煉獄の行進








 6

 一行は広い谷間の道を早足で歩いていった。足場が非常に悪いが、カイトは老人も双子もまるで屋内でも歩くように無造作にやすやすと歩いているのに気付き、彼らが地を滑っているような錯覚すら覚えた。カイトは不意に自分がかつて、本当の意味で険しい道を進んだことがあったろうかと疑った。が、一行はまっすぐひたすらに進むわけではなく、しばしばパラニア、ときにはマリアが促し、物陰に入りつつ歩いた。真上から見れば見つかりやすいものの、谷間には身を隠す場所もまた豊富だった。支道などもしばしば垣間見えた。
 「すべて、オークの巫術師だな」あるとき岩間に隠れながらパラニアが、カイトにはよく見えない谷の上などを指して言った。「何かを警戒して見回っているのは確かだが、それが確実にわしらなのかは、あの動きからするとどうもわからん。……そういえば、入り口付近の土に描いていた字は、全部消しておいたのだろうな?」
 「消……したわよ」アリスの答えそのものは強気だが、声は弱々しい。
 パラニアは先頭に立って警戒しつつ進んだが、いつのまに、マリアを隣に伴って数歩、先行することが増えた。以前からの事柄をあわせてよく考えてみると、妹マリアの方が感覚は鋭いのだろうか。
 カイトはしばらくふらつくようになんとかその背後を歩き続けたが、アリスは顔を合わせたくないかのように、後ろに傾いた青い帽子の尖った部分を向けて、カイトのまっすぐ前を歩いていた。……しばらくしてから、カイトは何となく居心地が悪い気分もあって、そのアリスの背中に声をかけていた。
 「なぁ、前から……オークを怖がってばっかりだろ。なんで、オークごときがあんなに強いんだ?」
 この世界では、おそらく『魔道士協会』とは違う呪文が存在するか何かで、魔法やその戦略がカイトの元の世界とはまるで異なるのは何とかわかってきた。が、基本的な”技能”が通用しないのがわからない。剣をひと振りさえすれば絶対に倒せたオークが、ここでは倒せないのは一体どういうことなのか、皆目見当がつかない。
 ……アリスが振り向いて歩調を合わせ、のみならず、いつものにべもなく突き放す台詞でなく、そんなカイトの話の相手になったのは、さきの失策に関する引け目があったためであろうが、カイトは無論、そんなことまで計算して話しかけたわけではなかった。
 「こっちこそ前から聞こうと思ってたんだけど」アリスは眉をひそめて言った。「あんた、あの”辺境の地”での前に、”オーク”に会った事あるの、それともないの? ないならもう少しはものごとに警戒するでしょうし、あるなら、なおのことあんな薄ら盆暗な突撃に走る道理がないわよ」
 「うすら──」カイトは絶句した。
 「……オークは、上(かみ)のエルフっていう不死身の種族を殺すだけのために生み出されてきた、総体としては考えられる限り最悪の種族よ」アリスはカイトの言葉の続きを待たず、低く言った。「どんな熟練の戦士、上のエルフの武将だって、真正面から戦うことを自分から選ぼうとはしないわ」
 ──無論、実際のところカイトは、地下牢に囚われた際にそうした強靭無比なオークとその暴威をその目で見ていた。だが、それらの体験はあまりにもカイトの理解範囲から外れていたが故に、その事実から目をそらし『魔族(まぞく)に見せられた精神攻撃呪文』といった意識の澱の底に押し込んでいたのだが、それは彼自身思い出していなかった。
 「オレの元いた世界じゃ……オークは弱かったんだ」カイトはしぶしぶ言った。「オレ、元の世界じゃ……ロード・ドラゴンも倒すし……高位魔族も倒すし……オークなんか技さえ使わなくたってっ……」
 「独り言じゃないなら、そのちぐはぐで軽薄な喋り方をいいかげんやめなさいよ」アリスはぴしゃりと言ってから、「そんなこと言われたって、こっちに解るわけないでしょう。ただ、そっちのオークよりもこっちのオークの方が『強い』から。こんな言い方でもすれば、あんたは納得するんじゃないの?」
 それはその通りだった。仮にそれ以外の言い方をされても、カイトには理解できそうにはない。そういう理解より他にないが……どうしても腑に落ちない。
 オークやゴブリンが人間より弱いからこそ、人間がそれを倒すことができ、倒した人間が『強くなる』のだ。人間より一方的に弱い、殺戮対象の『モンスター』『モッブ(殺され役)』が存在すること──ゴブリンやオークがそれであることは、カイトの元いた世界を「世界」たらしめている、最も基本的な根幹のひとつだということになる。従って、「オークが人間より強い」などということは、世界として根本的に間違ったことであり、それは、たとえこの世界が『魔族(まぞく)が作り上げた狂った精神世界』であっても、絶対にカイトには信じられなかった。(無論、カイトにしてもこんなことに思い当たったのははじめてだった。以前は「オークが弱い」ということがそれほどまでに当たり前のことだったため、考えてみることさえなかった。)
 しかし、アリスはしばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。
 「──それは、あんたの元いた世界の”影”が薄いから、……実存性(リアリティ)がないからよ」
 そして、まるで大勢に向かって何かを暗誦するかのように語り始めた。
 「信じるか信じないかは自由だけど、……いろんな”次元世界”は、単にばらまかれてるんじゃなくて、『真世界』という世界、”実体”の根源、から、濃い”影”の順、実存性のある順番に並んでいるの。ここの争奪戦をしてる、『原初の王族』たちが元いた世界、真の世界、──”実体”の根源から遠くなればなるほど、”影”が薄く、実存性(リアリティ)が低くなるのよ」
 アリスは、また少し言葉を捜してから、
 「例えば、実存性(リアリティ)のある世界ならすぐに死ぬぐらい無謀な生き方や、力ずくな生き方をしたり、本来は死んで終わりになるようなことでも、何度でもやり直しができたり、誰かや何かが必ず助けてくれたりする世界は、ぐっとリアリティからかけ離れる、”実体”から遠ざかるわ。……その世界にいるひとりひとりが、そんなことをするたび、それが積み重なった世界はどんどん”実体”から、真の世界から遠く──”影が薄く”なっていくのよ」
 そこでアリスは思い出したように、ため息をついた。「あんたがそんな能力で”龍”を殺せるとしたら──そんなリアリティがない世界の技は、何も戦いの技が存在しないような世界よりも、なお弱いでしょうよ。何も具体的な知識も分別もないのに、剣を振っただけで相手が死んでくれるような世界での力は、”実体”の世界では何の力にもならない──その上、そこに住むものがオークでも何でも、”実体”に近ければね。”影”が、つまり実存性が薄いものは濃いものよりずっと儚くて、まして”実体”に対しては何の力にもならないわ。……いろいろな次元世界から無限に戦力を連れて来られる『原初の王族』が、大抵の世界からどんなに大軍を連れてきても、ここの”鉄獄”の『冥王』の軍勢の方がずっと強力なのはそのためなのよ」
 「この世界は、”実体”だってことか? それに近いのか?」カイトは半分以上意味がわからないまま、最後の部分だけについて聞いた。
 「この”鉄獄”の次元世界は、少なくとも”地球”よりずっと”影が濃い”のよ」アリスは答えてから、独り言のように、「自然の造山よりも激しく大地が身悶えてできた山脈、滝よりも激しい大瀑布、ゾウよりも遥かに重いじゅう(オリファント)……”地球”の馬や羊に対して目を開くには、かえって”影の濃い世界”のセントールや龍に目を開く必要があるって、地球のある言語学者が──」
 と、アリスは不意に、ぎくりとして前方を見た。
 老人と短い赤毛の娘が、駆け込むように後退してきた。アリスの陰に隠れるように傍らに寄ったマリアは、その日焼けした頬からいまやすっかり血色が失せている。パラニアは眉を険しくし、縮こまるように屈むと、声をひそめて短く言った。
 「──”指輪の幽鬼”だ」
 その語が何を意味するかはカイトには皆目わからなかったが、……不意に、行く手の空に、黒い大きな染みが現れたのに気付いた。が、その陰は暗雲が空天に広がるように一気に視界の中で大きくなった。


 「少し前にある支道まで、一気に走れ」パラニアが黒い杖をかざして言った。「そこから地下に隠れれば、辛うじて気付かれまい」
 だが直後、翼の陰が急速に頭上に膨れ上がった。あたかも、谷間がすっかり翳るかと思えた。
 その翼もつ獣は、カイトの知る『モンスター』のうちでは、強いて言えば『ワイバーン』が近いもので、実際に自分の頭脳で理解しうる範囲のその一種なのだと、カイトはほとんど死に物狂いで盲信しようとした。だが、その巨大な翼の動きにこめられた力と、鱗も羽毛のない汚濁を放つ角質の外皮が近づくにつれ、肉食の獣が獲物の生皮を力ずくで引き剥がすようにカイトの盲信は意識から力ずくでもぎとられ、踏みにじられ、ずたずたに破れ舞い散った。カイトの知る『ドラゴン』や『ワイバーン』などと、その恐るべき獣との間には、手乗り小鳥とハゲタカほどの共通点すらもない。その体躯の躍動、大気を巨大な力で掴みその空気の重みを地上にあまねく叩き付ける翼は、カイトのかねての想像力も、認識力も遥かにこえて、カイトの意識を打ちのめした。
 ──そしてカイトは獣の背に、黒い外套に身を包んだ乗り手を見た。その獣の背にあって、いささかも小柄に見えぬのは、その頭身に比した手足の剛さと長さのためなのか、それとも何らかの別の存在感によるものかは定かではなかった。漆黒の外套の下に、黒灰色にわずかに白を置いた分厚く広い長衣を、猛風に強く長くはためかせ、腰に長剣を佩き、その生身は長衣と外套の幾重もの布で深く覆われて見えなかった。
 しかし、その長衣の肩の間、その奥に容貌がある間隙は、カイトの最も些細な一抹の望みすらも裏切って、ただの何も見えない暗黒の奈落ですらもなかった。その闇の奥に、命あるものや、かつてあったものの血肉を備えた眼光ではなく──玉石の如く輝く二つの光、針のように鋭く凍りつくように冷たい光を、カイトは見てしまった。
 その瞬間、カイトの肉体の深奥からその精神がことごとく噴出したように、あらん限りの絶叫が迸った。それは発声器官の痙攣によってねじくれてくぐもっており、一行にとってはきわめて幸いなことに、周りに響き渡るような声にはならなかった。カイトはその叫びを断続的に発しながら、制し切れない体をなすすべなく痙攣させ、やがて傾かせて、その場でがくりと膝をついた。その頭上に、口々に他の3人の声がかけられたが、もはやカイトには何も聞こえず何も見えなかった。
 『魔物』や『魔族』、『黒魔道』によって引き起こされる、快・不快によって感覚の表面だけを逆撫でするような『瘴気』ではなかった。存在の裡にある情念を、自分が感じたのでなければ決して外から強制されるようなことはないと思っていた個人の”感情”というもの、”心”というものを、鷲掴みにし、握り潰し、引きずり倒すような、それはあまりにも荒削りで容赦のない、”恐怖”というものだった。
 その恐怖は他でもない、かつて地下深くで浴びせられた、”魔王”の声と同じものだった。カイトが記憶の澱のはるかな奥底に無理やり押しやり、封じていたが、おそらく一生忘れようとも忘れられない、カイトとその認識する世界の軽薄さを、北の旧魔国の魔王かれ自身が嘲笑する声だった。あの魔王という彼自身のその名自体が、カイトの知る『魔族(まぞく)』へのそれを遥かに圧する漆黒の畏怖で満たした。その同質の恐怖が、いまやカイトの全身にありありと蘇ったために、その裡からも恐慌によってカイトを苛んだのである。
 パラニアは、その黒の乗り手の畏怖すべき名を、断じてその場で口に出しては言わなかったが、──単なる視察のためであれまた否であれ、北の旧魔国の軍師が、じかに乗り出してきたのだ。





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