Netherspectra IV - 50 ft
深淵夢幻 50ft






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 その空洞は、汚れて湿った岩で覆われた壁が見える方向もあるが、視界に入
る限りのほとんどの光景は、ランタンの光の届くより先が闇へと飲み込まれて
いた。天井は光が辛うじて届くか届かないほどに高い。これが”小さな洞穴”
だというのだろうか。
 目立った傾斜はないとはいえ、とても均一とはいえないごつごつした岩場の
足元には、所々に細く水分が流れ、溜まり、その周囲に張り付くような苔や菌
類に覆われている。息をつけば、下地の上にじっとりとわだかまっている汚れ
た湿気の味が、軽い嘔吐感すら伴って口中に広がった。
 法術の心得による気脈の流れを読む技その他諸々、というよりも、むしろア
ランの生来の繊細さと感受性の強さが、その光景と空気、地のさらに奥まった
所からじっとりと湧き上がってくる魔素を肌に感じさせた。──これでも、お
ちぶれた兵士らが闊歩し、いつ襲われるか分からないあの”地上”よりも、む
しろこの最も浅い階層の方が安全だというのだった。
 息苦しいような空気の重さに、アランは暫く立ち尽くしていたが、ふと、そ
こから思い出して、ベルトに結わえ括り付けてあった鎖の先の、金属とガラス
の筒を手にとった。これも巨大な船の船長から貰った水銀柱(のような形をし
ているが、あからさまに気圧とは無関係に、遥かに細かい高度を計測でき、何
らかの不可思議な技巧で作られた超常的な品に違いなかった)で、ランタンの
明かりがなくとも、かすかに発光して読み取れるその目盛りは、”地下50フ
ィート”前後を示している。段になった洞窟を果てしなく、明確に下り続けた
のだが、実のところ傾斜はかなり緩かったらしい。
 アランはもういちどランタンを掲げて周囲を照らし、視界に入る限りは危険
がないことを何度か確認した。そして、傾斜段に続く通路から、空洞に向けて
一歩を踏み出した。
 (”知ること”。どんなものにも気を配ること)
 最初と同じように、ランタンの視界に新たに入ってくるものを一歩一歩ごと
に見回し、確認し、不均一な足場を一歩ごとに踏み固め、確かめながら、アラ
ンはゆっくりと洞穴を進んでいった。


 予想に反して、洞穴はすべてが闇に覆われている、というわけではなかった。
幅も高さも相変わらず充分に広いが、さして長くない通路の暗闇を進んでゆき
たどり着いた、前と同じような大きさと風景の空洞はしかし、全体がおぼろげ
な光に満ちており、アランは思わず立ち止まって目をしばたいた。
 最初に考えたのは、天井の裂け目から、どこか遥か高くから洩れている光
(直接その上が地上の直射日光だとは考えられなかったが)ではないかという
ことで、アランは目をこらして天井を見上げたが、しかしこの空洞の天井は遥
かに遠く、上の方全体からかすかに光が降ってくるのが日光なのか、それ以外
の光なのかは判断がつかなかった。発光する植物なり、あるいは以前にこの場
所を歩いた何者か(それは人間の術師か、あるいは想像もできないような存在
か)の照明術(イルミネーション)の影響が残っているなりで、天井の方のみ
ならず空洞全体が薄暗い光に覆われ、その光源は定かではなかった。
 アランはその光を頼りに空洞の中を一通り見回し、やがてさらに確認するよ
うに真鍮のランタンの炎の光をかざしながら、歩み入っていった。──入口の
通路から反対側の石壁の近くに、ひとつ気にかかる光景があり、アランはやが
てそれを凝視しながら、さらに慎重にそこに近づいていった。
 壁際の窪んだような箇所、空洞の”角”ともいえる場所に、なかば泥土に埋
まって何本かのビンが見えた。いままで他に地面に見られている、形のわから
ない骨や木の破片と違って、さして頑丈な品物にも見えないにも関わらず明ら
かに原型をとどめており、あまり汚れてもいないように見える。湿気と黴と細
かい残骸の空間の中に異質なそれらは、薄明かりの中に光を発するように目だ
って見えた。”蛮子”が言っていた「魔法の品」ではないかと思えた。
 ──しかし、その手前に、灰色のカビ(グレイ・モルド)の塊があった。もと
は蔦や根であったらしい泥土に塗れた塊が、壁を這う途中から突き出すように
アランの腰あたりの高さを交差し、そこに無数の斑点(パッチ)となって灰色の
カビが覆っている。その菌糸も斑点も、よく見られる自然のカビよりも見るか
らに大きく、光の中にかすかに渦巻くように胞子を散乱させているのが、数歩
を離れていても見えた。


 怪物的なカビ(モンストラス・モルド)の話は、故郷での旅の話からアランも
聞いたことがあった。うかつに近づくと、たった一塊が胞子なり菌糸なりを撒
き散らし、吸い込んだ何十人もの人間を瞬時に、あるいは緩慢な死に至らしめ
る話、ひいては胞子や菌糸がじかに肌を焼き、革や鋼の鎧さえも溶かし貫通す
るなどといった話まである。
 ……ビンを手に入れるため、その塊から数歩以上離れた距離を保ちながら迂
回して、手にすることはできそうになかった。カビを排除するか、そのまま通
るしかない。ある程度の腕力なり技なりで剣をふるうことのできる者は、カビ
の生息している泥土の塊を、一太刀で切り飛ばし、排除することができるだろ
う。しかしアランの腕力でも剣技でも、それができるとは思えなかった。排除
することもできず、衝撃でカビを撒き散らしてしまうのではないか。仮にそう
なったとしても、全身を防具で覆っている戦士ならば、少なくとも巻き上がっ
たカビに肌をじかに触れなくて済むだろう。しかし、防具を充分に買えなかっ
たアランには、手甲も足甲もないのだ。……無論、この灰色のカビが本当にそ
れらの話通りのような恐ろしいものか、もとい、有害なのか自体もまだ不明な
のだが、とても試してみる気にはなれなかった。
 アランはこれといった方策もなく、ランタンを前に掲げながらも、剣を力な
く降ろしたまま、立ち尽くした。
 じりじりとランタンの炎だけが揺らいだ。……ふと、法術のことを思い出し
たのは、それからかなりの時間が経ってからだった。


 アランはランタンの取っ手を背負い袋の金具にひっかけ、その手で、背負い
袋の横のベルト蓋に挟んであった呪文書をそろそろと抜き出した。あの船長か
ら最初に貰った書である。
 片手でページを繰り、かつて故郷で学んだ法術の教本よりも、遥かに複雑で
高度な術式や法印に目を走らせた。──船長がくれたからには、この教本やそ
れ以上の高度な術が、この土地での実地には必要なのだろう。故郷ではいくつ
かの簡単な清めや祝福の言霊を遣う小術(オリソン)ならば覚えていたアランだ
が、この呪文書の中で手におえるのは、最初に書かれている、気脈による懲打
の術だけだった。船を降りた時に、他の選択肢もなく”学習”し反復していた
その術をよく思い出し、図式に目を通し、今現在の気圧と光量、時刻から割り
出した術式を頭の中でなぞってから、ぱたんと書を閉じて、再びベルト蓋に挟
んだ。
 ……法術に限らず、あらゆる術の方式は、その場の条件によって全く異なる。
山野の成立と条件、霊脈や気脈の巡り、精気に心霊、そこに存在する生物や無
生物による影響は、地方によって、もとい数歩離れた場所によってすら大幅に
異なる。さらには、同じ場所であっても、発動する日時(月、星の位置)は無
論のこと、わずかな時刻(日の傾き)によってすら、全く異なってくる。
 それらの術式のすべてを、操るその場で毎回いちから組み上げることは、ど
んな大賢人にも不可能である。その場に適切な術の準備には、膨大な時間と労
力を要する。故に、すべての術者は普段からいつでも術が発動できるようにす
るには、常にその土地ごとの情報の書かれた”呪文書”を持ち歩いて研究し、
その成果に最大限に頼って、そのつど術を組まなくてはならないし、できる時
には、その刻々と変わる状況に応じてしじゅう準備をし続けていなくてはなら
ない。呪文書は毎回「読み上げる」ようなものではなく、常に術が発動できる
ようにしておくには、状況が移るごとに呪文書を繰って、普段からその準備を
しておく必要がある。
 ──アランは剣をかざして、重い刀身をやっと持ち上げるように、その剣尖
でカビの塊の閉ざしている方向を指した。そのままの姿勢でさらにもう一度、
口訣と、周囲の気の掴み方、巡らせ方を頭の中で反復する。何もこの術を試み
るのははじめてではないのだ。学んだ時に一度発動してみている(無論、時刻
も気圧も違うので、術式もまるで違ったが)。そう自分に言い聞かせてからも、
さらにしばらくためらった後、アランは剣尖を改めてカビの塊に突きつけるよ
うにし、術式に沿って口訣を発していった。
 それと共に、周囲のじめじめした洞穴に意識を開放し、流れる気脈を掴もう
とした。いつも小術を試みる時にも感じる、ちりちりと何かが眉間にはじける
ような感覚が襲った。軽く静電気のように服の裾を巻き上げる実体の現象をも
伴って気が集まると、アランは口訣の”方向”を定めて、それを剣に向けて押
し込むように集中した。……が、纏まらず、すりぬけたような感触があった。
 不意に、剣から両腕に激しい痺れが走り、アランは弾かれたように剣を取り
落とした。(剣は落ちて一度地面に跳ね返りながらも、苔に覆われた石にぶつ
かっても、不気味にも音があまり響かなかった。)気脈の操り方を失敗したの
だ。さして法術の才能があるわけではないアランには、懲罰の小雷の術でさえ
成功率はようやく8割に届く程度である。
 アランは痺れがおさまるまで待ったが、再び試みるのも気が進まなかった。
……だが、そのままにしていても、何も進みはしない。そう決心して、ようや
く剣を拾い上げるまでにまた少しかかった。
 ──ふたたび口訣、洞内の気の渦巻き、眉間のちりちりとした感触。駆け巡
った法力が今度は刀身に収斂し、アランが呪(しゅ)を結んで気合を開放すると、
稲妻のような無色無形の閃きが剣尖に奔った。破り千切れるような甲高い破裂
音がくぐもって響き、雷の直後のような生臭い匂い(註:オゾン臭)がわずか
に嗅覚をかすめた。
 法術の電光を浴びた泥土と、そこに生息するカビの塊は、炎を発するまでも
なくじりじりと焦げて消失していった。斑紋を熱が舐め、炙られた菌糸と胞子
が逆巻くが、舞い上がるより前に焼失してゆく。アランはその間、剣をまっす
ぐ突き出したままで、霊力の流れる感触と電光、次第に焼けてゆくカビをじっ
と観察していた。
 数呼吸の間放射するだけで十二分だった。……もっと大きな重い対象を焼き
焦がすには、実際にそうした対象との抗争に使ってみないことにはわからない
だろう。仮に次があればの話だが、それを気に留めていようと、アランは考え
た。──『蛮子』のあらかじめの話から、呪文ひとつの発動の結果からも、見
えてくるものが膨大にあることに気づいていた。
 アランはカビの斑紋や菌糸が残っていないことを恐る恐る確認しつつ、先に
進んだ。泥に半ば埋まっている魔法のビンを拾った。……万事がこんな調子な
らば、とうてい楽とは言えないにせよ、なんとか進んではゆけるのだろうか?
 見てもなにもわからないと知りつつ、無意識にそのビンを眺めようと持ち上
げた──入ってきたのと反対側の出口に、何か動くものの影を複数認めたのは
そのときだった。



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