イェンダーの徴: 猫とハイエナと冷たい鉄







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 「『ネコの帝王』が、『ハイエナの公王』を妨げようとする事情、目的まではわかりません。かれにとっては重要な事情があるのかもしれませんが、……『ハイエナの公王』やその配下は、帝王の廷臣や、僕らの部族に、格別に因縁のあるわけでもない。ハイエナ人らに、《猟野界(ハンティング・グラウンド)》の善の勢力や、僕らの部族が脅かされているというわけでもない。さきに賢者マールに話したように、差し迫ってかれらを阻止する動機は、少なくとも僕らにはないんです」
 猫少年はそこまで言って、沈黙した。しばらくしてから、コーデリアが尋ねた。
 「でもやっぱり、その『帝王』の任務を達成したいんだよね……本当は」
 「ええ。……『ネコの帝王』の直々の任務です。僕らの部族にとっては、またとない機会でもあります」
 少年はその猫のような容貌に──柔らかい毛と、柔和な輪郭に覆われ、猫科の中でも勇猛や強靭な猛獣の類を間違っても思わせるものではない──憂いを含ませて言った。
 「この僕の姿を見てもわかると思いますが、僕らの部族は、いわゆる勇敢な所業とは無縁です。部族はじまって以来、偉業をなしとげた者も、上方次元界(アッパー・プレイン)における戦で功名を立てた者もいない。半面、『天上の獅子』の臣下の種族らのような、華やかで裕福な暮らしとも無縁です。……そのぶん、授かった任務を達成すれば、部族に対する『ネコの帝王』の覚えはめでたくなる。皆の生活もずっと良くなる。だから、部族の中でも勇士、神聖代行戦士(ディヴァイン・チャンピオン)の僕が、任務の遂行に選ばれたのです」
 猫少年はため息をつくように、
 「……達成できなくとも、すぐに危機が訪れるというほどではありません。だけど、僕ができなければ、『ネコの帝王』も、部族の皆も失望させることになります」猫少年は肘をついた掌に額を載せ、
 「……それでも、賢者の助けなしでは、とても僕ひとりでは達成できません。とても行くことはできません……」
 リゼは猫少年を見下ろした。どうもこの少年は、部族一の勇士として任務を押し付けられ(ファージィの部族の方からは、本心から期待されているとしても)仮に賢者の助力が得られるとしても、危険な任務自体に、相当に乗り気ではないように見える。種族自体の見かけがそう思わせるが、生来が温厚、早い話が臆病な生き物なのだろう。かといって、賢者の助力が得られない、という任務を放棄する口実ができたことをこれ幸いと思ったり、遂行不可能という知らせを持って平気で部族の所まで帰れるほど、無頓着や冷淡な態度はとても取ることができないようだ。要は、どちらにも思いきれないのである。
 一方、コーデリアはほんの少し考えた様子だったが、──あまり躊躇もせずに、その次の問いを発していた。
 「んー、目的地は要は、”大迷宮”のゲヘナ階層のひとつの階だよね。何がその公王の階層を守ってるか、わかってることはある?」
 「”大迷宮”の側で階層を守っているのは、公王の《主物質界》側の信奉者、ハイエナ人の一部隊だと聞いています」
 「一部隊か。形成の途中だから、そんなに大部隊は送り込めないのかもしれない」リゼが考え込むように言った。
 「ハイエナ人なら、人型生物(ヒューマノイド)なら呪文が効くね。《奈落界》のデーモンみたいに歯が立たないってわけでもない」コーデリアは考え込むように言った。
 「いや、けどさ……セトの名にかけて、”大迷宮”のゲヘナ階層なら、ハイエナ人以外にも悪魔の類に出くわすかもしれないぞ」リゼが言った。
 「”大迷宮”にいるデーモンやデヴィルは、同じような種族が侵入してる他の並行世界より、かなり小規模なはず。たぶん、トゥルー・デーモンでもリゼの剣ならなんとかなるくらいの」
 リゼは眉をひそめた。デーモンと剣で戦う、というその言葉そのものが、どんな剣士にもぞっとしないのだが、それ以上にコーデリアの素っ気ない口調に嫌な予感がした。
 「ていうかね、もし師匠がこの任務の助けになろうって引き受けたとして、その場合もやっぱり行くことになるのは私とリゼとかだったと思う」コーデリアが宙を見つめて飄々と、思い出すようにしながら言った。「ひょっとすると、『ネコの帝王』だって、これくらいの助力を想定してたんじゃないかな。賢者の援助が得られたら、私達くらいの戦力が加わって達成できる、それをあてにしてたのかも」
 リゼが何か口を挟もうとしたが、コーデリアは朗らかに続けた。「神聖代行戦士(ディヴァイン・チャンピオン)、部族一の勇士だって言ってたよね。戦とかには出てないって言ってたけど、勇士と認められるくらいのことはしてるんだよね」
 猫少年はためらってから、「自生の治療薬を見つけた、迷子になった姫を見つけた、その程度です……」
 「そのときに対処した危険とかはあるんだろう?」リゼが言った。
 「ええ、部族の外敵、自然の動物や、それから《忘却界(リンボ)》から侵入する中位の来訪者ならば、殆どは対処したことが……」
 「てことは、迷宮を進むんだったら充分じゃない。私とリゼが、魔術師と盗賊が補助してあげられるよ。まかせなさい」コーデリアが猫少年にローブの腕をまくって見せた。リゼは制止するように手を中途まで差し出していたが、できたのはそれだけで、少なくとも口を挟む機会は逸した。



 「……任務達成のための『ネコの帝王』の指示はこうです」
 猫少年は荷の中から、幾つかのルーン石を取り出し、コーデリアとリゼに示した。
 「まずは、外方次元界の苦界(ゲヘナ)に移動します。そのための次元門を開くポータルキーを、『ネコの帝王』から授かっています。そして、《苦界(ゲヘナ)》にある山の中腹から、”大迷宮”に側面から入り込みます。つまり、”大迷宮”が主物質界から《苦界》にまで貫通している場所まで、《苦界》の側から入ります。”大迷宮”に入れたら、そこから『ハイエナの公王』の階層を見つけます」
 「いや『《苦界(ゲヘナ)》次元界の側から潜入』ってそれちょっと待てよ」リゼが、コーデリアが何か言う前に遮るように言った。「簡単に言うが、それ、下方次元界(ロウワー・プレイン)のひとつにまっすぐ入っていくってことだぞ」
 「今、そう言ったと思うよ」コーデリアが言った。
 「いやだからさ、下方次元界ってつまり、”地獄の一種”に正面から突っ込む、って以外に、何かこう、もっとましな入り口はないのか? 同じ”大迷宮”の『ハイエナの公王』の階層に向かうにしたって……例えば主物質界の”運命の大迷宮”の入り口の側から、迷宮をその階層まで降りていくだとか……!」
 「公王の領域が今途中まで建設されているのは、”大迷宮”の階層としては最も浅くとも43階か、50階台です」猫少年が答えた。「主物質界の”大迷宮”から到達するとなると、1階からそこまで降りることになります」
 リゼは眉をひそめた。おおよそどの並行世界でも最も過酷な迷宮の類である”運命の大迷宮”を、そこまで歩いて──当然、そこで出会う危難を全て対処して到達するのは、時間的にも確率的にも、到底現実的ではない。
 「じゃ、別の入り口……ええと、『ハイエナの公王』の領土の方からも、その迷宮の階層には通じてるんだろう? そっちから近づいて、領土から大迷宮に向かう入り口を閉じるだとかさ」
 「《奈落界(アビス・プレイン)》にある『ハイエナの公王』の領土は、奈落界の第422階層目だよ」コーデリアがかわりに応えた。
 「奈落(アビス)にかけて!」リゼは思わず叫んだ。「いや同じもんにかけてもしょうがない──<死の女神の冷たき唇>と<トロール神の祝福(カツジェル)>にかけて!」
 言ってみたものの、今のリゼのこの言葉ですら、これほど酷い状況を充分に表現できたとは言い難かった。
 「結局、その《苦界》次元界側から入るのが一番できそうな方法ってことね」コーデリアは言った。
 「いや一番できそうな方法って、まるっきりできそうには見えないぞ」
 「そうは見えたって、本当にできるのかできないのか、まずは考えてみようよ。手持ちの物とか、行き先についてとか」コーデリアは、呆れたようなリゼにそう言ってから、不安げな猫少年に笑みかけてみせた。「諦めるのはそれから」



 リゼは猫少年をうしろに連れて、中心に泉のある洞窟の広間(その過ごしやすさから、どうやら居住する場所であるらしかった)に入った。そこで、泉のそばに置いてある『Cレーション』『Dレーション』と焼印された、大きな木箱をさぐった。木箱の中には、食物の包みの他に、雑多な金属品が入っている。さまざまな古式の武器が多いが、古今の火薬式銃器や、たまに恒星間文明の手持ち兵器なども混ざっている。
 「《苦界(ゲヘナ)》は中立にして悪、秩序寄りの次元界で、《苦界》の次元界の山脈に入った時点では、原住のダイモーン、中立にして悪の悪鬼と出くわすだろう。……だけど、大迷宮の『ハイエナの公王』の階層に近づくとなると、話は違ってくる」リゼは木箱の中をさぐりながら、猫少年に言った。「”運命の大迷宮”の深層には、ダイモーンよりもデヴィルやデーモンが数多くいる。特に、『ハイエナの公王』は、デーモン・ロードだ。つまり、公王の階層に近づくんだったら、特に”混沌にして悪”のデーモンが配置されてる、出くわすおそれがあるってことだ」
 リゼは何かを見つけたのか手を止めると、木箱から、今リゼの差している闘剣や猫少年の佩いている長剣とは、まったく造りの様式が違う、かなり大型の剣を取り出した。リゼは何かその剣を持つのが難儀であるかのように躊躇してから、その剣を鞘から半ば抜いて、鍔元近くの刃を猫少年に示した。特に手の込んだ装飾も何もない広刃に見えるが、鍔元あたりの刃と拵えに施された直線中心の細工は、簡素であるものの非常に精密な調和で作られているのがわかる。
 「ドワーフ造りのように見えるだろう。実際は《泰平郷(アーカジア)》の次元界で造られた代物だ。"銀鬚の山"のエインヘリアル達のさ」リゼはもう少し鞘から抜いてから、刃をひっくり返して猫少年に見せた。「”冷たい鉄”製で、善属性の清浄武器でもある。善属性の武器だから、《苦界》のダイモーン相手にも効くが、デーモンたち、《奈落界》の混沌の敵が相手になったら、この冷たい鉄の武器は特に有利だ。というより、そもそもデーモンの階位によっては、冷たい鉄の武器でないと致命傷が与えられない場合がある」
 リゼは広刃を鞘に戻して、鞘ぐるみのまま軽く回してから、
 「が、この剣は私にはちと重すぎる。重い剣の使い方も知らないわけじゃないんだが」そこでリゼは猫少年を振り向き、「あとは、清浄武器なら、神聖代行戦士(ディヴァイン・チャンピオン)が使う方が、もしかして威力を発揮できるんじゃないか、てのもある。よくは知らないけど」
 リゼは剣の柄の方を猫少年の方に差し出した。
 猫少年はリゼを一度見てから、剣に手を伸ばした。……が、触れる前に躊躇し、手をひっこめた。再度試みようとして、猫少年はまた触れずに手を引いた。
 「違和感があるか?」
 「ええ……何の感じなのかは……わかりませんが」猫少年はささやくように言い、「聖なる武器なんでしょう? なのに、違和感があるというのは──」
 「いや、わかるよ。”妖精”ならな。聖なる武器であろうと何だろうと、”冷たい鉄”の金属自体、まして刃には違和感を覚えるんだ。多元宇宙の節理さ」
 リゼは剣を一度岩の上に置き、指を何度か握ったり開いたりした。
 「実は、私も少し感じるんだ。月(ムーン)エルフの血が少し入ってるからな。他の”冷たい鉄”の品物にも、違和感、物によっては不快感を感じることがある。”混沌にして善”の妖精のエルフ、それもずっと遠い血でもこうだからさ。次元界の属性に生来が直結するガーディナルなら、その影響は比べ物にならないほど大きいのかもしれない」
 この猫少年が属するガーディナルの種族は、リゼも正確には知らないが、中立にして善−混沌寄りの《猟野界(ハンティング・グラウンド)》の次元界の土着の種族であるならば、一般に妖精や、ひいては混沌にして悪のデーモンが冷たい鉄を恐れるのと同様、冷たい鉄の武器に強い拒否感を覚えるというのはありえる話だ。
 リゼは剣と、ためらいを続ける猫少年を見比べた。悪鬼や悪霊の類に少しでも致命傷を与えやすい武器かどうかは、それらに対峙した際には死活に関わる問題だ。が、この猫少年がすでに部族の勇士であり、外方次元界の敵とも戦ってきたというのであれば、彼自身の戦い方に、自分が口を出すほどのことではないのかもしれない。
 「無理にとはいわないさ。自分で使い慣れた武器の方が信頼がおけるなら」
 リゼはそれまで差していた闘剣(グラディウス)を剣帯ごと外し、箱に収めた。そして、かわりに冷たい鉄の広刃を佩いた。リゼ自身が持つならば、その重さに、両方は持って歩けないということらしかった。





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