Netherspectra V - 50 ft
深淵夢幻 50ft






 5

 それらの影は、アランがその形を充分に認識するよりも前に、音もなく洞窟
の広い空洞の中に滑り込んできた。あるものが唐突に歩みを止めれば、またあ
るものがその間隙に入り込む、といった具合に、ゆっくり互い違いに次第に近
づいてくるのは、全部で4、5匹なのだろうか。褐色の犬に似た生き物で、妙
に目立つ大きな耳に、背中にすすけたような影を負っている。……アランは、
”ジャッカル”については獣の一種にそういう名と姿のものがいる、それ以外
のことは何も知らなかった。ある程度知る者がいれば、地上から、あるいは別
の洞穴から小動物(もしくは人間を含め、この洞穴で息絶えた不幸な生き物の
死体)を求めて浅い階層に下りてきていることを推測したかもしれない。
 しかしどちらにせよ、アランの意識は「自分は肉食の獣の群れと対峙してい
る」という状況だけですでに完全に飽和していた。どうすればいいのだ。(先
にあの中に踏み込んで切りかかり、列を崩すなどといった発想は頭をかすめも
せず)囲まれないように壁際に動くか、追い詰められないよう通路を背に動く
か? しかし、壁際に追い詰められたり、背の通路に回りこまれたらどうす
る? 懲打の小雷の術のことも頭によぎったが、万一いまこの状況で先のよう
に失敗して剣を取り落としたりなどと考えると、とても試みることはできない。
そのまま心を決めかねるうち、──不意に、獣らが思ったより近くまで来たこ
とに気付いた。
 アランはなかば恐慌におそわれた。そして、両手で捧げ持つように保持して
いた広刃の剣で、機も潮合もはかることもなく、先頭の一匹に向けて、やおら
不用意な一撃を繰り出してしまったのである。
 剣術習練のおさらいが上手くいった時のように、存分に踏み込み思い切り打
ち込んだ一撃は、だが、あっさりと空を切った。その失敗にさらに慌てたアラ
ンは、引けた腰のまま、その目的を牽制とも殺傷ともつかずに、がむしゃらに
剣を突き出し続けた。──と、そのうちの一振りが、まるで偶然に、ジャッカ
ルのうち一匹の腹部をその切っ先でかすった。
 ざらりと重たく、練った粉に切れ味の悪い包丁を突き入れた時のような、そ
して異様に無機質な感覚があった。直後アランには実感がわかなかったが、そ
れこそが、生きたままの生物の肉を切り裂いた感触だった。予期しない時に入
った一撃と、その感触のあまりの不気味さに恐れおののくあまり、アランは思
わずその場に突っ立った。
 腹を裂かれた一匹は転げるように飛びのき、あたりに赤い飛沫が飛び散った。
洞穴はそれまでも菌類や汚れの採色に満ちていたはずなのが、視界が突如とし
て赤に染められたかのような錯覚を覚えた。しかし、その色彩の変化とともに、
ジャッカルの気ままなように見えていた動きが変わった。その歩みと背と首の
描く動きが、これまで通りに滑らかながらも鋭くなり、そしてその群れの鋭敏
さは、明らかにアランに向けられていた。
 恐慌にかられたアランが振り回す剣をよそに、視界の端を俊敏な影が走った。
と思うと、それが視界一杯を占めた。噛み付いてきたのかもしれないが、その
あまりの勢いは体当たりかと思えた。さして大きくもないと思えたジャッカル
の質量がまるごとぶつかった衝撃は胸と胴をひどく打ちのめし、つかのま息を
止めた。ふらついたアランの足元から掬い上げるような別の一匹の牙がかすり、
幸いにも革の胴衣のために深く肌に突き刺さることはなかったが、胴衣の上地
の軟皮がやすやすと切り裂けた。
 アランはもはや完全に恐怖だけに支配され、背中を護るという意識もなく、
ジャッカルらに背を向けてそのまま背後の通路に飛び込んだ。
 そして地上に続く傾斜、いわゆる階段をめざし脇目もふらず駆けた。──し
ばらく駆けながら、やがてアランは逃げ出した直後に背中に来てもおかしくな
い致命的な追撃が来なかったことに、かなり遅れて気付いた。ついで、明らか
にジャッカルらが広い洞穴から通路へと入って来ていないこと──おそらく追
ってきていないことにも気付いた。だが、それは意識の片隅にすぎず、何故な
のか考えることも、足を緩めることもせずに、ひたすら駆けた。……
 ……下に向かう"階段"は、同じ地形の洞穴には二度とめぐり合わないほど複
雑に枝分かれしているが、洞穴を出るときの通路は単に合流していくだけで、
上ってさえいれば出入口までは一直線である。日光と外気の下に出たことを身
体は感じ、歩きながら激しく息をつき、思わず洞穴を振り返ってから、ジャッ
カルが追ってきてはいない、最初から追ってくる様子はなかったことを、逆の
順番で思い出した。それに気づいたとき、一気に安堵が襲ってきた。アランは
抜き身のままだった剣、点灯したまま背嚢にくくりつけていた小さな真鍮のラ
ンタンもそのままに、立ち止まって上体を曲げ、次第に息を緩やかに深く整え
ようとした。


 しかし、恐慌が薄れるにつれ、次第に重くのしかかってくるものがあった。
……それはアランにさえわかることだったが、ジャッカルなどは、たとえ群れ
でも肉食の獣の中では、さして危険な方ではないはずだ。しかし──あの手負
いになったとき急に転じたかれらの空気、獰猛さを思い起こすにつれ、日々を
生きるために獲物を殺している野性の獣の恐ろしさが、重々しく身に迫ってき
た。あの獣の獰猛さ、俊敏さそのものに、果たして人間の技で太刀打ちできる
ものなのか。人間が手にした剣などに、何かの技が加わったところで、野生の
獣の中でも凶悪なものに──まして、本当に伝承のように、獣より遥かに獰猛
で巨大な、ドラゴンのような”怪物”らに立ち向かうことなど可能なのか?
 『勇者』やら『偉大な冒険者』やらが、巨大な怪物を倒したといった話、対
怪物の剣術流派やら武具やらの説話はいくらでもある。……しかし、アランに
はそんな細部といえば曖昧で何ら現実的なところのない話よりも、はるかに現
実性を持ち、強く記憶に刻み付けられている話がひとつあった。どこかの剣の
"大師範(グランドマスター)"のひとりが、戦時中でもないのに突如として姿を
消したという話だった。単に事故としか知られていないが、実際は彼は、剣技
を試すため”虎”に挑みに出かけ、そして、全身が目茶目茶に食い散らかされ
た状態で見つかった、というのだ。人間の剣技の頂点でも、虎にさえも対抗で
きないのではないのか? しかも、アランは剣技をきわめた"大師範"どころか、
同門の中で最も出来が悪かったのだ。……こんな土地で修行を始めたのは、獣
の食い散らす顎にみずからを供するようなものではないのだろうか?
 ……どれほど立ち尽くしていたのか、辺りが薄暗く、ランタンのほの明るさ
が目立ってきたせいで、我に返った。アランはぼんやりと予備の油を確認しよ
うと背嚢を開いた時、地下から最初に持ち帰った、瓶と巻物が目に入った。
 蛮子の話を思い出すまでしばらくかかった。鑑定されていないこれらは、店
がまとめて引き取ってくれるので、少々の金になると。一体なんのために洞穴
に潜ったのかも、このときようやく思い出した。
 アランは”辺境の地”の村に向けてとぼとぼと歩き出した。さきほどまでの、
習い覚えた片言の法術によって都合よくも品物を手に入れた時の、成功の手ご
たえや希望は、ふたたび跡形もなく消えていた。結果だけ見れば洞穴から戦利
品を持ち帰ったにもかかわらず、その足取りは重かった。


 魔法店で正体も知らぬ薬や巻物を売り払って得た硬貨十数枚では、新しい防
具を買い加えることもできなかった。ひと段落したらまた会いに来ると言って
いた”蛮子”も現れず、宿屋を見てみたがその姿はなかった。
 何をするあてもないまま、宿屋を出た。と、北端にある大きな館の近くに、
この場からもわかるほど、人だかりができているのが見えた。アランは、興味
にかられて(最初の戦傷兵士のような凶悪な人影がその中になく、大半が村人
に見えたこともあって)その館の方に近づいていった。
 人だかりの中に目立つのは、一様の装備で武装した幾人かで、かれらは中心
にいる年配のひとり(身なりからして地主のひとりか村長らしい、館の主だろ
うか)や、ときどき村人に何か説明していた。かれらは「補給部隊」と呼ばれ
ており、何をどこに補給しているのかはわからないが、どうやら、戻ってきた
部隊が、村長や村人に報告しているらしいことがわかってきた。それも話によ
ると、あの辺境の地の東の洞穴の中に行っていた部隊らしい。無論アランは出
くわさなかったし、同じ構造の洞穴に二度と迷い込まないような広大な洞穴の
中で部隊に偶然出くわすことは、おそらく今後もないのだろう。
 が、人だかりにはもうひとつ別の中心があった。そこには、布に包まれたも
のが4つ5つほど横たえられているのが見えた。形と大きさからして──おそ
らく、人間か人型生物(ヒューマノイド)の、明らかに死体だった。部隊の犠牲
者か、彼らが見つけて持ち帰った死者か。
 遠巻きにする村人の中に、その死体を調べている者らがいる。それは、ほと
んど黒といえるほどに深い濃紺色の外套をまとった、大小二つの人影だった。
鬚と髪を短く刈り込んだたくましい長身の老人と、なぜか、見るからにアラン
よりもさらに幼く見える長い赤毛の少女である。
 「傷は二つ。どっちも、自然な体の動きで充分に護られる範囲に食らってる
わ。隙がありすぎる」一番端の一体の布をめくりながら赤毛の少女が、異常な
ほど流暢な大人びた口調で言った。「手足の筋肉も発達してない。どう見ても
旅慣れてさえいないけど、もちろん村人じゃないわね。服装が違いすぎる」
 おぞましく腐乱しきった死体を、少女はためらう様子もなく指し示した。死
体は一部肉の溶け腐った四肢が苦悶にねじくれ、あちこちがひどく苔に侵食さ
れており、それを焼いた跡もある(アランが地下で見たような危険な苔なので、
補給部隊が焼いてから死体を回収したのかもしれない)。
 長身の老人が、深いが遠くまで通る声で、村人の輪の中にいる兵士に話しか
けた。「イアンよ、このそばに遺されていたのが、武具というのは確かか?」
 「ああ、ほとんど粘体や苔にやられていたが、片手半剣の残骸だった」補給
部隊の装備の兵士が答えた。隻腕で、さらに歴戦とみえる傷が目立つ兵だった。
 「なら、イアン達の予想通り、これは外から流れてきた”冒険者”なのだろ
うな」老人は言った。「その武具はここ”辺境の地”ではしじゅう売ってはお
らんし、深層で見かけるのでないならば、冒険者がここに来る時に持ち込んだ
物の公算が最も高いな」
 「──ああ、その服装に装備なら、『元宮なんたら』とかいう奴だよ」
 不意に、村人の中にいた男が、その場で腕を組んだまま言った。むぎわらを
束ねたような髪に、刺繍のある茶色の胴着(ダブレット)の小男で、アランはそ
の男を宿屋で見たのを思い出した。
 「少し前に宿屋で、”サーペントを倒すために現代地球から召喚された選ば
れた血脈”がどうとか、きんきん声でなんかしきりに自慢してた奴だ。宿屋の
店主も常連もみんな覚えてるよ」
 周囲の村人の何人かが顔をしかめつつ、頷くのが見えた。
 「本人の話では、最強の古流剣術『元宮封神流電磁爆砕覇王剣』だとか何と
かいうやつの使い手とかいう話だったね」
 「なによ、その、今この場で考えついたみたいな技の名前は」赤毛の少女が
小男を振り返り、猜疑心もあらわに睨みつけた。
 小男は肩をすくめただけだった。……一方、隻腕の兵士は老人のすぐ横に進
み出ると、ぼろぼろの綴じ紙を取り出した。
 兵士はページを開いて文字を示しながら、それを老人に差し出した。「これ
が遺品と一緒に見つかったんだが……”冒険の記録”、いわゆる日記らしい。
村長によると、共通語でも上(かみ)のエルフの言葉でも使われない文字だそう
だが」
 少女が背伸びをして、老人の手の書物を覗き込んだ。「”漢字かな混じり”
って文字よ、これは」
 「だが、内容は共通語だな。共通語に"転移(シフト)"している、というべき
か。オークらの共通語と同じか、それ以上に崩れてはいるが」
 「読めるのか?」兵士が聞いた。
 「うむ」老人が短く言った。あわせて少女も自己主張するように頷いていた。
 「それは助かる。店の連中に頼むと、暴利を貪った上に、最近は平気で”こ
の文書には解読手段がない”とか言ってくるんだ」兵士は苦々しげに言った。
 老人がページをめくった。「その冒険者の、この土地に来てからの短い記録
だな。しかし、致命傷を受けた後、息絶える前に書いたのか受けながら書いた
のか何か知らんが、死の直前の遭遇についても克明に書いてあるぞ」
 「なんでそんな時のが残ってるのよ」少女は眉根に皺を寄せて言った。
 「追い詰められた時の心理のひとつなんじゃないか」小男が言った。「友達
との交換日記とかの中に、『あの手はなんだ! 窓に! 窓に!』とかで終わ
るのをひとつくらい読んだことがあるだろ?」
 「ないわ。ひとつも」少女はぴしゃりと言った。
 「まあ、いいけどさ。こういう自己陶酔最強設定厨って、やることは意外と
細かいんだぜ──」
 「このあたりが、最後の敵に対峙したときの記録だな。何かの『蛇』にやら
れたらしい。──”土色にぎらつく鱗を持った...絶対に誰も見たこともない
ほど巨大なヘビだ”」老人が最後の方のページをめくり、読み上げた。「”そ
んなばかな。今まであれほどゆっくりな動きだったのに、なぜ急にこんなに早
く動いたんだ”」
 赤毛の少女はやれやれという風に両掌を上に向けた。(とても見かけの年齢
相応の仕草には見えなかった。)
 「なんだ、そのままやられちまったのか」小男が言った。「『元宮流降神烈
波封滅剣』はどうしたんだよ」
 「なによ、さっきの技の名前やっぱり出まかせじゃないの」赤毛の少女が小
男を振り返り、不信もあらわに睨みつけた。
 「なんでさっきのを覚えてるんだい──」
 「日記の最後はこの言葉で終わっておる」老人は読み上げた。「”間違いな
い、奴が……こいつが、『サーペント』だ”」
 「なにがサーペントよ」赤毛の幼い少女は死体の布を跳ね上げ、凄惨な傷口
を指差した。「これ、どう見たって、ただの1階の”土ヘビ”にやられた傷じ
ゃないのよ」
 小男はおどけた様子で肩をすくめ、長身の老人はゆっくりと首を振った。同
様に、隻腕の戦傷兵士や周りの村人、兵士らの様子も、赤毛の少女とまったく
同意見に見えた。
 しかし、その人々の円の最も外側にいた、アランひとりだけは違った。彼は
すっかり青ざめ、呆然自失としながら、ふらつく足取りで、誰に気付かれるこ
ともなくその人々の間を離れた。


 アラン同様に外の土地から来たらしい冒険者が、村の東の洞穴で殺され、発
見された。遺書には『サーペント』とあるが、村人らは、もっと普通の「大
蛇」、土ヘビと呼ばれる何かありふれた獣の仕業だと思っている。
 しかし、アランは村人とは別のことを確信せざるを得なかった。
 (『サーペント』はいるんだ。この近くに)アランは恐々と、ただそれを心
中で反復し続けた。(あの洞穴に、出てきてるんだ)
 そう信じる理由があった。蛮子が言っていたではないか。『サーペント』と
は冒険者に対して「最初に立ち塞がる門番」のようなものであると。ならばそ
れは(これまで例がなく、村人に予想だにされていなかったとしても)村の東
の洞穴”に現れても、おそらく何も不思議はない存在なのではないのか?
 あの死体となっていた冒険者は、自身の記録する通り、『サーペント』に
殺された──あるいは「自然の動きで身を護る」猶予さえ与えられない、
圧倒的な力によって殺されたのかもしれなかった。いや、そうに違いない。あ
の小男の話によると、宿屋でしきりに出自や技の名を誇示していた冒険者だっ
たとのことだが、アランならば一歩踏み出したり街を歩くのさえ恐怖を感じる
この土地で、力を誇示できるほどの自信を持てるのは、相当な実力なのではな
いか。村人はおそらく余所者を無条件に素人同然と侮るのだろうが、あの遺書
の内容は素人と土ヘビなどではなく、おそらく実力者が、それを上回る『サー
ペント』の力で殺されたのだ。……村人の誰も、すぐ近くの洞穴に潜む『サー
ペント』の脅威に気付いていないのだ。
 ──いや、それよりもアランに差し迫っていたのは、村の危険よりも自分の
ことである。蛮子によると、彼は生き残るだけのためにさえ洞穴に潜って金貨
を貯め続けなくてはならないのだが、洞穴の中ですぐにでも『サーペント』に
出くわしてしまうかもしれないのだ。たとえ「最初の門番」だとしても、こん
な土地のこと、どれだけ恐ろしい存在であるかは想像に余りある。ジャッカル
数匹からさえ逃げ出すアランに、それに対峙する準備などできているわけがな
かった。
 アランはふらふらと辺境の地を歩き、また立ち止まり、考えようとした。一
体どうすればいい。……何度もの堂々巡りの後に出てきた結論は、蛮子が現れ
るまで待つことだった。当面の目標は”イモムシ”だか何だか知らないが、少
なくとも否応なく『サーペント』と戦うことになった場合、最善をつくす方法
くらいは教えてくれるかもしれない。



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