煉獄の行進








 23

 カイトはうっすらと意識を取り戻した。呆然と思いを馳せて、まず意識が辿り着いたのは、あるいは今まで起こったこと──黒と銀の男に連れられて、”鉄獄”などという次元世界に来たこと、あの地下牢から後に起こったことの全てが、悪い夢なのではないか、ということだった。
 しかし、仰向けに倒れたカイトの視界の中にあるのは、暗雲に覆われた空と、激しい雨だった。
 「カイトさん……カイトさん」マリアの涙声が聞こえた。仰向けに倒れたカイトの傍らに膝をつき、呼びかけていた。
 悪夢などではなかった。直前までに起こったことが思い出された。最後に起こったこと、オーガの首領の打撃に意識を失ってから、目を覚ますまでに一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
 いや、ほんの少ししか経っておらず、何の脅威も去ってはいなかった。
 重い鉄靴の音、あのオーガの足音と、さらに他の恐ろしげな軍靴の音が聞こえる。オーガの首領と、その周辺のオークやオーガたちが、カイトらにとどめをさしに近づいてきていた。地にさらに重々しい響きを感じて、わずかに首を曲げると、さらにその背後には、膨大な黒い軍勢がすでに押し寄せてきているのが見えた。
 全身の痛みのためか、カイトの目の前がかすんだ。……しかし、カイトの背の下にある大地は重く熱く、脈打ってさえいるように感じられた。それはもはや不安定に揺れる大地ではなく、自分はその脈動の上に確固としてそれを感じていた。今ほどに大地が確かな存在感をもって感じられたことは、生きてきてこれまで、カイトの元の世界の大地に対してすら無かった。
 だが、その重すぎる大地の上に、カイトは自分がただひとり、とり残されたかのように感じていた。ようやく世界を感じても、もう既に何もできることはない。
 まもなく自分は、自分たちは、オーガの首領に殺され、集落のイークらも、モリバントの人々も、あの冥王軍に滅ぼされるだろう。それまでは、あとほんの間もなくだが、近づく音を聞いていると、永遠の間にも感じられる。もう指一本も体の動かない自分にとっては、まもなくも永遠もどちらも同じことだった。それを考えるのをやめて、足音とマリアの涙声を遥か遠くに聞きながら、カイトはふたたびあおむけに上を見た。
 最後まで晴れることがなかった漆黒の雲から、激しく雨が落ち続け、カイトの涙を洗い続けた。
 「アスタ」暗雲を見上げ、カイトは呟いた。「……許してなんて、くれないよな」


 カイトが見上げるその雲の中、はるか上空に、羽根を輝かせるかのように、一羽の鳥が飛んでいるのが見えた。きっと、飛ぶ動きも見えないほどの上空で、それでも見えるのは、とても大きな鳥なのだろうと、カイトは漠然と思った。
 しかし、鳥の姿は次第に大きく、雲を裂くようにゆっくりと横切って行った。ここから見えるほどの大きさは、鷲か何かだろうか。
 いや、それは鳥ではなかった。本当に雲が切り裂けていた。雲が十字に裂け、その裂け目が弧を描いて動いてゆく様が、光り輝く大鷲の翼に見えていたのだった。
 その大きさと数はみるまに増し、無数の輝く鷲の姿となって、暗黒の雲のかかっていた空を急速に覆い尽くし、天を輝かせていった。
 「ソローニ アンドゥーノ アランティエ!!」マリアがカイトの傍らに膝と両手をついたまま仰向いて、驚愕に目を見開き叫んだ。
 轟然と風音が轟いた。激しい風が大地から天高くまでを吹き抜けた。大鷲に切り裂かれた暗雲が、渦を巻いて吹き散らされ、一面の空天が輝いた。まばゆい陽光が戦場を照らし出した。遥か南のモリバントの白い塔と共に、この岩山の頂の碑が、陽光を照り返して光を放っていた。
 膨大な洞窟オークらの騒乱の叫び声がした。洞窟オークらにとっては、トロルや死せる者らほどには陽光は致命的というほどではなくとも、住処の洞窟を遥かに遠く離れ、すぐに逃げ込める状態にない状態で陽に晒されたことは、激しい混乱を促した。大地を焦がしつくすかのように、陽光が地の起伏の影、軍勢の作る影すら露わにすると、大軍をなす生き物らはさらに恐慌におそわれ、右往左往し次々とその惑乱が伝播した。厚くかかっていた雲は、いまや吹き散らされて欠片も見えず、戻ってくる気配もなかった。それは、もう永劫にも訪れないと思われた夜明けが訪れたかのようだった。いまやモリバント周辺の荒野、山地の全てから暗雲が吹き払われ、荒野を埋め尽くしたオークの大軍の、全軍が統率を欠いた状態に陥った。
 オーガの首領は、カイトらのいる西方国の施設の方に進んでいた足を止め、軍団の方を振り返り、目の届く範囲でもその場を抑えようと、なんらかの統率を取り戻そうとしているようだった。
 ──しかし、甲高いそのオークらの騒乱の中にあって、もっと重々しく、地響きのような音が聞こえた。洞窟オークらの徒歩とは違う、蹄の、それも多数の音だった。それは南から近づいてきた。南に見える土煙と怒涛の如き蹄の音のその先頭に、巨大な軍旗がいくつもはためいていた。西方国(ウェスターネス)の南方王朝の、白の木を広げた紋章によく似た、円の中の全面に巨大なクスノキが描かれた旗だった。
 「モリバント軍だ!」パリロが叫ぶ声が聞こえた。
 騎馬の集団の先頭のドワーフの君主、パラディンの部隊、アーチャーギルドの森エルフたち、さらには、騎馬や徒歩の軍勢には、洞窟オークやオーガよりも遥かに獰猛なハーフジャイアントの戦士や、雲つくように巨大で重々しいエントらの姿さえあった。
 モリバント軍は、遥かに数は多いが日光によりほとんど統制を失った洞窟オークの軍団に突入した。押し寄せる波が断崖に激突し砕け続けるような騎馬の蹄の轟きが席捲し、当たるを幸いになぎ倒す刀槍と怒号の響きが平原の全面を覆い尽くした。
 旧魔国軍から来た戦将や呪術師らは、日光にも痛痒を受けない冥王軍の種族や巨怪や巨獣らを操り、モリバント軍の陣頭および背後の統率者らをあやまたず狙って、閃電の如き襲撃を次々と繰り返した。火焔が巻き起こり舐めるように冥王の軍がモリバントの戦列を食いちぎり侵食した。エルフとオークのいずれ劣らぬ強弓から放たれる無数の矢が、死を呼ぶ波濤のように次々と互いの頭上に押し寄せ、命を波に浚うように奪い取った。
 寄せては返す死の膠着に、唐突に終わりの切欠が訪れた。徒歩のものたち、戦士ギルドの蛮人たちが、戦将と巨獣らに突進した。野生の雄叫びと咆哮、鋼鉄と血肉が激突した。かれらの両者ともが力尽き地に倒れたとき、彼我の数の差は大きく開いたままだったが、冥王軍のオークらの残りは、いまや日光に散り散りに迷走を続ける洞窟オークらの群れが大半となっていた。
 オーガの首領は、今や統率できないオーク軍から、ふたたび西方国の施設に目を向けた。謀られたこと、西方国の古い技に──術策に陥ったことを知ったのだ。オーガの首領と、その周囲のブラック・オークらの精鋭は、再度そのカイトらのいる施設跡の方に踏み出そうとした。
 その首領の肩口に、不意に矢が突き立った。エルフの矢だった。オーガの首領は驚愕の表情のまま、その矢を見つめた。よろめくように一歩を下がったのみだったが、それが切欠で崩れでもしたかのように、膨大なモリバント軍の中に、そのオーガの首領の巨大な姿が飲み込まれていった。
 矢を放ったのは、モリバント軍に加わっていた騎手のひとつだった。その馬上から、銀灰色の巨人が弓をおろした。あの樹エルフ、ルーミルの姿だった。しかし、周囲には他の樹エルフや、野営地から来た兵らの姿はひとつもなかった。あの滅ぼされた野営地からモリバントに向かった一隊から、生きてたどりついたのは、ルーミルただひとりだった。
 銀灰の巨人の、大理石を削ったような繊細な樹エルフのその風貌には、しかし、かつてカイトが野営地で見たような穏やかな表情はなく、憔悴のような悲嘆しかなかった。今の矢によって、野営地の人々の仇を成しとげた、達成を思うような様もなく、ただそこには悲しみだけが刻まれていた。ルーミルはそのまま馬首を返し、弓を構え、戦場に戻っていった。


 戦場の遥かな北、切り立った山脈の頂きのひとつに、”恐るべき獣”がその巨大な翼をおろしていた。その獣の上から、指輪の幽鬼の”第五位”が、戦場と軍団、モリバントを見下ろしていた。オーガの首領が、モリバント軍に飲み込まれ、そのまま姿を消すのも見ていた。それと時をほぼ同じくして、総崩れになり、散り散りになってゆく黒い群れの軍団を見つめていた。
 幽鬼はそのまま獣の手綱を取ると、恐るべき獣は声も発さずに翼を打って飛び立った。幽鬼、旧魔国の軍師の妖術師を乗せた獣は、遥かな上空に舞い上がると、北西へ、元いた旧魔国の軍勢の方へと飛び去った。


 やがて、戦場が静まり返り、すでに動くもののない片隅に、西方国の風の施設の崩れた石の門と、跡形もなく崩落した石壁だけがたたずんでいた。石壁の残骸には、残雪のような氷のかけらがまだ表面にかすかに残っていた。
 その門をくぐるように、紫紺色の外套と長衣をまとった長身の老人が歩み入った。老人の外套はさまざまな色の血や泥に汚れ、手にさげた湾刀も同様におびただしい血に染まっているが、老人の足取りはどこか飄々と落ち着いていた。やがて、その片隅に目指すものたちの姿を見つけて、立ち止まった。
 崩れた石の舗装がわずかに残るその上に、アリスが両膝を抱えて座りこんでいた。
 それよりやや奥に、マリアがやはり地に座り、眠っているのか休んでいるだけか、目をとじていた。マリアのかたわらには、というよりマリアが介抱しているような位置に座っているのかもしれなかったが、カイトが仰向けに横たわっていた。豪雨の泥濘と山道を駆け抜けてきたために全身も顔も髪も泥だらけで、戦場で倒れて踏み荒らされた兵たちよりも、さらに酷い状態にしか見えなかった。そのカイトはやはり、眠っているのか気を失っているのか、目を閉じて倒れたまま微動だにせず、戦死者と見分けがつくところは無かった。
 パラニアはアリスに歩み寄って言った。「よくやったな」
 「私は何もしてないわ」
 アリスは膝を抱えて、俯いたまま言った。
 「西方国の風を呼べたのは、モリバントが助かったのは──私のおかげじゃない。パリロと、イークの長老と、それから──」
 アリスは振り返り、マリアとその傍らに倒れている者を見た。
 そして老人に目を戻し、
 「これができるって、こうなるって予測してたの? 私達を置いて、ひとりでモリバントに知らせに行ったときから」
 「そんなわけがない」パラニアは首を振った。「予想をしていようがしていまいが、希望があろうがあるまいが、そのときに、自分がすべきことをした、というだけだ。わしも含め、他の皆がそれぞれな」
 パラニアは顎鬚を撫で、晴れ渡った空を見上げるようにした。
 「誰かひとりのおかげではない。この結果は、すべきことを行った全員によってもたらされたものなのだ」
 「自分がすべきことを」アリスは俯いて、独り言のように呟いた。
 「その場その時に、自分が本当にしなくてはならないことを探し、見出すことだ。固執や衝動に惑わされてではなく」パラニアは戦の跡を振り向いた。「すべきことを見出し行った者の、その個々が成功したか、失敗したか、でもなくな。結果は、それらをなしとげた者、何もなしとげられずに倒れたように見える者、すべて全員のおかげなのだ」







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