イェンダーの徴: 猫とハイエナと冷たい鉄







 3

 それらの装備を確認すると、リゼと猫少年は、水晶の洞窟の別の岩屋のひとつ(もっとも、リゼにも猫少年にもあまり岩屋の部屋の相互の区別はつかないのだが)、コーデリアのいる部屋に移った。
 コーデリアは低い岩のひとつに腰かけ、拳大よりも少し大きな透明な水晶玉をこれも岩に布を敷いて据え、見入っていた。しかしよく見ると、ぼろぼろの薄手の紙に記された判読困難な文字を、水晶玉のレンズを通して判読しているのだとわかった。読解の呪文のたぐいらしい。
 この書庫らしき岩屋は、師匠の賢者マールや彼女自身の蔵書が大量に詰まっているが、本棚や櫃などはなく、書物は無造作に岩の上に山になって積まれている。書庫には、”運命の大迷宮”に関する”噂の巻物”や、”低位から高位の神託”などをまとめた書物が含まれていた。リゼもコーデリアも、”運命の大迷宮”自体は何度か訪れたことはあるが、全容を知っているには程遠い。さきに聞いた話だと、コーデリアは大迷宮の深層、いわゆるゲヘナ階層について、一通りおさらいしている、とのことだ。
 「念のため、一応聞いてはみるが」リゼはコーデリアに尋ねた。「ニムエの方は──もひとりの徒弟は見つからないのか。正直、ドルイドが、つまり、少しは回復屋がいた方が心強いんだけど」
 「相弟子っても、あの娘がいつもどこで何をしてるのかはさっぱり。リゼが知らなければ、私にも同じくらいわかんない」コーデリアは水晶玉を見たまま言った。
 「今回、マールの『うつろなる騎士』の力は借りられないのか? というか、マールの許可なしに動かせるかどうかは知らないけどな」
 「師匠の許可もないし、騎士に宿る精霊を呼ぶには星の位置が」コーデリアは水晶玉から顔を上げ、宙に視線と片指を躍らせながら、「というかそれっぽい言い方をすれば星の位置とか精霊だけど、早い話、騎士に魂を吹き込んでる未来人が、当面都合が悪くて」
 早い話といいつつリゼにもよくわからない話の後、コーデリアはふたたび水晶玉をのぞきこみ、リゼと猫少年は無言でそれを見守った。
 「やっぱりそうだね」コーデリアは水晶玉のレンズごしに、薄手の巻物の、点で印字(ドットプリンタ)されたような何かの表をなぞりながら言った。「I類からV類までのデーモンは、”運命の大迷宮”のゲヘナ階層にいるのは、今のほかの<転輪>とかの並行世界のやつの、半分くらいの規模しかない。どれも英雄級(ヒロイック・ティア)からは頭が全然飛び出さないくらいの」
 「なんでだろ」リゼが歩み寄りながら言った。「いまどき、どこの並行世界に行ったって、トゥルー・デーモンやガーディアン・デーモンたちは、かなり上、伝説級(レジェンダリ・ティア)のさらにてっぺんくらいの力はあるだろう」
 「わかんない。師匠によると、昔はどこの並行世界でも、デーモンはもっと規模が小さかったって聞いてる。《奈落界(アビス)》と他の次元界(プレイン)のつながりが弱かったって」コーデリアは表から目を上げず、「ただし、”大迷宮”にはIII類はいない。あとVI類だけはダメ」
 「それは聞いたことがある。VI類だけに出くわさないようにすれば、なんとかなるって話か」リゼが言った。
 「『トゥルー・デーモン』とは何ですか……」猫少年が尋ねた。「レッサー・デーモンの上はグレーター・デーモンでしょう。トゥルーって……どこの位置ですか」
 「トゥルーはグレーターの上だ。その上がガーディアンだ」リゼが答えた。
 猫少年は認識を整理しようとするかのように、目をしばたいた。
 「あと、I類からVI類まで、ってIII類は抜いてだけど、《奈落》に居る時に出くわすデーモンと比べると、”大迷宮”では冷気や銀への耐性が弱かったりする」コーデリアが表を指でなぞりながら言った。「生来の耐性や回避とは別に、他の次元界(プレイン)来訪者の魔法抵抗力(マジック・レジスタンス)はここのデーモンにもあるけど。そっちは、『マーリンの魔法の鏡』の力で魔法抵抗力は落とせるし」
 コーデリアは魔術師の杖(ワンド、スタッフ、ロッド)や護符の類ではなく、部外者にはこの握り拳大の変哲もない水晶玉に見える『見る石』を焦点具としている。『見る石』は彼女の師匠の手による品で、秘宝のひとつ『マーリンの魔法の鏡』と似たある程度の力を持つ。
 「あてにならないぞ。大迷宮に普段からうろついてるデーモンやデヴィルのほかに、ハイエナの公王が《奈落》からじかに連れてきたデーモン達に出くわすかもしれない」リゼが首をすくめた。
 「呪文が効きにくかったとしても、肉体能力が英雄級からは頭が出ないくらいなら、リゼの剣の腕なら、一対一では押し負けることはないはずよ」
 「一対一ならってのもたいした助けにはならないぞ」リゼは首をすくめた。「デーモンは複数、混成のことも多いからな」
 「そこはそれ、他の迷宮、”鉄獄”とかとは違って、通路が狭い”大迷宮”のゲヘナ階層では、一対一の状況は多いはず」コーデリアは人差し指をリゼに向かって立ててから、ついでその手を握り、猫少年にローブの腕をまくって見せた。「何より、どうやってそういう状況にするかが魔術師の、制御役の腕の見せ所。まかしときなさい」
 それからコーデリアは、今の薄手の書物の束を両手に抱えて立ち上がり、別の書物を探しに、書庫の反対側の区画に(前が見えないほどの大量の束を持ったままよろよろと)歩いていった。
 猫少年はそのコーデリアを見つめ、ときどきリゼや『見る石』や書物に目を移して見比べていた。
 「なんか気になったか?」リゼが猫少年に言った。
 「いえ、気になった、ではないんですが、ただコーデリアさんの……」
 ガーディナルの、その人間とは異なる目や毛並みの動き、仕草は、リゼには家猫の機嫌を読み取るように(むしろ同じ妖精の血のためかもしれなかったが)何となくわかった──猫少年の、先ほどの意気消沈や不安の部分が、むしろ当惑や驚きにとってかわっているように見えた。
 「あいつの能天気か」
 「いえ……そういうものじゃなく」猫少年は何か言葉を探しつつ、「前向きに計算していくというか、理詰めの前進指向というか……」
 「いや、単なる能天気だぞたぶん」リゼが首をすくめた。
 「僕の故郷や、行ったことのある次元界ではあまり、そういった考え方……姿勢の人には会ったことがありません」猫少年は言った。「賢者の弟子、魔術師だからですか」
 「たぶん関係ない」リゼは再度首をすくめた。「問題にはいろんな解決の仕方がある。どうにか解決できるよう、やりやすい仕方で進めるってだけの話だ──特に多元宇宙にまたがるような厄介な問題にはな」



 『ネコの帝王』が準備して猫少年に授けた次元門の結晶を用いて、一行は次元界間の裂け目、移送のポータルを開き、出発した。先頭のリゼは、そのポータル、すなわち洞窟から空中に縦に開いた空間の裂け目、黄褐色の色彩の渦巻く中に、慣れた様子で平然と足を踏み入れた。
 そして、がくりと足を踏み外しそうになった。ポータルの続いていたその先は、いきなり断崖の切り立った斜面で、先頭が盗賊のリゼでなければ一歩目で転げ落ちていたかもしれなかった。コーデリアと猫少年はリゼのうしろから覗き込み、身をすくめて、踏み出すのを躊躇した。
 リゼは斜面の上下を見上げ、そして嘆息してから、今一度、あたりを見回した。まさしく《苦界(ゲヘナ)》だった。
 空は分厚い漆黒の暗雲に覆われているが、ひっきりなしの火山の炎の明かりと雷の閃光によって視界は目ざわりなほどに断続的に照らされている。近くはひたすら斜面の岩肌で、遠くを見れば、大小の火山帯が上下に連なっている。頂上も、下の大地も見えず、火山の斜面だけが視界の届く限りひたすら上下に連なっているように見える。遥か上に暗雲に見えるものは、おそらくは雲というよりは、一面の火山帯から吹き出しているどす黒い煙の塊がなんらかの理由で一定の高度に凝り固まっているものだった。
 一方通行のポータルから《苦界》に出てきた一行がいるのは、その急斜面に穿たれた、大きくジグザグの軌道を描いた山道のひとつだった。山道は一応は、噴火や溶岩流を避けるように作られているのか、それらは遠くに見えるのみである。しかし、その他に岩肌にも、そして山道をしばしば横切るように、そこかしこから蒸気が噴出する箇所があった。猛毒かもしれないし、そうでなくとも危険な高温であることに疑いはない。
 猫少年は山道を横切るその蒸気を見て、一度、身を震わせた。一般に、ガーディナルにはそれほど強い熱への耐性はない。無論、下方次元界を旅する以上は、リゼもコーデリアも防護の術や装備を準備して来てはいるが、なにしろ相手は地獄の炎のたぐいである。個人規模の耐火の護りなど、安心できるものではない。
 猫少年は断崖と山道を見渡した。見かけ通りの猫の敏捷さがこのガーディナルの混血にあるのかはわからない。が、リゼは、どちらにせよこの《苦界》の地形の険しさは、自然の猫(や、半妖精の盗賊の自分)の肉体能力で対処できる域をこえているかもしれないと思った。
 「近くを探して下さい」やがて、猫少年が言った。「この『ネコの帝王』の準備したポータルの近くに、”運命の大迷宮”への抜け道、つまり、大迷宮の竪穴に対して、横から侵入する道があるはずです」
 この険しい山脈は、大迷宮に繋がる箇所を設けるのはうってつけだ、と思うのは、すでにそれを知っているために過ぎないのかもしれない。この地形には利用価値は確かにある。しかし、よく知られているように、この《苦界(ゲヘナ)》の次元界(プレイン)は、あまり注目されてはいない。デヴィルとデーモンらの勢力が争う無限の闘争の場も、その兵士であるダイモーンらが集結するのも、ここではなく《冥界(ハデス)》、隣接する別の次元界(プレイン)だ。
 リゼが目をこらした。全体を見ることにかけても細部を探すことにかけても卓越した月エルフの視線が、混沌とした山脈を横切り、ほどなく一か所で止まった。
 「あそこか」言ったリゼの視線の先をコーデリアと猫少年が辿ると、よくは見えななったが、岩肌に裂け目のような入り口があるのが辛うじて認められた。今いるのたうつ山道が連なっている、その先のひとつだった。
 コーデリアがローブの裾で手の『見る石』をこすると、覗き込んだ。
 「かなり深くまで続いてるね。たぶんそこだと思う」コーデリアは言い、「《苦界》にああいう深い横穴がよくあるものか、ないのかは知らないけど。違ったら別の箇所を探せばいいよ」
 「それしかないな……」リゼは険しい山道を、その先の入り口まで目でだとり、「もっとも、この道をあそこまで辿り着くのも簡単じゃないが──」
 と、不意にリゼは遥か上を見上げた。『見る石』で感知したコーデリアが同じ方向を見るのはほぼ同時だった。



 一行は山道ぞいのごつごつした起伏のひとつ、岩陰に隠れるように引っ込んだ。
 「メッツォダイモーンだ……」リゼがささやいた。
 上方の斜面に、十数体の巨大な甲虫──大きさが人間大であることを除けば、ふしくれだった六本の脚を持った昆虫そのものの概形に見えるものの姿があった。ここは《冥界》の戦場ではないためか武器などは持っていないが(メッツォダイモーンは昆虫のような見た目にも関わらず、戦闘時はほぼ武装している)後ろの2本の脚だけで、切り立った崖の面を、まるで平地でもあるかのように平然と移動してゆく。昆虫と同様のその体躯の構造による移動力なのか、それとも、ダイモーンが《苦界》原住であるための特殊な能力なのかは定かではない。ダイモーンは中立にして悪(やや秩序傾向)の種族であるが、その姿は混沌のデーモンほどではないが種族によって多種多様であり、このメッツォダイモーンのように甲虫のようなの姿のものから、他の(主物質界の)生物のような姿のもの、他の次元界の悪鬼に近いような姿のものまでいる。
 メッツォダイモーンの肉体能力は(悪鬼としては)それほど強大な方ではないとはいえ、あの数では相手にするのも楽ではないが、何より、この断崖の上で自由に動ける相手と、立つのもままならないリゼ達では、まともに戦いになる状態ではない。
 「悪い折に来ちまった、と言いたいところだが」リゼが再度ささやいた。「《苦界(ゲヘナ)》じゃどこにでもいる連中だ。むしろ、この次元界(プレイン)でダイモーンに出くわさずに済むわけがない」





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