イェンダーの徴: 猫とハイエナと冷たい鉄







 7

 猫少年が床の上のそれに触れ、握った時、悪寒にとりつかれたように、その全身が震えるのが傍からでもわかった。”冷たい鉄”がガーディナルの妖精種族に与える、その違和感に対して、猫少年は剣を取り落として、そのままうつぶせにその場に倒れ伏すかとさえ思えた。
 しかし、猫少年は膝をついたまま、それを両手に握りしめていた。
 コーデリアは猫少年の姿を目にとらえると、両掌を突き出したまま、さらに一歩前に進み出た。呪文の手がハイエナ人の戦将の、悪魔の落とし仔の凶暴な巨躯を押し込み、反り返らせた。苦悶にのけぞった戦将の巨躯は、しかし呪文の手を両腕でわしづかみにし、指をへし折り、引き裂いた。力術(エボケーション)で形成された手は崩壊すると、霧散し消滅した。
 しかし、その上体を反らせて破壊のために力を注ぎこんだ戦将の胴体めがけて、肉食の猫がとびかかるような姿が踏み込んだ。両腕の守りが空いた脇腹にあやまたず、”冷たい鉄”の剣が埋め込まれ、神聖代行戦士(ディヴァイン・チャンピオン)の手の中の清浄武器はそのまま深々と食い込み、神聖打撃の鈍い光が音を立ててデーモンの肉体を焼いた。
 ハイエナ人の戦将は膝を震わせる断末魔の動きも始まらぬうちに、傷口から泡立つように肉体が沸騰しはじめ、緩慢に破裂する泡を伴ってその場に崩れ落ちるように崩壊していった。そのまま不定形の塊となり、ついで、ゲヘナ階層の迷宮の石畳にしみこむように消滅した。
 人型生物(ヒューマノイド)のまともな死に方ではなく、さきのII類のデーモンの消滅の仕方とも異なっていた。仕留められた原因と、この消滅の仕方は関係がない。混沌にして悪のデーモンが──又は、その血をあまりにも濃く引く者が──《奈落(アビス)》以外の次元界(プレイン)で仕留められた時、どのような屍をさらすかは、他の次元界来訪者(アウトサイダー)以上に混沌として一定せず、一体として同じ死に方をする者などはいなかった。ただ確かなのは、混血のこの者は、人型生物の”ハイエナ人”としてではなく、奈落の公王に操られる”デーモン”として最期を迎えた、ということだけだった。



 猫少年は”冷たい鉄”の剣を提げたまま、そのハイエナ人の戦将だったものの末路をじっと見届けた。
 それが終わると、しっかりした足取りで、床の隅に伸びているリゼの傍に歩み寄り、手をかざした。神聖代行戦士の<按手(レイオンハンド)>を受けると、リゼはかろうじて目をあけた。そして、リゼはそのまま、猫少年の姿、まるで経緯がつながらない光景が出現するのを見上げていた。『ネコの帝王』の神聖代行戦士の姿と挙措は、力に満ち溢れ、一歩一歩が確実で、リゼが気を失う前とはまったく別人のそれだった。
 まだ壁に背を預けているリゼと、黙って座り込んでいるコーデリアの前で、猫少年はハイエナ人が全て消えた広間を横切り、奥の壁の祭壇に歩み寄った。
 「壊せば完了だね」コーデリアがかすれた息の中から、しかしこれまで通りの朗らかな声で言った。
 「いやちょっと待て」リゼは(まだ疲労と傷に頭を振りながらも)祭壇の周囲を見回した。「何か重要そうなものはないか。その、魔術的だとか宗教的とかで」
 コーデリアと猫少年も広間や祭壇を調べて回ったが、他に特に目立つものはなかった。
 「《ネコの帝王》が回収したがってそうなものは無いか」リゼは頭を振った。「ハイエナの公王を邪魔する急ぐ理由もないって話だし、結局、《ネコの帝王》のわかりやすい目的は見つからないままか……」
 祭壇の上に、石アーチ状の簡素な中空の枠があった。よく見ると、その中にかすかな暗い靄のようなものが凝り固まっていた。その”門”ごしにかすかに見える光景は、枯れた植物と岩石の不毛の荒野で、さらに向こうには粗削りにも禍々しい城塞のような姿がいくつもあった。《奈落界》の422階層目、ハイエナの公王の領土の荒野だった。
 石の枠とその中の次元門は、デーモン・ロード本人や《奈落》の大軍勢が通り抜けられるほどの規模のものとは思えず、おそらくは拠点を築き始めた今は小規模のものしか設置できないのだろう。しかし、それでもこの石枠は、リゼ達のいずれの頭上はるか上に見上げるばかりの大きさはあり、簡素ながらも威容があった。まして、その中の得体の知れない、この世ならぬ靄とその中の光景、下方次元界に続く次元門は、力のない者が触れたり近づくのも、まして傷つけるのも反動を受けかねない、ひいては向こうに引きずり込まれる危険さえある代物だった。リゼの認識からいえば、さきほどの切りかかっただけで剣が砕け散ったデーモンの混血などよりも、この施設の方が、はるかに危険な力が凝集した存在だった。
 しかし、猫少年は何の躊躇もなく、両手に”冷たい鉄”の剣を構え、大上段から振り下ろした。清浄のエネルギーがまばゆく炸裂し、巨大な石の門は難なく砕け散り、その中のポータルも跡形もなく消滅した。
 そのあとは、この広間は当たり前の”大迷宮”内の一空間に戻り、『ハイエナの公王』の勢力階層だった影響も、その痕跡も既に無くなっていた。それが、数々の勢力の影響が常にせめぎあい、迷宮の形状すらも不安定な、”運命の大迷宮”の摂理だった。



 「おかげで、『ネコの帝王』に栄誉ある報告をすることができます。ファージィの部族の皆にも」
 猫少年の持つ帰りのポータルストーンを用いて、”運命の大迷宮”を、ついで《苦界》次元界を脱出し、水晶の洞窟の入り口まで戻ってきた時点で、猫少年はコーデリアとリゼに言った。
 「これからも力になれることがあったら言って」コーデリアは目を輝かせて、猫少年の、耳元あたりの毛が気流に流れている、柔らかい曲線を見ながら言った。
 「ありがとう。しかし、コーデリアさん達に、責任や苦労を負わせるのは、できることならこれで最後にしたいです」猫少年は落ち着いた声で言った。「これからは僕らの部族、僕ら自身で、きっと『ハイエナの公王』や他の下方次元界の君主たちに対抗することができる、たぶん、これからは、そうしていかなくてはならない気がします」
 猫少年は一礼して、再度形成した別のポータルをくぐり、去っていった。おそらくは《猟野界(ハンティング・グラウンド)》の、ファージィの部族の故郷に戻っていったのだろう。
 コーデリアが両腕を頭の上に上げて、のびをした。今までの苦労と、文字通り地の底を通り抜けて窮地に晒され肝を冷やした疲労も、今の感謝を貰ったおかげで、すっかり跡形もなく霧散して無くなった、とでもいうようだった。
 しかし、リゼは全くそうではなかった。常人がコーデリアのように能天気になれはしないとは思うが、──しかも、炎の罠だの悪魔の三頭棍だのにさんざん繰り返しぶちのめされたリゼの方の疲労がたやすく霧散するなどとは、──それに加えても、何かが落ち着かない。何か忘れているような気がする。
 「あ」
 不意に、気づいてリゼは叫んだ。
 「クロムとセトにかけて! ──私の”冷たい鉄の剣”をそのまま持ってっちまったぞ!」
 コーデリアが両腕を頭上に上げっぱなしのまま平然と、リゼのからっぽの剣帯を見下ろした。
 「今からおっかけるったって、かなり遠いよね」コーデリアは、おろした手を意味もなくまぶたの前にかざして、猫少年が消えたポータルのあったあたりを見つめ、飄然と言った。「近道のポータルがあるならともかく、ここからまともに歩いて《猟野界(ハンティング・グラウンド)》の次元界まで行くんだったら、道を探すのだけでも何年とかってかかるんじゃ」
 「向こうから来るのを、次に会えるのを待つのか!? それも何年後なんだ!? しかも、もうこっちの世話にならないとか言ってたし」リゼは頭を抱えた。「あの剣を持って帰れば、あの猫部族は、これからはデーモンにもその公王らにも対抗できるかもしれない。けどこのままじゃ、私達の方がデーモンと戦えないぞ!」
 「大丈夫。デーモンと戦うなら、私達には心強い味方ができたことだし」コーデリアが袖をまくって言った。「そのときにあの子にまた会えるとすれば、今追っかけなくてもいいってことだよ」
 「そうか? 本当にそれで済むのか?」リゼはコーデリアに答えをというより、理解を期待はしなかった。半分はひとりごとだった。「次元界の原理にちょっかいを出したら、かかわりあうたびに、こういうふうに芋づる式に厄介だとか、取り返さなくちゃならないものが出てくるんじゃないんだろうな? ”トロール神”の名にかけて──マールが言ってた”貸し借りができる”ってのは、このことじゃないだろうな?」
 「まさにそのことだよ」
 背後から少年の声がして、コーデリアとリゼは振り向いた。
 「今の君達の働きで、『ハイエナの公王』の”大迷宮”での力は弱まった。だけど、それはたぶん『ネコの帝王』の目的じゃない」暗色のマントの少年、賢者マールは、かれらの背後から歩み寄りながら言った。「『ネコの帝王』がハイエナ人や公王を妨げる動機は何もないんだ。てことは、『ネコの帝王』の目的は、たぶん他の魔神や神性たちが始めてるのと同様だろう。”運命の大迷宮”の出来事が多元宇宙の抗争に影響したときに備えて、”ゲヘナ階層”に干渉できるように準備することだ。そのために、《苦界(ゲヘナ)》、中立にして悪-秩序寄りの正反対の対極に存在する、《猟野界(ハンティング・グラウンド)》、中立にして善-混沌寄りの次元界に、戦力を見つけておきたかったのさ」
 「それは──だいたいわかる」リゼが言った。「私達が、それに手助けしたってのも。だが、それが良かったのか悪かったのかっていう話になると──」
 「もともと『ネコの帝王』だって、あのファージィ部族の誰かが任務を成功させることなんて、期待していたとはとても思えないんだ」マールが肩をすくめて言った。「それが今回、成功させたせいで、猫少年はそれができる勇士、ファージィはそれができる部族だって、『ネコの帝王』に認識されたことになる。猫少年の彼自身にとって、それが良いのか悪いのかはわからない。だけど今後起こることだけ見れば、これから危険な任務や侵攻に晒されることになる。ファージィの部族も、君たちもさ。だってのに、君は剣をなくしてるじゃないか」
 マールはリゼの剣帯を指さし、
 「成功するか失敗するか、損になるか得になるか。それと、貸し借りができるかどうかは、別問題なんだ。だから、成功や得においそれと飛びついたら、厄介な貸し借りを背負いこむことになるかもしれない」マールは肩をすくめて言った。「……それでも、貸し借りを自分で払うって決めたんなら。あの猫少年みたいに、犠牲を払ってもそれ以上に得るものがあるって気づいたなら、別に構わないけどさ」





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