Netherspectra VI - 50 ft
深淵夢幻 50ft






 6

 しかし、いくら待てども、”蛮子”は一向に現れなかった。アランは何日か
宿屋で待ち、あるいは”辺境の地”のうち、怪しげな人影が少ない明るいあた
りをおそるおそる歩き回って探し、あるいは最初に蛮子と出会った通りや廃屋
を訪れてもみたが、霊体の助言者が現れる気配はなかった。
 本当に戻ってくるのか。はては、(あれほどの危険にさらされたアランが感
じるところ)彼女の助言が得られたところで、本当に自分は生き延びられるの
か。だが、アランは”蛮子”自身を疑うわけではなかった。例えばアランを罠
にはめて利益を得るつもりだったならば、最初から助ける必要はなかったはず
だ。戻ってくることは信じたかった。
 やがて数日が過ぎて宿賃がつきると、アランは村の東の洞穴に行き、入口か
ら入ってすぐの空間(地上から無数の支道で数多くの洞窟につながっていた、
その入口だけ)を、細々と見て回った。さきのジャッカルとの遭遇から、何か
の生き物と出くわしたとしても、すぐに洞穴の出口に駆け戻れば、上にまでは
上がってこないらしい、というのを覚えていた。何も先住者がおらず、貨幣な
り品物なりが落ちていれば、それらを拾い、やはりすぐに洞穴から出た。
 はした金を得ると、装備を整えるために使うこともせず、宿屋での滞在に使
い、貨幣が尽きると洞穴の入口に行き、危険に近づかずに小物を拾うというの
を続けた。少しでも動く物影や、動かない苔の塊のようなものにさえ、目にす
るとすぐに”階段”を駆け上がった。
 ……最初にここに来たときに比べてさえ、アランは遥かに臆病になっていた。
まだ見ぬ恐ろしい『サーペント』の影が脳裏にちらつけば、何かに立ち向かお
う、武者修行を進めようという意思さえも持てなくなるのだった。それどころ
か、蛮子が現れて、『サーペント』に立ち向かう方法を教わり──実際にそれ
に立ち向かわなくてはならない時が来るのを、心のどこかで恐れるようにさえ
なっていた。ひいては、こうして”地下50フィート”の金銭を延々と漁り続
けるのが自分の終の生活になるのではないか、そこから抜け出すことはないの
ではないか、という自覚さえ漠然と生じてきていた。
 ──が、幸か不幸か、アランのその状況は長くは続かなかった。そも、この
過酷な土地において、細々と浅い階層の品物をかき集める、という程度の安全
ですらも、保証されている道理がなかったのである。


 それは、"階段"のある入口の部屋を歩き回って貨幣を拾い集めたあと、ラン
タンの明かりの端に動くものを認めたような気がして、急いで"階段"の方に駆
け戻ろうとしたときだった。
 ある一歩を足が踏み下ろしたとき、突如として言い知れない感触、体がねじ
られたような、さらに正確に言うと、体の存在している空間そのものが激しく
ねじられたような感覚を受けた。
 一瞬呆然とした後に、何が起こったかと慌てて周りじゅうをあたふたと見回
したアランは、足元の苔むした岩の断面に、かすかに刻まれた『奇妙なルー
ン』の断片を目にした。最低限の警戒もなしにこの場に踏み入ったアランは、
それを不用意に踏みつけたのだった。──迷宮探索において、「罠」と通称さ
れるものがつねにその目的であるとは限らず、その上(かみ)のエルフの文字と
しては書体も文体も奇妙に乱れた金釘の字が、誰が何のために刻んだのか、何
かの仕掛けの残骸なのか──それは皆目不明だが、無論のこと、そうした細部
までアランが目にし考える暇(いとま)はなかった。
 洞窟の薄汚れた光景は、急速に極限までねじ曲がった後、突如としてありえ
ない幾つもの方向へと引き裂けた。無論、現世(うつしよ)が裂けたわけではな
く、アランの方が、視界が裂けるほどに歪んだ次元界のねじれに入り込んだの
だった。視界一面が爆発するように、澄み切った白銀の空あるいは海に押し流
され、眩暈のような色彩の細かい渦が明滅し、アランは自分がその銀色の潮と
色彩の渦からなる竜巻の中をねじられながら突き進むのを感じた。乏しい法術
の知識と霊視の経験から感じるに──”アストラル間隙界”に無理矢理に放り
込まれたのだ。
 どれほどの間、きりきり舞いしながら飛ばされていたかは定かではない。し
かし、アストラル間隙界には時間そのものが存在しないため、どのみち主物質
界(プライム・マテリアル・プレイン)から見れば、瞬間で転移したように見え
る。アランは巻物でさえ使ったことがないが、瞬間移動(テレポート)の魔力だ
った。……その魔法は起こった時と同様に突然に終わり、ねじれた光景の中に
見慣れた洞穴の風景が食い込んできたかと思うと、光景もアラン自身も、急速
にねじれから元に戻った。この魔法に慣れないアランはさきほどの光景から朦
朧状態のような錯覚のみを起こし、しばらく突っ立ったままふらふらと頭を振
っていた。
 ──やがて、突如として我に返った。”瞬間移動”の魔力に巻き込まれたこ
とはわかった。どこに来てしまったのだろう。
 まず無意識に、ベルトに結わえてある水銀柱を見た。およそ”地下50フ
ィート”を指しているのを認めて、まずは安堵した。深さ、階層は同じである。
少なくとも、遥かに深く危険な階層に飛ばされたわけではないらしい。
 続いて周囲を見回した。さしあたり、あたりに動くものや極端に危険らしい
ものは見当たらない。洞穴の中もそれまでとかわりばえがしない光景で、上か
ら光が差し込んでいることからも、高度からわかるのと同様、地上からそれほ
どの深さでないことがわかる。今までと同じ洞穴だ。……唐突に飛ばされてき
たこの位置が、おりてきた(地上に戻れる)"階段"からどういう位置関係にあ
るのか、皆目わからないということ以外は。
 ……品物を拾い集めるだけでも怯えつつだったアランの恐怖心はさらに膨れ
上がった。今まで安全と思えたのは、"階段"のすぐそばだけで行動し、すぐに
地上に戻ることができたからだ。しかし、いまや見るものすべて、数匹のジャ
ッカルにさえ畏怖を覚えるアランには、この地下50フィートの闇ですら、死
の恐怖を呼ぶはてしない夢幻をうちに宿した深淵だった。逃げる道もわからな
いところで、危険に出会ったらどうなる。まして、『サーペント』に出会った
らどうなる。
 アランはその場にうずくまりたい衝動にさえかられた。実際にそうはしなか
ったが、転送されたその位置を一歩も動かず、上から洩れてくる光の中をかな
りの間、突っ立っていた。……が、黙っていても、心が恐怖で張り裂けるか、
飢えるか、あるいはこちらが飢えた獣の餌食になるかしかない。たとえ動くの
が危険でも、なんとか脱出路を見つけるほかにない。見たことがある光景が現
れるまで、あてずっぽうでも歩き続けるしかなかった。


 ひたすらに最低限の危険さえもさけ、のろのろと手探りで、……実際は一刻
か二刻に満たない時間であったろうが、何日も何十日も歩き回ったかと思えた。
やがて、光への郷愁に辛うじて支えられた気力も、足の筋も疲労困憊しきった
頃、通路の開けた向こうのほのかな光景に、上にのぼる段が──それが最初の
部屋の光景のものと一致するらしいことに次第に気づいてきて、アランは目の
前が開けるような気がした。
 が、最後の出口をふさぐように、通路の光景を霞ませる羽虫の群れがそこに
はわだかまっていた。毒や牙があるかもしれない『蟲の大群』は突っ切ること
はできない。しかし、あれをやりすごしさえすれば、先に見える階段に駆け込
むことができる。一時でも早く外気のもとに戻りたいアランにはもはや躊躇は
なかった。アランは剣を突き出し、数度の失敗のあと、懲打の小雷の術を蟲の
大群に向けて放った。集中しながらも、がむしゃらに剣を振り回すように前に
突き出し続け、あたり一面にその法術の力を放射しきった。ぶすぶすとこげた
蟲の群れの姿がさらに焼き尽くされるか飛び散らされ、飛ぶものの姿がまった
く見あたらなくなっても、前進にはやる気と安全確保の両方に突き動かされた
結果として、さらに安心できるまで周辺を徹底的に焼き尽くした。
 やがて気力がつきて、どうにも集中ができなくなってくるのがわかってから、
アランは剣をおろした。……肩で荒い息をいてから、飛び込むように、最初の
"階段"が見える洞穴の空間にふたたび踏み入った。
 ──同時にそのアランの目に映ったのは、今まで見たことがない、まして最
初にこの洞の空間に降りてきた時にはまったく見覚えがなかったものだった。
それは、あたかも待ち伏せていたように、"階段"のすぐ傍らから姿を現し、ア
ランの行く手を遮るようにゆっくりと向かってきた。
 アランの歩とともに、あれほど荒かった息が、喉を締められたように停止し
た。その姿は、『蛇』だった。
 ゆっくりと床の上を滑るようにのたうち、しかし確実にこちらをその目で捉
えつつ次第に迫ってくるのは、8フィート以上はある、土色の大蛇だった。肉
食の蛇は、人間の身長以上の体長であってもその胴体の太さは2、3インチし
かないというが、その蛇の胴体は不自然に太く、アランの腕以上はあった。上
頭部に対して異常に角ばった下顎は、明らかに肉食の蛇としても巨大すぎ、そ
の下顎にかぶさるように覗く牙も異様に大きいものだった。迷宮の巨大な生物
を捕食するために、異様に進化したのだろうかという想像に思い当たった。
 これがそうなのか。これが、死んだ元宮なる冒険者の遺書にあった『サーペ
ント』なのか。浅い階層を放浪し、降りてくる冒険者を餌食とする、「最初に
冒険者に立ち塞がる門番」ということなのだろうか。
 アランは無意識にあとじさりながら、ふたたび膨れ上がる恐怖感を必死にお
しのけて考えようとした。目の前の存在に対して、自分は何ができる。思い出
すように剣を握りしめようとしたが、なぜか手には感覚がほとんどなかった。
そして、さきに蟲の大群を不必要に徹底して焼き尽くしたときの法術で、集中
力も気力もすっかり尽きていることをようやく思い出した。



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