Netherspectra III - 50 ft
深淵夢幻 50ft






 3

 脇道へと入っていくらも歩かないうちに、目の前一杯には周囲の木々に比べ
て不気味に草木の枯れ果てた、ごつごつした丘がそびえ立っていた。苔むした
巨岩の数々からなる丘には、しかし近づくものをその奥へと飲み込んでゆくよ
うに深々とした裂け目が開いている。”辺境の地”の枝道は、実のところまっ
すぐにその裂け目の中へと伸びてゆく道がその道程のほとんどを占め、その遥
かな奥は暗闇へと続いていた。
 「この先の階段ていうか、下向きに降りていく道を進んでいくと、洞穴の水
平の空間ばかりのところ、最初の階層に出るの。暗いところに住む生き物が集
めたガラクタの中に、杖とか巻物とか水薬とか、魔法の品物があるから、それ
を目一杯集めるの」
 「でも、……そういう暗いところに住む生き物も、そこにいるってことだよ
ね……」アランは言った。
 「勿論、群れとか、自分より見るからに大きい生き物とか、危なそうなら、
さっさと避けるのが原則」蛮子は思い出すように、首をかしげて言った。「で
も、戦士系──じゃなかった、戦闘訓練を受けてるなら、そんなに危なくなら
ないんじゃないかな。装備が足らなくても、剣が振れるぎりぎりの腕力でも。
遠くまで歩き回って探しても大丈夫。要塞とかじゃなくて、自然の生き物が掘
り抜いた穴だから、ばらまかれた不自然に危ない生き物やバルト(宝物庫)なん
かもないしね。……ただ、最初の層からさらに真下に伸びてる階段があっても、
まだ絶対に降りちゃ駄目。これだけ気をつければ、最初の階層なら大丈夫」
 アランは小さく頷くと、しばらくして意を決したように、裂け目の奥、洞穴
の入り口に向けて進んでいった。
 ……が、不意に気づいて、立ち止まり、振り返った。
 蛮子は話が途切れた時の位置から動かずに立っていて、距離が開いている。
洞穴に入ってゆくアランの背を単に見送っていたように。
 アランはしばらく呆気にとられたように押し黙ってから、おそるおそる言っ
た。「来ないの……?」
 「ん。じかに手を貸せるってわけじゃないし」蛮子はそのアランに平然とし
た態度のまま、そのアランの前に、自分の半透明の手をかざして言った。「だ
から、一緒には潜らない。マーリンの野暮用で他にやることもあるし。……あ
とは、アランが自分でどれだけやるか、だけ」
 「どうせ今そう決めたんやろ……このあたりの行程は見てるのも面倒だから
って」レプが蛮子にだけ聞こえるようささやいた。
 「上ってきてひと段落ついた時に、また声をかけるよ」蛮子はレプを無視し
て言った。「ときどき、さっき戦傷兵士から逃げてた時みたいに、遠くから頭
に直接、声だけかけるかもしれないけどね」
 アランは意外な成り行きに、また少し呆然としたが、
 「待って」慌てて、引き止めるように蛮子に声をかけた。「本当に……ぼく
が……このまま一人で進んで、ここで生き延びられるの?」
 意味がない質問、答えようがない質問とわかりつつも、暗い入り口を目にし
て、アランは思わず問わずにはいられなかった。
 おそらくこのあとの進み方など、また、地下に潜るため、その後も生き残る
ための秘訣など、あとは、生き延びてゆくうちに掴みとってゆく他にないのか
もしれない。しかしアランは、それを納得しそんな漠然としたものを信じて死
地に飛び込むには幼すぎ、また、自分の非力を知りすぎていた。具体的な細か
い知識だけでなく、なんらかの指標、あるいはそれが気休めであっても、何か
の秘訣を求めていたのかもしれなかった。
 「いや、そう言われても、今教えた以上のことは……」
 蛮子は頭を抱えた。が、しばらくして思いついたように、
 「アランの元いた土地の──目標とする冒険者は、どうやって成功したって
言ってるの? それを頼りにすればいいんじゃないの?」
 そう言われてアランは、故郷で自称冒険者という人々や、剣技や法術の先輩
が、かつての『英雄』や『偉大な冒険者』に対して伝聞、もしくはそうしたも
のであったと主張する話を思い出そうとした。
 「……どんな強敵に出会っても、諦めずに立ち向かうとか……『魂を燃やし
て』勝つとか……そうやって強敵を倒して強くなっていくとか」
 が、それを聞いた蛮子は、にわかに素頓狂な表情になってアランを正視した。
 「それ……信じてるの?」
 アランは答えなかった。アランの故郷では、優秀な冒険者自体がすべて伝聞
や推測のみで語られる存在であり、そうした存在もその説話も、彼にとって実
感のある話にはほど遠かった。そして、それらが出来の悪いアラン自身にも可
能だという実感は、それ以上に沸かなかった。どちらの意味でもアランには”
遠い話”であり、頭から信じ込むほど憧れることもできず、かといって、聞い
た話を疑う根拠になるほどの自信もなかった。
 「いや、じゃあ、やっぱりそれは忘れた方がいいや」
 蛮子は振り払うように首を振ってから、アランを正視し、
 「いい……この次元世界では、勇気とか熱血とか魂とか、『燃え』とかを頼
りに、身に余る強敵に立ち向かっても、絶対に強くなれない。ていうか、そん
な生き方だと絶対に死ぬ。……ここでは、すべての分かれ目は、思い入れとか
気持ちじゃなくて、どれだけの手段をどれだけ適切な時に使えるか、ただそれ
だけで決まるの」
 「じゃあ、どうすればいいの……」アランは小さく言った。「その適切な使
い方……使う時を……身につけるには、何が必要なの?」
 「それは”知る”こと」
 蛮子の半透明の幽体の瞳が、不思議と底光りするようにアランを正視した。
 「迷宮の雰囲気だとか、空気や土の動きとか、周りの生き物がどう動くのか
とか、目に入る範囲のものなら、どんなことにも気をくばるの。生き物の細か
い動きや、呪文や物品の周りに及ぼす影響、何もかも、ひとつひとつを見てお
くの。──この世界で歩いていくほど、この次元世界が”どんな所”なのか、
知れば知るほど力になっていく」
 アランは息を呑み、剣の柄を握り締めた。
 「……で、知ったことと、それにあわせて無意識に勘が働くように、体が動
くようになることが、この次元世界で本当に”生き延びる力がつく”って言え
ることなんじゃないかな……」
 「知ること……そのためには、見ること……」
 アランは呟いた。
 「でも……もし、見てもわからなかったら、どうなるの? 例えば、相手を
見ても、避けたり、除けたりする方法が……もし、見つからなかったら?」
 「殺されるだけ」蛮子はあっさりと答えた。「相手を”見ることができなけ
れば”、その相手がただのイモムシでも、土ヘビでもね」


 蛮子の姿が霊気の車輪の渦と共に消失してからも、アランはしばらくの間、
呆然と立ち尽くしていた。
 さきの通り、アランが故郷で聞いた剣や術の優秀な人々の言葉や、成功した
冒険の話は、彼にとっては夢物語のようなものだった。いくら聞いても靄の中
にあるような、漠然とした話だった。対して今、蛮子から聞いたのは、彼にと
ってはじめての具体的な旅の原理であり、指標であるのかもしれなかった。し
かしながら、それは実に直截的かつ身も蓋もないもので、……結局、それはア
ランには、何の気休めにもならなかった。ただ、良かれ悪しかれ──これから
ただ一人で歩み入ることになる深淵の、重さと深さを、その身に実感させるの
みだった。
 アランはしばらく立ち尽くしながら、やがて身体の芯から湧き上がってくる
ような寒さ──心寒さに、肩を掴んで身震いした。しかし、ぐいと唇を噛み、
振り返ると、洞穴へと続く谷の裂け目の中へと踏み出していった。
 思い出したように剣を抜いてから、しばらく進み、岩が組み合った頭上が閉
ざされたように、日の光が届かなくなってきたあたりで、さきほど買った真鍮
のランタンに火を入れた。苔むした岩だらけの自然の洞窟は、曲がりくねりつ
つ、不ぞろいの階段のように、次第に段をなして地下深くへと進んだ。
 やがて唐突に、──あまりにも唐突に、先を照らすランタンの光は壁にぶつ
からず、闇へと吸い込まれた。降りの道が途切れ、広い空間、水平に広がる洞
窟へと開けていた。
 アランはぽつりと立ち尽くしたまま、手のランタンで、辺りを探るでもなく
ただかざすように高く掲げ続けていた。日の通らず湿った地下にわだかまった
冷気、それも全く停滞しているのではなく、何処からか何処へともなく細く漂
うような気流が、アランの髪を揺らし、不快に首筋に這いこむように断続的に
流れつつ、黴臭さと、形容しがたい汚れ朽ちたような臭いを伝えてくる。
 真鍮のランタンの光は、現世(うつしよ)の確かな物質の暖かさをつねに発し
てくれるものでもあったが、それが暗く冷たい大気と、苔と蔦に覆われ湿った
岩の重なる地面や側壁を照らし出すと、その光ですらも冷たく寂しいものにし
か感じられないのだった。



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