イェンダーの徴: 猫とハイエナと冷たい鉄







 6

 コーデリアはローブに半ば覆われた掌の中で、これも掌に入るくらいの兎の毛皮の小片と、琥珀の小棒(ロッド)とをこすりあわせつつ、もう片方の手の指を通路の奥へとまっすぐ向けた。それから、その指をほんの少し斜めに傾けて、数言、聞き取れないがいかにも簡単な言葉を発した。
 天地が張り裂けたといわんばかりの物凄まじい轟音が多重に反響し石組を根こそぎ引き抜くかのように迷宮を怒涛と揺るがした。大気をつんざく炸裂音と低い雷鳴の轟音と共に、コーデリアの指さした先の中空中点、数十フィートは離れた虚空の一点から、青白と紫色の枝分かれした電光が通路狭しと縦横にのたうち回りながら横切った。電光は何の反応もする間もない広間の数体のハイエナ人をまず飲み込むと、オゾンと発煙の臭気と共にねじくれた炭素塊に変えた。のたうつ紫電は真向いの壁、広間の奥にわずかに斜めにぶつかると──斜めに反射し、広間の真横に伸びた通路に突進した。閃光の照り返しと共に、多重の轟音は通路深くへとこだまするのが聞こえた。……呪文による攻撃、特に生来の耐性を持たない人型生物に対するものは火炎が最も手段が多彩だが、この大迷宮のゲヘナ階層は炎の罠が大量に仕掛けられている以上、そこに拠点を築くハイエナ人らも火炎や熱に対する対策は(リゼやコーデリアがそうしているのと同様)完備していると考えるべきで、火炎の呪文を攻撃に用いても効果は期待できない。さらに、狭く長い通路が続いているこの迷宮の形状を考慮して、コーデリアは電撃という手段を選択していたようだった。無論のこと、これらの事前術式や物質触媒(コンポネント)を《苦界》次元界に旅立つ前から準備して、である。
 間髪入れず、猫少年とリゼが剣を抜いて、呪文で焼き払われた祭壇の広間に飛び込んだ。
 ハイエナ人や、かれらに関わりの深い四足獣レオクロッタの、電撃に焼かれた死体が幾つか転がっていたが、それ以上部隊のハイエナ人の動ける姿は──少なくとも、部隊の組織的には抵抗はないように見えた。
 もう敵は残っていないかと思ったとき、リゼは、横に伸びた通路の奥、焼き払われたはずの通路の真ん中から近づくものを認め、目を見開き、思わず一歩をあとじさった。
 それはただ一体、獣じみた肌に鎧をまとったハイエナ人だったが、さきのII類のデーモンよりも優に二回りは大きかった。単なる大柄ではなく、異常な膨らみ方をしたような体躯をしており、ことに自然の獣を思わせるハイエナ人の体躯一般とは明らかに異質なものだった。その体皮も斑紋や汚れに覆われたハイエナ人のそれとは異なる、まるで別の次元界から来た者が、このゲヘナ階層に対する拒否反応がそこかしこに生じているようだった。それでいて、そこにいるだけでまるで圧迫してくる気配を放ってきており、まるで別の下方次元界からその力でここまで押し込まれてきたかのようだった。手には、3つの巨大な歯車のような錆びた金属の頭部を持つ連接棍棒(スリーヘッデッド・フレイル)があった。
 「『ハイエナの公王』自身のアスペクト(側面;様相;分化身)か!?」リゼが思わず言ってから、「いや、ちがう──」
 仮にそんな存在がここに居たならば、リゼたちの力で無事にここまで近づけるなどはありえない。しかし、『公王』自身でないとすればこれだけの威圧感を与えるものは何だ。リゼは再度、相手の体躯と体表に目を走らせ、不意に気付いて叫んだ。
 「デーモンの混血だ! だから、電撃が一切効かなかったんだ──」
 猫少年は茫然とその相手の巨体を見上げた。ハイエナ人の混血の戦将の鎧には、深々と引っかいたような刻印で、三頭の棍を図案化した不浄印(アンホーリー・シンボル)が記され、『ハイエナの公王』の神聖代行戦士(ディヴァイン・チャンピオン)であることを示している。猫少年が、猫が直立したような上方次元界の混血種であるのに対して、目の前の戦将は、ハイエナが直立したような下方次元界の混血種だった。それはあたかもそっくり対立する、映し鏡のような存在に見えた。



 三つの歯車状の金属頭が、唸りを上げて回転しそれぞれが異様な軌道を描いてリゼに一斉に襲い掛かった。リゼの手の”冷たい鉄”の剣が、ハンマーが回転するように旋回し、流れるようにかつ正確無比に計算された軌道を描いて、その刃の重さで歯車を次々と叩き落とし、跳ね上げた。
 が、その跳ね上げた直後のリゼの胴体に、逆手に突き出された三頭棍の柄の部分、これもぎざぎざの鉄槌のような石突が、巨躯の戦将の異界の剛力でもって横ざまに叩き込まれた。
 「へぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜しっ!!!」リゼはなすすべもなく、両手両足を真横に突き出した姿勢のまま、まっすぐ水平にすっ飛んで大広間の壁に横ざまに叩きつけられた。リゼはその真下の床に落下したきり、そのままぴくりとも動かなくなり、その傍らに”冷たい鉄”の剣が転がった。
 猫少年は間髪入れず斬りかかった。これも目のさめるような剣技だったが、”冷たい鉄”ではなく清浄武器でもない剣は、ただ強力な悪鬼の落とし仔に斬りかかったというたったそれだけの理由で、半ばから真っ二つに折れた。
 猫少年は折れた剣を持ったまま、唖然として立ち尽くした。身を守ることも──まして、このハイエナ人の戦将が後列のコーデリアめがけて踏み込むことを妨げる手段も、もはや何もないように見えた。
 コーデリアは左手の『見る石』を右手に放るように持ち替えると、石を支える左手のみにはめていた薄手の手袋を歯にくわえて手から引き抜いた。その手袋を左手に掴み、投げつけながら、肺腑から吐き出すような声を──体内の最も裡から活力を喚起しなくてはならない力術(エボケーション)の音声構成要素(バーバル・コンポネント)を発した。
 投げつけられた薄手の手袋は、その形状に従って空中を舞うようなことはなく、不可思議にも投げた方向にその掌の部分を向けて真っすぐに飛翔した。手袋は文字通りの力術(エボケーション)の喚起された力をつぎ込まれて直進するごとに倍々の大きさへと膨れ上がり、人の身長以上の巨大な掌の形状となって一直線に突き進んだ。巨大な掌はハイエナ人の戦将に真正面から激突し、もろともに宙を飛んで、背後の石壁に押し付けて挟み込んだ。
 『見る石』の、マーリンの魔法の鏡の力によって、次元界来訪者の魔法抵抗力(スペルレジスタンス)は貫通することができるが、たとえ魔法抵抗力を貫通しても、電撃などを含む内方次元界のエネルギーでは、デーモンの生来の耐性のため影響を与えることはできない。しかし、この<八魔陣の力術の手>の呪文は、そうした耐性で防ぐことも、回避(セーブ)することもできない一連の術のひとつだった。
 巨躯のハイエナ人の戦将は、自分を石壁に指で押さえつけている巨大な手を押しのけようと、ついで、腕力で締め上げ、さらに、三頭棍の石突で破壊しようとした。両掌を、その呪文の手をさらに押すようにかざしているコーデリアの額や頬に激しく汗が伝った。巨大かつ強靭な呪文の手ではあったが、コーデリア自身の喚起した力術(エボケーション)である以上は、その力はあくまで有限であり、デーモンの混血の剛力と無限に近い下方次元界の活力の前には、この先さほど持ちこたえられるとは思えなかった。
 「コーデリアさん」猫少年が折れた剣を握り、立ち尽くしたまま振り返って叫んだ。
 「ええっと、この相手に、今すぐ何かできること……」コーデリアは手をかざしたまま言ったが、しばらくして、「きっと、今のうちにアナタだけは逃げられるよ」
 猫少年はコーデリアを凝視した。
 「私は、ええと、ここをなんとかして、リゼを助けてから追っかけるから、うん……」
 「そんな、どうして」猫少年は棒立ちのまま言った。
 言うまでもないことだが、猫少年が逃げたとしても、コーデリアが今言ったことが可能とは思えない。コーデリアは(文字通りに)手一杯で、リゼは部屋の隅に完全に伸びている。よほどこの後状況が覆えれば別だが、逆転どころか、この後に有利に運びそうな要素がこの光景の中には少しもない。
 「僕の任務なのに」猫少年は言った。「失敗したとしても、僕が真っ先に逃げることなんて、できません」
 「それはわかるけど、今のこの状況、誰が先に逃げるとか以前に、アナタ以外に誰も逃げられそうなのがいないんだけど」コーデリアは言った。
 巨大な魔法の手は、ハイエナ人の戦将の剛力に指をひねられ、あたかも人間の手の指の骨や腱が痛めつけられているように突っ張ってきていた。
 「僕に責任があるのに」猫少年はそれでもまだ、逃げようとはしなかった。「任務に巻き込んだ貴方達を、見捨てることはできません」
 「いや、アナタが私達を巻き込んだってのは、ちょっと違うと思う」コーデリアは手をかざし続けた。「賢者が助けてくれないんじゃ、とても自分には達成できなさそうだって。出発してからも、ずっと進みたくない、進める気がする気がしない、そう言ってたのに。でも、私達が無理矢理ここまで引っ張って、連れてきたんだから」
 コーデリアは汗の中から、首をほんの少し曲げ、猫少年を振り向いて言った。
 「──『まかせなさい』って言ったのは。私達の無謀のせいで追い詰められたら、どうしようもなくなったら、私達に責任があるってこと。そういうこと」
 猫少年はその猫科そのものの、大きな目を見張った。
 「……ずっと自信にあふれていて……てっきり、失敗することなど何も恐れていないのかと、そう思っていました」猫少年は、つぶやくように言った。「そうやって、決して失敗しないと信じて進むことなんて、自分にはとてもできないと思っていました……」
 「本当にそうできてたならよかったんだけど」コーデリアはふたたび呪文の手とハイエナ人の戦将を見つめて言った。「この迷宮じゃ、というかこの多元宇宙(マルチバース)じゃ、誰にだってちっぽけなことしかできないもの」
 コーデリアとリゼは何も考えずにここまで猫少年を引っ張ってきたのかと、そう思っていた。だが、そうではなかった。無謀が失敗する恐れは持ったまま、さらに、失敗したらどうするかの決意、引っ張ってきた猫少年のことは生かすという覚悟は持ったまま、彼女らはここまで来たのだ。
 巨大な<八魔陣の力術の手>が反り返り、いかにも戦将の力に抗しきれなくなってきたように見えた。
 「……決して、無謀なんかじゃない」やがて、猫少年は言った。「ちっぽけなことでもない。《苦界》の次元界も、”運命の大迷宮”の中も、一歩も進めはしないって、僕は思っていた。それがここまで、あと一歩のところまで来られたんです。コーデリアさんのおかげです。あと、もう一歩なんだ」
 猫少年はそのまま、ふらつくように数歩を進み、その場でうずくまった。そのまま、そこに倒れ込むかのように見えた。──実際に、コーデリアの呪文と格闘しているハイエナ人の戦将にとっては、とるにたらない者がその場に倒れただけに見えたと思われた。
 しかし、数歩を進んでうずくまった猫少年が手を滑らせた、その先の床にあったのは、さきに倒れたリゼの手から弾け飛んだ、”冷たい鉄”の剣だった。





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