Netherspectra I - 50 ft
深淵夢幻 50ft






 1

 その”辺境の地”の門に一歩踏み込んで、アランはしばらく立ち止まった。
この郷の印象という以前に、少年の目には、目に映る何もかもが見慣れぬもの
で、あらゆる風景が彼の目を見張らせるに充分なものだった。
 未知の土地での修行を志し、故郷を旅立ったアランは、盲目の船長の指揮す
る黒い巨大な船に乗りあわせて、長い船旅を運ばれてきた。昼夜も判然としな
い霧の中を、幾日とも知れず進むことも何度もあった。その末に船が辿り着い
たこの地は、おそらく、故郷を遥かに遠く──どれほど遠いのかアランが想像
したこともないほどに、遠く離れた地に違いなかった。ともあれ、まだその船
から上陸して間もない。
 アランはその場に突っ立ったまま、幼さの残る細く小さな身体に余る冒険者
の装備──背負い袋の負う位置をずらし、佩き慣れない剣、長さをもて余して
ほとんど腰というより小脇に帯びる形に吊ってしまっている剣帯を、落ちつか
なげに動かした。……この地からアランの旅がはじまるのだ。しかし、まず何
をどう始めればよいのかが、わからなかった。どう始めるか、それを知るにも
どうすればよいのだろう……。上陸前に船長が、簡単にこの地について話して
くれ、「助力綴じ(ヘルプファイル)」と表紙に殴り書かれた紙の束もくれた。
しかし、話の内容も、何度か読み返した綴じ紙の内容も、アランのそれまでの
理解力では、あまり頭に入らなかった。アランは、背負い袋をおろして(道の
真ん中にも関わらず)またその綴じ紙を引っ張り出そうか迷った。
 「いよいよだね」が、隣に同じくらいの背格好の、ローブをまとった少年が
進み出ていた。アランの方の当惑とは異なり、その目は傍からわかるほど期待
に輝いている。確か、一緒の船に乗っていた、年恰好も目的も似た少年で、こ
ちらは魔法使いの修行をするためと言っていた。おそらく、知的好奇心も旺盛
なのだろう……。アランは無言で何となく羨ましげに彼を見上げた。
 「お腹もすいたし、僕はまず宿屋を探してみるよ」隣の魔法使いの少年は言
いながら、すでに歩き始めていた。「それじゃ、頑張ろうね。その宿でまた会
えるかもしれないし」
 アランは頷いた。……これも船長に聞いた話ではあるが、この地の各所に広
がる巨大な迷宮や城砦は、いずれもあまりにも広大なものであり、たとえ同じ
迷宮を探索していても、冒険者が互いにその中で出会ったり、行動をともにで
きることは、ほぼ絶対にない。冒険者同士ができることは、地上の宿屋でたま
たま顔が会った時に、互いに噂話を交わす程度のことだけだ。
 旅をはじめる者は、自分で歩き始める他にないということなのか。魔法使い
の少年が手を振って別れを告げたのを見て、アランはあてもないながらも、歩
き出そうと背を向けた。そのときだった。


 不意に、鈍い音が響いた。二度続けて響いたそれは、アランがこれまで聞い
たことがないながらも、非常に胸の悪くなる類のもので、嫌な予感に襲われな
がらも、反射的に振り向かずにはいられなかった。
 土ぼこりの溜まった本通りの上に、ぼろきれのように魔法使いのローブが倒
れ伏していた。魔法使いの少年は、アランから離れてまだ数歩も歩いていなか
ったようだった。その俯いた頭のあたりから広がる血溜りが、いまも道の上に
大きく広がりつつあった。
 「リック……」アランはかすれた声でその少年の名を呟いてから、思わず叫
んだ。「リック!」
 答えはなかった。つい今しがたまで言葉をかわしていた魔法使いの少年は、
いまや血の池の中で動かなくなっていた。……アランと同じ船で同じ目的でや
ってきた、最初で最後の冒険者はこうして死んだ。以後アランは、明確に自分
と同じ目的でこの地を旅しているとわかる生きた冒険者には、この次元世界で
は二度と出会うことはなかった。
 不意に、アランはその倒れたローブのそばに、血刀をさげたかなり大きい人
影が立っているのに気づいた。それは、ひどく薄汚れた姿で、通りのあちこち
にうずくまるようにそうした姿があることには、すでにアランは気づいていた
のだが、風景に溶け込んでいるようなそれらの姿を、無意識のうちに目で流し
ており、それまで気に掛けていなかったのだ。……なけなしの金品を奪うため
に、見境なしに人命を奪うほど落ちぶれた兵士か戦士か。そこまではアランは
考えたものの、──白昼堂々とそれが行われるような、自分はそんな土地に来
てしまったのか。何より目の前で起こったあまりに唐突な死に対して、実感を
憶える暇もなかった。
 が、血刀をさげた戦士は、そのままアランの方に近づいてきた。鶏を何羽も
続けて締める時に取り替えるかのように、躊躇いも滞りもなかった。
 近づいてくるその者の姿に、アランは文字通り震え上がった。顔中が傷だら
けで、黒ずんでいるのは傷でそう見えるのか日焼けのせいなのかわからない。
傷と汚れに覆われた鎧を着ているが、部品がかなり欠けており、そこから見え
る部分の肌はびっしりと傷跡に覆われている。手足の挙動がどこか突っ張った
ように不自然で、それは見かけよりもっと深い傷も受けているためかもしれな
かったが、アランにはそれを感じる余裕はなく、その動きが逆に人間離れした
怪物じみて恐ろしげなものに見えた。これらの傷か何かの都合で、まとまった
仕事ができなくなった傭兵の類に違いないが、アランから見れば遥かに脅威だ
った。貧弱な少年のアランよりも、はるかに体は大きく体格もすぐれ、また、
まだ剣しか持たないアランに比べれば、みすぼらしく見えても山のような重武
装である。そして何よりその動きから──故郷での、剣の数年先輩の名手(エ
キスパート)のように、武器が軽々と手に慣れているのがわかった。
 無意識にあとずさろうとしたとき、……同じように薄汚れた、そして体格も
武装もちょうど似たような戦傷兵士がもう一人、別の薄暗がりから歩みだし、
近づきつつあるのが見えた。
 その瞬間、思考力がほとんどなくなっているアランを助けたのは、結局のと
ころ”本能”じみたもので、それらの状況を感じた身体は意思を離れて勝手に
動き──その場から全速力で、郷を囲む柵に沿って逃げ出していた。
 不自然な帯び方をした剣が脇に当たって邪魔をしたが、直している余裕など
感じる暇はなかった。甲高い、恐ろしい悲鳴のようにも思える、鎧の擦れる音
が背後に聞こえ、アランは戦士らの追撃を感じて死を覚悟したかのようにひた
すら駆けた。
 が、駆け続けるうち、やがて背後のその音が遠ざかってゆくのがわかった。
やはり、あの戦士らはすでに傷ついているか弱っているかで、足が速くはない
らしい。だが油断すれば、あるいは道を誤れば、すぐに追い詰められるのでは
ないのか? アランはこの村の地理など何も知りはしないのだ。何か策でも設
けられれば、抵抗の余地などない。アランは焦燥とせまる絶望に、さらに駆り
立てられるように走り続けた。


 と、そのとき、頭の奥に不意に閃き飛び込んできたものがあった。
 ”本通りに向かっちゃだめだよ”それは、呼びかけの言葉のように感じられ
るものだった。”このまま北へ進んで、廃屋の影に回りこめばいいよ”
 どこか見えない所から本当にかけられた肉声か、あるいは空耳だと思うのが
当然のところだった。だが、アランには、そうでないという確信があった。頭
の中心に響いてきたことが、自分でつぶさに判ったのだ。頭が痺れるようなイ
メージとともに何かが飛び込み、そして頭の中から外に向かって、耳に届く音
と同じように声となって響いた。女の声に思えた。
 何が起こっているのか。しかしどのみちアランにはそれを考える材料などな
い。それより逃亡の現状をどうするか。声の通りに進むか? そんな声に従う
というのは突飛に思える。それこそ罠かもしれない。だが、仮に従わないとし
て、他にあてにするようなものが──アランの自分自身を含めて──何かある
とでもいうのか?
 アランは声に従い、脇道に目をくれずに柵に沿って北に走った。柵が北の端
についたのか、道が西に折れるあたりになって、確かに大きな廃屋があった。
中にも外にも人気がまったくなかった。その建物の影に隠れるように北に回り
込み、足を止めてしばらく息を整えた。他の物音も聞こえず、人が来る気配も
ない。追っ手もいるとすればその手のものも来ない。あの声の言うことは、今
のところは本当らしい。
 「よう逃げたなぁ」突如、くぐもったような、柔らかい妙な声が聞こえた。
 「逃げあるのみだからね、この世界……」もうひとつ別の声が聞こえた。そ
れは、先に頭の中に聞こえてきたのと同じ声に思えた。ただし、今度は肉声だ
った。
 アランは見回すのもおかしいと思いながら、その場で見えない相手に対して
発した。「誰なの?」
 不意に、目の前に風が巻き起こった。それが大気による風ではないと即座に
気付いたのは、アランがわずかに法術の心得があったためで、現世(うつしよ)
の裏に充満する霊子(エーテル)に揺らぎが起こり、”霊気の車輪”のようなそ
の逆巻く渦の中に小柄な人影が見えた。やがて渦が収まり、中の人物だけが残
ったが、それでも全身が霊体のように何となく靄がかったままで、特に足元に
は霊子の渦が巻き起こり続け、ぼやけてよく見えない。
 アランは面食らってその場に立ち尽くした。亡霊か、不死(アンデッド)か?
自分が憶えた破邪の法術には、亡者を避けるものがあることを思い出したが、
無論、アランには具体的なその術など使えなかった。しかしどちらにせよ、裏
通りとはいえ陽の照りつける真昼間であるし、亡者や生霊としては登場の仕方
が派手すぎる。
 その人物はちょうどアランと同じくらいの年恰好の少女の姿で、軽剣士のよ
うな仕立ての服に、赤い外套と、赤い羽根つきの帽子をかぶっている。髪は黒
と言えるほど濃い青で、同じ色の瞳は戯画的といえるほど大きく、手足は奇妙
に現実感のないかぼそさで、その点も彼女が本当に実体の存在なのだろうかと
疑わせた。……そして、その肩には、これも靄がかった、小さな毛玉のような
生き物を乗せていた。もうひとつのくぐもった声は、この生き物が出していた
と言われれば、いかにもそんなようにも見える。
 「蛮子(バンシィ)」靄がかった少女は、アランの最初の質問に答えた。肩の
生き物を指差し、「こっちは、レプ」
 「ぼくはアラン……」アランは思わずつぶやくように名乗るだけ名乗ったが、
その後どう続けようもなかった。何が起こっているのか、何を聞けばいいのか、
さっぱりわからない。
 「私、魔法使マーリンの使いなんだけど」それを見透かしたように、蛮子が
話し始めた。「大きな世界の仕掛け……っと、ここみたいな迷宮の仕組みにか
かわる"魔法使(ウィザード)"の仕事っていうのは、力がある冒険者とかの働き
具合を、色々と頼りにするもんなのね。だから、マーリンにしてみれば、迷宮
の深くまで冒険者には潜ってきてほしいわけ。……でも、深くまで来る冒険者
があまりにも少ないわけ」
 確かに、この地にたどり着いた冒険者があの魔法使いの少年リックのような
死に方をするならば、旅を続けられるものはほとんど居るまい。
 「で、冒険者にいろいろ教えさせるために、私達をよこしたわけ……」
 「……教えてくれるの? ここや、冒険について」
 「こっちにもいろいろ都合があるから、手取り足取りってわけにもいかない
けどね。なんでもわかるってわけでもないし。でも、”潜り方”は教えられる
し、離れててもさっきみたいにときどき口を出せると思う。……わかった?」
 アランは頷いた。……実のところは、当惑したままだった。突如現れて、自
分がまさに求めている援助を申し出られても、信頼できるか否かといった問題
以前に、どういうことか実感がわかない。だが、助言のおかげでさきの戦士ら
から逃れられたわけではあるし、話だけ聞いておいて悪いものとは思えない。
それ以上に、何も知らないことが、アランには何よりも不安だった。
 「よし」蛮子はなにやら大仰な仕草で腕を組み、「で、何を教えるかには、
こっちもアランのことを知らなくちゃならないんだけど……遣えるのは剣?」
 アランは持て余しながら佩いているような剣の柄頭を握って、小さく頷いた。
とはいえ実のところは、習いはしたが、故郷でもとても『遣える』などという
出来ではなかった。「……あと、法術も少し習ったけど」
 「術ねえ。あの大きな船の船長が、松明と食料とあと、今まで身に着けてき
た術の類をこの土地で使えるように、この土地の霊気とかの条件を書いた本、
『魔法書』をくれたと思うけど」
 アランは背負い袋を下ろし、いそいそと探って、素朴な聖文が書かれた真っ
白い表紙の本を探し当てた。
 蛮子は一瞬だけ目をしばたくような仕草をしてから、さも心得たようにゆっ
くりと頷いた。「で、……鎧はまだ持ってないのね」
 それから蛮子はその得心したような表情のまま、アランの周りを見て回るよ
うに周囲を歩いた。……そんなふりをして、巧みにアランの背後に数歩を離れ
ると、肩の生き物にささやいた。
 「……あのね、レプちゃん」
 「何や」
 「なんか……」蛮子は恐々とした表情で、アランを盗み見てから、レプに目
を戻した。「ひょっとして私達、……ものすごい地雷を踏んだんじゃないかっ
て気がするんだけど」
 「……始まる前から何言っとんねや」
 「だって、『ふつうの人間パラディン』だよ」蛮子はまるで口にするのを恐
れるように口走った。「要するに、”勇者”系キャラって奴。それでいて実は
勝利に限りなく遠い組み合わせの。……いろいろ教えて深層にたどり着かせる
にしても、限りなく難儀な予感が激しく……」
 「限りなくゆうて、魔法戦士とか練気術師とか、イメージ重視とかほざいて
素エルフ暗黒ハイとかより遥かにマシやろが」
 「ホントに”ただマシなだけ”じゃないの。……それに『アラン』て、いか
にもツクール系とかに安直につけられた横文字名前として山ほどありふれてそ
うだし、いわゆる勇者系の勘違い作成キャラのような気が激しく……」
 「考えすぎやろ」レプがにべもなく口を挟んだ。
 「いや、……でも、本気でかなりまずくない? 体つきとか顔つきも、あの
年齢にしても男か女かわかんないような感じだし。ここの次元世界には萌えキ
ャラ特権なんてありゃしないんだから、あんなんだと超低肉体能力以外の何に
もならないし」蛮子は呻くように言った。「しかも、その中でもよりにもよっ
ていかにもそっちの系統の趣味を狙った感じの、例えて言えば閑丸とかエミリ
オとか塔アキとかコタローとかドリィとか秋巳……」
 「見かけなんぞ選り好みできる立場か」レプが遮った。「……なぁ、ワシら
だって、どうやって教えていけばいいのか、これから手探りしなくちゃならん
状態なんやで。仮に、屈強でいかにも望みある冒険者に当たったかて、ワシら
の方がそれをうまく深層まで連れてける保障なんてあらへん」
 「むー」蛮子は呻いた。「こっちも手探りだからこそ、進む望みのある冒険
者を引きたいって気がするじゃない……」
 「せやかて、延々と選り好みしとったら、いつまでたっても前に進まんやな
いか。帰ってマーリンに『貧弱なショタ系しかいなかったから見捨ててきた』
とでも言う気か?」
 蛮子はがっくりと肩を落とした。……しばらくして、声をひそめてアランを
盗み見、「てか、関係ない真面目な話だけど、……ほんとに男なのかな」
 「そんなにそればっか気になるなら、”股間むぎゅう”でもしてみろ」
 蛮子はおそるおそるアランを振り返った。少年のさらさらした短い髪と細い
首筋、少女とも見まがう幼い容貌から、繊細な身体つきをなぞって下半身まで
を目で追った。
 ゴラム。蛮子の喉が何とも形容しがたい不気味な音を発した。
 「……やめろ。ほんとにやるな。てか、落ち着け」レプがうめいた。
 「最初はどうすればいいの?」アランが歩み寄ってきて尋ねた。
 蛮子はぎくりとして一歩後じさった。その蛮子のかわりに答えるように、肩
のレプが声を発した。「とりあえず、家……は、まだ確保してもしょうがない
し、どこか別の落ち着いて話せる所を探した方がよさそうやな」



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