イェンダーの徴: デルファイの隅の人馬像







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 「つまり、魔法書の略奪、左様な野蛮な破壊と強奪と行為のためにこの神聖なるデルファイの神託所を訪れたと、つまりそう言うのじゃな!」オラクルはワルキューレに食ってかかった。長身の大人の凛然とした完全武装のワルキューレに、ちんちくりんでキトン一着のオラクルが見上げながらがなり立てている様は、かなり滑稽なものでしかない。「神々の怒りというものをよほど恐れぬと見えるのう!!」
 「いえ、このデルファイへは、あくまでも神託を受けに来たのです」ワルキューレは答えた。「ですが見たところ、聖域に誰もいない、現れる気配もないので、階層をひととおり探索することにしたのですが」
 話の順番は支離滅裂になっていたが、リゼにはだいたい、どのような経緯の事件が勃発したのかは把握できた。
 結局のところ、ワルキューレは神託を求めてきたのは確かだが、一見、授ける者が不在、だと思ったので、迷宮探検家として、迷宮の階層内の宝を漁ろうとした。つまるところ、この四隅の像を神託所の備品だと気付かなかった、つまり他の迷宮の物体と同様の所有者のいない廃物、迷宮探検家の略奪対象だとでも思ったのだろう。そして、宝箱の類と同様に、魔法書が封印されている可能性を、そのつるはしでもって『探索』した、というわけだった。
 「ううぬぬぬぬぬぬぐぬぐぬぐぬぬぬぬ……!!」が、それを把握できないでか、あるいは理解しても納得できないでか、オラクルは、今にもその場で跳躍でもしそうなつま先立ちで、ワルキューレの長身を見上げ、百面相のように顔色と表情を変えながら、さらなる追及だか罵倒だかを出しあぐねている。



 「立ち去るがよい」アルテウスが深い声で、ワルキューレに断言した。「ここにある像には、魔法書は入っておらぬ。どれもだ」
 ワルキューレは未練がましく、神託所の残りの3つの隅のケンタウロス像を順次見つめてから、
 「ですが、私は元々、神託を受けにデルファイに来たのですが……」
 言いつつも、ワルキューレは預言・予言をもたらす者の姿を求め、その場の三人に眼を泳がせた。三者のどれも、預言の巫女には到底見えないいでたちではあった。無論のこと、オラクルその人も含めて、というより、ワルキューレの視線は往復のたびにオラクルの頭上を素通りしている。
 「すぐ今は予言は授けられぬ。神託を受けるには、霊感を受ける時節、占う吉日凶日、といったものがある」アルテウスが言った。「引き続き、”大迷宮”の深層の探索を続け、この階層に再び戻ってくる折に訪ねるがよい」
 ワルキューレは立ち去ったが、ときどき振り返り、未練がましく神託所を覗き込もうとした。その視線と神託所に戻る道を巨体で同時に塞ぐように、アルテウスが彼女を下層への階段へと案内し、もとい、無言の圧力で押し出していくのが見えた。
 やがてアルテウスが神託所に戻ると、オラクルはひざまずくように床の破片の間に座り込み、それをリゼが見下ろしていた。
 「なんということじゃあ……」オラクルは絶望的な声を出した。
 「いやその、同情はするが、そんなに大切だったのか」リゼがおずおずとオラクルに声をかけた。「見事な芸術作品だったのかもしれないが、それが失われた価値がどうとかいうのが、詳しくは私にはわからん。が、だとしてもだ。……こんな”運命の大迷宮”に、つまり、狂暴な化け物どもだとか、たまにもっと狂暴な迷宮探検家とかがうろついてる所に、神託所を構えてるんだからさ。”トロール神”の名にかけて、頻繁にこういう器物破損なんてのは起こって然るべきじゃあないのか……」
 「いやまさにその狂暴な迷宮探検家どもが! 傍若無人なあの北方の野蛮人(バルバロイ)どもが!」オラクルはその場で疾走でもしているかのようにどたばたとサンダルの足を床に鳴らした。「よりによって今はまずいのじゃ! まもなく、薬師の探索長(クエストリーダー)の、アスクレピオスの徒弟らの集団が神託を受けにここを訪れる予定なのじゃぞ!!」
 リゼは眉をひそめた。いまいち話が読めない。
 が、オラクルは再びがっくりと顔を落とし、「せめて他の時ならともかく……今はまずいのじゃ……よりによって今の時期はまずいのじゃ……」
 オラクルがその同じ語を繰り返すのみになってしまったので、リゼは戻ってきたアルテウスの方を、説明を求めるような目で見た。
 「要は、何年かごとに挨拶やら何人か分の神託を受けに来るやらで、薬師の探索長、ヒポクラテスとその高弟らが、同じ《祭界山》の関係者として訪れるのだが」アルテウスが、オラクルのかわりにリゼに答えて言った。「かれらアスクレピオスの徒弟らは、一般に『ケンタウロス』を敬う。そもそもアスクレピオスらの一派の薬師の技は、不死のケンタウロス、ケイロンからもたらされたものなのだ。薬師らには、神性としてのケイロンをじかに信仰する者もいる。そうでなくとも、人馬像を敬い、聖印として用いる者も多い」
 「けど、ここのデルファイってのは、アポロンやテミスの神殿なんだろう。なんでその神託所にアポロンとかじゃなく、ケンタウロスの、つまり薬師らの神の像が並んでるんだ」リゼがアルテウスに問うた。
 「”大迷宮”に居る各勢力のうち、デルファイと同様に《祭界山(オリュンポス)》に関りが深いのは、”薬師”らだからだ。狩人や野伏は《猟野界(ハンティング・グラウンド)》の方なので関連が薄い。……言い換えれば、このデルファイの神託所は、探索長らのうちでは薬師らの直接の後援を強く受けている」
 アルテウスは、神託所に残っているケンタウロス像に眼をやり、
 「多くのケンタウロス像は、それらの薬師の敬うケンタウロスを模しているのだが、もっと言えば、ここにある像はケイロンの一族の協力のもとに、かれらを模して造られたものなのだ。……かれらにとって聖印でもある像を、破損した、維持していない、となれば、アスクレピオスらの一派の薬師らは、機嫌をそこねる、では済まぬだろう」
 「薬師らが来る前に、なんとか像を元に戻すか、かわりとなる像を手に入れねばならんのじゃ……」
 オラクルは頭を抱えたが、やがて立ち上がった。
 「いい案が浮かんだのか」リゼが言った。
 「いや、さっきの《祭界山》の珍味を思い出した」オラクルが言って、神託所からさきほどの部屋に戻ろうとした。「持ってくるのじゃ。食いながら考えるのじゃ」
 「食ってる最中に頭が回るのか」リゼはオラクルに尋ねた。
 「腹が減っては頭が回らぬ、もとい、食い途中の美味が頭の片隅にひっかかったままでは、頭が働くものもうまく働かぬ……」
 リゼはオラクルの屁理屈だけは年齢不相応と思ったが、ふと、迷宮探索家にお布施やら有用な神託の代償とやらを要求するときも、こんな感じで理屈をこねているに違いないと思った。リゼは、自分が今、探索の成否と自分の生命がオラクルの神託に掛かっている”大迷宮”の探索家でなくて良かったと心底思った。──少なくとも、当面は違う、というだけの話にすぎなくとも、である。



 「元々はどこから来てたんだ、コレは」リゼは柑橘の小粒を丸かじりしながら、神託所の残った3つの隅に残ったケンタウロス像を見上げて言った。(正確には、デルファイの聖域の外壁は二重になっており、すべての隅に人馬像があるので、1つ壊された残りは7つである。)
 「《祭界山》のアポロンの芸堂の彫刻師に依頼しているものだ」アルテウスが答えた。
 「そこにまた作ってくれるよう、頼んだりはできないのか……」リゼが像の破片の方に眼をおろして言った。
 「できる。頼めば喜んで、つまり代償も要さずに作ってくれる」アルテウスが答えた。「しかし、アポロンの申し子たち、生き神ともいえる芸術家たち、もとい、アポロンやムーサイに僅かにでも繋がる不死の準神格(クァジデイアティ)らは、悠久の時をかけて、納得がゆくまで作り上げる。それが定命の者たちの世界の、すなわち《主物質界(プライム・マテリアル・プレイン)》の年月にして何十年後なのか、何世紀後なのかもわからぬ。全ては、かれらの『よっぱらったような』芸術の霊感のおもむくままなのだ。これらの像はすべて、そのようにして作られてきた」
 「そ……そこまで大層なものじゃったのか……そこまでは知らなんだ……」オラクルは、破片を見下ろして、かすれた声で言ってから、「それをものの数秒で壊しおってからにあの北方の筋肉雌達磨がぐぬぬぬぬぬぬぬ……!!」ついで、アポロンに仕える者にあるまじき口汚い悪態を続けた。
 「そもそも、その芸堂に依頼したりすれば、芸道かつ預言の神でもあるアポロンまで筒抜けだ」アルテウスが言った。「アポロン本人に詳細が知れれば、《祭界山》全体の問題として持ち上がるまでそう長くないと思わねばならぬ」
 この今の時点で、すなわちこのアポロンの神託所であるデルファイで勃発した事件が、本当にアポロン自身に知られずに済んでいるのだろうか。リゼはそこをふと疑問に感じたが、オラクルはともかく、アルテウスが既にそこを心配しているという様子はない。おそらく、『常によっぱらったような祭界山の支配者』のひとりであるアポロンも、常にそこまで細部を把握してはいないのだろう。
 「……そうだな、下の階層の”メデューサレベル”からひとつ、見繕ってくるってのはどうだ」やがて、リゼが提案した。「石化したケンタウロスくらいいるだろう」
 ”メデューサレベル”とは、”運命の大迷宮”のここよりも遥かに下の階層にある、この迷宮でもことに代表的な難所のひとつである。文字通り、あらゆる生物を石化させる化け物が住んでおり、その階層まで下りられる強力な迷宮探検家や、そこを徘徊できる強力な怪物らの成れの果てである石像が、大量に転がっているという。
 「うむ、それは良い考えじゃな!」オラクルが小さな両掌をぱちんと打ち合わせて言った。「ほれ、ペルセウスと違って、《祭界山》からじかに来たアルテウスは石化には免疫があるのじゃろう?」
 ”運命の大迷宮”を訪れる者には、神性の持ち主や強力な外方次元界来訪者がいるが、ほとんどはかなり弱い肉体の側面(アスペクト)をまとってしかこの大迷宮に降臨することができず(その理由は、モーロック神やその他の次元的な妨害のためである、と魔法使マールがリゼに説明したことがある)結果、通常は神性や来訪者にはありえない状態異常を食らうことがある。そこが、どんな強力な神性や大悪魔でも、容易にはこの”大迷宮”を掌中にできない理由のひとつである。大悪魔(アークフィーンド)のアスペクトに、コカトリスの死体をぶつけて石化させた、などという、他の次元界(プレイン)や並行世界(ワールド)では、決してありえないことがこの”大迷宮”では起こる。《祭界山》の英雄ペルセウスや、その他の著名な次元界来訪者が、メデューサレベルには石像となって多数転がっているという噂があるが、真偽についてはリゼは知らない。
 しかし、アスペクトを投影せず、とある工芸品(アーティファクト)の力によってじかに本体がこの”大迷宮”にやってきたアルテウスについては、モーロックら高位の神性らと同様、来訪者としての本来の耐性を発揮することができた。石化のような変容への免疫もそのひとつである。
 「ケンタウロス像の一個くらい、そのメデューサレベルからこっそり持ってきたらどうじゃ──」
 「すぐに露見する」が、アルテウスは首を振って答えた。「仮に、それ以前は本当に生きていたケンタウロス、アスクレピオスに仕える人馬の石化した姿を、盗み出し持ち去り、石化から解放もせず、しかも置物扱いして神託所の隅に置いておいたとする。暫くは誰も知らないまま済むかもしれぬ。が、仮にそれが知れれば、デルファイの神託所の存亡どころか、《祭界山》じゅうに戦争すら起こりかねん」
 「んーむむむ」オラクルは丸みを帯びた幼い両手の指を一杯に伸ばして、頭を抱えた。「どうすればいいのじゃ……ケンタウロス像なんてものが見つかる場所など、他には何にも心当たりはないわい……」
 「それでも何とかアポロンの芸堂以外の場所を探し、正当に譲り受けるか、しかるべき対価を払って購入するほかに無かろう」
 「手に入る場所に、心あたりはあるのか」リゼがアルテウスに言った。
 「例えば、全ての属性外方次元界の中心、《対峙の中枢(コンコルダント・オポジション)》の次元界には必ずある」アルテウスがよどみなく答えた。「その次元界のさらに中心、『扉の街』に行けば、多元宇宙に存在する”あらゆるもの”が間違いなく揃う。ただし、文字通り天井知らずに高価だ。デルファイの神託所の寄付金の多く、場合によっては、今までの貯えのほとんどをつぎ込むことになろう」
 「き、寄付を削るのか!?」オラクルが頓狂な声を上げた。「このわしが《祭界山》の諸神の皆のために、血と涙で集めた寄付を削るというのか!?」
 「他にどこに資金があるというのだ」アルテウスが重々しく言った。





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