煉獄の行進








 15

 風雨は非常に激しくなった。遠雷だった音はいまや至近でも頻繁に轟き、目もくらむ閃光を伴った。その中に混ざって、岩崩れ、地崩れの音が近くに響くことも頻繁になった。その中、険しい岩山を登ってゆくのは危険きわまりなかった。足を踏み外せば奈落であり、一歩ずつを確かめながら、そもそもが足を運ぶのも難しい岩の上を登ってゆくのは非常に苦しい道のりだった。踏み出すごとに罠におびえるようで、それはかつて元の世界の冒険でカイトが体験したトラップダンジョンの類よりも、遥かに神経をすり減らせた。その自然の険しさに比べれば、トラップダンジョンなどは、抜けてくれとでもいうように『作られて』いたようなものだとはっきり分かった。
 老人も双子の姉妹も、特に難儀している様子はなかったが、歩みは遅かった。パラニアとマリアは外套の頭巾を、アリスは帽子を目深にかぶって激しい雨をしのいでいた。気付いたことだが、双子のうちでは妹のマリアの方が疲労が少なく、自然と老人、パラニアと並んで先行し、そして険しいはずの道を数歩引き返して、カイトに手をさしのべることも多かった。
 「それにしても酷い道だけど」姉、アリスの方が言った。「しかも、よりによってこんな嵐のときに登ることになるなんて」
 「何度も言うが」パラニアが事もなげに平然と言った。「他に『安全な道』などというものはないのだ。しかも、嵐が止むまで安全な場所に留まってでもいれば、すぐに野営地を襲った冥王軍らに見つかるぞ」
 カイトはそんなやりとりを、足を動かしながらも半ば上の空で聞いていた。雷の轟音と、閃光があたりを襲った。
 と、しばらくして我に返ると、カイトの足元には何もなかった。そのカイトの両肩を、双子が掴んでいた。他にカイトを支えているものが天地に何もないので、カイト自身は何もできない。このままでは二人でも支えきれなくなるのではないか。カイトは他人事のように思った。
 老人と双子が三人がかりで、カイトを岩棚に引き上げた。一行は、数人が留まれるほどの硬い平たい岩の上にしばらく立ち止まった。風や雷や岩からは、少しの間なら身を隠せそうだが、風雨はひっきりなしに当たっている。カイトはその岩棚に、崖の面を背にして座り込んだ。
 「辛いかもしれんが」パラニアが、カイトを見下ろして言った。「だが、ここで休むわけにはいかん。もう少し登れば、足を止められる場所がある。それまでは少し進め」
 「もう進めない」カイトは低く言った。「もういい。放っておいてくれ」
 三人は、座り込んだそのカイトを見下ろした。
 「進める気がしない。生き残れる気がしない。こんなの、いつ死んだっておかしくない。それに──」カイトは呟くように言った。「進んで何になる。生き残って何になる。──生き残ったってしょうがない。元の世界に帰ったって、元のどんな世界に帰ったって同じなんだ」
 なにもかも、知らない方がよかった。知らないまま、さっさと死んでいた方がよかったのかもしれない。今の崖から落ちて、いや、それよりも前、あの野営地の襲撃や、さらにずっと前の、地下牢にとらわれた時にでも。
 「……アスタは死んだ」
 カイトは俯き、低く呟くように言った。
 「自分の世界も、他の7つの世界も、冥王軍から守れなくて、自分にはもう何もかも無くなったのに、それでもまだ、ここで何かを探そうとし続けていた。……でも死んだ。何かを守れたわけでもなく、敵の攻撃でさえもなく、ただの岩に当たって死んだ」
 「必然的な死などわずかだ」
 パラニアが言った。その声は、遠雷の中、山地に響き渡る嵐と落石の音の中にあって、同じくらいカイトの耳に響き渡った。
 「必然でなくて偶然なら、アスタでなくたってよかったんだ。……オレがかわりに死ねばよかった。あのとき、オレが死んだ方がよかったんだ」
 カイトは両掌に髪をうずめるように俯いた。
 「カイトさん……」マリアがカイトのかたわりに屈みこみ、その俯いた顔をのぞきこんだ。「そんな、悲しいことを言わないで下さい……生きているから、生きている側にいるから、生きられなかった人のぶんも、……できることだって、きっとあるのに」
 「こんな世界で、何ができるっていうんだ!? こんな世界で、なんでオレが生きている側なんだ!?」カイトは顔を上げて、老人と双子らに問いかけるように叫んだ。「アスタも、隊商のイークたちも、この世界に来た時の仲間たちも、みんな死んだのに、なんでオレだけが生きてるんだよ!?」
 「つい昨日までは叫んでたじゃない。自分が生きていられるのは『自分が強いからだ』って。それが今になって何故生き残ってるかわからないってことは、絶対にあんた自身の能力のおかげなんかじゃないって、ようやく今になってわかったみたいね」アリスが岩棚に立ったまま、カイトを見下ろして言った。「あんたはこの世界の他の、あんた自身以外の存在すべてのおかげで、かろうじて、『死んでいない』にすぎないわ。世界に存在する他のすべてのおかげで、一般人たち皆のおかげで、今もようやく生きていられる、なのに、それを感謝する心さえ持ってない。だからそんなに簡単に、自分が死んでいた方がよかったなんて言えるのよ! そんなあんたは、ただ死んでいないだけよ。最初からあんたは、自分で『生きて』なんていないのよ!」
 アリスの背後に雷鳴と閃光が閃き、風雨が一行に激しく吹きつけた。


 「仮におまえが今、『死んでいない』だけだとしても。死んでいないその理由は、何もないわけではない」
 パラニアが立ったまま、静かに言った。
 「この世界には、実際は『確実に生き延びる』手段などは何も無い。生も死も、必然的にやってくるものではないからな。特にこの世界、この時代においてはそうだ。……だが一方で、『確実に死ぬ』結果を招く行為、というものなら、いくらでもある。今、おまえが死んでいないだけだとしても、確実に死んでいたところを避けてきた、その要因はあるのだ。死んでいたかもしれない状況はいくらでもあるだろうが、その中には、何かのせいでそうならなかった要因が、いくつかあるはずだ。……大きな理由のひとつは、アリスも言ったように、おまえを助けた人々のおかげだ。だが、もっと大きな窮地に陥ったときに、かろうじて免れてきた、あと一歩の要因がある。カイト、おまえ自身の要因がだ」
 パラニアは岩棚に立ち、風雨を背に、杖を手にしたまま低く問いかけた。
 「おまえはあの冒険者たちと共に死に向かって突っ込んでいき、他の者にさえ死を呼び込んだ。だが最後の最後で、おまえ自身は死を免れてきた。冒険者たちと違って、カイト、おまえだけがオーガの首領から生き残って、野営地まで戻って来られたのは何故だ」
 「卑劣だからだ……」カイトは呟いた。「オレがあいつらを見捨ててひとりで逃げたからだ。卑怯だからだ……」
 「いや、今聞いているのはその是非の話ではない」
 パラニアの声は、どういうわけか嵐の音の中でもカイトの耳に低く響いた。
 「おまえに、逃げるというその選択肢があったのは何故だ。他の連中は、目の前にいる者との力の差をじかに思い知らされても、死に直面してもなお、その選択肢すら無かったではないか」
 カイトは黙りこくった。自分が口を閉じると、なぜか風雨の音が低く小さく、静まり返ったように感じられた。しかし、自身ではその静寂を破る答えは出て来なかった。
 「『恐怖』だ」
 パラニアのその言葉は、その静寂の中に低く静謐に響いた。
 「おまえはそのオーガの首領に対して、恐怖を感じた。自分でも認めていなかった、今でもわからないかもしれないが、本当は知っていた。アスタも言っていたろう。おまえはすでに、戦えば死ぬということ、避けなくてはならないことを知っていた。その場にとどまれば死んでいた、それを知っていたから生き残ったのだろう」
 「この男が恐怖を知ってるとはとても思えないわよ」アリスが怪訝げに言った。「辺境の地のあの落武者の丘オークにも、渓谷に仕掛けられていた罠のルーンにも、毛むくじゃらモルドにも、何の思慮もなしに力任せに対処しようとしたじゃない」
 「その通りだ。が、なぜか、『オーガの首領』に対しては、恐怖を感じ、襲い掛からずに逃げ出してきた」パラニアがアリスに応えて言った。「実は、『指輪の幽鬼』に対してもそうだ。第五位の乗り手が上空を通り過ぎたあのとき、カイトは這ってまで逃れたおかげで、見つからずに逃げおおせたろう」
 アリスとマリアの目が驚愕に見開かれた。
 「他の相手については盲目的そのものだが、『オーガの首領』と『幽鬼』だけには恐怖を感じる、それは確かだ。そこが、恐れも持たない無謀のために死んだ、他の冒険者とかいう連中との違いだ。なぜカイトがこのふたつだけに対しては、すでに真の恐怖を知っているのか、それはわしにもはっきりわからん。……だがあるいは、カイトを旧魔国の地下牢から助け出した茶の賢者、アエニルの話によれば、地下牢で幽鬼の王と、オーガの首領に会ったことに関係があるのかもしれんな」パラニアは言い、「恐怖のせいで、オーガの首領にも幽鬼にも何もできなかった、と思うかもしれないが、カイトが立ち向かったところで、何ができたわけでもない。そうすると、生き延びたのは恐怖のおかげだ」
 カイトは押し黙っていた。自分は決して怖がったりはしない、自分にとって逃げる必要のある強敵などいない。つい数日前のカイトなら、そう叫んでいただろう。強ければ何も怖くない、だから誰よりも大軍よりも強ければ全て解決だ、そう思っていた。だが、何よりも強いなど、決してありえないことも今ではわかっていた。パラニアら真に能力がある者らにさえ、猛る軍団は食い止められず、誰もが不可避に叩き潰され得るのを見た今となっては。
 「恐怖のために何もできなくなる、ということもある。恐怖に支配されたために、誤ることもある。そのため、自分が怖さを感じることを、必死になって否定する者もいる。だが、何もできなくなるだけならば、恐怖とは一体何のためにある? 生ける者らがそれを持っているのは一体何のためだ?」
 パラニアはそこでアリスを見下ろした。アリスは、自分も答えを促されていると不意に気付いたようだったが、戸惑うように沈黙するだけだった。ややしばらくして、
 「わからないわ。……そんなの、人の負の心とか生死について知ってる、それらを人に与えたのかもしれない、”破滅の司(Doomsman, マンドス)”でもないと知らないんじゃないの……」
 「そうか。では、わしが故郷を離れる前からすでにずっと会っていない、最初にわしの仕えていた長のひとりの言葉だが」
 パラニアは、再び口を開いた。
 「恐怖が心に存在すること、それが示すのは『生きること』だ。それが、生ける者に恐怖という心が与えられている理由だ」
 老人の言葉は不思議な静寂の中、低く静謐に、しかし雷鳴や落石の音を遥かに圧するように響き渡るように思えた。
 「恐怖におそわれるとは、自己保存の本能が他の心の動きに優先するということだ。その本能が、自尊心や執着といった他の心を押しのけるのだ。恐怖が他の心、自惚れや欲望、それらを全て押し流したその時こそ、本当に避けるべきもの、避けるべきでないものは何なのか、見つけることができる時なのかもしれん。……避けるべきもの、自分にできないことが見つかるとは、同時に、自分にできることも見つかるということなのだ」
 アリスとマリアは、目を見開いて老人を見上げていた。長い間同行しているパラニアから、ふたりもそれを初めて聞いたかのようだった。
 「恐怖を正視し、本当に恐れるべきものが何なのか、避けなくてはならないものが何なのか、それを正視した時こそ、自分に何ができるのか、本当に何に立ち向かわなければならないかを見つけることができる、その時なのだ。それが真に、怖さを知ること、恐怖を我が物とするということだ」
 パラニアは再び、カイトを見下ろして言った。
 「オーガの首領と幽鬼の他にも、恐怖を感じ取れる相手が増えれば、相手を知れば知るほど、生き残れる──いや、少なくとも死に向かって突っ込んでいくことだけは、避けられるかもしれんな」
 カイトは黙って俯いたままだった。わからない。自分の中にあるのが恐怖心だとしても、それを直視できるわけでも、存在を受け入れられるわけでもなく、それをどうすればいいのかもわからない。恐怖のために死なずに済んだ、それが自分の中にある切欠だとしても、今からどうすればいいのか、自分からは何をすればいいのか、皆目わからない。何かを信じて進むか、何を頼りにするかは、何もわからなかった。


 岩棚の一行に容赦なく風雨が吹き付け、相変わらず遠近で落石と落雷が響いた。
 カイトをしばらく見下ろしていたマリアが、不意に、ぞくりと背筋に何かを感じたように身を震わせた。岩棚のうしろの崖に身を寄せ、耳を着けるように上体を密着させた。
 「おじいさん!」マリアは振り返り、一方を指さして、パラニアに告げた。「……周りの生き物が」
 パラニアは岩棚から身をのりだし、マリアの示した方向に目をこらした。「洞窟オークか。かなりの数だな」
 カイトはそのふたりを呆然と見た。マリアはどうやって気付いたのだ。今の振る舞いを見るに、明らかに視力ではない。音か何かの気配を感じたようだが、いったいこんな嵐の中でどうやってだろう。
 「本来、このあたりの岩山の中に住んでいる連中だが、出てきているな。この周りを見回っているようでもある」パラニアが言った。
 「こんな嵐なのに、なんで活動してるのよ」アリスが抗議するように言った。
 「嵐だからこそだ。日光がささないので、本来地下に住んで光を避ける洞窟オークが外に出て来られるのだ。しかし、だとしても、何が目的でわざわざ地下から出てくるのか、そこまではわからん。……とにかく急ぐぞ。さきに言ったように、もう少し進めば休める場所──いや、もう休めはせんのだが、逃げ込める場所はある」
 パラニアが杖で上を指し、ふたたび岩をのぼり始めた。
 「……何をしてるのよ」アリスがカイトを見下ろし、「ここに見つかるまで座り込み続ける気なの。あんたが見つかったら、私たちも捕まるのよ。急ぎなさいよ」
 「いきましょう、カイトさん」マリアが、うずくまったままのカイトの耳元でふたたび、優しく声をかけた。
 一行は出来るだけ目立ちにくい岩陰を縫って、上へ進んでいった。





 next

 back

 back to index