煉獄の落墜者






 2

 「なあ……」青年剣士は、階上の宿屋の部屋に戻ると、誰にともなく問いか
けた。「……あの魔道士、見殺しにするのか?」
 共に部屋に戻っていたのは小さな姉妹だったが、実際のところ、おのずと姉
の方への問いかけになっていた。
 「『助けが必要』だってことを他人に訴えようとしてさえ、実感させること
もできない者に、見殺しも何もないわよ。さっきののどこに同情の余地がある
の?」姉は脱いだ濃紺の外套に続いて、同じ色の短衣から伸びる素足も寝床に
放り出すようにして腰掛けると、突っ立ったままの青年剣士の方を見もせずに、
「あんたには、その余地があるように見えたっていうんなら──あんたが自分
で助ければ? ……自分ひとりでこの土地を歩けもしないのに、"他人"をなん
とかできるなんて、いまだに自惚れてるならの話だけれどね」
 姉は長い髪を梳くようにまとめつつ言った。”解答”を自分の方に求めてい
るという、青年剣士の態度そのものが、いかにも鬱陶しげである。
 青年剣士は装具を解きもせず、ただ部屋の中央の食卓の席に掛け、しばらく
押し黙っていたが、やがて口を開いた。
 「……俺たちでなくとも、なんとか、力がある、その……上(かみ)のエルフ
の武将とかが、あの魔道士を助けてやる気になれば……」
 「あんたが『いまだにこの土地を歩けもしない』理由は、力のあるなしじゃ
なくて、それだって言ってるのよ」姉はいらいらと言った。「あんたも、あの
同類とまるで同じじゃない。どうしてあんな状態になったのか、それどころか
本当の意味でどんな状態に置かれてるのか、いまだにわかってないのよ」
 姉妹の妹の方は、卓の青年剣士の向かいの席にかけていたが、その姉の声色
に、やはり不安げに姉と青年を見比べた。
 「もし、あんた自身に上のエルフの武将くらいの力があれば、それっぽちの
動機で出ていって、ドワーフたちの主義道義を全部力でねじふせて蹴散らせば
いいとでも思ってるんでしょう? それほどの力があれば、それを全部やった
としても損害どころか、たいした手間さえかからないものね」姉は青年剣士を
嘲るように言った。「……でも言っておくけど、力にまかせて、避けられる禍
いを避けようとしなかったり、自分からわざわざ買わなくてもいい恨みをしょ
い込んだり、そういう事を平気で積み重ねていくような態度をこの土地で続け
れば、本当はたとえ上のエルフの一番偉大な王侯たちでさえ、間違いなく破滅
するのよ。あんたは、上古の上のエルフの"滅びの誓言の物語"なんて、聞いた
こともないでしょうけどね」
 姉はそこまで言ってから、無理に話題を投げ出そうとでもするように、どさ
りと身を倒して枕によりかかった。「……とにかく、もうどのみち誰にも解決
しようがないのよ。まして、私達なんかにはね」
 青年剣士は卓の上に腕をつき、そのまま途方に暮れたように沈黙した。
 向かいに掛けた妹の方は、じっとそんな青年を見つめていたが、やがて、卓
の上に身を乗り出し、青年を覗き込むようにした。
 「あの……」妹は小首をかしげるようにしながら、青年剣士に尋ねた。「ど
うしても……あの人を、助けたいんですか?」
 「俺は……」青年剣士は、その妹に何か答えようとはしたが、うまく言葉に
まとめることができず、その後は何も声を出せないままに、単に何か少し口を
動かしただけだった。
 ……青年剣士自身、ものの半月前まで、姿勢や考え方、言動、ひいては台詞
回しや語彙すらも、あの女魔道士と寸分たりとも変わらないものだった(老人
や姉の目から見れば、今でもほとんど差はないように見えるかもしれないのだ
が)。過去に、自分が活躍してきた出身地での『超一流の腕利き』としての能
力、要素、意識、認識その他あらゆるすべてが、虚空の"冥王"と原初の"王族"
らの凄惨な戦場であるこの地、土地そのものに圧倒的な"重み"と"実存性"のあ
るこの地にやってくると、何の値も持たないこと、それに気づいてから、ほん
のわずかしか時間は経っていない。すべては青年剣士が、老人と二人姉妹と共
に旅をはじめて以後のことである。
 あの女魔道士には、現状では生き残れる要素はなく、そして、おそらく同情
の余地すらも見当たらないというのは、青年剣士自身も感じざるを得ないこと
だった。だが、それは今の時点での話で──自分のようにほんのわずかな期間
でも、生き延びることさえできれば、少なくとも自分くらいには、それに気づ
く程度の機会は、誰にでもあるのではないだろうか?
 かつての自分の姿を思い起こせば簡単には見下し見捨てられないという部分
と、それら機会へのかすかな望みが、ないまぜになったような感情だった。
個々ではどちらも大きな動機といえるものではないためもあって、青年剣士に
はうまく表現することができないものだった。
 青年剣士は、その漠然とした思いに沈みこんでしまったように、その妹を見
返すこともないまま、ただ茫然と卓の上に視線を置いていた。妹は、その青年
剣士の表情の移り変わりを、ただじっと見つめていたようだった。
 そのまま三者とも動かないまま、かなりの沈黙が流れた。
 ……やがて、妹は、そっと音もたてずに、姉がそっぽを向くようになげやり
に寝転んでいる寝床の方に向かった。
 「ねえ……」そのまま、シーツの上に両手を突いて身を乗り上げ、何か躊躇
いがちに、「お姉ちゃ……」
 「ああーっ」姉は握った両手を振り下ろすような謎の仕草と共に、灰色エル
フ語の間投詞のような発声の叫びを発した。
 「なんで、そこで私なのよ。私になにができるって言うのよ」姉は寝床から
上体を起こし、さっきと似たよくわからない仕草をまじえつつ、「一族がらみ
で復讐してくるドワーフに、他に何の対処ができるの? 説得する? いいか
もね、力ずくよりは。よりによって古(ハイラー)ドワーフが相手でなければ、
少しはいい思い付きかもしれないわよ。古ドワーフの、それこそ岩の山脈みた
いに古く重く頑丈に続いてる倫理やら主義やらを、翻させる、控えさせるなん
てこと──それこそ、ドワーフの全種族全氏族と一人で戦って根絶やしにする
より難しいことなんて、この地上にそれくらいしかないわよ!」
 ばたりと扉が開いた。濃紺の外套のたくましい人影が、6フィート半余りの
長身を戸口で窮屈げに折るかのように部屋に踏みこんできた。
 「うう、このところ数日、実に冷え込むわい」語り部の老人は肩を掴むよう
に身を震わせた。「一杯やらんとやってられん」
 老人は部屋の中央の食卓の席のひとつにどさりと腰をおろし、外套からそれ
らしい小瓶を引っ張り出すと、ちびりと一口飲んだ。その後から思い出したよ
うに、外套下の鞘ぐるみの湾刀(タルワール)を引っ張り出すように外して、卓
の脚に立てかけた。
 妹が、寝床から卓の方に戻ったが、その場に立ったまま、さっきまでの姉に
対するのと同じ表情で、老人を上目遣いで見つめた。今しがたの三人の話題を
持ち掛けたいが、何から言っていいのか途方に暮れているようだった。
 一方、老人はごそごそと外套を探ってから、温かく甘そうな菓子パンを、卓
の青年剣士と妹の前に、それぞれ幾つかづつ置いた。「宿の厨房で、瓶と一緒
にくれたぞ。バターと砂糖がたっぷりだ」
 それから、寝床に腰掛けている姉の方を向き、手を伸ばして、菓子パンのひ
とつを差し出すようにした。
 「私はいいわ。肌に悪いもの」姉はぶっきらぼうに言った。
 「まあ、好きにするがいい」老人は背を測るかのように、妹の短い髪の頭頂
をふわふわと撫でつつ、「今以上に、妹に発育が追い越されてもいいならな」
 姉はぎょっとして老人と妹を見比べた。
 そして直後、不意に、何かに気づいたように振り向くと、──青年剣士が、
姉の短衣ごしの体の線を思わず目で追ってしまっていたのと、視線が合った。
姉は、即座に青年を何か怒鳴りつけようと口を開いたように見えたが、それを
遮るように、老人が言った。
 「明朝、"東の山脈"の氏族の古ドワーフの陣営の方を訪ねてみよう」
 ──姉は怪訝げに、妹は不安げに、青年剣士はその中間の表情で、互いに顔
を見合わせてから、いちどきに老人を見た。
 「どうも、氏族の『呪の司』が、じかに陣営の方まで出向いて来ているとの
話なのだな」老人は菓子パンの端の、砂糖が多いあたりをちぎった。「そうい
うことなら、話したいことがある」
 姉と青年剣士は、聞きたいことが多々あるがにわかには何をどう尋ねてよい
かわからず、黙って老人を見た。
 「……おじいさん」やがて、その二人の間から、妹が老人にたずねた。「知
っている人なの……その人、『呪の司』って……」
 「バルログ殺しだ」老人は答えた。
 姉は、少しまばたきした後、その描いたような形のいい眉を吊り上げ、素っ
頓狂な声を上げた。「な……なんですって」
 青年剣士の知る限り、何かの形容表現に対する姉の反応としては滅多にない
もので、どうも余程のことであるらしい。
 「どのみち最初から、たとえ並大抵の上のエルフの武将でも、とても歯の立
つような相手ではなかったというわけだ」老人は言った。「……まあ、このご
時世、色々と気になることもあってな。少したずねてみよう」
 ふたたび青年と姉は顔を見合わせた。何を話すというのか、さきまでの問題
に対してどういう展開になるのか、予想がつかなかった。この老人に限って、
まさか事前の準備もなしに何か虫のよい結果を目論むでも、それ以前に、そん
なことをする義理もあるまい。



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