煉獄の行進
1
底知れない汚濁によどんだ湿気と冷気の奥底で、カイトが縛められ続けたまま、どれほどの時を経ているのかはまったく定かではなかった。岩壁に鋼鉄のくびきと鎖で縛められたカイトの混濁した意識は、その間じゅう悪夢と現(うつつ)の狭間をさまよっていたが、入れ替わりつつ彼の意識さいなみ続ける醜悪な生物たち、凶暴な怪物らは、それがたとえ現のものであるとしても、悪夢の中に現れるものとしか思えない者どもだった。
それらは、”オーク”や”オーガ”といった生き物ら、──カイトのような『高レベル』の冒険者にとっては「敵」どころか、もはや何の影響も印象もたらさない存在に成り果てている、とるに足らないはずの生き物ら──に違いないのだが、また同時にそれらは信じがたいことに、カイトのかつて見たことがないほどに強靭で凶悪な肉体を持っており、そのもたらす威圧は圧倒的で、とても堪えがたいものだった。しかし、いまや、それも含めて夢現(ゆめうつつ)とを判ずる思考力すらも失って、かなりの時が経っていた。
──意識の狭間に割り込んでくるかのように、足音が、カイトの耳に次第に近づいてきた。それは、影のように現れる獄吏の生き物らの足音とは異質の、はるかに重い鉄靴の音だった。
「起きろ。──喋れるか」
最初はその言葉すらも遠くに聞くことしかできず、カイトは意識を失っているも同然に、うなだれたまま微動たりもしなかった。
「喋れるかと聞いておるのだ!」尋問主は鋼の手甲に唸りを立てて、カイトの頬を張った。「喋れるなら答えんか! 口も舌も潰しておらんぞ。そこまで心身ともに腐れ落ちたか!?」
「しゃべれっ……しゃべれ……る」カイトは俯いたまま、頬の苦痛に、何かを吐きだすような音を何度か発してから、ようやく言葉を出したが、その自分の声も、発しようとする意識までも、何もかも遠くの夢のようだった。
尋問の主は、これまでそこかしこにうろついていた猛悪に戯画化された人型生物らに比べても、さらに並外れて屈強な食人鬼(オーガ)である。装具に鎖と板金が幾重にも積み上げられた、人間のふた周りほどの巨躯そのものが、鋼鉄の塊であるかの如くであり、さらにその重武装が信じられないほどに軽々と身をこなしているのが、そのままその体躯に秘められた猛威を示している。
「……先日”オークの洞窟”に現れた一団のうち、一体のみ、生かしたまま捕えさせたのが此奴にて」オーガの首領は、カイトの返事を待って背後を振り向き、荒々しい声色ながらも、寸分の訛りもない流暢な人間語──共通語でそう言った。「なんとか、要点を此奴の口から直にお聞かせできるかと、魔王陛下」
そのオーガの首領の道を開けた背後から、気配もなしに、かすかだが低く重く、鉄靴が石畳に落ちる音を踏みしめて現れた影があった。それは、手前のオーガに対して、辛うじて”人間の規模”の体格に見えたが、カイトにはとても信じがたいほど長身だった。他の拷問主らがまき散らしている殺気やら暴威の気配やらは一切ないが、ただ、重みだけが、その鉄靴の足取りを見ているだけでこの迷宮自体が身体にのしかかってくる錯覚を覚えるような、存在の重量だけがある。黒い外套と長衣の奥から、逆棘の目立つ黒鉄の脚甲と手甲のみが見えている。長衣の広い肩の上に乗った兜の中は、あまりにも陰が深いために中空となっているように見え、その兜の上には鋼鉄の”王冠”が頂かれていた。かれこそが”魔王(ウィッチ・キング)”、指輪の王に仕える幽鬼の首領であり、妖術師の王だった。
「壊したわけではないのか」魔王はカイトの方に目をやるように、その暗き面を向け、あたかもこの地下に淀む大気のように、冷たく重い声を発した。「逆に、精神をばらばらに壊してから部品をとりだした方が、手間が省けるのではないのか」
「それが、責めに耐えられそうなほどの精神の力も、どうももとより壊れるほど高度な知能を持っておらぬ様子にて」オーガがカイトに目をやり、答えた。「そんなやつを生かして用立てるために、土牢に繋ぐのみにとどめております。捕縛する際や、この土牢ではいささか手荒に扱われたかもしれませぬし、幽閉で衰弱しておるかもしれませぬが、拷問と呼べるような拷問などは何も行っておりませぬ。時間はかかるやも知れませぬが、如何せん、ただの尋問でも、たやすく魔王陛下のよしなにと」
「『魔王』……」
カイトはほとんど無意識の独り言のように、オーガの発した言葉を反復して呟いた。そして、次第に顔を上げ、魔王を見上げて、不意に喉から絶叫をしぼり出した。
「そうかっ、……こいつがっ、『魔族(まぞく)』のボスなんだなっ……!」
カイトを見下ろしたままの妖術師の王の中空の兜の奥から、冷たい風のような音が漏れた。カイトの言葉を面白がったのかわからないが、表情を表したことは確かだった。……その音を聞いた時に、カイトの全身が荒く断続的に痙攣した。その嘲りの気に乗って、指輪の幽鬼が本来まとい撒き散らす恐怖の冷気が、このときに一斉に押し寄せるようにカイトを襲ったのである。この時の声と冷気と恐怖を、カイトはこの後死ぬまで忘れることがなかった。
カイトは発作的な痙攣と共に、胴体を繰り返しねじまげ、体内のすべての臓腑が飛び出すほど嘔吐するかに見えたが、しかし体内にはもう何も残っておらず、内臓がきしんだような音と体躯のゆがみをあらわしただけだった。
カイトの身のあがきがしばらく続いてから、オーガは囚れ人の血に塗れた髪を鷲掴みにして、それを留めるようにし、命じた。「お前達がこの次元世界に来てから、ここに囚われる前のことを話せ」が、その後に、何やら苦々しげに付け加えた。「……見た通りのことを、そのまま言え」
カイトはしばらく空咳と、空の発声を繰り返してから、また独り言ともつかないような、ぶつぶつと断続的な声を出し始めた。
「オレたち……オレ達は……この洞窟に来て、オークを一掃しようと……オークなんて、技や攻撃呪文一発で終わるはずなのにっ……」が、次第に、恐怖を脳裏に蘇らせ、瞳を見開き、声は高く早口になった。カイトは、誰かに向かって必死で言い訳するように、「それで、ありったけ、最強技や最強攻撃呪文を連発したのに……奴らオークなのに、おかしい……倒せないんだ……それに、次から次へと……それで、みんな……オレ以外、みんな……」
「そんなことは我らの方がよく知っておるわ。その前だ」オーガはカイトの断続的な言葉を、さらに乱暴に遮った。「お前とその死んだ仲間らを、この”鉄獄”の次元世界に案内してきたのは、何者だ。どうやってやってきた」
「オレ達を……ここに連れてきた奴……」
カイトは弱々しく鸚鵡返しにしてから、はっと思い出したように、
「あいつはっ……」
「何だ」
「……魔族だっ!」カイトは金切り声で叫んだ。「あれは、魔族だっ! あんなこと、精神世界(アストラルサイド)を経由することなしに多人数を別の世界に転移させるなんて人間の魔力容量(キャパシティ)でできるわけがっ……」
その語尾はぐしゃっと潰れた。オーガの鋼の手甲がカイトの喉に叩きつけられていた。そのまま喉と顎、鳩尾とを立て続けに殴られ、カイトは嘔吐するような音を何度か発して、やがて、悪寒のように四肢を痙攣させながら、力を失った首をがくりと前に垂れた。
「またそれか! 大概にしろ!」そのうなだれた頭上に、オーガの怒声が響いた。「お前の判断など知ったことか! お前のミミズ以下の知識と判断力から捻り出した推測など、何の価値もないわ! ただ見聞きしたことをそのまま喋れと云うに、お前にはそんな事さえできんのか、この低能が!」
カイトはぜいぜいと喉を鳴らし続けた。耳目と無数の外傷から点々と滴る血が、カイトの生命には何の別状もなしに、ただ衰弱の苦痛のみを与え続けている。……『高レベル冒険者』であるカイトが、『知能のない低レベルモンスター』『モッブ(殺され役)』であるはずの『オーガ』ごときに、低能などと罵られている。許しがたいという以前に、最初からありえないことだ。だが、囚われているのも、罵られているのも確かで──まさしく悪夢だった。そうだ、うしろにいるのが魔王、魔族のボスだということは、すべて『魔族の精神攻撃呪文』で見せられている、これらは、幻覚に違いない──
「……まず、元の世界から、どうやって来たかを話せ」カイトの咳がある程度収まるまで待ってから、オーガの首領が詰問した。「見たままの光景をだ」
「元の世界で……」カイトはまだ荒い息の中から言葉を少しずつ吐き出した。「いつも通り……オレ達みんな……『冒険者学園』にいたら、そいつが現れて。手頃なモンスターと財宝……いい『狩り場』があるって言われて、オレ達みんな、そいつについていって……」
オーガはそれらの言葉にも、唾棄するかのように舌を鳴らした。いかにも、こういった口上を聞きなれているかのようだった。が、続けてさらにカイトを問いただした。「それで、どうやってこの次元世界に来たのだ?」
カイトはひゅうっと喉を鳴らした。思い出した恐怖に全身が小刻みに震え、ふたたび痙攣の発作に襲われる兆候が生じた。
「答えろ! 門を通ったか、何かの儀式か呪文か?」
「魔道門とか……魔道陣じゃ……ない」カイトは発声が定まらない震える舌で、「……ただ、歩いて、そいつについて、歩いただけなのに、……いつのまに、周りの景色がだんだん、見たことがない場所に、変わってきて……オレ達、誰も見たこともなかった場所に……この世界に……」
「それは”影の転移(シャドゥシフト)”だ……!」オーガは呟いた。カイトに言ったわけでも、さりとて背後の魔王に告げたわけでもなく、自身が確信を口にしたに過ぎない。
「連れてきたそやつは、どんな姿だったのだ」ふたたびカイトに向かい、詰問してから、その後、オーガは面倒そうに付け加えた。「……見た通りのことだけを言え。外見と服装だ。髪や目は。何を着ていたか」
カイトはさらなる痛みへの恐れに、必死に遠い記憶から引き出して、喋っていた。「茶……黒っぽい、髪……黒い……服。黒いマント」
「身に付けた装身具は。剣や留め金の意匠はどうだ」
「銀の、ブローチ……薔薇……薔薇のブローチ。銀の薔薇……」カイトは答えた。「銀のベルトに……琥珀のロッド……王錫」
「瞳の色は」無論カイトには気付く余裕はなかったが、オーガの尋問の声がにわかに驚愕と興奮をおびた。「”魔太子”か、”武神”か。――青か、それとも緑か。どちらだ」
カイトは一息を咳き込んでから、ようやく発した。
「み……みどり」
オーガは上体を上げた。ついで、嘆息したように深い息をついた。
「──よくやった」魔王が表情を示さない重い低い声のままで言った。
「いと易(やす)き事にて。お言葉、身に余りまする」オーガは魔王の労いに一礼した。重武装のため全礼がとれないので、片膝をつくのみである。
壁につながれたカイトは、尋問がそれ以上来ないことを感じてか、力つきてがっくりと首をたれ、微動だにしなかった。
「──そうか、”魔太子”か」
魔王は重い鉄靴を鳴らしてその場を去った後、歩きつつ言った。
「しかし、解せませぬな」オーガの首領は魔王の背後に従って歩きながら、「例の”九王子”ら、”原初の王族”らが、われら冥王の軍に対抗するために異世界から戦力を呼び出しているとして、……よりによって今尋問した人間と仲間らのような脆弱にして低能の連中では、いくら集めたところで、我らの軍を消耗させることすらできておりませぬ。捨て駒にさえならず、無駄死にさせるために呼び出しているようなもの。……”魔太子”自身の魔力においても、消耗にしかならぬはず。何のために呼び出しておるのでしょうか」
「確かに、”原初の王族”らは、互いの小競り合いにああいった手合いを使うことがある。盤上の駒の如くな」妖術師の王は応えた。「だが、冥王の軍勢に差し向けた愚行の例は、ついぞ見当たらぬ」
「では?」オーガ首領は問いが続く非礼を恐縮しつつ、問うた。
「原初の王族でも、特にあの”魔太子”は、正攻法など決して用いぬ。意図は測りがたい」魔王の言は存外にあけすけで、オーガの首領への信頼、あるいは尋問による情報提供への報いであるかもしれなかった。「しかし疑いなく、何らかの遠大な策をもってのこと。──それも、我らの戦力を利用してな」
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