煉獄の行進








 7

 一行はパラニアの言葉に応じて、一気に支道に向けて駆けた。渓谷の端にある支道の地下の入り口に駆けこんだ時点で、上空の”乗り手”を振り向いた。
 しかし、カイトひとりがついてきていなかったことに気付いたのは、老人と双子の三者とも、その振り向いたようやくその時だった。カイトはその場に膝をつき、前にうつ伏せに倒れていた。
 かれらは一斉に再び上空を見た。”乗り手”は次第に低空に降り、近づいてくるように見える。はたしてこちらに気付いているのか気付いていないのか、それもわからない。が、気付いていないにしても、もう少し降りて来れば、岩の渓谷の真ん中に倒れているカイトの姿は一目瞭然である。
 「そこで待て」パラニアが双子に言ってから、できるだけ岩陰に入りつつ、素早くカイトの方に駆け寄っていった。
 カイトは倒れたまま、激しく喘ぎ、全身を痙攣させていた。
 が、パラニアが駆け始めたちょうどその時あたりに、がくがくと背と腕を震わせながら、双子のいる支道の方に向かって、這いずっているのがわかった。力の入らぬ掌を必死に曲げ、地を掴もうと指に血をにじませながら、幾度も掴めずに滑らせ、それでも幾度も腕を伸ばしていた。
 「逃げるんだ……」カイトが震える舌と喉から、そう呻くのが聞こえた。「隠れるんだ……」
 辺りを黒い翼の影が丁度覆った、そのときに、カイトの姿は岩陰に入り込んだ。しばらくして、翼の影が岩陰を素通りした。
 が、地下の洞窟まではまだ遠い。カイトは這い続けていたが、パラニアはそのカイトの腕を掴むと、引きずって洞窟まで駆けこんだ。
 黒い翼の影を上空にのぞみ、老人と双子は三人かかりで、カイトをさらに洞窟の奥まで引きずっていった。
 「自分で這って逃げたせいで命拾いしていたな」パラニアが言った。
 彼らは恐慌に全身を痙攣させ続けることしかできないカイトを、洞窟の壁ぎわに腰を下ろさせるようにし、その上に屈んだ。
 「おじいさん、カイトさんから”黒の息”は追い出したんじゃないの……」マリアは小さな手を、喉から細い息を頻繁に繰り返すカイトの額に当てながら心配げに言った。
 「だが、記憶までは追い出すことはできん」パラニアが、カイトのゆがみ引きつった顔貌を伺いつつ言った。「心身に無意識に刻み込まれていた、”魔王”のあまりの恐怖の力の記憶だ。恐れを身体に刻むことは、防衛のためではあるがな。傷も毒も残っていなくとも、別の”指輪の幽鬼”に会ってそれを呼び起こされ、心身のすべてが思い出したのだ」
 「そんな記憶、消しちゃってもよかったのに」アリスが言った。「こんな奴、頭の出来からすっかり作り変えちゃえばよかったのよ」
 「それは許されんことだ」パラニアは存外に強い口調で言った。「人がいったん得たものは、良かれ悪しかれ、他者がすっかり奪い去ることは許されん。忌まわしいものをその裡に得てしまった、その癒しを得たいのならば、等価以上の別のものを、自分で獲得してゆくほかないのだ。……自分の心を癒すのは自分にしかできん。わしらは、それを手伝うことしかできんのだ」
 翼の音はさらに近づいたが、突如、きしむように重苦しい翼の音が止まった。獣はこの上で滞空していた。洞窟に差し込んでくるわずかな日光も翳り夜のように思えるが、それは別の原因かとも思えた。すでに先ほど気づかれていたのだろうか。カイトを看ていたマリアは、しばらくして自身ががたがたと震えだし、両手で自分の肩を掴んだ。アリスは蒼白となって、パラニアと共に洞窟の入り口ごしに、上空を見つめているのみである。
 パラニアは杖を左手に握り、右手は外套を払い、腰に佩いた湾刀の柄に手をかけた。
 はばたく音はその後も止まったまま、ただ翼が空気を切って滞空する音だけがしばし続いた。三者はそれ以上相談することも忘れたように、ただ息をつめた。それはほとんど永劫とも思えるほどの時間であったが、……不意に、けたたましいと言えるほどに、強靭な翼の骨格の軋みが響いた。
 恐るべき獣は上空に止まると、さらに激しい羽ばたきの音と猛風を伴って、黒い翼はまたたくまに谷の遥かな上空に駆け上り、瞬時にして視界から消え失せた。
 まるで、翼もつ黒の乗り手がそこに舞い降りていたこと自体が、いっときの目の迷いかと思えるほどであったが、その翼が地に圧しつけていた、ぞっとするような汚れきった重苦しい空気はいつまでも残っていた。
 老人と双子はそのまましばらく突っ立っていたが、ややあって、パラニアが剣の柄から手を離した。マリアが泣き顔になって、まるで順番が逆のようにアリスにすがりついた。アリスはそのマリアの腕に手を置いたが、何とも感情の行き場がないように、眉をひそめているだけだった。
 「東に飛び去ったか」パラニアが翼の音に耳をそばだてるように言った。「通過しただけのように見える。おそらく、気付かれてはおらん。オーク軍や、そこから逃げる時のやりとりも──無論、アリスの開門呪文もだが──関係はないだろう。……しかし何にせよ、もっと間を置いてから、やつの気配が無くなってから、移動した方がよい」


 アリスが深く息をついて、マリアの肩を抱いたまま、やはり洞窟の壁際に腰をおろした。
 「あれは何者なの」それよりまたしばらくして、アリスが言った。「つまり、指輪の幽鬼の中では何なのか、冥……大敵らの軍の中ではどういう位置なのか。ここの上を飛んでいったのはどういう意味なのか……パラニアは知ってるの?」
 「やつらの去って間もない、まだ近くにいるかもしれないあたりで、その話はしたくないのだがな」老人が肩をすくめた。
 「それはそうだけど、いつかは教わらなくちゃならないし、次に危険が迫る前に対処は考えておきたいわ。こんな旅の状況じゃ」アリスは言った。「言いたくない言葉ってのを、避けながらであっても」
 「飛んでいる者の”目”を見たろう」パラニアは言った。「あの乗り手は幽鬼どもの第五位、『盲目の妖術師』だ。九人の幽鬼のうち、第一位が旧魔国の魔王で、第五位がその腹心、軍師にあたる、同じ西方国の王族出身の妖術師だ」
 パラニアは言葉を切ってから、
 「幽鬼らが直接に統率しているのは、第一位と第五位があやつる、辺境の北の『旧魔国』と、第二位と第七位が率いる、東のアングウィル沿いの森の『妖術の丘』だ。……もっと北の旧魔国の軍師が、なぜか旧魔国の軍勢を離れて、ひとりでさらに東に向かって飛んでいたということは、何かかれ自身が統率するか、少なくとも直接に命令する必要が出たことになるが、魔国軍の動きと考えてよいだろうな。向かっているのは、”原初の王族”らが集結していることが多いテルモラか、もっと手前のモリバントかもしれん。向かう前に、もっと知る必要ができた」
 「私らの行く先のモリバントに、しかも着く時もかち合わないことを祈る他にないわね」アリスが言った。
 「かつて、大敵の副将、つまり暗黒の塔のかの者自身と、それに従う九人が影のような存在にすぎなかった頃すら、かれらは真に恐るべき存在だった。──しかも、今やかれら九人は、自身がかの強大な《九つの指輪》をはめているのだ。魔王以外の幽鬼は、視覚には頼らぬのだが、今やかれらにはそれすら必要ない。今や上のエルフの軍勢にすらかれらに抵抗できる者はなく、”原初の王族”らですら、かれらとは辛うじて渡り合えるにすぎん」パラニアが静かに語った。「何にせよ、たとえ黒の息や呪文を逃れ得たとしても、指輪や幽鬼自身が発する恐怖だけは、定命の者が逃れることはできん──」
 「嘘だ。……オレはあんなやつ怖くない」突然、石壁によりかかったままのカイトが、荒い息の中から言った。
 「怖くないって、倒れて、今もへばってるじゃない」アリスが言った。
 「オレは怖がってない……倒れたのは『魔族の精神攻撃呪文』を無理矢理食らったせいだ。運が悪くて呪文攻撃の抵抗ができなかったんだ。どんな敵からだって36分の1は、抵抗に失敗する確率があるんだからな。オレが弱かったんじゃない。運が悪かっただけだ。そういうの以外にありえないんだよ」
 カイトは熱っぽく言った。その呼吸は乱れきり、完全に不規則だった。
 「オレが地下牢で、魔王から食らったのもその精神攻撃呪文だ。あいつらは、地下牢で自分から『魔王』って言った。『魔王』っていうのは、『魔族のボス』のことなんだよ。だから、今飛んでたあいつが、その魔王の腹心ってことは、そいつも魔族だ」
 「何を言ってんのよ……」アリスがほとんど青ざめて言った。もはや、嫌悪というより、心底意味のわからないものを見るような目になっていた。「”幽鬼”って、もと人間の王族って言ってるでしょう……いったい何を聞いてるの……」
 「お前が知らないだけだろ。人間とかありえないんだよ。こんな信じられないような苦しみを与えたり狂ったイメージを発生させる精神攻撃呪文なんて人間の魔力容量(キャパシティ)でできるわけないんだよ。だからあいつら、絶対に魔族だ。だいたい不死族だの竜族だの幻獣・魔獣だの、オレがそんなモンスターに攻撃を食らうとかありえないんだよ。オレは上級魔族だって倒すんだからな」カイトは熱にうかされたように呻き続けた。そこから発せられる声は、ほとんど周りの者らには聞き取れなくなり、ひたすら自分に向かって言い聞かせているように聞こえた。「だけど、魔族の中になら、魔王級や四天王級魔族の精神攻撃呪文なら、すごく運が悪けりゃ食らうことだってあるんだよ。たいしたダメージじゃないけどな」
 乱れ切った呼吸の中から、そう言ってカイトは立ち上がり、歩き出そうとした。
 が、がくりと膝からくずおれた。激しい吐き気と眩暈が遅い、その場の誰も何も反応できないうちに、まっすぐ前に倒れ、鼻面を足場の岩に叩きつけることになった。
 「なんだよ! 状態異常くらい治せるだろ! 治癒呪文だとかポーションの持ち合わせくらいないのかよ!」カイトはもつれた舌で、他の三人にわめき散らした。
 「状態だか異常だか何だか知らないけど」アリスが不思議と静かな声で言った。「それが病気や毒や呪文じゃなくて、”あんた自身の記憶”が原因の心の問題で生じてるんだとしたら、何をどう施したって誰にも治せないわよ」
 「うむ」パラニアが、まるで平然として言った。「実のところ、”王の葉”か”生命の薬”か何かがあれば、そんな問題でも治せるかもしれんが。しかし、何らかの大がかりな癒しの技を使えば、周りに知られずには済むまい。去ったはずの幽鬼にも、いましがたすれ違った、オーク軍にもな」
 カイトは顔の半面を真紅に(岩にぶつけた鼻血で)染めながら起き上がろうとしたが、再び力を失い、ぐったりとなった。マリアが難儀しながらも、そのカイトを再び洞窟の石壁によりかからせた。
 「……全員をあれほどの危険にさらしておいて、挙句の果てに出て来たのが、耳にするのもおぞましいほどあきれた話ってわけね」アリスはカイトを見下ろしてから、まるでカイトのうわごとを止めなかったことすら咎めるように、パラニアを見上げた。
 パラニアは肩をすくめた。「さきほど、わしはやつらに関する話はしたくない、と言ったが。それは、やつらは”名前”を出すのすらも危険だからだ。──だが、魔族だとか何とかいう代物がどうたら、とかいう話には、完膚なきまでに何ひとつ危険はないからな。何も喋り続けるのを止める理由はない」
 アリスはあまりにも平静なパラニアに対して、まだ何か言いたそうにしていたが、やがて諦めたのか、倒れているカイトを、眉をひそめて眺めた。
 「……それはともあれ、ここは回り道した方がよいかもしれんな」
 かなり間を置いてから、パラニアが言った。
 「ここからかなり寄り道、何日か山沿いに歩かなくてはならないところだが、エルフらの野営地があるのだ。そこのルーミルという樹エルフを知っている。……モリバントに着く前に、この先の道や、その周囲の状況について、話が聞けるかもしれん。無論、それと、治療のためにな」
 「それはどちらかというと嬉しい話ね」アリスが言った。「旅が長くなるのは気が重い話だけど。乗り手だのオーク軍だの、こんな状況じゃ、エルフの集団に合流するってのは、それ以上に気を明るくしてくれる話題だわ」
 「いささか時間はかかるがな」パラニアが言った。「実際は、ここからルーミルらに助けを呼びたいくらいだが、合図を飛ばしたりして、今の乗り手やら、オーク軍の呪術師らに勘づかれると危険だ。しばらくは歩いてここから離れてからの方がいいだろう」
 「野営地とかに着いたら、この男はそこに置いていった方がいいんじゃないの」アリスが、石の上にのびているカイトを見下ろしたまま言った。「エルフたちがこんなやつを生かしておく気になれば、だけど」
 パラニアは見下ろし、また肩をすくめた。「なかなか回復しないようなら、当然そういう選択にもなるな」





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