Netherspectra III - The Sewer
深淵夢幻(下水道)






 3


 アランは歩いてゆく配管工の背中をあたかもランタンで照らすかのように、
その背後について、おそるおそる下水道を進んでいた。
 「ついていって大丈夫なんだろうか……」傍らにかなり薄く半透明(おそら
く、仮に配管工が振り返っても逆光でほとんど見えないだろう)で浮かんでい
る蛮子に、小声で言う。
 「んーっと、向こうはこの辺りのことよく分かってるみたいだし、危険も少
なくなるだろうし」蛮子は傍らから、しかし消えている時と同様アランの頭の
中から響いてくる声で、「単についていくだけで、クエスト成功くらいはでき
るんじゃないかとか思ったり」
 「けど、なんか余計なことにも巻き込まれるかもしれんで……」蛮子の肩の
レプが、同様に言う。
 この配管工が、長々と(都の執政府が「消息不明」と判断するほどに)この
地下を徘徊し続けている理由は、この下水道に生き物(や、生きていないも
の)が何度掃討しても出現する、その原因と解決のめどを見出したため──こ
の髭親父の言葉をかりれば、あと少しで「もとを絶てる」というものだった。
 外から流れ込んでいるのでない以上、当然ながら、下水道の中にどこからか
それらの怪物が「湧きだしている」箇所がある。しかも(アランは言われては
じめて気付いたが)この下水道に繰り返し現れる怪物には、「増殖」する種類
のものがやたらと多い。あの”死体の塊”のようにそれ自身が負のエネルギー
の界(プレイン)とのチャネルである場合は別だが、そうでなければ、必ずどこ
からか、とめどなく流入して増えている。街の施設はある程度は次元的・霊的
に整備されて作られており、地下迷宮ほどには所かまわず転移ができたり、怪
物が闇雲に外から招来されたり、「生成」されることはない。外界から怪物を
招来しているような作用のある、どこか特定の原因・場所が、この下水道のい
ずこかに存在している。
 「毎回、連中の種類ごとに、集まってる場所は決まってるんだ」先ほど、髭
親父はぶつぶつと愛想悪くアランにそう説明した。「連中にとっての居心地で、
毎回”溜まり”になる場所ってやつがある」
 それら存在(クリーチャー)の種類ごとに適した環境、あるいは特に非生物の
場合、アランの知る法術の原理で言えば、霊気の濃い場所なり、負の気脈の集
中する場所というところなのだろう。
 「でも、そこから湧き出してるわけじゃないんでしょう……」アランが今ま
で掃討したわずかな箇所を、また、その前に来た冒険者、地方ドルイド会など
が見た限りでは、それらの場所には特にそれ以外の異常はなかった。
 「連中の集まってる場所を見ただけじゃ、何もわからねえ」髭親父はしわが
れただみ声で説明した。「が、それぞれの配置を眺めりゃ、そいつらが、どう
”流れて”来て、そこに集まるかがわかる。仕舞には”水源”がわかるってこ
とだ。水道の流れと同じだ」
 配管工は、長い期間をかけ、それら存在が繰り返し出現する場所を調べた結
果、下水道に徘徊するもののすべてが、どこから発生しどう流れているか、見
当がつき始めているという。その発生源に、すべての次元的な招来元がある。
 配管工は、そのがっしりした脚で下水道の床を踏みしめつつ歩きながら、し
ばしば立ち止まり、手に持った1フィート四方ほどの薄い銅の板──どうやら
ここの下水の配管の図らしい──に、けがき針で印をつけている。また、管や
壁の方にもときどき同様の印をつけている。15階未満の冒険者らはもちろん、
地方ドルイド協会らが霊気を調べてもこれまで全くわからなかったものが、こ
の熟練の下水配管工には見えているらしい。
 どうやら、長年都を悩ませてきた下水道の問題の、根本的な解決に向かって
いる。……関心はないわけではないが、しかし、アランの生き残り優先と臆病
さの意識は例によってそれを圧する。クエストの任務は、あくまで、当面この
下水道に徘徊する生物を掃討することである。それ以上の危険を伴いそうなら
ば、ひと通りの掃討が終わったところで、別れるのがよさそうだった。


 「そっちだ。……ここを通るぞ」髭親父は配管図から眼を上げ、南東のひら
けたその奥の方を灰色に汚れた手袋で指差しつつ、のしのしと無造作な足取り
で進んでいった。
 アランは束の間あっけに取られ、その後あわてて駆けつけるようにランタン
を掲げてあとを追った。まるでアランもこの地下の地理を熟知しているのが当
然であるかのように進んでゆくが、こちらとしては皆目わからない上、普段の
探索のように慎重に伺いつつ進む暇がないことへの不安は増すばかりである。
 明かりの届く範囲から配管工の後姿が踏み出してしまい、見失いそうになっ
た時──不意に、その間を塞ぐように現れたものがあり、アランのそんな不安
を真っ向から突いた。ランタンの光の生み出す陰影のうち、ねっとりと影の中
からにじみ出すようにそれは現れてきたのである。
 ……前に”大蜘蛛”と出くわしたとき蛮子から、それらは世界の闇の溜まり
目に潜む闇の大蜘蛛の悪霊の眷属とその遥かな末裔であり、"冥王"の軍ととも
にこの次元世界にやってきたのだと、教わったことがあった。その影の姿は普
通の自然の摂理によって生み出され生息する動物というよりも、むしろ闇から
呼び出されてきた、この場にも次元的・霊気的に喚び込まれてきた、という印
象にこそ合致するものがあった──大蜘蛛の艶のない体表は裡からの闇にふく
れあがったようであり、その中で唯一明かりを反射して不気味にきらめく眼の
数々が影の中に浮き出しているようである。蜘蛛は羽虫のように音を立てたり
はしないが、これほどの大きさであると一挙一動ごとにその硬質の節足の関節
の軋む音が聞こえてくるかのようでもある。
 次々と闇の中から現れるそれらの姿に、アランの頭脳は一方ではひたすら恐
怖にかられ、また一方では対策を探ってめまぐるしく動いた。
 「……ええっと、囲まれないうちに、壁際の隅に──その時間(ターン)があ
ればだけど」蛮子の慌てた声が脳裏に響いた。
 かろうじて、故郷で受けていた訓練、それもその中での騎士としての対決技
でなく、騎兵としての訓練、戦場での多対多の歩法に思い当たる。蜘蛛らとの
距離が詰まってゆくのに併せ、南の壁際に寄ると共に、囲まれはじめる動きの
その四方の隅へと向かってゆくように斜めに下がる。囲みが縮まるにつれ、回
転していずれとも距離を開け、その中から距離を詰めて踏み込んできた一体を
相手にするというものだ。剣術家らならば、"崩し八重垣"だの"八方分身(やぶ
れほつ)"だの"払捨の八相"の理合だのと呼ぶかもしれない。
 しかし、巨大な蜘蛛の内懐へと自分から飛び込んでゆけないのでは、アラン
の腕と剣の間合いでは、一気に蜘蛛の神経中枢に一撃を届かせることはできな
い。かといって扱える法術の威力ではこの大きさの蜘蛛を制しきる手数はすぐ
に尽きる。──アランは狼狽しつつ、壁の隅に寄り、めまぐるしく思案したが、
どうにか意を決し、蜘蛛の長い脚が踏み込んできた出先をとらえ、右転左旋い
ずれも関節を狙って払い、切り上げた。がくりと支持を失った蜘蛛に、アラン
はなかば反射的に、やはり隅に回り込むように踏み入り、無骨な長剣を懸命に
上段に持ち上げ回してから、踏み込みと一剣の重みのすべてを乗せ大蜘蛛の頭
上めがけて撃ち下ろした。
 眼の上から存分に断ち割られた大蜘蛛は、仰け反るように動きを止めてから、
出てきた暗闇の中へとふたたび沈み込むように床に伏した。その合間へと入り
込んできたまた次の大蜘蛛を、アランはこれも半ば無意識に切り払い、出足を
挫いた中枢に剣を見舞い、切り伏せた。
 一息をついてから、不意に思い出し、アランは配管工の向かったと思える方
に向けて慌てて駆けた。ほどなく配管工のうしろ姿が明かりに入ってきたが、
同時にひときわ大きい蜘蛛の姿がその向こうに見えた。
 髭親父がふたたび手から炎を発するかと思ったが、不意に、その姿が消え失
せた。ずんぐりした重い肉体が軽々と、ほとんど垂直に上空へと跳躍していた。
不可思議にも、長いゴムひもを弾いたようなひどく軽々とした音と共に、屈強
な髭親父の肉体は右手の拳を差し上げ足を曲げた姿勢のままで、数十フィート
上の天井に届かんばかりに高々と宙に舞い上がった。信じがたい跳躍力である。
しかし、反して落ちてくるときはほとんど轟くばかりの風唸りを伴い、配管工
の巌のような肉体は大蜘蛛の頭上めがけて足を下にして降り堕ちた。
 アランはその次に現れる光景を思わず予想してしまい、いつも通り自分の勘
など外れることを切に祈った。しかし、あいにく、予想と寸分違わぬおぞまし
い光景が展開された。胸の悪くなるような(というより、アランが数時間前に
よく噛んで飲み込んだ”エルフの口糧”が全部胃からもどってくるとさえ思え
る)音と共に、大蜘蛛の影にふくれた腹の真ん真中を、屈強な髭親父の全重量
とそれが集中する鉄槌の頭のような両脚が叩き潰した。大量のねばった液が床
にぶちまけられ、びくびくと痙攣を続ける関節は巨大な腱を持つゆえに長期に
わたり床をのたうちまわった。
 「うええ、これじゃ”塔の大盗賊カンダタ”より残酷だよ」踏み潰された蜘
蛛を前にした蛮子の声がアランの脳裏に響いた。
 「お前は出番もまともに喋ることもないなら黙っとれや」レプが呻いた。
 アランは今の光景に、眩惑する寸前といえるほど頭から血の気をひき青ざめ
つつ、しかし同時に、意識の別の部分は驚嘆していた。さして巨躯とも戦闘能
力に極められた体躯とも言えない、この岩のようなずんぐりした髭親父が、両
の足と自分の体重、ただそれだけの武器で、人を遥かに上回る体躯の大蜘蛛を
害虫でも軽々と踏み潰すように屠ってしまったのだ。実際のところ、強大な怪
物に抗する人間の体躯の限界は、どれほどまでありうるのだろう? 無論、龍
や幻獣に対してこうはゆくまいが、思案が自然と働いた。
 配管工は大蜘蛛らのうずくまっていた辺りに歩み寄り、「こういうのが居座
るような、特に嫌な空気がこの辺りに溜まっていやがるんだ」
 法術で言えば、闇の蜘蛛が集まるような影の霊気の凝集している場であると
いうことか。……配管工は手の銅板の印がついた箇所に、再度がりがりと印を
穿ち、眼を上げて、アランには背景にしか見えない壁の配管に鋭く視線を走ら
せ、厳しい眉をさらにしかめた。
 「この奥だな。もっと濃くなるのは」
 東の奥へと進むと、すでに先に配管工か前の掃討者が処理したあとなのか、
酸の水溜りの干上がった跡があった。北に折れてひどく狭い区画に入り込むと、
入って右手にやはり干上がった跡がある。それ自体が照らされていない暗い区
画だが、不意に、数匹の”冥界イモムシ”がアランの目の前を横切った。大蜘
蛛以上に──それ自体が深い負と闇の霊気の凝集のような生き物だった。



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