煉獄の行進








 20

 カイトと、少し遅れてアリスとマリアは、見張り岩から南の方に進み、集落に近づいた。
 イークの集落に近づくと、遠目から見たときよりもさらに明白に、みすぼらしさがまざまざと目についた。外敵から守る柵のようなものはあるが、有り合わせの枝と蔦のようなもので作られており、柵の内側の住居も、それと大差のないものだった。かがり火で燃やすものの質すら良くないらしく、雨にあてられた火の勢いさえも、断続的で弱々しい。それでも集落のつくりは、まだ人間や他の種族の最底辺には見かける光景なだけ、まだ見られたものだった。それに比べてイークら自身、周りを歩き回っている小柄な種族それ自身のあまりの醜悪さ、哀れな姿の方は、しばしば正視にすらたえないものだった。
 その柵の門とおぼしきあたりに、襤褸をまとって木の槍を持ったイークが数体いた。そのうちのひとりが、となりのやや大柄な一体に、甲高いイーク特有の声をかけた。「パリロ兄貴! まただ! また誰か来る」
 「何者だ」声をかけられたイークが、カイトを上から下まで見て言った。大柄、といっても他のイークよりもせいぜい頭ひとつ長身なだけで、人間に比べれば、げっそりとやせこけて貧相だった。「前に来たやつらと似た感じだな。やつらの仲間か」
 前に来た者達とは、おそらくはさきの勇者パーティーのことだろう。カイトからすればすでに、あの連中とは似てはいないと思っていたが、やはり同類に見えるらしい。この世界に来てからの外套や胴衣の下にある、カイトの元の世界の服や、それ以外の風貌のためなのか、単にイークから見て人間だからなのか、あるいは他の要因か、それはわからなかった。
 「オレは違う」カイトは言った。それから、間髪入れずに続けた。「聞いてくれ。オークやオーガの軍が来る」
 「それは知ってる」長身のイークが言った。「さっき来た奴らも話してたよ。北にオークがいるってな。いるらしいのが、ここからもたまに見えるが、詳しくはわからねえ」
 「違うんだ。前のやつらは理解できてない。オークは、冥王軍は大軍なんだ」カイトは言った。「あの勇者パーティーでも、絶対に食い止められない。ここは無事じゃ済まない。全員逃げなくちゃいけない」
 長身のイークは怪訝げにカイトを見てから、「長老を呼ぶから待ってろ」
 ……やがて、カイトと双子は柵の内側に招き入れられ、降り続く大雨でぬかるみきった集落で、住居から出てきた集落の人々、長老と対峙した。大小のイークらはいずれも襤褸そのものをまとい、性別も老若も皆目わからず、矮小な体躯なものも、幼いのか発育が阻害された大人なのかもわからない。いずれも黙りこくり、怪訝げに見つめながら突っ立っていた。あの勇者パーティーらが言っていた言葉のみならず、この姿を見れば、勇者パーティーらからどのような扱いを受けたかは想像もついたが、そうでなくとも、このような姿では余所者には常に猜疑心を抱かざるを得ないような、そんな扱いを日々常に受けてきたのだろうと思えた。
 長老というのも、他よりは長身かもしれないその背をひどく屈めているだけで、皺だらけでねじくれた体というだけなら、周りと何も見分けがつかなかった。何か地位の高さを示すような服装なども見当たらなかった。
 カイトは、長老と村人らの前に、オーク軍について繰り返した後に言った。「うまくいけば、モリバントの軍が討って出るはずだ。……あとは、モリバントの西方国の施設で、風を呼んで有利に運ぶらしい。まだ施設自体を探しているし、起動できるかどうかもわからない。だけど、もし本当にそれができるとしても、このあたりは間違いなく戦場になる。逃げてくれ」
 「逃げるってどこにだ」さきの長身のイークが、長老のかたわらで言った。
 カイトはしばらく口ごもり、
 「あの山や林の中や──できれば、モリバントの都の、城壁の中までだ」
 だが、イークの村人らは、それを聞いても動じる様子も、急ごうとする様子も何もなかった。何人かは沈痛な面持ち(イークの表情であってもそれくらいはわかった)をしていたが、ただ突っ立ってカイトを見ているだけだった。
 「……ここを引き払うにせよ、楽ではない」やがて、長老が口を開いた。「お前の言うことをすぐに簡単に信じて、行動するわけにはいかない」
 カイトは唖然とした。
 「モリバントが危機に陥っている。モリバントが軍を出す。モリバントに逃げ込め。とお前はそればかり言う。……しかし、これまでモリバントの都が、わしらに何をしてくれたか。わしらの種族を邪険に扱いこそすれ、助けてくれたことなどない。……イークという種族は、他のあらゆる種族から虐げられてきた。逃げ込んだところで、受け入れるかどうかさえわからん。頼っても何も益はないかもしれん」
 長老はしわがれた声で言った。
 「……わしらイークは、王のボルドールの行方が知れなくなってから、全種族が散り散りになり、あらゆる地域で他の種族に憎まれ追い立てられ、周りの全てを恐れながら、それぞれが住める場所を探してきた。わしらはようやくここに、何とか落ち着ける場所を手に入れたのだ。捨てるのも、そうすぐに決められることではない」
 「捨てるか決める、だとかいう話じゃない!」カイトは悲痛に言った。「逃げないとすぐに……冥王軍が、オークの軍が、今にもここに迫って来てるんだぞ!」
 「さっき通りかかった連中が、そのオークは自分たちが倒すから、何も心配ないって言ってたんだぜ」長身のイークが言った。「お前らよりも、ずっと裕福そうで、ずっと人数も多いやつらがさ。さっきの連中全員よりも、お前一人だけ信じろっていうのか?」
 カイトはその長老と長身のイークの言葉に、呆然と立ち尽くした。
 ……カイトは、戦闘力のない一般人などは、オークが迫っている危機など聞けば、何も考えず、我先に、それこそ蜘蛛の子を散らすように、さっさと逃げ出すものだとばかり信じ込んでいた。しかし、ここにいるかれらは、人々から常に見下され、虐げられ、容易によそ者を信じず、猜疑心が強く、そして利害についてはしたたかに捉え、簡単には他人の、よそ者の言う通りになど動かない。
 危機が近付いても対処しないほど愚かか? そうではない。こんなカイトなどの言葉だけに、何も考えもせずに飛びつくほど愚かではないのだ。
 「さっき通ったやつらは、オークなんて簡単に殲滅できるって言ってたぞ」長身のイークが言った。「『お前達ザコどもなんかには、自分のような勇者がどれだけ強いかは想像もできないだろうが、自分はオークなんかどんな大人数でも万に一つ、億に一つも、傷つけられることさえありえない。だから、何も知らず何もできないお前達ザコどもがでしゃばるな、ここから動かず、何もするな』とな。どっちが正しいんだ?」
 「冥王軍は、オークたちは大軍なんだ。これまでにあの勇者パーティーが相手にしてきたような人数とは、わけがちがうんだ」カイトは、勇者パーティーがどう思っているかを、自分の冒険者としての経験、自分が元の世界で低レベルモンスターに対してどのように対してきたかを、必死に思い出そうとしながら言った。
 「だからさ、そいつらは、そんなオークなんてのは、何千何万人いたって簡単にまとめて吹き飛ばせる、自分達は傷つけられるようなことさえない、そう言ってたんだよ」長身のイークは言った。「なんでお前の言うことの方が正しいって言えるんだ?」
 カイトは言葉を失った。
 「単に、あいつらにできて、お前にはできないって、それだけの話なんじゃないのか?」長身のイークは唇を歪めて、カイトに言った。「おい、お前、あの人間たちより、あいつらより弱いんだろ?」
 カイトの脳裏に、彼を嘲笑した、臆病呼ばわりし、施しを与えて見下した勇者パーティーの姿が映った。
 今、自分はあんなやつらよりも弱い、などとさらに見下されている。しかも、こんな虚弱、貧相で薄汚いみすぼらしい種族の村人などに。
 こんなやつらを、救う必要があるのか? こんなちっぽけな醜悪な、性根のねじまがった生き物どもが、こんなにわずかな数が生き伸びたところで、一体この世に何の役に立つというのだ。こんなやつらを死ぬに任せたところで、カイトのせいではない。いや、むしろ、こんな何の戦闘能力もないやつらなど、高レベル冒険者の自分は、気分次第で皆殺しにしてやることもできるのだ。そうしたところで、こんなやつらの言い分など誰も信じるわけがない。カイトが好きにしようが、見捨てようが──
 アリスは、黙って立っているカイトの背中を見つめていた。
 「駄目ね」やがて、アリスは首を振ると、妹を振り返った。「マリア、私達は北の山まで走るわよ」
 「お姉ちゃん……」マリアは悲しげにカイトの背中を見つめてから、何かを訴えるようにアリスを見た。
 「辺境の地まで戻る。この男とは、もう二度と会うことはないわ」アリスは言って、カイトとイークたちに背を向けて歩き出した。


 遥か彼方に遠雷が轟いた。雨がさらに一段と激しくなり、かがり火から黒い煙が激しく巻き起こった。
 その音と光景と臭気に、不意に、カイトの脳裏にいつかの光景が蘇った。遠雷に目覚めた時に目に入ったもの。燃え上がる馬車。血だまりの中に動かないイークたち。元勇者だったものの成れの果て。
 『何もかも、血と灰になる』。自分がいくら虚栄心と自己満足にすがろうとも、自惚れの衝動の思うままに行動したとしても、自分にも、他の誰にも、その末路しかない。自分は強い、周りが悪い、自分だけがそれらの欺瞞や自惚れを後生大事に抱えたままで辿り着ける場所など、もうどこにもないのだ。元いた世界にも。この多元宇宙のどこにも。
 どっと涙があふれた。カイトは倒れ込むように泥の中に膝をつき、両手を大地を掴むように握りしめた。激しく大地が震えた。それは、カイト自身がここに来て以来感じてきた世界の震えかもしれなかったが、ただ冥王軍の足音が既にここまで響いてきただけかもしれなかった。
 「……そうさ、俺は弱い」カイトは泥を、この世界の大地を両掌に掴んだ。「俺は、オークもオーガも倒せない。この世界にいる俺の敵の、何ひとつだって、俺の力では倒せない。……俺は、勇者なんかじゃないんだ!」
 涙の雫が泥の中に次々と落ち、雨と共に消えていった。
 「……だから、自分が、オークに殺されるかもしれない、それが怖いんだ。みんなが殺されるかもしれない。ここの皆が、世界の他の皆が、オークに殺されるかもしれない。それが怖いんだよ」
 カイトは俯いたまま、目を閉じた。
 「……俺はオークと戦って、ただの一体さえも倒せなかった。次に戦えば、何もできないままに、必ず殺される。たくさんの、イーク達や、隊商の人達が殺されていった。きっと今の俺と同じように、怖いって思いながら、なのに、何もできないままに。……俺も、みんなも、もういちどそんなことになるなんて、そう思ったら……まだできることがあるのに、何もしないまま、同じことが起こる、それが怖いんだよ……!」
 集落の村人たちは押し黙っていた。皆が、激しい雨にうたれたまま、表情もなくそのカイトを見続け、微動だにせず立ち続けていた。


 「立て」
 みすぼらしく貧相なそのイークの長老は、弱々しい足を泥の上に踏み出し、俯いたそのカイトの上に声をかけた。
 「お前の言うことは信じられる。……お前の言っていること、感じていることは、わしらの感じることと同じだからだ」
 長老は、細くねじくれた手を、カイトの目の前に差し出した。
 「お前の言うこと、他の者達の言うこと、それらのどちらが正しいのか、正しくないのか、それはわしらにもわからん。……だが、信じられるのは、自分達と同じように感じる者の方の言葉だ。その言葉を聞いて行動する価値があると思えるのは、信じられる者の方の言葉だ」
 イークの村人たちは黙って、その長老とカイトを見つめていた。
 「オークも大軍も怖くなんてない、そんなやつらの言うことが信じられるか」長身のイークが、また唇を歪めて笑みを浮かべた。「いくら自分が強いと言い張ったって、怖さを知らない、恐怖を我が物と受け入れられない、そんなやつらの言うことなんて、決して信じられるものか」
 ふたたび遠雷が轟き、豪雨の音がその上を覆った。
 「この地を引き払うぞ」長老が静かに言った。
 「急げ!」長身のイークが号令を発し、門番の数人のイークたちが、集落の各所に向けて走り出した。周りに突っ立っていた村人たちは、先までの落胆したような悲痛さと静の空気が嘘のように、集落を駆け出し、住居に走り、荷物や荷車を動かし始めた。
 「行先はモリバントだ! ばらけても、まとめて行っても構わない。とにかく急げ! 冥王軍が包囲に来るってのが、先にモリバントに伝わってりゃ、いくらイークでも城門の前で追い払ったりはしないだろうさ。追い払われたら──そのときは、モリバントよりもっと南、もっと先まで逃げるまでさ」
 カイトは顔を上げた。……呆然とし、信じられないものを見るように、集落の中のその光景を見上げた。自分が切望していた光景だというのに、目の当たりにすると、起こったことがにわかには信じられなかった。
 「なに、俺達はイークだぜ」そのカイトを、長身のイークが見下ろし、にやりと笑み掛けた。「どうせ、どこに行っても爪弾きのあぶれ者の種族で、どこかに長い間定住なんてできた試しがないのさ。ついでに、怖いものから隠れて逃げ回るってのも、これまた、いつものことなんだ。そりゃ、腰を落ち着けたと思ったら、なかなか動きたくはないみたいなことを言う年寄りどもも、中には居るがよ──」
 「パリロ!」長老が長身のイークの背に声をかけ、彼は今の言葉を長老に聞かれたとでも思ったか、びくついて振り向いた。


 が、長老は、カイトの方を向いて言った。「わしらはお前の助言通り、ここを立ち退くが、お前にはもうひとつ、伝えておくことがある」
 「俺に……」カイトは立ち上がって言った。
 「ここの土地に住みつく際に、この近くを調べていて、見つけたものがいくつかある」長老がしわがれた声で言った。「そのひとつ、岩山の奥にあるのは、古い人間の遺跡に違いない。……話の最初に、モリバントの近くの施設を探している、と言っていたな。その岩山の遺跡が、何のためのものかはわしらの知識では皆目わからんが、あるいは、お前達には何かの役に立つのかもしれん」
 カイトは目を見張った。
 「すぐに教えてくれ! お願いだ!」
 長老は頷いた。「このすぐ北、走ればすぐだろう。今からパリロに案内させる」
 「まかせろ」長身のイークが長老に言った。「立ち退きの方は頼んだぜ」
 即座に、カイトとパリロは集落の柵から駆け出した。
 柵の門のすぐ数歩外には、アリスとマリアが、集落の中の光景を見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。
 「アリス、マリア、一緒に来てくれ!」カイトが双子に駆け寄って言った。「どうしても、無理にとはいわない。危険だと思ったら、パラニアの言った通り、北の山に逃げても構わない。──だが、俺には、ふたりの力がいるんだ」
 アリスはそのカイトの様子、その言葉に、唖然として見上げた。
 「そこが西方国の施設なら、たぶんきっと、何かの”言葉”を知ってる必要や、読む必要がある」カイトはアリスのその様子には構いもせず、あるいは、おそらく気付かないまま言った。「そうなったら、俺にはわからないんだ。せっかく施設が見つかってもどうしようもなくなる。だからお願いだ、一緒に来てくれ!」
 「急ぐぜ!」パリロが手で促し、再び北に向かって走った。
 「はい!」マリアが大きく頷き、パリロとカイトのうしろについて駆け出した。
 アリスはかれらの姿にも驚愕したまま、その後ろ姿に目を見張って突っ立っていた。が、数呼吸の後、そのアリスも突然我に返ったように、マリアのさらにあとをついて、必死で追いつこうと走り出した。







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