煉獄の行進








 5

 老人はしばらく立ち止まって上空を見てから、急に道沿いの草地の方へと踏み込んだ。双子の娘らを促し、街道に背を向け、南東に向けて進路を転じた。
 そのまま進むかとも思えたが、視界の限界に街道周辺が見える──即ちもう一歩南にゆけばぎりぎりで街道やその周囲の地域が見えなくなる領域に達すると、再び進路を真東に変えた。まっすぐ街道と平行に歩いているようだった。
 カイトは歩きながら落ち着かなく周囲を見回した。下生えから背の高さにまで、不ぞろいに茂った草地の土と湿気の匂いに、妙に居心地が悪かった。
 「なんで道じゃなくて、こんなところを歩くんだ?」たまたま歩みが、緩急のあるパラニアに追いついた時に、カイトは尋ねた。
 「いざとなれば街道から逃げることも、戻ることもできる、歩く地域を”切り替える”ことのできる位置をとっているのだ」老人は答えた。「街道は、すでに見張られている。鳥や獣の動きだ」
 カイトは空に目をこらした。ときどき鳥が飛んでいるのは見えるが、カイトの目には、何が自然と違うのか判断できない。それ以前に、今まで一度も『モンスター』以外の自然の鳥などに気をとめたことはなく、さらには、そんな話を聞いたこともなかった。
 「おじいさん」草地に屈んで何かを集めていたマリアが、パラニアに追いついてきて、何本かの葉を見せた。「香草の種類が多すぎるのもなの?」
 老人は葉を見てから、頷いた。「ここの荒地に本来多いはずの、鼠や蜥蜴や蟲の群れを、かれらが目や耳として使役してしまっているからだな。草の生え方が変わっているほどなのは、日数にしてかなり前からと考えてよさそうだ」
 「”かれら”って何だ……」カイトは遮った。
 「じきに実際に出くわすだろうが、まぁ、冥王の”北の旧魔国”の軍団だな」パラニアはいつも通り鬚を掻きながら言ったが、その口調はひそめるように静かだった。「魔国の精鋭のオークらの、30人にひとりが巫術士(シャーマン)なら、例えば3千人の兵の中には、100人の術士がいるわけだ。その目と耳、腕の届く範囲と剛さは計り知れん。どんな大賢人や緑エルフの野伏の長であろうが、100の術士の耳目から隠れおおせることは断じて不可能だ。……思ったよりも遥かにかれらの集結が早かったわけだが、早晩、道を考え直す羽目になるかもしれんな」


 そして、その日が暮れるよりも前に、”街道近く”のぎりぎり限界を歩く一行の前を横切るように、行軍しつつある群が次第に見えてきた。一行はやや小高く低木が続いている茂みの中から、かろうじて荒野を見下ろせるあたりで停止せざるを得なくなり、さらに丘に隠れるように、茂みごしに軍団を垣間見た。
 いずれもカイトが前に見たオークと同じ、重厚な鎧兜の大軍が、蛇行する幾つもの列をなして動いていた。カイトの持っていた『オークの集団』『モンスター軍』への、「烏合の衆」といった印象は微塵もなく、その統制は荒削りであるものの、重厚で、散漫な所が一切ない。……今は、東西に列が伸びている。長蛇の列をなしているが、行列がとぎれているあたりは、そこで列が終わっているのか、視界の限界なのかは判断がつかない。まっすぐ行軍しているように見える軍団だが、鎧兜が時々きらりきらりと不規則に日光を反射した。──即、それがこちらを向いたと判断するわけではないが、丘にうずくまるように低木の茂みごしに見下ろしていたカイトは、思わず頭をひっこめた。見ると、隣のアリスもそうしていた。
 カイトはそれを見て、自分の行動にふと気付いて呟いた。「なんでオークごときに、こそこそ隠れなくちゃいけないんだよ……」
 「なら、また正面から突っ込んでいけば?」アリスが冷たく言った。
 カイトはふたたび茂みごしに、北の旧魔国軍の行軍と、オークのひとりひとりを見分けようとでもするように垣間見た。
 「……あれがみんな、この間のオークと同じくらい強いってのかっ!?」
 「この間のより調子が悪そうな奴が、あの中にひとりでもいるように見える?」アリスが冷たく言った。「見てわかんないの?」
 カイトは再度行列を眺め回した。ごくりと一旦唾を飲み込んでから、「敵が見たとおりの力だとは限らないだろ。例えば、魔ぞ……」
 「それで相手の力を見くびるんだから世話ないわよ」アリスはぴしゃりと冷たく言って、それきり妹とパラニアの待つ方へと戻った。
 パラニアと共にいたマリアは、戻ってきた二人の浮かない顔を見たあと、老人を見上げた。口には出さないが、無事に先に進めるかの不安が顔に出ている。老人は、丘のさらに少し高みから目を凝らし、列の遠くを眺めていた。
 「オークの洞窟の方、旧魔国の他の軍勢に合流する行軍のようだな。わしらの道筋と交差して塞いでいるが、迂回するにも行軍が長すぎるし、途切れるまで待っているというわけにもいかん」
 パラニアはしばらく旧魔国の行軍を見渡し、やがて、杖で一点を指した。
 「連中が通っていない地域があるな」パラニアが指した地表は、荒野が途切れて狭い渓谷がしばらく続いているが、そこを避けて不自然にオーク軍の列が曲がっている。
 「避けるだけの理由があるんでしょうけど」アリスが言った。
 老人は頷いた。「下手をすれば奴等さえ怖がるか、厄介がる程の障害がな」
 「でも、見てみるまではわからない」アリスはカイトを横目で見て、「3千人に正面から突っ込むよりは、先にやることかしらね」


 一行は冥王の旧魔国軍の行軍の方向の、ちょうど反対側に回り込むように丘を下り、渓谷の切れ目を目指して、低地に降りていった。流れが溜まっているか何かなのか、やや木々が増え、荒野や丘の晴天に対して、霧が薄くたちこめている。
 その木の合間、谷をのぞむ辺りで、パラニアは立ち止まった。見ると、谷間に少し入ったところで、いくつかの大岩が積み重なり、組み合わさり、岩戸のように谷をふさいでいるように見えた。
 「おじいさん」マリアがふと顔を上げてパラニアを呼び、青い外套の頭巾(フード)を背後に払って、組み合わさった大きな岩に近づいた。……最初はカイトには、ごつごつした岩の表面と見分けられなかったが、マリアの指をさすあたりを凝視すると、目の高さより若干下に、カイトにも「ルーン文字」の一種とわかるものが、引っかくようにぞんざいに刻まれていた。が、『冒険者学園』で習ったルーン文字とは、配列も細部(筆遣い)も、似ても似つかない。
 「……それ以上近づいてはならん」パラニアの静かだが低い言葉に、駆け寄ってきたアリスまでもが、ぎくりと足を止めた。
 「周りに罠のルーンが大量に刻まれている」パラニアは不自然に硬直したアリスの足元を、黒い水松樹(いちい)の杖の石突きでかきわけた。周囲に埋まっていたり転がっている石に、正面のものとよく似た、だがさらにぞんざいで小さなルーン文字がいくつも書きつけられている。
 パラニアは最初の岩戸の、大きく刻まれた文字に目を戻し、
 「”トランプ”だな。この通り道を”閉じ”、目や足の進行が、この場から”逸れる”ようになっているのだ」
 「人を通さないためなの?」マリアが尋ねた。
 「丘の上から見たときには、谷の向こう側は開けていた。つまり、そうそう重要なものが先にあるとも思えん。魔国の軍は、単にこちらが閉じているので、向こうからは通らないだけだろう」老人は言った。「この新しさと封印のにわか造りから見ると、”原初の王族”の誰かが、その場の逃亡か何かのために封じたのが、そのままになっているのだな」
 「でも、灰色エルフのルーン文字よ、この字」アリスが文字をじっと見て、そのひとつひとつを指で指しながら、「”トランプ”なのに? ”原初の王族”なのにエルフ文字なの?」
 「原初の”トランプ”は大概は図形を描いて組み上げるが、この地で、わずかな”線”でも効力を持つよう、ここではエルフ文字を描いて組み上げてあるのだ。……これを刻んだ王族は”パターン”だけでなく、あらゆる次元世界のあらゆる魔術に通じた輩に違いないな」
 カイトはその次を待ったが、パラニアはそれきり、その”原初の王族”の名についての推測を述べることはしなかった。
 「ここからなら、あの列に会わないで通れるの?」マリアが老人を見上げた。
 「この谷がどこまで続いているかはわからんが、少なくとも、ここを通れれば行軍を横切らないで済むほどの道のりは稼げるな」
 老人はしばらく、その道を塞ぐ岩の山と文字を眺めていたが、ふと何気なく傍らを見下ろして、「……アリス、できるか」
 アリスは無言で、噛みあった岩の”門”の前に胸を張って大股で進みだした。帽子を目深にかぶり直すと、そのまま少し考えた後に、──軽く左手を上げ、非常に入り組んだ多音節の単語を一語発した。
 何も起こらない。
 アリスはそのままの姿勢で、当惑したように眉を下げた。が、さらに続けて、何種類かの単語を発した。最初は同じような単語の同じような発音だったが、それを何度か繰り返すうちに、言語そのものが滑らかな歌うような発音を伴いながらも、次第に性急さを思わせる早口になってきた。
 マリアは不安げにそんな姉を見、ときどきパラニアの方も見上げた。
 「何をしてるんだ?」カイトはつとめて小声で、パラニアに尋ねた。「開錠(アンロック)の魔法か?」
 パラニアは髭を掻きつつ、「この門の鍵となる言葉を探しているのだ」
 「それは呪文ってことなのか……」
 「その問いに是か否かは、答えようがないな。言えるのは、この門を閉じている合言葉にあたるエルフ語を探している、というだけだ」
 「この門の元々の合言葉ってことか? アリスが聞いたことがあるのか?」
 「じかにその語を、という意味ならば、断言してもよいが、この門を閉ざした”王族”しかそれは知らんよ。だから、エルフ語の中から探している」
 「あてずっぽうかよ?」カイトは呆れた。
 「あらゆる言葉、ルーンの組み合わせには、それ自体に意味と特性があり、その噛み合わせには必ず抜け道がある」だが、老人は言った。「とある言葉に対して、その特性を辿ってゆけば、鍵となる語句、あるいは罠や封印といったルーンの構造の根本に対して命令や鍵となる言葉は、必ず見つけることができるのだ。無論、大抵の封印はひどく読み解くのが難しいが、これは幸い、ひどく急いで作られた”トランプ”だからな」
 カイトは唖然とした。「それは、ただの言葉探しだけで、術を解いたりできるってことか? ……一体、どうやるんだ?」
 「どうやるのか最初から説明することも、まぁできないでもないが」パラニアはだんだんカイトの質問ぜめが面倒になってきたのか、いつもの素っ気無いような口調に戻りつつあった。「3年や5年ここに突っ立って、言葉の仕組みというものの説明を聞く気があるのか?」
 カイトには信じがたい話だった。封印の術や開錠などというものに、そんな深遠な世界が存在しうること自体、想像だにしていなかったことだった。カイトは今まで開錠の魔法とは、呪文さえ唱えればひとりでに鍵が開くものだと思っていた。
 が、それ以上にカイトにとって、これまでその分野に興味をひかれなかった理由があった。カイトは以前から、こと『高レベル冒険者』にとっては、開錠の魔法などというもの自体が本当は無意味だと思っていた。「こんな岩の門なんて、攻撃呪文をぶちかましてぶっとばしちまえばいいだろっ……」
 「わしがおまえなら」パラニアは鬚を掻きながら言った。「あまり今のアリスの邪魔はせんがな」
 アリスはいまや、ぶつぶつとカイトに聞き取れない言葉を呟きながら、そばの柔らかい土に、棒杖(ワンド)の石突きで何かしきりにルーン文字の列を書き付けては消している。マリアは落ち着かず、かといって何もできることがないのか、他の三人をいそいそと見比べていたが、その行動もそれ以上は何もしようがないので、元きた道の方へと行ったりきたりして、何度か覗いたりしていた。……が、ある時、元の道をしばし凝視するうち、次第に瞳を見開き、振り返ってパラニアに注意を促した。「おじいさん……!」
 老人はマリアと、その方向に目をやると、やがて呟いた。「霧が晴れてきたな。……鳥たちが集まりつつある。かれらの目も届く頃か」
 だが、パラニアはアリスには何も言わず、見下ろすだけだった。
 しかし、マリアは何か声をかけようとした。「お姉ちゃ……」
 と、アリスは突如としてすっくと立ち上がった。胸を張ると、踵を目の前の大地に続けて二度、叩き付け、棒杖と左手を中空にかざした。金色の瞳が鈍く底光りし、アリスの普段のこましゃくれた言葉とはまったく異質の、熾火が突如として膨れ上がり視界を焦がすような激しい韻律が鋭く耳朶を打った:


 フェンナス クラーノリム ラスト イェスト ニィン、ラス エラィン!
 アイ ラスト ベス ダイル;エドロ ヒ アム-メン!


 まばゆい閃光が走った。
 轟然と唸りを上げて石組の向こうの谷間から風が吹きつけ、わだかまっていた霧が突如として逆巻いた。”岩戸”とその周囲に刻まれたルーン文字が白光を発して燃え上がり、煙を伴って続けざまに弾け飛んだように見えたのは、その霧と旋風、晴れた靄と引き換えに差し込んだ日光のための目の錯覚か何かだと、カイトは後になって考えた。気圧の急変に伴う、靄を巻き上げる旋風はアリスの周囲一帯を囲むように駆け巡り、その風に弾き飛ばされたようにアリスの身体はもんどりうって、カイトの支えに出した両腕の中にすぽっと収まった。 同時に、逆巻いていた霧をすっかり吹き散らすように谷間から気流が緩やかな重い風として、どうと流れ込んできた。
 その谷間を覗き込んで、カイトは目を見張った。”岩戸”をなして噛みあっていた巨岩の組は、どれも依然として確かに前と変わらぬ位置にあり、見る限り動いても破損してもいない。にも関わらず、突如として岩たち自身が異様にちぢこまったか、あるいはかがみ込んで道をあけでもしたかのように、岩の間には間隙が生じ、渓谷への道がすっかり開けていた。
 ──激しく鳥がはばたく音が聞こえた。ざわざわと周囲一帯の茂みが驚くほど広い範囲に渡って一斉に音を立てたが、風なのか何かの獣なのかわからない。
 「急ごう」パラニアが軽く杖でその道を指した。「あの軍の術士らには、今のですっかり気づかれたな。他の兵士らが差し向けられてくるかもしれん」
 老人はほとんど駆けるように、岩の間をこえて進んでいった。アリスがはっと我に返ったように、カイトの腕から跳ねるように飛び出して一直線に続き、同じようにようやく我に返ったカイトとマリアが続いた。一行はそのまま脇目もふらず、谷間を早足で進んでいった。
 「今、なにが起こったんだ」カイトはパラニアに追いつくと尋ねた。「合言葉だか命令だかが、見つかったのか」
 パラニアはひょいとアリスを見おろした。アリスはおそらくその視線を感じつつも、目を上げず、決まり悪そうにしながら歩いているだけだった。
 そのかわりになのか、パラニアが答えた。「あの封印のルーンの効力を、退かせるための命令を発したわけだが、命令が強すぎたのだな。最初はできるだけ、”言葉の抜け道を通る”ような合言葉を探していたわけだが、……まぁ、何だ、そのかわりに、”言葉そのものに強制的に力を浴びせる”ような命令を使ったわけだな。……しかし、その命令が強すぎた。そのために、門のルーン文字は命令に従う以前に、浴びせられた力に耐え切れずに吹き飛んだ。周りの他の罠のルーンも同じだな。破壊されてしまった。そのために、あれほど目立つ”音”と”光”が発したのだ」
 カイトはアリスを見下ろした。アリスは見上げないようにして歩いている。パラニアはしばらく間を置いてから、
 「……まぁ、なんとも言えんな。あの周辺の罠には、警報や召喚のルーンもあったのだ。あのまま、合言葉がわからないままに誤って触れれば、近くの術士や軍勢を直接に呼び寄せて、今以上に闇の生き物が山のように群がっていたろう。力ずくの命令でルーンを破壊してでも、急いで開けた方がよかったのかもしれんからな」
 パラニアは説明し終えてからも、何を思ってか、しばらくの間カイトを見ていた。それから、まっすぐ前に転じて歩いた。アリスは終始目を上げない。 カイトもしばらくそのまま歩いていた。しかし、次第に厳然たる事実にゆきあたり、徐々に、悪寒のような震えを感じた。
 ──自分は今のアリスの行動どころか、岩戸を前にして、「攻撃呪文をぶちかませ」と、間違いなく発言したのだ。今の程度の気候の乱れ、音や光でさえも察知され、感知され、術士とその目と耳の鳥と獣が群がるというのに、あれだけの岩を吹き飛ばすほどの『攻撃呪文』などを使っていれば、どんなことになっていたか? 術士らが迅速に感知し殺到し、こうして逃げ延びる機会どころか、この渓谷に踏み込む暇すらなく、彼らは追いつかれていたかもしれない。それどころか、”言葉”が近くに触れただけで闇の生物が群がるという警告や召喚のルーンに「攻撃呪文」などが無造作にぶつかれば、一体どうなっていたのか? ルーンがすべて発動し、先日カイトが一切歯が立たなかったあの個体の、その3千倍の戦力が、間違いなく怒涛となって押し寄せていた、──
 パラニアは一言も言わなかったが、その目が物語っていた。そのカイトの絶望的な愚かさに比べれば、アリスの今の失態など、物の数にも入るようなものではなかった。
 カイトはがたがたと骨が鳴り、関節がかみあわないような気がした。その足取りは、足場の悪い渓谷の下地をふらつくようだった。前も感じたが、確固たる大地を踏みしめて歩いているという感覚が、失せつつあるような気がした。
 「カイト、何やってんのよ。遅いわよ」アリスの声が、歩みの遅れたカイトに前から投げかけられた。無論、アリス自身の今の失策の取り繕いの態度であるが、カイトの方はそれに気付く暇さえもなかった。





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