煉獄の行進








 22

 包囲を縮めてくるオーガとオークの集団に、カイトは無意識に一歩でも下がろうとしたが、体の方は震えるばかりで、寸分たりとも動かなかった。
 風が一陣のみ吹いた。
 「カイトさん……」カイトの裾をしっかり握っているマリアが、その裾を引いて言った。「風が」
 「ああ……」カイトは上の空で言ったが、声になっているのかどうかも、自分でもわからなかった。
 「間が……さっきから吹く間隔が、短くなっています」マリアが言った。
 恐怖と絶望のせいで何のまとまりもなく混濁し続けていたカイトの意識が、何かある方向に吹き付けられるように、整然と形をなしたように思えた。
 風が吹き始めている。今、言っていなかっただろうか、オーガの首領自身も、何かの施設が起動したと。施設を破壊する必要があると。アリスは、あの施設を、術を起動できていたのではないのか。いや、これから次第に起動し始めているのだろうか。
 何をすべきなのか、何ができるのか。もっとこの風の間隔が短くなるまで。それには、あと少しでいい。ほんの少しだけ、時間を稼げれば。
 「アリス、少しだけでいい、足止めする方法はないか……」カイトは振り返らず、背後にいるはずのアリスに言った。
 「無理よ」アリスの震える声が聞こえた。「儀式や施術の時間はない。あったって、あんなオーガの首領や、オークの集団をいちどに止める手段は何も持ってないわ」
 少しの間でいい。足止めできれば。自分には何ができる。
 あのオーガの首領と、いまやあのオークの集団に対する恐怖が間断なく襲ってくる。本当に恐れるべきもの、避けるべきものが確かにある。そして、本当に立ち向かわなくてはならないもの、しなければならないことも確かに。それを意識すると、不思議と、あたりは静かに、周囲の時の流れが緩やかになっているように感じられた。さまざまな混乱や焦燥、他の雑多な心の動きが押し流されてしまっているようだった。そして、心の乱れも、決して何もできはしない、という強迫も。奇妙に心が冴え切っていた。その中を、カイトの意識が、認識を、記憶を探った。
 探った記憶の中から、数々の言葉が、聞いた順番はまるでばらばらに浮かび上がってきた。それらはすべて、カイト自身が聞いたことがあるのに、今まではまったく理解できていなかったこと、理解しようともせず拒んできたこと、互いに何の意味も見いだせなかったことだった。それらが今は、互いに順番に繋がって、形をなした。
 (間違いないのは、誰が口にしたとしても現世に影響があるほど、言葉自体に力があるってこと。だから、ものの真の名前や呼び名、命令とかは、誰の口からでもおいそれと口にするものじゃないのよ。)
 (巻物は魔術の心得の無い者でも、なんらかの読み書きさえできれば、誰でも発動できる。)
 (言葉そのものにすでに力があるからよ。……そういう言葉にまで編み上げられた状態で、巻物に書かれてるのよ。だから、使う時まで読み上げちゃいけない。)
 (『守りのルーンの巻物』だ。どんな相手でも、少しは足止めできる。)
 しかし、最後に浮かんだのはどういうわけか、この中では一番最初に聞いた、カイトを辺境の地からこの旅に送り出してくれた、雑貨屋の店主、ちっぽけなホビットの地主の言葉だった。
 (言葉を示すだけで、陽の下に住まない闇の生き物を立ち止まらせたり、道を通らせないようにしたりできる。……どう使われるかを見極められるような人なら、実際にその技術を、魔法を使う方法がある、というものかもしれないからね。)
 カイトは既に震えてはいない確かな手つきで、自分の上衣の下から巻物を引き出した。アスタが隊商の馬車から1本だけ持ち出せた巻物、一角獣が後ろ足で立ったラベルが付された巻物、半面が血に染まったその巻物を引き出した。
 カイトは巻物を開いた。カイトには文字すらも見たこともない、意味のわからない言葉が全面に書かれていたが、カイトは何ら当惑もためらいもしなかった。自分にはおよそ能力もない、魔法の文字も読めない、魔道や神術の力は必要ないのか、どこから魔力容量うんぬんが来るのか、それらの疑問は何もなかった。今までの旅で見てきた。かれらの、それぞれの言葉が示していた。アリスが山の洞窟でそうしていたように、巻物の隅、ラベルの近くの説明に目を走らせた。
 《……生ける者死せる者、”影”を渡る者渡らぬ者、いかなる者とて、紋様の刻む地に踏み入ること能わず。……我、原初の王族、琥珀王オベロン、『ユニコーンの書』よりこれを抜粋す》
 カイトはその巻物を先頭から、声を発して読み上げ始めた。読み上げるその言葉は明朗だった。何を恐れるべきか、何に立ち向かうべきか理解し、恐怖を我が物としたとき、カイトの呼吸は正しく乱れなかった。
 それは、カイトの見たこともない文字、聞いたこともない言語であるにもかかわらず、巻物の上にあるそれを、彼自身読み上げ、発したこともなく知りも理解もしない言葉を発していた。傍らのマリアが思わず目を見張って、その姿を見上げた。その言語は、アリスもマリアも知らない言葉、原初や混沌の王族の使うターリ語だった。それはカイト以外の誰か、あるいは力の言葉を編んだ琥珀王その人自身が、カイトと共にその言葉を発しているかのようだった。
 巻物の上の文字は読み上げるに従って、炎が上がるように激しい光を発した。最後の文字を読み上げると共に、その光と炎は巻物全体に広がったかと思うと、その巻物、羊皮紙も一角獣のラベルも血の跡も全て、煙を発して忽然と消え失せた。
 しかし、その燃え上った文字は、同時に空中に広がり、しかし寸分も影が薄れることなく──空間そのものの弾けるような激しい音響を発して地にまっすぐ落下し、大地一面に紋様が広がった。
 まるで炎で焼き付けられたように、そして今でも焼け続けているように、輝く紋様(パターン)が石畳の上、石壁の門のすぐ外側の石に舗装された一面に広がっていた。それは文字というよりもまさに紋様であり、複雑な曲線が無数の放射状の線によって接続し、情報、言葉をなしていた。


 ブラック・オークや大柄な洞窟オークらは、その紋様が石に刻まれると、それ以上近づくことはなく、刻まれた門の周辺の一帯を遠巻きにするように囲んだ。紋様から発せられる力そのものに近づけないようだった。その紋様の効果は、どちらかというと積極的に遠ざけているというよりも、足を止めている、その刻まれた周辺の土地に入ることを拒んでいるようだ。オークの何体かは、恐れることなく踏み入ろうとしたが、再びあとじさり、それを幾度か繰り返した。どういった者が入れない、踏み入るのを防げているのか? 少なくとも、見る限りの屈強なオークやオーガがいずれも入れないように見える。カイトはその巻物の効果に目を見張った。
 「のけい!」オーガの首領が、味方を押し分けるようにして槌鉾を振りかざし、前に出てきたが、かれ自身もその紋様の一帯には入り込まないように見えた。「『守りのルーンの巻物』はそう簡単には破れぬ。最も優れた妖術師の力でも、軍勢の力でも、そう即座にはこの紋を消すことはできぬのだ。下がっておれ!」
 オークの集団はさらに数歩あとじさり、包囲を広めた。
 オーガの首領はその槌鉾を杖のように掲げると、ぞっとするような威圧感を持つ言葉を長く発した。カイトが以前にも聞いたこともある、空間そのものを震わせ、空気と土を慄かせて、聞くものの聴覚をも引き裂くかのように揺さぶる言葉だった。空にかかった暗雲がさらに深くなり、古い石壁や、囲む者達が地に落とすひとつひとつの影すらも、一気にどす黒く深くなったようだった。
 「”黒の言葉”だわ……」アリスが血の気を失い、慄いて数歩をよろめき下がった。マリアが目を閉じ、耳を塞いだ。
 轟音と共に寒気が押し寄せ、降り続く雨が地に届く前に氷結し、氷片の混ざった大気が、冷気によって張り裂ける音が響いた。周囲の石壁と、石畳の一帯が一気に凍り付いた。
 再度、オーガの首領の恐るべき詠唱が繰り返された。石の全面が氷に覆われ、凍土のように凍り付き、古い石組の隙間のひび割れの全てに氷結が這い巡り、押し広げ、ひび割れが新たに縦横に生じて広がった。各所で、氷が崩れ落ちると共に、随所で強固な石の構造が崩落した。
 カイトはただ息をすることも忘れて唖然としていた。元の世界の高レベル冒険者たちが、魔道士協会の巨大爆発呪文などで岩壁や街を吹き飛ばすさまなど、いくらでも見てきた。無論、同じ呪文が、この”鉄獄”の世界ではまるで威力を発揮しないさまも見てきた。だが、仮にその呪文が元の世界の通り、いやその数倍の威力を発揮したところで、この世界の黒の言葉の呪いに比べれば、まるで小手先の威力にも劣る。自然と天候の巨大な力、それが長い年月をかけて地形を変え山脈や湖沼を動かし、地を身じろぎさせて地形を変え、大陸まで動かしてゆく、これはそのような力にこそ属するものなのだ。
 オーガの首領は三たび、長く恐ろしい呪文を発した。氷結に閉ざされた、連なる石の壁と足元の石畳は抵抗するかのように震えた。しかし、すでに脆いガラスのようになっていた石の構造物は、激しい風圧と氷塊の衝撃にさらされ、爆音と共にいずれも粉々に砕け散った。紋様が刻まれていた石畳も地から剥がされ、崩れて凍気の中に次々と崩壊していった。これらすべての光景は、カイトにとって数呼吸の間に起こったことなのか、それとも、まさしく自然が地形を変えてゆくように長い間をかけて起こっていったのか、それすらもわからなかった。
 門を囲んでいる地の石畳が破壊されると、すでにあの輝く紋様自体の姿も、跡形もなくなっていた。
 「ここは我らの主らの作った”鉄獄”の迷宮の、強固に組まれた石組や迷宮の骨組の永久岩ではない。かつてのとうに滅びた西方国の、朽ちてから年月もわからぬ古びた石組など、ものの数ではない」オーガの首領は朗々と宣告するように言った。「『守りのルーン』や、どんな厄介な紋様を刻もうが、刻んである石そのものが脆ければ、何のさまたげにもならぬわ」
 オーガの首領は巨大な槌鉾を薙ぎ払った。衝突なのか何かの術の衝撃なのか、脆くなっていた残りの石壁と、石の門が爆発するように吹き飛んだ。
 それに巻き込まれて、カイトとアリスとマリア、パリロの姿も、もつれあうように後ろに吹き飛ばされた。弾き飛ばされたカイトは、そのオーガの声が急速に遠くなってゆくのを聞きながら、闇の中に意識が落ちていった。







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