Netherspectra VII - 50 ft
深淵夢幻 50ft






 7

 ごく当たり前の爬虫類の目──獲物を狙う鋭い目はアランを凝視し続けてい
るが、大蛇は一直線に向かってくるでもなく、むしろ規則性もなく床の不均一
に沿うようにゆるやかに這っている。不気味にも音はまったく立てない。
 今、自分は、『サーペント』に──蛮子の言葉と元宮なる冒険者の遺書から
そう推測されるものに──対峙してしまっている。この相手への予備知識は他
には何もなく、立ち向かう準備も何一つできていない。法術が役に立つかはわ
からないが、行う気力も尽きている。
 真っ先に浮かんだのは逃亡することだった。逃げられるか? 大丈夫ではな
いだろうか。目の前に対峙している相手ではあるが、最初の日のジャッカルと
同じならば、暗い通路の奥まで逃げ込めば追ってくることはないとアランは思
った。……最初に階段の近くには居なかったということは、おそらく移動して
いるということで、今は避け、またあとでここに来れば、いなくなっているか
もしれない。
 さして深く検討もせず、その結論に飛びつくように、アランは蛇の姿がそれ
ほど近づいてこない(少なくともアランはそう思った)うちに、さっと背を向
けて、もと来た通路へと駆け込んだ。
 ……数歩を駆けたアランの耳が、背後の急速に地を引きずるような音に気づ
いたのは、防衛本能が働いたまさに僥倖だった。とはいえ、法術の修練、周囲
の気脈を掴む修行を積んでいなければ、どうなっていたかはわからない。アラ
ンは悪寒すら伴う急激な不安におそわれて、反射的に制動し、背後に剣を突き
つけるように振り返った。(なお「狭い通路の中まで単身で追ってくることは
ない」という習性を持つのが、ごく一部の群れをなす生物のみにすぎないとア
ランが知ったのは、相当に後になってからである。)
 そのアランの目に、視力にもとらえられぬほどの速度で地をのたうち通路を
奔ってくる大蛇の姿が映った。アランはその迫る姿に恐慌を起こしそうになっ
たが、そればかりか、急速に膨れ上がったその蛇の姿は突如として、胴体がし
なる蔦のように地面から浮き上がったと見えた。アランは火から手を引っ込め
るような怯えた動きで、剣を構えたまま反射的にうしろに飛び退いた。その傾
いた顔の寸前を、黒い鞭のように蛇の体が横切った。
 気がつくと、唖然としたまま引けた腰で剣を突き出し続けるアランの目の前
で、蛇はその場で床をゆるやかに滑り、ふらつく剣尖からわずかに距離を保つ
ように鎌首をもたげるだけの状態に、ふたたび戻っていた。もっとも、さきの
部屋の中で対峙していた時よりも、かなり距離は縮まっていた。
 ……今、何が起こったのだろう。おそらく、蛇の捕食の習性としてその長い
体を巻きつけようとしていたのではないかと、間もなく気づいた。後ろに飛び
のいていなければ(仮に受けかわしを試みていれば)あの体に捕らえられて呑
まれるのを待つ──というよりも、あの強靭な胴体に締め上げられた瞬間に、
アランの骨などは粉々に砕かれていただろう。
 蛇の体がかすった時にその鱗に撃たれ、頬にかなりひどい擦り傷ができてい
たが、痛覚は完全に忘れていた。──絶望が他の感覚を押し流していた。こん
な動きについてゆけるわけがない。肉食の獣の動きが人間を遥かに上回るとい
う、すでに得た推察を裏づけられる。今、蛇は突きつけた剣の前に止まってい
るように見えるが、見かけだけでしかない。次に動かれた時が、間違いなく終
わりだ。
 どうすればいい。ぐるぐると"蛮子"の言葉が脳裏を渦巻く。この地下でのす
べてを見ること、知ること、それができなければ殺される。元宮なんとかいう
冒険者は、この蛇の動きを、『ゆっくりだったのに、なぜこんなに早く動いた
のか』を、理解できなかった、まさにそのために死んだのだ。自分も見ること、
知ることができなければ、同じように殺される。
 だが、今はじめて見たばかりの、地を動く蛇の動きをどんなに切羽詰って見
つめたところで、見てわかることなど何もない。蛇の今のゆっくりとした動き
の中には、さきほどの素早さの片鱗も見て取ることができない。目の前の静と、
脳裏の動の映像がすっかり分かれていて、何のつながりも見つからない──
 静と動が分かれていて?
 剣尖がこまかく震えた。蛇の目から視線を離せはしなかったが、意識はさま
ざまな領域に飛んだ。アランは最初に対峙した肉食獣、ジャッカルの動きを思
い出していた。静と動がつながらない──静と動とが分かれている、もしや、
それ自体が本質なのではないか?
 肉食の獣の流れるような動きとは、その素早さと無駄のなさであり、獲物に
よって生きるかれらは、それ以外の消耗を避け、獲物に対してのみ全てを無駄
なく傾ける。その本質とは──かれらは獲物を捕食する、ただその瞬間だけ、
"静"から"動"へと転ずるのだ。
 アランは目を見張って、蛇の鎌首の動かない様を凝視した。『ゆっくりだっ
たのに、早く動いた』こと、アランはその動きの、本質を見知ったと感じた。
 ……しかし、それがわかったところで一体、何になるというのだろう。たと
え"静"のときをアランなどが狙ったところで、獣がそこから"動"に転ずるより
早く剣が相手に届くわけでもない。人間の反応が、獣の敏捷さと反応、獣性に
及ぶわけがない。(実際には、剣技において"無想"の境地に達した使い手なら
ば、理も意識も獣性すらも超越し、それらに先んじて、発するともなく剣を発
することができるが、この当時のアランはその域に達するどころか、その剣の
境地の存在すらも知らなかった。)
 アランは震える剣を持ち直そうとした。思い至ったことに覚悟を決めるしか
なかった。生き残るために、できることはひとつしかないのだ。"動"に転ずる
より「前」を狙えないなら、"動"の瞬間の「後」を狙うしかない。
 二度、ためらうように踏みとどまったあと、アランは遂に正面に一直線に飛
び込んだ。だが蛇は動かなかった。その剣が頭に振り下ろされた、その瞬間に
蛇の鎌首が撓った。やはり、アランにはまったくその動きは見えなかった。
 蛇の顎の巨大な牙はアランの脇腹、元宮なる冒険者の死体にあった傷と、ほ
ぼ同じ箇所に深々と食い込んだ。何か違いがあるとすれば、アランは最初に斬
り込んだ時にすでに直後の切り上げの準備に体を捻っており、そのため牙は斜
めに突き刺さったことだった。故郷の教練での無意識の”自然な体の動き”だ
った。それでも、アランの腕力では続く切り上げは二挙動目にならざるを得ず、
そのため、それは蛇の攻撃より後に──すなわち、牙を突き立てた蛇が"静"と
なったその瞬間をとらえた。
 真っ二つに断たれた大蛇の胴体が、剣の軌跡のすぐ後を追うように宙に跳ね
上がった。胴体の半分よりわずかに顎側、最も太いあたりの部位を断ち斬られ
たそれは、余力でのたうち飛沫を薄暗い洞穴に紅々と散らしながら、撓るよう
に宙を飛んだ。


 ”辺境の地”の東の鬱蒼と繁る木々の中、柵の東門へと続いている広い道を、
とぼとぼと門に向けて歩いてゆく人影があった。赤い外套に赤い羽根帽子の小
さな人物で、照りつける日光の中、輪郭が全体的にぼやけており、ことに足元
は靄のようになっているのがかすかにわかるが、その風雲を巻き起こす足が少
しも軽々と見えないほどに、寂しげなおぼつかない足取りだった。
 「あのさあ、レプちゃん」俯いたまま歩く"蛮子"が小声でつぶやいた。
 「何や」肩に乗った毛玉のような、これも靄がかった生き物が応じた。
 「生きてるかな、あの子……」蛮子がぼそぼそと言った。「いくらなんでも
放っときすぎたよね」
 「”激戦場”の後始末やったし。マーリンの手勢の手当たり次第が総動員さ
れてる中で、ワシらだけ抜け出して戻ってこられたわけもないやろ」レプが言
った。「その間、冒険者が生きるも死ぬも本人次第や。……何をいくら教わっ
てようと、初心者が死ぬときはあっさりと死ぬのも、この土地では日常茶飯事
やねん」
 「けど、一度は生き残って欲しいと思って教えた以上、そう割り切れるわけ
でもないよ……」
 「最初の頃と言っとることが違うやないか」レプは呆れて言った。「最初は
あんな軟弱なの教えるのは気が重いみたいなこと言うとって、いざショタに頼
りにされる立場になったら勿体無いとか言うわけかいな」
 「いや……それは……そういうことじゃなくて」蛮子はぶつぶつと言ったが、
そのまま両手を前に垂らし、「……もういい」
 それ以後反論もなにもなかったので、”辺境の地”の村の中の本通りにさし
かかるまで、レプもあえて問わなかったが、やがて、
 「……いや、生きとる可能性だけなら、わりと高いような気もするがな。て
か、下手すると、あれから何もしとらんのやないかと。……強くて無謀な奴の
生存率は皆無やけど、弱くて慎重な奴は意外と生き延びるもんやで」
 「けど、どんなに慎重だって慣れてたって、もしものことってあるし」蛮子
がぶつぶつと言った。「私達のゴースト製作者だって、もう何年*bandやって
るかわからないって頃に盗賊クエストでうっかりミスして、Roguelikeサイト
やめようかと一瞬考えたとか、あったわけでしょ」
 「んな、ブログに移行する前のエピソードなんぞ持ち出したかて……」レプ
が呻いた。「だいたい、そんなことまで心配しはじめとったら……」
 「ううん、それよりも心配は」蛮子は上の空で、「『汚いイタズラ小僧』の
集団に路地裏に連れ込まれて、いたづらの限りを尽くされてる可能性とか」
 不意に、蛮子は立ち止まり、片手を口に当てて次第に顔を赤らめた。
 「いけない妄想をしとる場合か」レプが絶望的に呻いた。「考えるよりも、
まずは消息を確かめ……」
 と、街路にざわざわと何か動きがあった。特にそれらの人々から何かの言葉
が出るわけでもなし、その人々も数ヤードにひとりといったまばらなものなの
だが、向こうからやってくる者に対してそのうち皆、いずれもならず者の商人
や傭兵が、その姿に無意識に道をあけていた。
 ……通りをやってくるそれは、体にあわない長い剣を脇に下げた少年だった。
顔を赤くしながら一生懸命、重荷を運びながらゆっくりと進んでいる。尾まで
含めると全長が15フィートほどある『洞窟トカゲ』を、ござに載せて縛りつ
け、その尻尾を肩にかつぎ、ほこりっぽい本通りをずるずると背後に引きずり
ながら、大義そうに進んでくるのだ。


 アランはあまりにも真剣に運んでいるため、蛮子らの方には気づきもしなか
った。蛮子もレプも声をかけようともせず、ただ無言のまま、それが目の前を
通ってゆくのを見つめていた。
 やがてその姿は、本通りの西の端にある”ハンター事務所”に向かい、アラ
ンのうしろ姿とござの上のトカゲは、その扉の中へと消えた。
 蛮子とレプは無言で、その扉を見つめて立ち尽くしていた。
 ……突っ立ったままかなりの時が経ち、やがて、扉があいてアランが出てき
た。アダマントやミスリルなどの合金のかけらを数片、計るように手にのせて
見ている。おそらく、金貨に換算すれば二、三百枚にはなる値だろう。アラン
はそれを無造作に革の財布に入れ、財布をさらに背負い袋に入れたところで、
立ち尽くしている蛮子らに気づき、傍目にも嬉しそうに目を輝かせて駆け寄っ
てきた。
 「……今の、なに」蛮子はそのアランに、無表情から無理矢理に作ろうとし
た結果の困惑したような苦笑いで声をかけた。
 「日替わり賞金首だよ」
 ……蛮子は怪訝げな表情を隠す余裕さえなく、アランから目を宙にそらして
考え込んだ。あのトカゲの大きさを思い出す。少なくとも、イモムシ増殖に挑
戦できないような冒険者の手に負えるような代物ではない。
 「……今まで、ああいうのをだいぶ換金してるわけ?」蛮子はようやく言っ
た。「いや、あの、最初から、この村に来た時から、できたわけじゃないよね。
いつからあんなのを倒せるように……」
 「ええと、もちろん、最初は違ったけど……」アランは深刻に考えるように
してから、「何日か前に『サーペント』を倒した、そのときからだよ」
 ──蛮子は口を半開きにしたまま、たっぷり五拍ほどアランを見つめた。そ
のあと口を開いて動かしたが、何も言葉は出てきていなかった。
 「あの大蛇と戦ってから、ほかのもの……獣とか人間の、動きが見えるよう
になったような気がする」アランは俯いて、独白するかのように続けた。「う
うん……向こうがずっと速いこともあるけど、その場合の拍子のとり方とか、
対する動き方とかが、ひとりでに分かるようになった気がする」
 アランは言葉を切り、しばらく真剣に考え込むようにしてから、
 「でも、見えるようになればなるほど、どうしようもないってわかることも、
どんどん増えていく気がする。……どんな拍子や動きをあわせても逃げられな
いって、見ていてわかる相手も、次から次へと増えてきてるんだよ。『サーペ
ント』を倒して、ようやく、もっと深いところへの扉が開く、ずっと深い暗が
りの入り口が見えるっていうのは、こういうことなんだと思う……でも、本当
にこのあと、どうすればいいんだろう」アランは顔を上げて、蛮子をすがるよ
うな目で見た。「この先、どこに行けばいいの?」
 「……えっと、ちょっと待ってね」
 蛮子は歩き回りながら考えるようなふりをしつつ、聖騎士の少年から数歩を
離れ、背を向けた。
 「いったい……」蛮子は一度言ってから、しばらく沈黙し、ようやく再び、
口を開いた。「いったい、何が起こったんだろ……」
 「想像もつかへんな」レプが重々しく言った。「まあ、何か、ものすごい勘
違いをしているということだけは確実やが、少なくとも致命的なことは起こっ
とらん。むしろ、それ以外の点はかなり悪うない状態になっとる。勘違いにつ
いては……当面は『ずっと進むまではどのみち関係がないこと』なんやろ?」
 「いや、まあ、けど」蛮子は頭を抱えた。「なんでこんなことになっちゃっ
たんだろう……」
 「お前のせいやろ」レプが一転して容赦なく言った。「『サーペント』につ
いて、いいかげんな説明を吹き込んだのも、その後放置したのもお前や。まあ
他にも何か色々とあるんやろが、お前がそうしなけりゃここまでぐちゃぐちゃ
にはならんかったのは絶対に確実やねん」
 「いや、それは違うよ。違う……と思う……」蛮子の語尾はその自信のほど
を反映して、弱々しく消えうせていった。
 ……ふと気付くと、アランは真剣な面持ちで、期待するように蛮子らを見つ
めている。
 「どうすればいいの──」
 「えっと……イモムシ……盗賊の隠れ家……ワーグ……」蛮子は自分で思い
出そうとするかのようにぶつぶつと言ってから、「えっと、今まで、2階には
降りた? 100フィートに」
 アランは首を振った。
 「じゃあとりあえず降りてみ……じゃなくて、次は100フィート」蛮子は
何か思い切ったように、明るく手を振り上げ、呆れたレプを肩に、本通りを東
へ、”辺境の地”の外に向けて歩き出した。「よし、奥に進む入り口が開いた
から──次は、100フィート」
 アランはその蛮子の後ろ姿をしばらく見つめてから、あどけない容貌に意を
決したような眼差しを加え、歩き出した。背負い袋をかつぎ、まだちぐはぐに
見える剣帯を脇に直しながら、蛮子のあとについていった。賞金首の荷物を手
放してしまうと、──その身のこなしや視線は、言われてみれば以前とは違う
ものかもしれなかったが、蛮子の背後を小股で歩く姿は、『介添人』の従う英
雄というよりは、やはり依然として、前に控えた未知と未踏に躊躇い続けつつ
踏み込むだけの少年にしか見えはしなかった。



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