煉獄の落墜者






 3

 "冥王"の軍団との戦いに備える陣営として、"東の山脈"から来た古(ハイ
ラー)ドワーフらが構えている場所は、さほどの標高というわけではないもの
の、かなり険しい岩場の谷の狭間にあった。その低地には濃厚に霧が立ち込め
ており、朝に出かけた一行が陣営に近づいた頃にはかなり陽が昇っているはず
であるにも関わらず、一帯は薄暗かった。
 「ニーベルング(註:霧の一族の意)なんて氏族の名は聞いたことがあるで
しょう」姉は、その点に疑問を発した青年剣士を振り返って答えた。「ずっと
血筋も技も退化した、そういう"小ドワーフ"の氏族でさえも、霧に潜り込むく
らいのことは造作もないのよ。まして、古ドワーフならね──」
 青年剣士は半ばおそるおそる霧の中を歩いた。先頭を、黒い頑丈な水松樹
(いちい)の杖をついた老人と、先の尖った帽子の姉が歩いていた。しかし、い
つもならば目や勘がきくので先行する妹が、今は寒さに対してなのか、青年の
傍らに身を寄せるようにすぐ後ろを歩き、外套の頭巾を目深におろしている。
 青年剣士は霧を見回すように視線を上げた──おそらく、外部からこの一帯
を攻めることは、どんな大軍団にも不可能であろうことがわかってきた。なら
ば『攻撃呪文』ならどうだ──自分のかつて”活躍”してきた地で見たことが
ある、森のひとつやふたつ丸ごと吹き飛ばすような、だがそこに何の不思議も
内包しない手段で、この霧の怪異と不可思議に包まれた空間そのものに影響を
与えることができるとは、とても思えなかった。
 ……やがて、青年剣士には聞き取れないほど低い声で老人とやりとりする、
頭巾をすっぽりとかぶった小さなドワーフが、ときどき現れては案内し、しば
らく奥へと進んだ。もっとも霧が深すぎ、たどりついたのがどういう場所なの
かは皆目わからなかった。
 案内された少し開けた場所で、一行の前に現れたのは、非常に古びて色の褪
せたような分厚い布の法衣を頭からかぶったドワーフだった。法衣には角ばっ
た文字のような模様が、襟や袖に縫い取られ、一見するとかなり簡素に見える
が余程の技による造りとわかる。その法衣から出ているのは白い鬚のみで、両
手足は終始見えることはなかったが、ただ、右の肘から先にあるあたりが、何
かごつごつと法衣の姿の輪郭を歪めているのがわかった。下に鎧か何かを着て
いるのかと青年剣士は思ったが、鎧の形状としては何か相当に不自然な線で、
しかも、右手だけに着けているのもそれ以上に不自然である。
 「"小さき青"よ」その『呪の司』は老人に向けて言った。「このような場所
にも、立ち寄ってくだすったのは嬉しく思いますよ」
 低い声ながらも上品で柔和な発声は、姉妹の姉の方の喋り方に酷似しており、
すなわち、灰色エルフ語の発声法で共通語を発音しているため、共通語本来の
語彙や文法に不相応なほどに、きわめて流麗である。
 ──青年剣士は、ドワーフというものに対して確固たる映像を想定していた
わけではないが、いざ想像しろといわれれば、できたのは豪快であるか、ある
いは岩のように押し黙った鎧の戦士、それくらいのものだろう。この『呪の
司』の姿と声、そしておそらく、この地の周辺一帯の霧に包まれた幻妖な大気
のすべてが、この術士を中心に包み込んでいるものなのだ。ドワーフというも
のに対して、というより、もはやドワーフであれそうでなかれ、青年剣士の想
定する範囲、感覚を超えていた。
 「はたして、喜ばれている通りでよいものかな」老人が顎を撫でながら言っ
た。「わしのいとこ連中が皆ほとんどそんなふうに思われているように、今回
も、ただ面倒な話をしにきただけかもしれんぞ」
 これだけでは、これまでに老人と『呪の司』が、互いに又聞きで名を聞いた
ことがある程度なのか、それとも既にそれ以上の知り合いなのかは、判断がつ
かなかった。そのため話の行く先の予想がつかず、青年剣士と姉は神妙な表情
で押し黙って、両者の様子を伺った。
 「ここ最近、ひとりの人間への復讐のために、氏族をあげているという話だ
がな」老人が言った。
 姉がぎょっとして老人を見上げた。他に予想できる話題がなかったとはいえ、
まさにこの問題を、しかもそれほど単刀直入だとは思わなかったのは、青年剣
士も同様だった。
 「しかも、明らかに故意に、緩慢に時間をかけて責め上げておる」老人は言
った。「そのやり方は別に、主義通りであろうし、その人間にも応報のものだ
ろう。……だが、わしがどうも不安なのは、そちらの氏族がよりによって今、
それをやっていることなのだ。多大な戦力と労力の浪費にしか思えんのでな」
 「これは、我らの問題なのですよ、"小さき青"よ」『呪の司』は柔和に言っ
た。「ことに、貴方のような深淵に眼が届く方にとっては、不安の種は事欠か
ないのでしょうが──不安についても、我らに任せて貰うことです」
 「平時ならそうだろうが、今はこちらの問題でもあるのだ」老人が相変わら
ず平然と言った。「他のご時世ならともかく、今は自由の民の全てが、"冥王"
や原初の"王族"とことを構えているのだ。一氏族の浪費はそれだけ、誰もが少
しでも欲しい"冥王"に抗う力の消耗でもある。誰にとっても、どんな些細なも
のでも、他人ごと、他者の問題などとは言えんのだよ」
 「我らに関して言えば、"冥王"と争うのは、生きるためです。戦も、他の民
との共同も、何もかも、我らの生き方を守るためなのですよ。それを捨てるの
は、"冥王"に抗う理由も捨てることです」『呪の司』は和やかに説いた。「も
っとも、そちらに構っていられないような戦況が急に生じれば、もう少し内壁
の衛士(ドワーブン・ディフェンダー)を向かわせて、締めてしまいますが」
 「それこそ、労力と戦力の無駄ではないか。かれらにも持ち場があるのだろ
う? そんなくだらぬことをさせるために、誇り高いドワーフの衛士らをこの
土地に連れてきているのではあるまい?」
 「名誉の代償は、労力や戦力との秤になどかけられませんよ。──無駄や浪
費、まして”くだらぬこと”などとは、言わせたままにはおけますまい」
 『呪の司』の言葉は終始、灰色エルフ語に近い、旋律を歌うような温和な口
調が続いていた。が、妹が、青年剣士の毛皮のクロークの裾を強く握るのがわ
かった。青年がふと気づくと、妹の目は、ドワーフの法衣の右手のあるあたり
を食い入るように見つめている。『呪の司』と、いや、その右手との間を遮る
ものを求めるように、青年のうしろに寄り添っているように思える。何かに気
づいている──いや、青年にも気づいた。あの右手に、何か……
 巨大な岩戸が開閉するかのような、重々しい、岩がこすれるような音が聞こ
えているような気がする。それは周囲の岩場のどれかから聞こえてくるのだと
漠然と思っていたが、よく考えてみれば、そんな心当たりはない。それは──
あの右手から発しているのではないか。……霧がやけに濃くなり、青年剣士の
毛皮のクロークの下でも肌寒くなっている気がする。いや、クロークの下を、
冷たい不気味な汗が流れ落ちているためだ。
 この場に来るのではなかった。青年剣士はこの妹の手を引いて、この場から
駆け出したい衝動にかられた。昨日は確かに人の命を助けたいと思っていた、
助けるためにここにいるのだ、という動機はいまだに脳裏にこだましていたが、
この場全体から押し包むように迫ってくる、純粋な恐怖をとどめる役には立た
なかった。人の意思などでは、どうしようもないこともあるのだ。



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