Netherspectra IV - The Sewer
深淵夢幻(下水道)






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 配管工は無造作に重たい足を伸ばして、その体長数インチはある”冥界イモ
ムシ”をぶちりと踏み潰した。ふたたびアランの顔が青くなった。
 「壁の岩や、空気まで食っちまうイモムシだ」配管工は文字通り苦虫を噛み
潰したかのように顔をしかめて、しわがれた声でぶつぶつと言った。「こいつ
自体が、地獄への裂け目みたいなもんだな」
 アランは区画を見回し、「でも、そのイモムシはどこからくるの……」
 建造される時点で霊的な立地選択・対処が施された街の施設内では、そうし
た怪物が自然発生(生成)するわけではない。街の施設に使われる、最も外周の
土台をなす一種の「永久岩」は、こうした空間を食うようなわずかな危険な怪
物にも、侵食されることはない。現に、ここには裂け目らしきものは見当たら
ず、潰した後に冥界イモムシがそれ以上現れてくるといった様子はない。
 ……配管工は無言で区画の奥に歩み入った。そこはどう眺めても下水道のゆ
きどまりだが、髭親父はためらわず、壁に張り巡らされた大小の管と管の間を
手で探った。やがて、一体どこから見出したのか、壁のあちこちにあった締め
具や、取っ手を回し始めた。何か水の流れるような音がして、取っ手を回すた
びに管がずれたり、継ぎ目が外れたりした。最後に、太い土管のひとつの合わ
せ目が外れ、人が入れるくらいの口がぽっかりと開いた。
 配管工は無造作にその上に乗ると、いったいどうやって入っているのか、し
ゃがんだ姿勢のまま、垂直にずぶずぶと土管の中に消えていった。
 アランは一連の光景にしばし立ち尽くし、それから我に返ると、おそるおそ
る土管を覗き込んだ。管の内側に手すりがあるのを見つけ、こわごわとそれを
伝って配管工のあとを追って入っていった。
 ──ランタンの明かりに照らし出されたその奥は、下水道の独立した区画と
いうわけではなく、配管が込み入った都合で形成されているといえる、狭い空
間だった。が、それが見えた次の瞬間、視界のすべてがあまりにも大量の冥界
イモムシに、どっと覆われたように見えた。
 「え、何? 何があったの」アランのさらにうしろに続いた蛮子(浮遊でき
るのに、なぜか手すりの梯子を降りてきたらしい)が、土管の出口から顔を出
して背後から覗き込もうとした。
 「し……」区画の中央を凝視していたアランは息を詰まらせ、一度呑み込ん
でから、「死体だ!」
 「何の?」珍しくもなさそうに、蛮子は続けて聞き返した。
 「冒険者の……」
 蛮子はアランの肩ごしに、区画の中心、たえまなく湧き出してくるような冥
界イモムシ中心にあるものを覗き込んだ。「ダークエルフ暗黒ハイメイジの死
体だね。勝手もわからない初心者が、イメージに一番合うだとかいうただそれ
だけの理由で選びがちな組み合わせの。でもまあ、ふつうの人間パラ……」
 蛮子はそこで慌てて咳払いしたが、そんなことは繰り広げられている光景の
奇怪さから見れば些細なことであった。黒ローブの手に、アランの持つ白い経
典によく似た装丁の黒い表紙の本を抱えたままの、ダークエルフの死体は、ひ
からびたまま微動だにしないが、その体から幾つも、のたうつ黒い綱のような
もの、よく見ると大気そのものの裂け目とも呼べるようなものが走っている。
よく見ると、それは布の裂け目のようにゆっくりと蠢いて、そのたびに冥界イ
モムシが──たまに青ベトベトなど、別のものが顔を出すのが見える。
 「この黒いのが大元だ。こいつが呼びこんでるいまいましい連中が、下水道
を──皆の施設を、土足で踏みにじってやがるんだ」蠢く黒い帯を見上げ、配
管工が灰色の手袋の拳をぐいと固めて言った。しわがれ声としかめられた眉の
間に、アランはそれまでこの髭親父に予想もしなかった重苦しい激情のような
ものを聞いたように思った。この男をかつて爬虫人の軍団に単身で立ち向かわ
せたものかと思えた。「これ以上汚せないように、叩き潰してやるぜ!」
 アランが何か反応するよりも早く、髭親父の重い肉体は弾丸のように中空に
跳躍した。が、アランの度肝を抜いたことに、黒い帯を踏み潰さんとその真上
へと降下した配管工の足は、細い黒い帯に触れるや否や、栓を抜いた水が吸い
込まれるように──その音すらも酷似した一連の光景を伴って──その全身が
一気にそのわずかな黒い線に吸い込まれた。次の瞬間には、その髭親父の巨大
な質量は跡形も無く現世(うつしよ)から消失していた。
 「何……?」アランは蒼白となり、かすれた声で呻いた。「……どうなっち
ゃったの!?」
 「ええと……冥界イモムシ(ネザーウォーム)の這い出てくる所に飛び込んだ
わけだから……やっぱり、その、たくさんある黄泉の界(ネザープレーン;下方
次元界)のうち、どれかに吸い込まれたんじゃないかなぁ……」蛮子は躊躇い
がちに言ってから、突如翻すようにつとめて明るく、「いや、でも冥界イモム
シで深淵イモムシ(アビスウォーム)じゃないから、堕ちた先が奈落界(アビス)
でないことだけは確実だよ。うん」
 「じゃあ、どこに堕ちたの……」アランはおずおずと、だが、あくまで追及
した。
 「いや、その、……まあ、うまくすれば幽冥界(ハデス)とか荒苦界(ゲヘナ)
だけど、でないとすれば……ううぅ」蛮子は激しく口ごもってから、「その、
……九層の地獄界(ナインフェルノ)とか」
 アランは配管工の岩のような落下の姿を思い浮かべ、からからの喉にありも
しない唾を飲み込んだ。
 ……あるいは、ここにある死体のダークエルフは、まだこの下水道に自然の
害虫・害獣などしか出なかった最初の頃、それを掃討するために雇われた冒険
者だったかもしれない。その魔法はその5階相応の簡単な暗黒魔法であったの
かもしれず、ダークエルフ暗黒ハイメイジに死をもたらした、その原因に対し
て処せられた魔法かもしれない。ともあれ、その魔法の何かが、なんらかの事
情により失敗し、暗黒魔法のしばしばアクセスする負物質や影の領域どころか、
大雑把に冥界とも呼ばれる界にまで裂け目ができたのだ。すなわち──それら
を主物質界と繋ぐアストラルの中継界にまで裂け目が走っている分、転移の魔
法の原理同様、空間的な間隙を飛び越えて様々な怪物が流入してくるのだ。そ
れが繰り返し怪物を呼び寄せ、冒険者と怪物の犠牲が下水道に溜まってゆくに
つれ、裂け目は拡大し、無尽蔵に”影”がわだかまり怪物が出現する地と化し
たのである。見かけの上では、召喚ルーンなどが生成されているのと同じだが、
すでに、地の果ての山中の街を騒がせているという、カオスや仙術の力の特異
点(結節点)と同様の、”暗黒の結節点”の小規模なものとすら呼べるものだ
ろうか。
 と、突如、黒い裂け目は大きく震え、いずれも身悶えするように激しく渦を
巻きながら、緩慢に現世(うつしよ)に腕を伸ばしてゆくように次第に伸張しは
じめた。髭親父の大質量を一気に無理矢理吸い込み、転送したその衝撃による
とでもいうのだろうか。のたうつ黒い裂け目が側の配管にぶつかり、鈍い音を
たてて管が次々とねじ曲がった。アランはぎょっとして、背後のゆがんだ土管
を見た。配管工がいない今、時間をかけて這出ることならできても、走って逃
げるような道を探すことはできない。アランはほとんど反射的に経典を開き、
うしろにまとめて挟んである、短・長距離の瞬間移動(テレポート)の巻物の栞
に手を伸ばしたが、そもエーテルとアストラルの間隙の中継界の裂け目のまっ
ただ中にいるというこの状況で、転送の術がまともに働くとはとても思えなか
った。黒い裂け目で次第に充填されてゆく区画、それも裂け目に触れれば即、
冥界(ネザープレーン)に落ちるという状況に閉じ込められたのだ。
 「うぅぅ、ひょっとして、もう水道局のアヤナ三ポスター狙いどころの話
じゃなくなってきたとか?」蛮子が慌てふためいた。
 アランは恐慌をおこしかけたが、なんとか活路を見出そうと、必死に目の前
の光景に目をこらした。光景の中心の干からびた死体はすでに自らは動かず、
ただ黒い空間の裂け目に伴う気圧差に突っ張られているように時々震える。埋
葬されなかった無念のやるせなさしか残っていないように──法術の儀礼を修
めた身からはそんなことが頭によぎったが、状況の打開には何も関係はない。
 ──本当に関係ないだろうか? アランは一連の光景を凝視した。この光景
にはどこか、おかしい所がある。
 恐慌を必死で頭から追い払って考え、ようやく気付いた。……あの死体は干
からびてはいるが、まったく破損していない。そしていまや、黒い裂け目があ
れほど荒れ狂っている中心にあって──髭親父の大質量さえ跡形もなく吸い込
んだ裂け目に、あの死体が吸い込まれていないのは、なぜだ?
 あの裂け目に、死体の容(かたち)そのものが必要なのか。法術の理論での霊
体に対する解釈が頭をよぎる。そして、最初の”死体の塊”、異界へのチャネ
ルと霊子(エーテル)の凝集が相互に起こり、チャネルが何もない所に死体すら
形成させるなら──死体に凝集する霊子が、逆に何もない所にチャネルを形成
させているというのも、ありうる話ではないのか?
 アランは開いたままの経典をめくり、術式に目を走らせ、周囲の異常な霊気
になんとか合わせて、メモした項目を選択し頭に入れてから、本を閉じ背嚢の
小物入れに押し込んだ。そして諸手に剣を構え、イモムシと裂け目の射線が開
ける瞬間を待った。黒い裂け目が勢いよく撓り、生じた気圧差でアランはよろ
めき、裂け目が長剣をかすめたのか手に衝撃が走った。剣にえぐったように刃
こぼれができているのを認めて時は肝を冷やしたが、通り過ぎた時に(イモム
シも追い払われ)目の前に空間が開けた。アランはそこに剣を突き込み呪を練
り上げ、冒険者の死体めがけて<懲罰>の電撃を放った。
 周囲の異常に凝縮した霊気が術に吸い上げられ、少年の服と髪をはためかせ
てその眼前を駆け巡った後、無形の稲妻となってアランの剣尖から迸り散った。
火葬の業火は干からびきった死体を焼き尽くし、瞬時に灰と化して飛び散らし
た。黒い帯はいずれも糸が切れたかのようにその元から離れて宙を舞い狂い、
土管のいくつかと大量のイモムシを吸い込み、区画に無数の大穴を穿った。が、
いくばくかの間をおいて、幾つもの黒い裂け目は激しく震え、やがて一斉に、
周囲のエーテルが非物質化する際の相転移に伴う冷気の湯気を発し、それこそ
巻き起こる煙と共に忽然と消失してしまった。
 水を打ったような沈黙に、壊れた配管から水滴がゆっくりと滴る音だけが反
響していた。閉鎖されていた区画のあとには、まばらなイモムシや浅い水溜り
が残されているだけだった。


 アランは首から肩まで激しい疲れをにじませて、とぼとぼと下水道の南の通
路を歩いていた。……戻って執政府にどう報告すればいいだろうか。依頼され
たクエストの義務には無関係な様々なこと、配管工の行方や下水道の怪物発生
の帰結、それらを見届け、自分でも手を下した。というよりも、全容を知って
いるのはアランしかいない。アランがすべてを報告しなくてはならないのは確
実である。しかし、一体、これらをどう説明すればいいのだろう?
 考えがまとまらないまま、浮かない足取りで歩き続け、北に折れるあたりに
さしかかった。と、うつむいた眼の端にふと入ってきたものに対し、アランは
目をこすり、その直後、顔を上げて目を見張った。
 曲がり角から、蠢く四肢と同じ割合の無形の腐りきった肉でできた”死体の
塊”が、じわじわと緩慢に、しかし一斉に津波のようにあふれ出してくる。ア
ランが目をこらして曲がり角の向こうを見ると、広間と通路の見える限りを埋
め尽くしていた。ひょっとすると、下水道の北半分すべてだろうか。。
 「あ……あのさ」蛮子がためらいがちに、「そういえば……最初に白ワニに
襲われた時、……うしろにいた増殖する”死体の塊”を、掃討しきらずにその
まんまにしておいたような気が」
 アランは息を呑んだ。
 「いや、まあ、……どうしよ……突っ込んで切り抜けて、なんとか出口まで
たどりつけば」蛮子が自信なさげに、ひとりごとのようにつぶやいた。
 「周りが全部死体の塊なのにか。それぞれがこっちの命を吸い取ろうとして
くるのにか」レプが呻いた。
 「それとも、徹底的に全部潰しちゃうか」蛮子が一転して明るく、「そうす
ればクエストも成功だし。いや、落ち着いて増殖パターンを読めば大丈夫」
 「北半分が全部こいつらで埋まっとるのにか」レプが絶望的に呻いた。「ど
んだけ果てしない手間やねん」
 「で、でも、そのどっちかくらいしか……どっちに決めるにしろ、あんまり
ゆっくりしてる時間はなさそうだけど……」
 が、まさに決断する暇さえもなかった。緩慢に拡張してゆくおぞましい腐肉
の津波はゆっくりと広間と視界を埋め尽くし、見る間に目の前へと迫り、──


 都の大図書館における記録整理者が、のちに人々にしばしば語ることによる
と、下水道から期間を置いて無尽蔵に不穏・怪物が湧き出し、都を悩ませるこ
とは、これ以後はなくなったと、都の年代史家の記録には記されているという。
(しかし、自然の害虫や混沌術使いなどをはじめほかの原因による下水道のト
ラブルは稀に見られた、といった曖昧な記述が続くが、それは省く。)
 しかしながら、その災害についての依頼を最後に受けたという冒険者──パ
ラディンの少年と、そのクエスト自体に関して言えば、それが”成功に終わっ
た”のか、もとい彼がそこから生還したのかという点に関しては、記録者の語
る話の中には言及されていない。それが元々、何ごとも決して書き漏らさない
都の年代史家の記述にさえ漏れているのか、それとも(こちらが有り得ること
だが)単に記録整理者がそんな少年の帰結などという些細なことはすっかり忘
れているのか、ともかくも、その点は後の世には伝えられてはいない。



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