Netherspectra II - The Sewer
深淵夢幻(下水道)






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 文明世界の片隅の闇に潜むよこしまな魔術師らが、ある種の秘儀(超古代の
爬虫人や、それらに関するセト、イグといった神らに関連する儀式ともいう)
に関する道具として小ワニを飼い、しかし、管理できなくなると下水に流して
しまい、それが交配を繰り返して地下で世代を重ねるうちに巨大な白色種とな
り──そうしたものが、大都市の地下には少なからず生息している、という、
まことしやかな噂ならば、アランは故郷でも頻繁に聞いたことがあった。その
真偽はともあれ、前述した通り、都の下水がそうした魔術師らの廃棄場でない
ことは既に確かで、それだけに、こんなものまでが下水にいるのはあまりにも
不可解だった。
 しかし、疑念を抱いている暇はない。巨大な白ワニは悪臭を放つ泥から足を
引き上げ、重く大雑把な仕草で、しかし見る間に距離を縮めてくる。人間を獲
物とするとは限らないとか、地下の闇と汚泥の中で視力その他の感覚が退化し
ているのではないかという願望がよぎったが、アランの方にあやまたずに直進
してくるところを見ると、どちらもまったくあてにはならない。
 「はっ! 締切直前に現れた白ワニが完成間近の原稿用紙を食ってる!?」
 「落ち着けっ!」蛮子の錯乱した台詞をレプが遮るのを横に聞きつつ、アラ
ンは向かってくる白ワニに、とりあえず突き出したままの剣を向けると、それ
まで死体の塊に行っていた法術を反復した。口訣と共に周囲の気脈を掴むと、
死体を無造作に焼いていた時に比べて渾身の力をこめつつ(実際は、術式が同
じなので乗る力も同じにしかならない)それを刀身に乗せ、気を剣尖で解放す
る<懲罰>の術をワニの鼻面へと放った。
 無形無色の衝撃が白ワニの正面から炸裂した。が、電撃は普通の皮膚に対し
て静電気がしばしば起こすだけのように、単に皮に弾かれたように見え、その
白化の色を損なうこともほとんどなかった。概ねそれは、ワニの機嫌を悪くし
た以外にはさほどの効果はないように見えた。白ワニは浅水を滑るように進ん
でくる。
 アランは慌てたように、硬直したように突き出したままだった剣を、縦横に
繰る刀法に備えて手の裡を緩めて構えた。ぞっとしない考えだが、その剣を揮
ってじかに戦う他にない。まだかなり距離があるのが急速に詰まっていくのを、
アランは恐々として待ち構える。
 ……今、アランの手にある剣は、故郷から持ってきて使っていた広刃ではな
く、辺境の地の村長が盗賊討伐の報酬にくれた、辺境の鍛冶屋の徒弟が手ずか
ら鍛えた”上質のロングソード”になっていた。辺境の補給隊に与えられるの
と同じという野戦用のこの長剣は、騎兵用の広刃よりはかなり無骨で多目的に
作ってあり、アランはなかなか手馴れることができなかった。しかし、それを
計算に入れても、戦時の数打ちだった前の広刃よりも鋼の質が遥かによく、過
酷な地下の生存率が上がることは確実だった。かといって、喜んで使うほどの
代物でもない。しかし、今のところ、これまで到達した範囲の辺境の洞穴や"
鉄獄"の浅い階層では、これ以上の品すらもまだ見つかってはいないというの
がアランの実情だった。
 「近接? えっと、とりあえず、なんか祝福とか。今の時点、パラディンの
打撃じゃ追っつかないかも」すぐうしろに浮いていた蛮子の姿は、大気のはざ
まに溶け込むように姿を消し、頭の内側から外側に向かって耳に届いてくるよ
うな囁き声が聞こえてくるようになった。……元々、最初からこの場にいるわ
けではないのだ。アラン自身には及びのつかないことであったが、アランの五
感に対して、姿が見え声が聞こえ、あるいは触れられる(半実体ではあるが)
ように感じるような情報を送り込んでいるに過ぎない。少なくとも現在は、蛮
子とレプの霊の車輪(ゴーストホィール)として姿をとっている時でさえも、こ
の場への投影像であり、アランに話しかける以外にこの場に何か影響したり助
力したりする実際の能力は持たない。
 ……アランは蛮子の言葉に、しばし戸惑ってからようやく思い出し、いそい
そとぎこちない手つきで、初歩の経典の間に挟んである詩篇の栞を抜き取り、
聖句の出だしの部分を小声で読み上げた。読まれた部分の語、紙の上のインク
はじりじりと焼けるような白光を発して燃え上がり、さらに、その続きの部分
の語もひとりでに順次燃えてゆく。不意に、紙そのものがその炎に瞬時に巻き
込まれ、栞の形をしたその『天恵の巻物』は煙を立てて消え去った。
 文字の残像は束の間空中で、そのまま一旦宙に刻まれたように震えてから消
えた。が、その震えのもたらした霊子(エーテル)の振動が、アランの体内とそ
の周囲にまとわりつく霊気を高揚させたように思えた。それはじかに四肢に力
をもたらすようなものではないが、気力を後押しする力はあった。──が、祝
福の霊力が満ちるのがわかる間もなく、距離が詰まりワニが襲い掛かってきた。
 白ワニの顎が開かれ、アランの体の何処とも構わず食いつこうと、四肢の何
れとも構わず食い千切ろうと、噛みあわさる。冷血の爬虫類にも関わらず、勢
いは猛牛もかくの如くや、そして顎の強さは人間どころか巨獣もひと噛みで真
二つに砕くかのごとくであり、アランの知るわずかな、自然に野生に住む肉食
の獣の比などではない。うしろに下がろうものならば、あっという間に下水道
の壁際に追い詰められ、方策が尽きるので、アランはたえず突きを放ち、顎の
流れを逸らすように切り込み、打突を行うことで逆に身を守り、その場に踏み
こたえたが、すなわち、すべての攻めの手のうちを駆使しても、ようやく身を
守ることしかできない。急速に体躯に消耗が広がり、たちまち疲労の温い汗と
焦燥の冷たい汗とが湧き上がる。
 「ああぁぁ、だからもうちょっと死体の塊を倒しておこうって」声は頭の中
に響いてくる。
 「ちょっと待て、ほかを先に掃討してからゆっくり死体増殖しないのは、ア
レか、掃討できるだけの力まで増殖で稼ぐつもりやったんか」レプが呻いた。
「どんだけ行き当たりばったりの計画やねん」
 「いやそこまでも計画してないけど、……あーあ、なんとかここまで来たけ
ど結局今回のキャラも駄目かも」蛮子が強烈に無責任なことを呟いたが、アラ
ンは気にとめている余裕などない。
 ──この土地に来たばかりの時に比べ、アランは既に身に付けていた剣技を、
幾度となく反復を余儀なくされ、その結果、無造作に基礎だけ覚えさせられて
いたこの技術が、どういう物であるかの概要が、ようやく見えるようになった
ようだった。故郷で教え込まれていた基本の戦闘技法、体を動かす勘もかなり
悪かったアランが本来の意味も皆目わからないまま反復させられ、無意識に、
あるいは丸暗記のような知識や理論としてしか知らなかった技術の数々は、今
はその戦闘理論の全体像が、漠然と把握できるようにさえなっていた。
 しかしながら、戦闘に対する認識が進んでいくことは、アランにとっては自
信がついてゆくどころか、自分の──人間の戦闘能力がどれだけ卑小であるか
を、ますます実感してゆく結果になるのみだった。今、現にこの次元世界にい
るアランにとっては、”人間”の戦闘技術というものが、野生の強靭さや本能
による反応にさえ、まして、”鉄獄”の地下深くに潜れば潜るほど加速度的に
力を増す”人外のものら”には、この技術の積み重ねでは、対抗などできるわ
けがないことは、日に日に明白に感じられてゆくのみだった。
 龍や巨神のような如何なる怪物をも打倒するような説話は、すべて有り得な
い絵空事に過ぎないのか。それを目指すか否かはともあれ、その世界に足を踏
み入れ命を危険にさらし続けるような行為は、そもそもが全て無意味なのか。
その結論はアランにとっては、考える以前に、検討してみる勇気さえない、と
も言えた。
 目の前のワニが、人(あるいは、ある程度恵まれた力の持ち主)の力で打倒
し得るか否かはともあれ、圧され続けつつ剣を揮い続けなくてはならない状況
が、そんな問題を突きつけ続けてくるように思える。
 ──と、不意に、アランの目の前に奇妙な光景が生じた。尾をひきながら激
しく回転する火の球が、床の上にその軌跡の残像をひいて転がり、否、跳ね跳
びながら、奥の暗がりの一方から、猛烈な勢いで飛び出してきたのである。そ
れは、白ワニの背後を通り抜けて傍らを素通りする……と見えて、不意にワニ
のほんの少し手前で、耳を劈く轟音を地下道あまねく反響させて炸裂した。ひ
なびたランタンの光に照らされていたすすけた地下水道は、真紅の閃光のもと
真昼の蒼天のもとの如く照らし出されたが、それも、爆風と高熱のもたらした
効果に比べれば何ほどのものでもなかった。それはアランの顔をわずかな火照
りで照らし出し、その髪と裾を逆立たせたに過ぎなかったが、白ワニの体躯の
半分がたを爆風と火炎の渦に巻き込み、巨大な質量を押し流すように煽り立て
た。のけぞり仰向いた顎があたかも咆哮しているかのようにわなないたが、ワ
ニがそんな声を発したにせよ否にせよ、火球の轟音にまぎれて何も聞こえなか
った。
 アランは目の前に突如繰り広げられた光景を、顔も身も守らずに立ち尽くし
て見ており、それは本来ならばあまりにも無防備と評されて然るべきだが、実
のところ、つぶさに見ていたことが明暗を分けた。ワニの動きが飽和し、停止
した瞬間と、法術の修練による、周囲の流れと動きを掴む能力が、反射的に狙
いと時節を教えた。仰け反ったワニの頭の動きの起こりをとらえ末端で止まる
時をめがけ、両手で長剣を半ば脇に構えてから、アランは一気に踏み込んで身
を投げ捨てるように突き込んだ。諸手突きの長剣はあやまたず白ワニの両目の
間に突き立ち、(アラン自身も驚いたことに)ほとんど柄元まで突き通した。
断末魔に白ワニの背が跳ね反り返った弾みに、根元まで刺さった剣を放す間も
なく両手で握っていたアランは、床に放り出されるように仰向けに叩き付けら
れた。
 ──打身の衝撃にたえつつ、アランは上体を起こし、いまだ自分の剣が突き
刺さりぶすぶすと表皮の一部が焦げている白ワニの死体ごしに、火炎が飛来し
てきた元の方角を見た。
 ランタンの明かりの陰になった闇の中から、のっそりと這い出すように、ず
んぐりした人影が姿をあらわした。煤と埃で汚れきった(明るい日の下で見れ
ば、元は赤と青らしい)ごわごわしたシャツとつなぎを着ている。その全身、
特に灰色の手袋(元は白らしい)に密集した黒い煤は、今しがた手から発して
いた火炎のそれなのか、配管や道具の汚れのそれかは定かではない。これも煤
にさらされたためか、真っ黒く艶気の失せた濃い鼻髭の間に、丸石のようなご
つごつとした鼻をもち、真っ黒い濃い眉とその下の目は気難しくしかめられて
いる。服と同じくらいに煤に汚れた赤い帽子の前面には、本人の頭文字らしい
『M』と書かれた丸いプレートがあった。
 「……また降りてきたか」ずんぐりした髭親父は、酒に喉が焼けてしわがれ
たような、低いだみ声で言った。「こっちの仕事が終わったとも言わねえうち
から、次々と寄越してきやがる。……執政府の雇い冒険者か?」
 アランは息を呑み、──今しがたの火炎の威力を思い描きつつ──その髭親
父をおそるおそる凝視し続けた。都の執政が以前招聘し、下水道に潜ったきり
戻らないという、その配管工なのか。では、今、目の前にいるのが──都の噂
に名高い、茸人(マイコニッド)の王国の下水道より潜入し爬虫人の軍勢をただ
ひとり(あるいは弟とふたり)で壊滅せしめた、とすら言われている、伝説的
な配管工なのか。



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