Netherspectra I - The Sewer
深淵夢幻(下水道)






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 都の地下に張り巡らされた下水道は、何か特別な下水道──良い意味でも、
悪い意味でも、例えば何か由来があるなり、立地やその他仕組みにひと工夫あ
るなり、そういった特筆すべき性質を持ったものではなかった。どう表現しよ
うとも、ただの下水道だった。少なくとも、都と共に建造された当初において
は、間違いなくそういうものだったのである。
 しかしながら、それはもう長いこと、”普通の下水道”でない、という状態
が続いていた。……最初この下水道に、浅い地下にありがちな小動物や低級霊
その他の不愉快な住人が住み着いたのが見つかった時も、危険性はそれ相応で
しかなかった。(それは、この次元世界の地上の戦況が今ほど厄介ではなく、
街の間の行き来がたやすくほぼ一本道であった頃であるから、かなり前のこと
である。)都の執政府の水道局はそれ以来、幾度も冒険者を雇い、その掃討を
行わせていた。なぜ”幾度も”かといえば、仮に完全に掃討に成功(そして、
それを幾人もの水道局の役人が確認)したとしても、しばらくすると再び何も
のかが徘徊し始め、元通りに荒れ果てる、ということが、幾度も続いていたた
めである。最初の頃から、冒険者が掃討しきれないばかりか、戻ってこないこ
とも多かったが、さらにはその頻度は次第に増えてゆき、「地方ドルイド会」
におはらいを頼むこともあった。というのは、最初は”鉄獄”の城砦に例えて
言えば250フィート程度(第5階層)で見られるようなものらが住み着いて
いた下水道は、次第に危険になり、現在ではドルイドらによると、下水道の通
路のはざまには明らかに当初の3倍もの霊気──750フィート(15階)相
当──が沈着している、とのことだった。
 下水道に何度でも不穏が蘇り、さらにはそれがどんどん危険になる、その原
因はわからなかった。さきに述べた通り何の特殊な条件もなく、外因らしきも
のも見当たらなかった。(一時、街の北西に住み着いたと噂される混沌術使い
にその疑いもかかったが、調査によると被害はその移住する前からだった。)
例えば廃棄物の原因、末路の予測できない魔法物品などを街の中に帰結する水
路に無造作に廃棄するほどには、この都の魔法店主らは浅はかではない。
 都の執政はかつて、この状況を打開すべく、『伝説の配管工』と呼ばれる男
を招聘し、件の下水道に送り込んだ。しかし、彼も乗り込んだ後、ほどなくし
て消息を絶ってしまったのだ。
 それ以上、さらに強力な戦力を投入するのは躊躇われた。投入するなら、か
なりの戦力で一気に解決すべきだが、各施設の長や店長が持ち場を離れなくて
はならないほどかは不明だった。執政は結局、冒険者を雇い掃討を繰り返させ、
あわよくば調査の成果を期待するという対策にとどめた。都に山積みの問題や、
常に都を脅かしている"原初の王族"や"冥王"の軍の脅威に比べれば、明日にも
解決を迫られている問題というわけでもない。そしてなにしろ──”冒険者”
ほど、雇う側のリスクはもちろん、コストもかからない存在もないのだ。かつ
てこのクエストが5階相当だった頃、掃討の報酬には耐光・耐暗の指輪を与え
ていたが、最近では、この都においてはほとんどはした文同然の、永久光の
魔法のランプを配っていた。しかしそれすらも持たない多数の冒険者は、その
報酬を頼みに、あるいはその下水掃討としては危険すぎる仕事自体を何か自分
の腕試しのように、さらにはわざわざその仕事のために都を訪れてくるかのよ
うに都に足を踏み入れざま、次々とそのクエストを受けにやってくるのだった。


 ──その下水道の奥深く、浅い水路を避けて南に折れたやや奥にある、今は
一面の水溜りが中央の大半を覆っている広大で虚ろな広間である。一帯を照ら
すのは、真鍮のランタンの油の光で──すなわち、魔法光源の永久光のランプ
を持っていない、つまり多分に報酬のそれを求めてこの下水道のクエストを試
みている、冒険者の存在を示している。
 もともと下水道というものは、たちこめる空気にせよ、その他の光景にせよ、
決して気持ちのよいものではないことは断り書くまでもないことである。が、
そのランタンの光に今、照らし出されている光景は、その予想をはるかにこえ
て、実におぞましいものだった。……壁際の隅に固まるように、その辺りの床
に折り重なっているのは、人型生物(ヒューマノイド)を主にするさまざまな動
物の死体、腐敗した肉、手、足、その他さまざまな器官が、寄せ集まった塊だ
った。しかも、それは表面を脈打たせ、のたうっている上、沼沢から発酵した
毒気がわきあがるようにその表面をたえず泡立たせ、しかも、少しずつ膨れ上
がり、じわじわと床に広がり続けているように見えた。泡立ち爛れる腐肉の狭
間に、ゆがんだ表情や濁った目の色が垣間見え、それらの発声・発音器官は、
いずれの界(プレイン)の言葉ともつかぬうわ言を絶えずもらしている。……そ
れは「死体の塊(アンデッド・マス)」と通称される、いわば粘体状(ウーズ)怪
物の一種であったが、その通称や分類がどうにか便宜上でつけたものに過ぎず、
その得体の知れない本質からほど遠いことは明らかだった。かといって、正し
い名を定義できるほどこの怪物について知悉している者も、それに日々対峙し
ている者らの中にはほぼ皆無だった。
 ──その蠢く肉塊の上に、不意に、下水道の闇と静寂を切り裂くような鋭い
放電の唸りと共に、無色無形のエネルギーの衝撃が迸った。電撃の甲高い破裂
音と、それが肉を焦がす音と共に、死体の塊がその放電に端から焼き尽くされ
てゆく。電撃は断続的に走り、そのたび床のあるていどの面積の死体の塊を焼
き払った。……それからしばらく途絶えている間に、その床をふたたび覆いつ
くすかのように、肉塊は膨れ上がり増殖してゆき──また閃く衝撃に焼き尽く
された。そして予想通り、人型生物の腐肉の焼ける実におぞましい匂いが、気
流のほとんどない地下道にこもるように立ち込めている。
 その無色の電撃とランタンの光を、ともに発している主は、服の下に細鎖の
胴衣(チェインシャツ)に革帽子という姿の、小柄でとても華奢な少年だった。
肩までの淡い栗色の髪の柔らかさと大きな目、それらの装備の端々から覗く首
筋や手首・足首の線の繊細なつくりは、ほとんど童女そのものと見える。
 その両の細腕で捧げ持つようにやっと持ち上げている、不自然に大きくみえ
る長剣の先端から、その<懲罰>の法術は発せられていた。
 「ねえ……」”ふつうの人間パラディン”の少年アランは、剣を休めるよう
に、しかし構えから落とすでもなく思い切り悪くわずかに下げつつ、誰とも知
れない相手に向けて呼びかけた。「いつまで……これを続ければいいの?」
 「えー、いつまでって、ここが稼ぎ所だから──」そのアランの背中の方か
ら、それに答える声があった。「続けられるだけ、かな」
 アランの肩口から覗きこめるようなすぐ背後に浮かんでいるのは、半透明の
幽体のような人影だった。冒険者の背後に憑き支援する霊(ゴースト)”蛮子”
は、赤い羽根帽子に赤いマント姿の、アランとさして変わらない年恰好の少女、
しかしさらに目が大きく手足が細く戯画的な姿に見え、その全身のすべてが霊
の車輪(ゴーストホィール)のような巻き上がる幽体の渦を伴っている。
 アランは無意識にあたかも地上の方を見上げるような仕草で、首を仰向けた。
「今、どれくらいの時間なんだろう……」
 「時間の感覚ゆうもんがようわからんなる状況ではあるな」赤マントの幽体
の人物の、肩に乗った小さな生き物”レプ”が、人間とまるでかわらぬ声と言
語で答えた。ほとんど真っ白の毛玉だが、わずかに黒い斑と、背中に羽がある。
 「気がのらない?」蛮子はアランの様子を見て、こくりと首を傾けて、考え
るように、「むー、でも今これ中断したところで損なんだけどなぁ。これ倒し
続けるの、かなり──いろいろ掴めてくるのはわかるよね」
 その通りだった。地下の刻々と変動する環境での気脈の掴み方、術を施す対
象との間の気の出入り、どれほどの霊力を注入してどれほどの質量が焼かれる
か、アランの並外れてひ弱で繊細な感受性は、粘体状の敵を<懲罰>の法術で
焼くという単純な反復のひとつひとつからも、無意識に「経験」を掴み取って
いる。下水道の仕事の最中の途中の寄り道だが、無限に増殖し続ける死体の塊
と戦い続ける──それを続ければ続けるほど、暗黒の城砦などの中で激しく生
死を賭して切り結ぶより、遥かに有効だということはアランにもわかる。
 しかし、少年は剣をおろしたまま、浮かない表情でじっとうつむき続けてい
る。それきり、剣を上げて術を再開しようとはしない。
 「どうしても嫌なの? どうして?」蛮子は少年の顔を覗き込むようにした。
 「だって……」アランは”死体の塊”におそるおそる目を移してから、顔を
そむけ、たまりかねたように叫んだ。「気持ち悪いんだもん!」
 少年は透き通るような白い頬を青ざめて、目にうっすらと涙を浮かべ、少女
のような瞼と小さな唇をふるふると震わせながら蛮子を見上げた。
 ゴラム。蛮子の喉が到底名状しがたいほどに不気味きわまりない音を立てた。
 「劣情をもよおしとる場合か」レプが絶望的に呻いた。「……いや実際のと
こ、細部まで敵の動きを観察する訓練に、これほど向かん物もあらへんやろ」
 アランは、故郷で法術を学ぶさいに、さまざまな怪物的な死者の霊について
教わったが、この”死体の塊”のような形態の亡者については、この地(次元
世界)に至るまで見たことも聞いたこともなかった。……アランは剣を持たな
い方の手で細い肩を抱くようにして、身震いした。「死体なんだって、生きて
いた人の成れの果てだって思うと……」
 「いや、ほんとはこれ、死体じゃないんだけどね」蛮子が遮った。「ほんと
に生きてた人や動物の体ってわけじゃなかったり」
 アランはいかにも怪訝げに、蛮子を見返した。
 「ただの負のエネルギー界とのチャネル、一種の針の穴みたいな”現象”な
わけよ、これ」蛮子は死体の塊を指差し、「そのエネルギーで、非物質エーテ
ルがエクトプラズムからさらに物体に、どんどん変換されていってる現象なわ
けね。死体に見えるのは、物質化(マテリアライズ)される時に、チャネルの周
りの歪みにプールされてる残存思念とかに、たまたま合わせた形になってるだ
けなんだわ。……で、一度全部のこらず焼き払っちゃわない限りは──負のエ
ネルギー界とのチャネルがなくならない限りは、際限なく増殖、物質化したの
が増えていくわけね」
 そんな理屈も、アランにはあまり役立たなかった。本当の死者の肉体ではな
いとわかったところで、実際にその姿を写し取っていること、我慢できないほ
ど不気味という点では、あまり変わらない気がする。
 「……まあ、気の進むような状況ではないちうことも確かやな」やがて、レ
プがアランにさらに同意するように言った。「なんというか、地下は地下でも、
こもって延々と作業を続けるのに気持ちのいい場所ではないやろ。ただでさえ、
下水道の仕事って時点で冴えん話やわ」
 「むー、でも、下水道自体も喜んでやるくらい良い仕事だよ。永久光源も貰
える、簡単な仕事で執政府の信頼、つまり、以後のクエストも貰える」蛮子が
レプに言った。「それに、水道局から感謝されれば、きっとアヤナ三だとか、
ナコノレノレとかのポスター貰えるよ」
 「お前は水道局を一体何だと思っとるんや」レプが絶望的に呻いた。
 「……ううん、なんでもいいけど、能力値どん底の”ふつうの人間パラディ
ン”で、深層で戦い抜いて進めるってのが想像できないキャラな以上、今こう
いうところでなんとしても有利に進められるだけ進めておかないと」蛮子はま
なじりを決し、長々と独り言のように決意を口にした。
 ……それから、力なく俯いたままのアランに、背後からそっとすり寄り、指
を組み上体を俯け(身長があまり変わらないので、そうして故意に自分を相手
の目線から下げ)薄目を上目遣いに投げかけて、しなを作りつつ、
 「ね、あともう少し遅くまで、一緒に……いいよね?」
 それはこの年具合の少年にとってはわりと気にかかる仕草に見えるものかも
しれなかったが、ただしそれは、促している行為が「グロテスクな死体の塊を
延々と増殖させ続ける」という内容でなければの話である。現に、アランの顔
の血の気のひきかたに微塵の変化があったとも見えなかった。
 ──と、不意に、おろされていたアランの剣が上げられ、そのまま一方に向
けて構えられた。蛮子の意図とは異なり、まだ残っている死体の塊に背を向け、
広間の中央に剣を向けていた。それは、アランが何かに気付いてから身構えた
というより、剣尖が気脈の流れに引き寄せられるように浮き上がり、自然にそ
ちらを示したかのように見えた。
 「何か──来るよ」
 その後から気付いたように、アランが呟いた。いかにもアラン自身は、それ
に反射的に注意力をひかれたというよりも、まだ残っている”死体の塊”の不
気味さより他に注意力を向けられるものがあるなら何でもよかった、といって
も構わなかった。
 下水道の広間の区画、大半が暗闇に覆われたその奥から、次第に現れる姿が
確かにあった。下水の水溜りに鉤に曲がった四脚の半ばまでを沈めてランタン
の光の届く範囲に這い込んできたのは、巨大な爬虫類──ただでさえ多様な生
物が多すぎて、ものの姿や大きさの勘の掴みづらいこの土地で、まだ視界に入
ったばかりなのでよくわからないが、明らかに尾まででアランの身長の数倍は
ある。それも、闇の中から浮かび上がってくるような、全身白化した鱗を持つ
ワニだった。



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