに大きなものの、存在がわからないはずがない」
 「そうとは限らないかと──」シルヴァナは、キリヒトのその発想そのものに当惑したように言った。デュラック(騎士として、敬虔な信仰を持つと現役当時は呼ばれていた)やシルヴァナの神に対する意識とは、かなり異なる認識のように聞こえた。
 「少なくとも俺なら、神の息子になら、知ることができるはずだよ」
 そうは言いつつも、キリヒトがいくら探しても、それ以上は父の消息に関する手がかりは手に入らなかった。名前すらも聞かなかった。
 ……しかしながら、キリヒトの話によると、ある日突然、見知らぬ人物ではあるが、ごく普通の訪問者、キリヒトの世界の住人と思われる少女がやってきて、手がかりをくれた。一方的に訪れ、一方的に話し、そして姿を消した。
 「黒いセーラー服を着た女子中学生だ」
 「何の服だ? 何の学生だ?」それらの聞き慣れない単語に、デュラックが聞き返した。
 「地球の一定の立場の女性には、ごく当たり前の服装のひとつです」それまで離れた場所に腰掛けて、何の反応も示さずにキリヒトらのやりとりを聞いていた紅葉が、突如口を開いた。
 「記憶があるのですか?」シルヴァナが尋ねた。かつては地球の人間から、クロム神の呪いにより『天狗』のような存在に変貌した紅葉は、”地球”での『人間』であった頃の記憶は全て失くしているはずだった。
 「『学校』に関するものならいくつか」紅葉は肩に抱くようにしたままの反りのない大太刀を抱えて言った。「クロム神からこの剣を手に入れた経緯と、それらは関係があるので」
 ともあれ、キリヒトの前に現れたその少女が父の消息、神の居場所について、突如手がかりをくれたというが、確かにその世界のごく普通の人間だったのだろうか。
 「外人でさえないよ。普通の”日本人”だ。黒いセーラー服に、黒くて長い髪の。ただ、目は金色だった。その話をしたきりでいなくなったから、詳しくはわからない」
 ともあれ、その少女が教えてくれたのである。キリヒトの父、イアベは、今は《アストラル中継界》にいる。そして、アストラル中継界では、歩いたりではなく、想像力、知力で移動することができる。つまり、今では父のことを一番よく知っているキリヒトが、父についての記憶を辿り、呼び起こし、想像し続ければ、神となったイアベの居場所に辿り着くことができる。魔術の心得のある者の助力こそ必要だが、その場所にはキリヒトの記憶があれば、必ずたどりつくことができる。
 「それは《アストラル中継界》の性質と移動については確かな情報です」シルヴァナが慎重に言った。「ですが……その学生とやらは何者でしょう。アストラル中継界の性質について正確に知っている者は、並行世界(ワールド)によっては全く居ないこともありますが、”地球”では多いとも少ないともいえますが、少なくとも限られています。ただの地球人なのか、そうでないのか」
 「だが、何故それだけ伝えに来たか。皆目わからんな」デュラックが首を振った。
 ともあれデュラックらは、父を探すのに協力する者、特に”アストラル中継界への旅”が可能な、魔術の心得のある同行者を探していたキリヒトからそれを聞き、協力することに同意した。かれらの側としても、キリヒトに同行する利益はあった。少年の父がクロムの神と出会って──おそらくはその助力を得て──神となったという経緯は、紅葉がクロム神から”剣”を授かった経緯とおそらく似ているのではないか。そしてデュラックらも、キリヒトの父、イアベを探し出せば、現在クロム神がどこにいるか、少なくともクロムに到達するための手がかりを聞き出せるかもしれない。



 「”死者となった諸力(デッドパワー)”、廃神(ヴェスティージ)ですね」”銀糸のシルヴァナ”が、わずかに人型の形跡を残す巨大な岩山を見回して言った。「神として死をむかえた者、神の能力、権能(ポートフォリオ)の全てを失った者は、《アストラル中継界》に死体だけが浮かんでいることがあるのです」
 「そんな……精神面(アストラルサイド)は、天界だとか精神存在世界とか、高位の精神生命体のいる世界のことだろ!?」キリヒトが、その場の他の者にはほとんど意味のわからない自論をまくしたてた。「神は……神になった父さんは、神とか上級魔族が住んでる精神世界に永久に君臨してるはずだ!」
 「全く関係ありません」シルヴァナは素っ気なく答えた。「《アストラル中継界》は、霊魂や神霊の住む《外方次元界》とは全く別物です。アストラル中継界それ自体は、神性の住居ではなく、《外方諸次元界》と《内方諸次元界》を移動する際の”通り道”でしかありません。そして、そのどちらにも居られなくなった者が捨てられる場所です」
 「これが父さんなんてありえない」キリヒトが足元の巨大な土塊を見て、つぶやくように言ってから、「その……何だ? 死神だとか……」
 「『死神(Power of 'death')』でも、『死者に関する神(Power of 'dead')』でもなく、『死んだ神(Dead power)』です」シルヴァナが訂正した。
 「”神”が死ぬなんてありえないだろ!」キリヒトが反駁した。「その……全てを超えた超越者になったんだったら……」
 『そこにだれかいるのか』
 そのとき、かれらの立っている足元そのものが振動するような声が響いた。





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